冒頭陳述書
傷害 被告人 三好 伸 清
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右の者に対する頭書被告事件について、被告人、弁護人が証拠によって証明しようとする事実は次のとおりである。
1979年9月13日
右被告人 三好伸清
右弁護人 遠藤直哉
同 今村俊一
東京地方裁判所 刑事第13部 御 中
目 次
序章 反百年闘争の論理と意義
第1節 反「百年祭」の闘い
1.東大―その汚辱と暴虐の百年史
2.百年記念事業―その一方的なプロセス
3.東大再編に向けた百年祭の機能
第2節 反百年闘争の深化・発展 7
1.学内管理強化阻止の論理
2. 反百年闘争の今日―新たなる教育の場と、さらなる連帯を求めて
第1章 反百年募金阻止闘争の高揚と展開 13
第1節 4・12式典粉砕闘争
第2節 10・26確認まで 15
第3節 10・26確認の空洞化 17
第4節 各学科での運動の展開 20
第5節 今道の前面登場
1.今道の思想性
2.今道の登場・彼の使命
第6節 学生大会の成立と団交獲得 27
第7節 今道の団交逃亡 29
第2章 9・22火災以降の諸弾圧と処分策動の挫折 33
序
第1節 今道による火災直後の諸弾圧 34
1.全面ロックアウト・学生側の現場検証立会阻止
2. 立て看 破壊・撤去、9・25集会に対する教授会の妨害
3. 文ホール夜間ロックアウト
第2節 9・22火災、及びその原因 37
1. 9・22火災
2. 火災の原因は不明である
第3節 政府― 文部省の動き 39
1. 9・22火災に至るまでの動向
2. 9・22火災以降の直接指令
第4節 今道学部長の処分策動とそれへの反撃 43
1.今道学部長の処分策動
2.学生処分攻撃等の諸弾圧への反撃
3.11・7討論要求の立場と正当性
第5節 学生処分策動の挫折 55
1. 学内外からも巻き上がる処分反対の声
2. 12・26刑事事件化
第3章 2・14弾圧―刑事事件化による攻撃 59
第1節 文学部長室火災についての証人召喚
第2節 2・14弾圧 60
1. 闘争の正当性
2. 警察力導入前後の事実関係
第3節 逮捕及び起訴の不当性 63
第4節 3・27総長声明 67
第4章 本件訴訟事実の不存在 69
第1節 暴行の事実の不存在
第2節 傷害の事実の不存在 72
第5章 本件逮捕及び起訴の不当性 75
p1
序章 反百年闘争の論理と意義
73年以降表面化してきた“ 東大百年記念事業(百年祭)”とは、その内容・決定プロセスともあまりに多くの問題点を含むものであり、また東大の移転、再編の序曲をなすものであった。これに対して、この事業全体に反対し、その中止を要求するのみならず、東大100年の歴史を再検証し、大学-教育のあり方を根本的に問い直し、運動の中で新たな学問研究-教育を模索して行こうとする闘いが、76年以降文学部を中心に巻き起こった。これが、反百年闘争の起源である。百年祭-移転再編はまた全社会的再編に呼応したものでもあるが故に、この闘いには 政府文部省-当局一体となった弾圧がかけられるが、反百年闘争は それをはね返しつつ、新たな質を獲得しながら全学的に継承・貫徹されている。
第1節 反“百年祭” の闘い p2
東大百年記念事業とは、その事業内容として、<①77年4月12日の記念式典、②“東大百年史”の編集・刊行、③ 百億円募金→うち60億による記念建造物建設、40億による学術研究奨励資金>を持つ。では、反百年闘争が暴き出した百年祭の黒い意図とは何だったのか。
(1) 東大-その汚辱と暴虐の百年史
全てが、祭られんとしている東大100年間の歴史、その総括-評価から語り出されねばならないだろう。そして、76年“後援会資金募集趣意書”に代表される、事業推進者側の“百年”観とは次のようなものである。
百年の歴史は「学問の自由と大学の自治を確保し、国際的水準において研究教育を推進した」ものであり、百年記念事業とは「先人の偉業をしのび今後の一層の発展を期する」ものだとのことである。この単純・平板な文章は、東大が国内外民衆に加えてきた暴虐の歴史を隠蔽・粉飾した上で、現時点でさらに権力と一体化した新たな再編の意図を欺瞞的美辞麗句をまといながら 宣言して見せたものだった。
東大は、近代国家日本を、天皇制イデオロギーを基本理念として支えていく“帝国大学”として出発した。その前史は 「学問の自由を守る」など程遠く、法学部を中心とした国家主義涵養 、官僚そしてそれに仕える 技術者養成の機関としてのものだった。とりわけ、第二次大戦における、天皇制ファシズム下での 人民圧制・海外侵略に直接、間接に関与し、 多くの国内外人民を死に追いやって行ったのである。 文科系での 皇国史観育成、理科系での軍事研究 等々、 断罪されるべき機関としてあった。
ところがこのような東大の権力的・反人民的体質は戦後「民主教育」下でも基本的に変わるところはなかった。産業復興から高度成長へと歩む日本資本主義が民衆を犠牲にしてまでも“効率”、“利潤”追求に奔走する時、その傍らには常に東大の加担があった。理系技術者の公害タレ流し推進、医学部田宮委員会による水俣病隠蔽工作、同じ医学部教授によってなされた、研究業績のためとして生きた患者を無断で切り刻みついには死に至らしめた人体実験、疑惑の多い様々な企業委託研究、法学部出身官僚・政治家による公害産出、農業切り捨て、等々、これらの行為に東大として自己批判したことは(“趣意書”もそうだが)未だない。
ここには産学協同体制と研究至上主義体制の奇妙な一体化が見られる。自らの研究業績のためには他者の犠牲を厭わぬ研究者たちは、過度の干渉にならぬ程度での企業・権力の庇護の下で研究を推進してきた。
そしてこのような研究至上主義体制は必然的に、講座制に典型的な、学生も含め研究者間の封建的主従関係を残存させてきた。長らく「大学の自治=教授会の自治」論(65年「東大パンフ」)がまかり通ってきた学内構造に対する学生の異議申し立てには「処分権」の発動によってこれを圧殺してきた。
かかる学内身分序列体系はまた、東大を頂点とした日本の差別選別教育体制とも密接に重なり合うものであり、被差別大衆・「障害者」に対する分断・排除の対極として、「東大エリート志向」煽り立てによる「受験地獄」-価値観一元化を生み出してきた。 p3
こういった東大の矛盾に対し、学生処分問題に端を発し、東大の存立に全面的変革を迫った68-9年東大闘争を、東大当局は68.1.18-19機動隊導入という国家権力による物理的排除をもって弾圧したのである。
以後、東大闘争を「総括」した当局の「改革」案が立川移転・総合大学院化構想に収斂せんとする一方、東大闘争で問われた質を受け、臨職闘争、精神科病棟(赤レンガ)自主管理闘争、自主講座運動などが行われ、それらに対する弾圧、干渉にも厳しいものがある。
東大百年記念事業とはまさにこのような情況の中で当局-政財界が一致団結して捻り出したものである。事業の一環“百年史”編纂委員長笠原(元)教授は、「いかなる立場からの百年史なのか」との学生の問いになんら答えられなかったが、この百年祭が東大の腐敗せる百年の歴史を美化し、学内「正常化」宣言をもって政財界と縁をとり結ばんとするものであることは明らかにされたであろう。
(2)百年記念事業 その一方的なプロセス
東大闘争の当局なりの総括が、学生・労働者と「話し合っていく」ことなどでは全くなく、これを「より巧妙に騙す」ことであったことを如実に示したのが、百年事業のプロセスである。そもそも(1)で明らかにされたどす黒い意図により、秘密裏に進められるほかなかった百年祭は、「学内紛争」による中断を経て73年「企画委員会」、74年「事業委員会」と当局のみによって内容を煮詰める一方、経済界との懇談会等を密にし、76年「事業後援会」なる学外団体設立をもって百億円募金を本格化した。
この“全学一致体制”には学生・労働者の関与は一切許されていない。75年12月、当時の林総長は大学院生との交渉で「百年祭は大学院生の合意がなければ実施できない性格のものではない」と語っている。77年4月以降、文学部学生院生有志は、山本文学部長らとの団交を重ね、10月26日文学部募金非協力声明をかちとった。この学生との交渉による確認が、「全学一致体制のもとでのあの確認は私的・個人的なものだ」との理由にもならぬ理由で一方的に反故にされた。これに至っては東大闘争で問われた学内の権威的構造が何ら変化していないことが暴露されたというべきだろう。 p4
さらに事業委員会なる学内団体と、後援会なる学外団体を巧妙に使い分け、その責任所在を曖昧にし、学生の追及を逃れるという経過を繰り返す中、事業は閉鎖的・一方的に進められていく。
(3)東大再編に向けた百年祭の機能
(a)東大の再編動向
百億円という異常な募金額にもこめられた、現時点での百年祭の持つ意味、それは、東大再編の意図に他ならない 。
戦後、経済団体の意を受け、産業界に「開かれた」教育を組織せんと、答申を重ねてきた中央教育審議会 (中教審)は、60年代、高度成長経済に対応しうる「ハイタレント・マンパワー」養成を大学に求めた。68-9年の全国学園闘争を圧殺しきらんと、69年、念願の大学管理法を成立させた政府と結託し、それまでの集大成として71年、中教審最終答申が打ち出された。
その骨子は、<①初等~高等教育を能力主義的選別で貫き、産業界へふるい分ける ②とりわけ高等教育での目的別・専門大学増設、研究大学院改組、また社会人再教育等も含めた産学協同化推進 ③研究教育と管理の分離等も含め、徹底した大学管理強化>等である。このモデル校として73年、移転によって筑波大が作られ、徹底した産学協同、勝共連合-原理研系執行部によるビラ一枚まかせないほどの大学管理-学生自治圧殺で名高い。
東大では「キャンパス整備」の名の下、着々と移転計画が進められ、その目玉商品として「総合大学院化構想」が浮上した。情報システム科学系・物質科学系・生命科学系・地域環境科学系の四つの系より成るこの構想は、中教審答申を受け、産業構造の転換に見合う研究を先取りせんとするものであり、学際領域研究と銘打ちつつ、企業の肩代わり的な基礎研究を行い、また人間をモノ化・マテリアル化した管理・支配に協力するものである。
また筑波移転は、臨職等労働者の首切り合理化を狙ったものだった。
69年国家公務員総定員法以降、東大においても当局の一方的都合により大量合理化されてきた臨時職員は、正規職員と同等の労働をしながら、賃金等差別待遇を強いられる存在である。この背景には先に述べた研究至上主義―研究の都合により「より下等な」臨時職員をモノのように扱う―が存する。70年以降の臨職闘争に71年、74年と刑事弾圧を依頼した当局は、77年、三度にわたり、臨職定員化のためと称し学内試験を行ったが、これは配置転換・待遇ダウンを伴うものであり、移転へ向けた人員整理の意図を含むものだった。
そしてこの再編を繰るのが、68年、闘争の最中、加藤総長代行の就任-全権委任以降、東大の管理権限を独走するに至った総長室である。総長室体制の、その独占的大権は 74・5・24 職員による総長室座り込みに対する機動隊導入等に現れ、また、その下に、闘争弾圧専門の職員(通称、ゲバ職)を養成している。
以上のような東大再編をより円滑に進め、政財界の援助へとルートを切り拓かんとするものこそ東大百年事業であり、そのための重要な事業内容として百年記念式典・百億円募金が位置づけられた。
(b)百年記念式典
民衆を排除してきた東大百年にふさわしく、この記念式典は、政財界の要人多数参列のもと、政財界とのルートを公然と強化せんとするものだった。
が、それ以上にイデオロギー的なデモンストレーションとしての機能は大きかった。当初予定の安田講堂-東大闘争のシンボルで強行することによる、闘争終焉- 学内正常化宣言、また、東大の権威大宣伝による差別選別教育のさらなる煽り立て、といった社会的機能である。
この意図は全学学生・労働者によって77年2月結成された、百年祭糾弾全学実の闘い等により打ち砕かれ、4・12式典は学外逃亡、200人にも満たぬ参加者という惨状を呈した。
(c)百億円募金
しかしその間にも事業の中心-百億円募金は着々と推進されつつあった。
募金対象は、企業募金70億、個人募金30億とされ、後援会に名を連ねる政財界の大御所たち(ロッキード高官、戦犯、公害企業社長等を含む)によって推進されんとした。募金委員長大石教授は「コネ」を活用し財界を駆けずり回った。
募金の使途は 建造物60億、学術奨励金40億とされる。しかし、前者をとれば、100年間民衆の血を吸い続けてきた東大がその反省もなく、また臨職の定員化要求にも金を回さずにいて、大部分が企業から出た募金で作られる体育館・ゲストハウス・庭園を単純に受け入れられる学生が何人いるだろうか。また、後者の学術奨励金は「通常の国費ではまかないにくい特殊な学術研究のため」等とあるが、これこそ総合大学院を先取りした、企業の紐付き研究に他ならないのではないか。
また奨励金等の配分権を独占する総長室はさらに強大な権限をにぎり、研究費欲しさの研究者を操り、人事権強化等、移転・再編のステップとしていく可能性が強い。
このような視点からの学生・労働者の募金阻止の闘いは式典糾弾闘争を踏まえ、文学部400署名を力に77年10月26日 文学部募金非協力声明、78年文学部団交、対経団連(副会長花村が募金の窓口)デモ等の貫徹の中、現在、募金を大破綻に追いやり、さらにその完全阻止を目指し進んでいる。
第2節 反百年闘争の深化・発展 p7
百年祭、募金粉砕の戦いは77・10・26文学部募金非協力 声明を獲得するが、これを空洞化に導いたのは、大学管理体制-総長室体制のもとでの「全学一致体制」であった。そして、同時に、政府・文部省による新大管法制定策動が「東大問題化」を突破口として78年以降ふりかかってきたのである。よって、これ以降の闘いには、<①総長室の暗躍の下での10・26確認空洞化の撤回を文学部団交等で迫りつつ、当局の管理体制そのものを問題化していく ② 同時に、移転再編粉砕を闘いながら、中教審型差別選別教育体制解体まで見据え、学内外の被抑圧者との連帯を模索する>との視点が次第に加わっていった。
(1)学内管理強化阻止の論理
(ⅰ)政府―当局の弾圧策動
10・26確認空洞化の身代わりとして辞任させられた山本前学部長に代わり78年4月登場した今道学部長は、東大闘争時から最タカ派としてならし、最近では原理研-勝共連合の組織する学者団体による会議に出席する、等のつながりを持っていた。また5月には、空席だった募金委員の座についたサンケイ「正論」執筆者辻村評議員もふくめ、この文学部タカ派執行部の登場は、78年初頭以降の政府・文部省による新大管法制定策動と時を同じくするものだった。
東大精神科病棟(赤レンガ)自主管理闘争を「不法占拠」と決めつけ、弾圧キャンペーンを繰り広げるサンケイ新聞と相呼応した、国会での与野党を挙げての弾圧論議を受け、政府自民党は、この「東大問題化」を突破口として、新大管法制定の目論見を明らかにした。
一方、10・26確認空洞化策動に抗し、文学部学生院生有志は、文学部管理体制の中枢、文学部長室への坐り込み闘争を開始するが、3月2日、機動隊により一旦排除されるという弾圧を受ける。この直後向坊総長は砂田文部大臣と会談している。そして10・26確認空洞化を許してしまった多くの文学部生は、文学部学生院生有志の闘い、これへの弾圧を契機として、各「学科」を主要な拠点とした、従来の枠にとらわれぬ広汎な反百年祭闘争に決起して行った。
4月20日、新大管法の先取り的成文化 4・20文部次官通達により大学管理強化が指令された同じ日 、文学部全学科集会が成功し、反百年・募金阻止闘争の機運が高まった。また、百年祭を基本的に支持してきた日本共産党系のデモ隊が同日、全学実・文有志の集会を襲撃し、以後の学内地位失墜を招く等、この時点で、反百年闘争の新段階へ向かう闘いとそれに対する弾圧の構図が出来上がっている。
(ⅱ)文学部学友会の 拠って立った地平
これ以降の、5月文学部学生大会の9年ぶり成立→学友会団交実結成→2度の団交→団交実を支持する学友会委員会再生と言う流れの中でつきあたったものは、
<(a)東大当局-総長室の移転・再編攻撃 (b) 政府・文部省の新大管法策動 (c)両者の媒介点、文学部今道超反動執行部の弾圧姿勢>
の構図であり、この三者は文学部闘争弾圧に共通利害を見出し始めていた。それが全面化するのは後述する学生処分攻撃である。
団交実・学友会委員会の闘争は、弾圧者たちにとってそれだけ「危険な」ものを突きつけていたのである。では、その理念、運動論とはいかなるものだったか。
78・5・18学生大会提案は次のように訴え、圧倒的に支持された。
<(a)反百年祭運動 現行の百年祭を中止に追い込み、その過程での10・26確認空洞化等の弾圧を一切許さない?(b)反百年祭運動 当局の百年祭推進論理・大学論を乗り越え、運動しつつ、自らの手で新たな学問研究-教育を生み出していく。>
ここに現れる動的な運動論は、個別事象としての百年祭の糾弾にとどまらず、その背後にある東大百年の構造を撃ち、現時点での管理強化に反対するのみならず、それに代わるべき新たな大学像-それに対する自らの関わりを模索せんとするものだった。そして、東大百年の構造への闘いとは、近代日本の存立・科学のあり様と言った根源的な問いにもしばしば行きあたるものだった。
このような闘いの主体=団交実という組織も、党派的統制から解放されたものであった。学科討論等に基盤を置いた大衆的な反百年の意思表示が、ビラ・集会・団交での自由な発言等々を通じて広がった。文学部のみならず、農学部自治会の新執行部成立等にも見られるごとく、全学学生に反百年の波紋を広げていった。
このような思想的問い返しは、具体的闘争との連帯を通じ、さらに強化された。自らの研究至上主義への埋没からの解放も、学内臨時職員定員化の闘争と連帯する中で、また赤レンガ自主管理の闘いから学ぶ中で克ちとられていった。学内労働者との共同闘争に加え、以後、学友会は、狭山闘争・三里塚闘争等を闘う中で、百年祭・学内再編を全社会的再編の中に位置付け、新たな連帯を求め闘っていった。
(ⅲ)処分粉砕闘争
このような文脈の中で、78・9・22火災以降の反処分闘争は、反百年闘争の一環として大きな意味を持つと言える。その100年の歴史の中で「弱者」を排除し続けてきた東大なる機構が、それに異議申し立てする学生の存在を、「処分」の名のもとに抹消するという、二重の意味で排除・抑圧機構としての姿が、国家権力の影とともに再び浮かび上がったからである。東大当局-総長室、政府・文部省そして文教授会今道執行部らの闘争弾圧勢力はここに
<(a)学生処分の10年ぶりの制度的復活を含む、向坊総長室体制の移転・再編に向けた管理強化策動、 (b) 9・26砂田文相の 弾圧指令等 に見られる政府文部省の4・20通達、新大管法制定策動、全国的学園管理強化策動 (c)文学部今道執行部の文ホールロックアウト等、様々な管理強化を伴う“何が何でも文闘争圧殺攻撃”> という形を取って密集した。
このような処分復活の持つ意味を見抜いた学友会は、学生大会-ストライキを貫徹し、それまでに獲得した全学学生・労働者との連帯をさらに強化し、連続的な300名規模の反処分集会、教官有志等新たな階層の闘争参加をかちとり、医学部長等当局者内部にも処分反対の声を生み出した。また全国的学園治安管理強化粉砕に向け連帯する500名の力は、79年1月18日、全国学生集会として東大文学部に結集したのである。
現在裁判闘争としても闘われている79・2・14弾圧(機動隊導入、3学友逮捕、文ホール完全ロックアウト)は闘いの力で追い詰められた処分と、1月末再度の国会での 弾圧要請との板挟みにあった向坊総長が、今道の文学部処分上申を受け、直接弾圧に乗り出したものである。
しかし、それにも屈せず闘われた力は、3月、処分阻止という点においての勝利を生む。
すなわち、この処分粉砕闘争の過程で明らかになったことは、まず第一に、2・14弾圧弾、そしてそれに先立つ裁判所の証人召喚等、反百年闘争が明確に国家権力を相手として見据える段階に到達していることであり、第二に、そのような背景の下での処分復活策動も、反百年闘争で培われた論理と連帯の力によって粉砕し得たことであり、第三に、処分断念の代償として発した3・27総長声明等を機に、東大当局は新たな再編‐管理強化を意図しており、これに対し闘い続けねばならない、ということである。
(2)反百年闘争の今日― 新たなる教育の場とさらなる連帯を求めて―
p11
文学友会は、新年度(79年度)以降の、2・14弾圧粉砕の闘いについても、裁判闘争中心とした徹底的な個別闘争を闘い抜くと共に、その背後の構造と3・27以後の管理強化策動を暴き出し、その上で、処分粉砕の力でもって闘いを守勢から攻勢に転じ、反百年闘争の内実を深化させようとしている。
六度連続で 成立した79年5月22日学生大会は、反百年闘争の新段階を鮮やかに示した。
つまりそこでは、文教授会に対して、2・14弾圧自己批判-裁判所へのM君無罪 上申提出要求をつきつけるのみならず、文ホールロックアウト粉砕の課題についても、本年度五月祭 への無根拠な教室使用制限を、同じく3・27以降の管理強化の一環として捉える視点からの闘争提起がなされた。処分粉砕と時を同じくして、立川移転が断念され、現キャンパス整備が新たに策動される中で、宇航研の改組等新たな再編案が現在取り沙汰されている。
5・22 学生大会の 場で結成された文ホール自主管理運営委員会はこの新局面を捉えきるとともに、新たな質を反百年闘争に持ち込み、豊穣化させるものとして注目される。その基本理念は、文ホール解放が、解放後の自主管理と固く結合した課題として立てられねばならぬここと、そして逆に自主管理が解放へ向けた運動の中で体現されることである。
すなわち、前者によれば、現在文学部で活性化している読書会・自主ゼミ・文化サークル活動等を 運営委に結集し、継続した闘いを組んでいくことである。また、以上のような諸活動体による学生の特権的要求闘争としてのみ闘う のではなく、教育の場から排除されてきた人々とも共有しうる空間としての文ホール解放-自主管理との視点も重要であろう。そして後者によるならば、民青系中央委・五月祭常任委が教室使用制限撤回のためと称して当局に提出した、4・20通達そのままの「念書」という自主規制型交渉に陥ってはいけない。2・14弾圧を加えた 文当局との非妥協的な交渉の中からのみ、自主管理への道は拓けるのである 。
この文ホール自主管理運営委員会の結成に見られるが如く、新段階に突入した反百年闘争は、それに至る闘争の蓄積を力として、頓挫しているとはいえなおも継続されつつある百億円募金の阻止、2・14弾圧以後の学内管理強化‐東大再編粉砕を勝ち取るべく、学内外へ連帯を深めつつ、どこまでも前進しようとしている。
第1章 反百年募金阻止闘争の高揚と展開 p13
第1節 4・12式典粉砕闘争
序章において記したごとく、東京大学の創立百周年記念事業(百年祭)は、その中に様々な問題をはらむものであった。そうした問題点については、学内からも数多くの批判と疑問の声が上がっていたのであるが、東大当局は学内労働者、学生の反対の声には一切耳を傾けることなく、百年祭を強行せんとしていたのである。
これに対し、文学部・教養学部の学生を中心にして、東大の百年を糾弾する連続シンポジウムが76年7月より開始された。越生忠(和光大教授)、山川暁夫(評論家)、折原浩(東大助教授)らの各氏を迎え、活発な討論が続けられた。この中で、水俣病をはじめとする公害への加担、侵略戦争への協力(戦前の造兵学科の新設など)、医学部での生体実験、韓国人留学生への人権侵害等等、東大100年間の反人民的な問題は百出し 、この百年祭が一部の特権を有する者を除いた、学内の職員・学生及び、多くの人民とって決して祝われるべきものでないことがはっきりと確認されたのである。
連続シンポジウムで深められて行った討論と、学内で臨職闘争を担っている職員との交流・連帯によって、百年祭を糾弾していく論理は深化され、とりわけ77年4月12日の百年記念式典の問題点は次のようなものとして挙げられた。
①68-69年の東大闘争以降の学内の臨職闘争を弾圧し続け、それを正当化した上で学内の「正常化」宣言としてあること。
②この学内の「正常化」という「成果」をもって、政界・財界にアピールし、東大の産学協同の深化、移転再編への布石としてあること。
③学内的に「東大ナショナリズム」イデオロギーをばらまくのみならず、東大が犯した反人民的行為を隠蔽し、広く国民に「日本の学術文化の発展と人材の育成に貢献」というデマゴギーを振りまき、東大の再編とそれを中心とした高等教育総体の再編へ向けてのものであること。
さて、時を同じくして、評議会は2月、東大の立川移転と総合大学院新設を決定し、これにより4・12式典の政治的意図はより露わとなった。
前述の三点の認識の下、2月16日学内で様々な闘争を担ってきた諸団体が結集し、100年祭糾弾 全学実行委員(以下全学実) が結成され、これ以降、全学実は百年祭糾弾の闘い、とりわけ、4・12式典に対する闘いを中心的に担うことになる。2月16日の結成集会には150名の労学が結集し、向坊次期総長への公開質問状が突きつけられた。
このような学内での反対運動の盛り上がりに対して、東大当局は当初、安田講堂(千人規模)で計画していた式典を、規模を300名程度に縮小した上、学外・ 神田学士会館への会場変更を余儀なくされたのであった。
全学実はさらに式典を追撃する闘いを推し進めた。 3月16日には、募金の中枢である経団連に対するデモが闘われた。そして4月1日からは安田講堂前テント闘争に入り、4・12式典粉砕へ向けて連続闘争が組まれた。
この間、応微研(応用微生物研究所)・医学部・文学部では部局長と職員・学生の百年祭に関する公開交渉が克ち取られ、式典反対の圧倒的な声の前に三部局長は式典不参加を表明するに至った。そして4月11日の入学式介入闘争を経て、 4月12日の式典当日には250の労働者・学生が結集し、神田学士会館へ向けての式典実力粉砕デモが闘い抜かれた。会場の神田学士会館は500にも及ぶ機動隊の戒厳下にあり、デモ隊に対する様々なテロル、弾圧が加えられたが、デモ隊はそれを粉砕し会場前に座り込み、抗議行動を最後まで貫徹したのである。
このような圧倒的な式典粉砕闘争の前に、4・12式典は出席者においても、180名と予定を大きく下回り、東大当局の式典にかけたもくろみは大きく挫折してしまった。 p15
第2節 10・26確認まで
すでに4・12式典粉砕闘争以前、4月5日より文学部では学生・院生有志と 山本学部長の間で百年祭をめぐる公開交渉が開始されていた。 その第1回の交渉では、山本学部長はこの討論の意義を認め「百年祭については継続討論する。」という確認を行い、引き続き、4月10日の第2回交渉においては学生側の式典反対の論理の前に4月12日の式典に参加しない旨の確認を行うに至った。これ以降も、10月26日まで主に募金の問題を中心として、計 11回の公開交渉が行われた。
5月18日(第4回)、6月1日(第5回)の交渉においては、主として文学部の募金委員である早島教授との間で、百億円募金の問題性をめぐって討論が行われた。早島氏は当初、募金は仏教でいう喜捨にあたり問題はないとしていたが 、学生との討論の結果、公害企業をも含む企業からの募金の問題性を認め、次の確認を行った。
「①これまでの活動が無責任であったことを反省する。②百億円募金に関しては、これまでの大学のあり方からして使途に疑義がある。また集め方について、少なくとも社会的に問題となっている企業から集めることに反対である。③以上を踏まえて大石募金委員長に問い質し、委員長の返答如何によっては募金委員としての活動を考え直す。」(口頭で確認)
さらに、6月8日の第6回交渉で早島氏は 企業募金全体に対する問題性(つまり「悪い企業」「良い企業の」線引きが不可能なこと)を認め、また、募金委員会に対する疑義にも触れた上で次の確認を行ったのである。
「募金活動はともかく凍結する。文学部からの後継者は選ばず、文学部として募金活動に協力しないように山本学部長に働きかける。次回の交渉に出席して、働きかけの成果を彼自身の口から報告する」(口頭で確認)。
そして6月15日の第7回交渉で、 山本氏からも次のように文学部の募金活動の凍結が確認された。
「---今後、募金の方針・委員会のあり方を含め、早島委員の考え方を受けて問題提起をしていく方向で次の委員の選定に努める。それまでは募金推進活動は凍結する。----以上文学部長山本信」」(書証第一号)
これらの確認は、募金に反対する学生側の正当な論理の前に、山本・早島両氏が何ら積極的な反論を成し得ず克ち取られたものである。
しかし、こうして文学部の募金活動凍結は一旦克ち取られたものの夏休みを経た9月に入って、募金委員会に事務の職員が派遣され、文学部として実際にはこれまで通り募金活動に協力を行っていることが明らかにされた。また9月19日の第9回交渉において、前回(6月29日第8回) の交渉で山本氏自身が確認した、山本氏なりの募金への疑義を踏まえた向坊総長・大石募金委員長への問題提起がまったく口先だけのものにしか過ぎないことも明らかになった。
これに対する反撃として9月22日第10回目の交渉が行われ、この中で、事務員の募金委員会への派遣中止と早島委員の正式辞任の、二点から成る文学部募金凍結の確認が再度克ち取られた。
しかし東大当局はこの77年秋より企業募金の強行を画策しており、これに歯止めをかけるには、山本氏なりの問題提起などには一切の幻想を捨て、文学部生の大きな世論でもって、山本学部長に文学部としての募金の全面非協力を迫ることが不可欠となった。こうして文学部学生院生有志は募金阻止に向け次の2項目要求からなる署名活動に突入したのである。
「百億円募金中止に向けて文学部当局の募金全面中止を要求する署名
〔前文略〕
1.文学部として百億円募金への協力を中止すること。
2.以上の旨、文学部長は全学に対し明確な声明を行うこと。
p17
あらゆる授業、ゼミ、研究室で討論が行われ、その結果、多くの学生が署名に結集した。一か月もたたないうちに、署名数は文学部の登校している学生の圧倒的過半数に当たる400名に達したのである。この短期間での400署名の達成は、 文学部学生が募金に反対し、募金に反対する運動に積極的に支持を示したことを証明している。
この募金に反対する400署名を引っさげ、10月26日第11回目の交渉が克ち取られた。 この中で山本氏は募金反対の論理と、多くの文学部生の声を無視できず、ここに10・26文学部募金非協力声明は克ちとられたのである。すなわち
「募金には色々問題があり、百億円募金に反対する文学部生400の署名を尊重して募金には協力しない。この旨学内広報・文学部掲示板に表明し、向坊総長・大石募金推進連絡委員長に文章で伝える。 山本 信」
この非協力声明は10月28日、文学部長山本信 名で文学部の掲示板に掲示され、また3日後には「山本文学部長は10月26日(水)文学部第三会議室において文学部学生院生を中心とする人々と話し合い、次のことを確認した。<以下、前掲の確認>」という文章を以て広報委員会に提出された。
第3節 10・26確認の空洞化
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10・26募金非協力声明は、学生側が山本氏・早島氏の募金への考え方(例えば早島氏の喜捨論)を論破し、その上で文学部学生の圧倒的多数の400署名を突きつけ、克ち取られたものである。それは「全学一致」 という体裁で後援会を母体として開始されようとしている企業募金に、大きな歯止めをかけ、それを実際に阻止しているという極めて重大な意義を持つものであった。文学部での大衆的な募金反対運動の高まり、そしてこの10・26募金非協力声明 により、総長室は企業募金の開始を78年春に延期せざるを得なくなったのである。
しかし、総長室は、この企業募金開始への「目の上のたんこぶ」10・26文学部募金非協力声明を 何が何でももみ消そうと、即座に文学部教授会への圧力を加えてきた。まず、文学部選出総長補佐の富永教授に署名の検閲を行わせ、続いて、学内広報に載せるべき広報委員会に提出された声明に関する記事を 、広報委員会に命じてももみ消させたのである。
そして12月12日、向坊総長は柴田 ・今道両文学部評議員に「いかなる立場から10・26確認を出したのか」を質し、これを受け両評議員は山本氏に詰め寄り「10・26の確認は私的個人的なもの」とさせ、翌日の文教授会において、なんら討論もせずにこれを「了承」したのであった。ここに、総長室と文教授会執行部とにより、一旦公的なものとして出された募金非協力声明を 、私的個人的なものへとすりかえる、 実質上の確認の空洞化がなされたのである。
さて、学内広報に10・26声明が掲載されないことにより、このような確認空洞化の策動を感じ取った学生側は再度山本氏に交渉を求めるが、 山本氏は一度はそれを約束するものの突如として学内から姿を消し、「病気療養」ということで(これは後に夫人が「病気だということにしています」と某筋に電話で対応したことから、仮病であることが判明)学生との話し合いから完全に逃亡し去った。また、冬休み中、文教授会の全員に10・26募金非協力声明の 確認空洞化に関する公開質問状を送ったが、一通の返答も返ってこなかった。
このように文教授会は10・26確認を空洞化し去り、山本氏を逃亡させ、一斉に緘口令をひき、試験・春休みへの逃げ込み、すなわち、10・26確認空洞化を既成事実にしようと目論んだのである。しかし文学部学生院生有志は10・26声明の再確認を求め、反撃を開始する。
1月に入り、19、23日と2回にわたり、 山本氏逃亡後の柴田学部長代理との交渉が克ち取られた。この中で学生側は確認が公的なものである由を以下のような論点で展開した。すなわち、
①10・26声明は4月以来の公開交渉の積み重ねの上にあるものであり、この連続交渉中で早島募金委員の辞任、文学部として事務員の派遣を中止する等、公的な確認が一貫してなさなされていること、②10月31日の人文会の交渉の席上、人文会の文学部として募金に協力するなという要求に対し、山本氏は「募金非協力声明はもう出してあります」と述べていること、 ③10月28日文学部掲示板に、学部長名を付して この声明が掲示され、 また 、広報委員会にも同声明が送られていること、 ④山本 氏自身 、4月以来の交渉の中で、「募金問題は学部長の専決事項である」と述べていること。
しかし、これに対し柴田代理は全く反論できず、「評議会で決まった募金に反対できるはずがない」から「声明は公的なものであるはずがない」と没論理な対応に居直ったのだ。そしてさらに「学部長代理の権限がどのようなものか自分は知らないので、一切の確認をすることはできない」と、実質的には討論を全面的に拒否したのである。
柴田代理の対応は、話し合うポーズを示しながらも、「代理だから何もできない」と、実質的な話し合いを拒否し、試験・春休み逃亡への時間稼ぎにすぎないことが明らかになった。このような中にあって、確認空洞化を自己批判させ、78年春に画策されている企業募金を実力で阻止していく闘いとして、1月27日、文学部学生院生有志は
「①山本学部長は総長による圧力に屈した団交逃亡と、10・26声明の内容スリ替えを自己批判し直ちに団交に応じ、10・26声明-文学部非協力声明堅持を確認せよ。②文学部教授会及び柴田文学部長代理は、10・26声明の空洞化策動、400に及ぶ文学部生の募金反対署名への敵対を自己批判し、声明を学部長決定として了承せよ。③文学部当局は今春予定の企業募金開始の中止に向けて総長室への働きかけを行え。」
の3項目を掲げ、文学部長室坐り込み闘争に突入した。
第4節 各学科での運動の展開 p20
この10・26確認空洞化に対して怒りを持ったのは、一人文学部学生院生有志のみではなかった。400署名に端的に示されるように、当時の文学部生の大半は募金に反対の意志を持っており、それゆえ、文有志の対山本文学部長公開交渉にも多数参加しており、参加しないまでも、好意的に注視し続けてきた。10・26募金非協力確認は、 従って、多くの学生に当然のものとして受け止められた。それだけに、この確認が11月以降教授会によって空洞化されていくことに対し、署名をした個々の学生の憤りも大きかった。空洞化の中で自らの署名が無視され、また一方で文・有志がそれに抗議して坐り込みを開始するといった事態の中、署名した個々人の主体的な関わり方が問われることになったのである。
それは具体的には諸学科における 学科討論の活発化としてまず現れた。1学科からは坐り込み支持の、2学科からは文教授会への話し合い解決を要求する学科決議があげられ、他の学科からは、10・26確認の堅持を求め、また坐り込みを支持する学科有志アピールが出された。
ここで、学科の運動に一言ふれておきたい。 文学部の複数の学科においては、以前より様々な形で、様々な運動が展開されていた。ある学科では自主ゼミ運動や研究室の自主管理に向けて、またある学科では自らの学問の位置付けから現代社会を問うといったように、それぞれ身の回りにある日常を真摯に捉え返そうとしていたのである。当然のことながら、百年祭問題もそのひとつの課題となっており、各学科の有志により、様々な形で反百年の運動が展開されていた。
例えば、社会学科においては、前年5月の学生大会に反百年を前面に立てた独自の学科提案を提出していたし、東洋史学科においても、反百年を基調とした運動が展開されていた。こうした諸学科における様々な運動は、10・26募金非協力確認空洞化及び、文有志の坐り込み闘争を大きな契機として明確に反百年・募金阻止の運動として高揚して行ったのであり、 前述した各学科アピール等にもとづき、 様々な学科で百年問題をめぐって、教官との交渉、あるいは教官を含めた討論会へと発展していく。
p21
一方、2月27日の文有志と 、教授会の交渉の結果、機動隊導入が明らかになってくるが、これに対しても社会・美術史・中文・ 西洋史等の各学科単位で、機動隊導入に反対し、話し合い解決を求める、教授会あての決議があげられた。 機動隊導入が必至となった3月1日、2日には、はじめて東洋史・社会両学科有志の主催のもとに、起動隊導入反対の集会およびデモンストレーションが行われ、2日夜の導入に際しては抗議の声を上げたのである。
その後も、休暇中にかかわらず、各学科の討論は活発に行われたのであるが、中心的に学科活動を展開していた社会・東洋史の両学科より、1学科だけの運動の限界を乗り越えるためにも、反百年・募金阻止の課題の深化に向けた学科共同討論会実現へ向けて他学科への呼びかけが開始された。
これに応じて行われた共同討論会においては、反百年・募金阻止の闘いの必要性が確認され、具体的な方針が活発に議論された。3月末には、ここ9年間定足数を満たすことなく不成立に終わっていた学生大会を成立させ、その場で反百年・募金阻止の大衆的な決議をあげることを明確に打ち出し、同時に反百年・募金阻止学科連絡協議会が結成されたが、それが後の5月18日の学生大会で結成される「団交を実行する会」の母体となったものである。
4月に新3年生が進学してくると、新しい進学生をも含めた広範な学科討論・学科間討論が行われ、そうした学科からの声は、まず最初に4月20日、反100年募金阻止全学科集会への100名近くの学生の 結集となってあらわれ、反百年の、そしてまた10・26募金非協力確認空洞化への抗議の声をあげたのである。その後の学生大会へと向け、様々な討論や運動が展開され、歴史的な5月18日の学生大会を迎えるのである。
第5節 今道の前面登場
p22
本件に関する検察側唯一の「証人」であり、また被害者であると申し立てている今道が、 何故「暴行傷害」行為を捏造して、学生を司直の手に渡したのか。 この点に関連して、今道がいったいどのような思想の持ち主であり、また、11月7日に至るまで、百年祭‐募金問題をめぐってどのような対応を学友会を中心とした学生側に対して行なってきたかを明らかにすることは、本件が公訴棄却されるべきであることの有力な証拠を示すことになろう。ただし本節では、今道の具体的な対応については、1978年4月までを明らかにすることにし、それ以後については、第1章7節・第2章4節などで明らかにしていく。
1. 今道の思想
ここで言う「今道の思想」とは、今道が大学のあり方についての学生からの異議申し立て、批判をどのようなものと考えているかのことである。それを彼の自称「哲学論文」たる『解釈の位置と方位』(東大文学部研究報告・哲学論文集第二)で見てみよう。
この「論文」で今道が言わんとしているところは、とどのつまり「研究の妨げになるものがゐるならば、大学から追放しなくてはならない」(p16)ということである。今道がよりどころとするのはプラトンの『ゴルギアス』にある「もし人が何らかの点で悪しき人間となったならば処罰されねばならぬ」というソクラテスの言葉である。今道はここで「処分と告訴の法哲学的原理」という見出しと裏腹に「正義贈与」(δικην διδoναι ギリシャ語では処罰と同じ意味)は世界における正義回復を企てることであり---」(p33) などと、刑罰の根拠におざなりにふれた後、直ちに次のように言う。
「応報主義の考え方による処分の最大の難点は----不正の念そのものを 直してはゐない、ということである。そこでどうしても罪刑法定主義に止まらず----内面の不正が自らによって矯正せしめられて謝罪し更生することを目的にする教育的処分の理念が必要になってくる。これは例えば大学のように構成員が真理という共通の目的を持ってゐるような共同体では最も適した考え方であって、大学では教育的処分がなければならない。」(p35)
これで今道は教育的処分の根拠づけを行ったつもりなのだ。例えば企業からの委託研究費や企業募金によって進められる研究が「真理」を目的とするものであろうか、あるいは大学が真理という共通の目的を持った共同体だと仮定して、そのことと正-不正はどのような関係があるのか 、そのような共同体であっても処罰は必要なのかどうか、退学という処分は教育的処分の概念にかなったものなのかどうか、様々な疑問が湧いてくる。今道の議論は個々の概念自体が無規定なまま進められており、また、現実がどうであるのか全く触れないままになされるのであって、おまけに相互の関係がゴチャゴチャなのだ。
だがこうした粗雑きわまりない議論の末、主張されることが「研究の妨げになるものは大学から追放しなければならぬ」(前出)、「告訴に励まねばならぬ」(p41)ということなのだ。
それでは今道は百年祭企業募金 に対して、「真理」探求者として実際にどのような態度をとっているか。彼が正式に学部長に就任すると同時に配布した「文学部における昨今の一連の事態について」(1978年4月3日付)で見てみよう。
「東京大学創立百年記念事業については、現在、文学部生・大学院学生・職員等のあいだに様々な批判的意見があることを承知している。本来、大学は文化の継承と創造に寄与すべき社会的使命を負っており、本学が創立百年を迎えた機会に、その使命をあらためて自覚し、百年の歴史を振り返ることは有意義なことである。しかし東京大学100年の歴史をいかに評価しいかに位置づけるかという問題は、教授会として特定の結論を出すべきまた出しうることがらではなく、それ自体学問の対象として論議さるべき性質のものである。」
こうして有志と山本学部長との間で半年間十数度にわたって討論を積み重ね、募金の問題点を明らかにしてきたことを一挙に無視し、百年祭‐募金の功罪についての判断を完全に保留する。
だが、記念事業は「早く昭和42年12月の本学評議会で決定されている。----文学部教授会は学部長及び関係委員からその都度詳細な報告を受け、これを了承してきた」(後半はデタラメである。文学部としての正式な協力決定を行ったこともなく、ほとんど討論もなされてない。)と、過去の“事実”のみにすがりつく。文学部生の大半をなす400という数の募金反対署名が提出されているにもかかわらず、百年記念事業-募金の功罪を点検してみようとする「真理探究者」の姿勢はひとかけらもない。
学生側は大学が進めつつある企業募金が「真理探究」の手段として不適切なものではないのか、この問いを突きつけ討論を要求した。だが、今道はそれを「研究の阻害」とのみみなす。 まして、学生が討論を“強要”することなど許せない。「ネクタイを引っ張り暴言を浴びせて恥じないような非礼な行為」( 『解釈の位置と方位』41頁)は「処分」すべきである。学内世論が「処分」を認めないと言うならば、 暴行でも傷害でも構わないから裁判所に訴え、とにかく大学から追放しなければならぬ。真理が問題ではなく、大学の正式機関の決定に 異議申し立てするもの、私の「研究」の妨げになるものは、全て大学から追放せねばならぬ。これがまさしく11月7日の「傷害事件」のデッチ上げである。
こうしたことからもわかるように、先に見た彼の「教育的処分」の「哲学的基礎づけ」なるものは全くのインチキである。「内面の不正が自らによって矯正せしめられ---更生すること」がどこで実現されるのか。 彼はそのための手続き、何が正であり不正であるのかの対話、討論を一切拒否しているのだ。彼は「秩序」を乱す者は理由を問わず、また、有無を言わさず大学から追放すること、このことだけを彼の信条にしているにすぎないのだ。
さらに、彼がこうした「研究のための秩序」を至上命令としているのは、単に彼が、社会的な問題、政治的な問題にいわば音痴であり、かつて言われた一種の「専門バカ」であるからではない。彼は明確に政治的な立場をふまえた反動的な人物である。
1970年代において、全国大学の記念事業や移転を通じての再編―それは専門研究者養成、サラリーマン養成等のコースをはっきりと分け、資本の要請に応える人物づくりを目指すものであり、その典型が筑波大の新設である―のお先棒を担いで来たのが、勝共連合-原理研であった。東大においても企業募金集めの最高責任者・募金委員長大石泰彦は東大原理研の顧問をしている人物である。学生の間で百年祭を賛美しているのは原理研(「東大新報」)だけである。
百年祭をゴリ押しする今道もまたこの系列に属している。今道は、勝共連合のフロント団体の一つ「世界平和教授アカデミー」(大石はこの常任理事)の母体「科学の統一に関する国際会議」のメンバーであり(78年7月8日東大新聞)、また、勝共連合の主催する「市民大学講座」の講師としても名を連ねている。
文学部で処分をめぐって議論が沸騰している最中、本年1月、今道は学生との対応を一切回避していたにも関わらず、原理研のメンバーとは会い、彼らに診断書を見せた。それを基に、原理研メンバーは1月の学生大会向けに「暴力糾弾」なる ビラまきを行ったのだ。
こうした事実から、今道はまさに、明確な政治的・思想的立場に立って学生運動への弾圧を志向していることが明らかであろう。次に、有志によって10・26確認破棄に抗議して坐り込みが開始された時点で、今道が具体的にどのような対応を行ったかを見て行こう。
2. 今道の登場・彼の使命
学生・院生有志による学部長室坐り込み闘争は、そもそも教授会が、その代表たる学部長の交わした正式な確認を、後になってから一方的に破棄するという、あり得べからざることに対してなされた抗議行動であった。そして、坐り込んだ有志は、 まず、直接の責任者たる山本学部長に対して話し合いを要求していた。だが山本氏は仮病を使って(自宅謹慎させられていたともいわれる)学内に姿を現さなかった。(学外での教授会の議長を務めるなどはしていたのだが。)1月19日、23日の話し合いで、何ら具体的解決策を提示することのなかった柴田学部長代行も、学生の前に姿を現さなかった。
代わって積極的に登場してきたのが今道評議員である。2月6日と7日、今道の申し入れにより「予備折衝」が行われた。だが、これは、学生側の要求する、確認破棄に関する話し合いに向けたものでは全くなかった。「とにかく学部長室から退去せよ。」と言うだけであり、確認を一方的に破棄したことの責任を彼は一切認めようとしなかったし、話し合いの姿勢は全く見られなかった。
この「予備折衝」は、今道により勝手に打ち切られ、それ以後、入試が近づくまで、 教授会側からの対応は一切なかった。パイプ役と称していた今道に対して、学生側が繰り返し話し合い要求を行ったにもかかわらず 、彼は、「坐り込みを解くことが前提」とくり返すだけであり、入試が近づくと、「機動隊を入れなければならない」という恫喝が付け加わっていった。
2月27日、柴田代行を始めとして教授会メンバーが登場し、5~6時間にわたって話し合いが行われた。 ここで教授会側は「話し合いが緒についたばかりであり、今後も継続する。事態を話し合いで解決するよう努力する」旨の確認書を残していった。今道は終始無言で、話し合いは主要に柴田氏との間で進行した。
だが、こののち、教授会において、「一部教官から強硬な発言があり、機動隊導入を総長に要請することになった」といわれる。すでにこの時期、山本氏の辞任が本決まりになり、学部長選挙で今道が内定していた。教授会内の実権は今道に 移っていた。教授会は、確認破棄-募金協力が座り込み闘争によってスムーズに押し通すことができなくなり窮地に陥っていた。今道は教授会にこの窮地を強硬策によって乗り切らせること(さらに百年祭‐募金をあくまで強行すること)を自己の使命として登場したのである。
p27
今道は2月27日に約束された「話し合いの継続」を反故にし、3月3日には機動隊を導入し、坐り込んでいた有志を強制的に排除した。有志は屈せず 3月10日、再度坐り込みに突入し 、それ以後9月に至るまで坐り込みが継続された。
5月の学生大会が成立し、募金反対の決議がなされ、さらに団交要求を掲げたストライキが決行されるまで、 今道は一切話し合いには応じなかった。4月に彼が学部長として正式に登場して最初に行ったことは『文学部における昨今の一連の事態について』(前出)という、事実を歪曲した文書を配布することであった。彼はこれにより有志を悪者に仕立て上げ、孤立化させること、そして(入試というような)何らかの機会を捉えて弾圧を加えることを狙ったのだ。だが、新学期を迎えた文学部は、教授会のやり方に対する憤激の声で満ちあふれれるのである。
第6節 学生大会の成立と団交獲得
78年1月末よりの文学部学生・院生有志による学部長室坐り込みを一つの契機として各学科において活発化していた学科活動は、4月以降、新たな進学生をも含んだ広範な討論として組織されていった。 4月10日、社会学科有志は「百年祭をぶっつぶそう」というアピールを全文学部に発し、さらに、4月20日には同じく積極的な学科活動を展開していた東洋史学科の有志と共に、「<反百年>の泉を大河に」のスローガンのもと、<4・20百億円募金阻止・5月学生大会成立=勝利を目指す文学部全学科集会>が開かれた。この集会には文学部学生70名以上が参加し、それぞれの学科における自主的活動を踏まえ、さらに、それ以前には孤立的になされていた学科活動間の交流・連帯を推し進め、募金反対を全文学部学生の声として確認するため、学生大会によってこれを決議し、対教授会団交を獲得して行こうという基調提起がなされ、確認されていった。 p28
一方、同日、この全学科集会と同時に開かれていた、文学部学生院生有志らの学部長室坐り込み防衛集会に対して、東京大学職員組合、東大自治会全学中央委員会(ともに日共系)のデモ隊が、学部長室「不法占拠」解除をかかげつつ、宣伝車・旗竿部隊を先頭にして突入するという事態が生じた。このデモ隊列の中には当時の文学部学友会執行部も参加していたため、当局の「百年祭」に賛成する姿勢を明確に示したとして、彼ら日共=民青は、文学部生に対する影響力を完全に失った。
文学部内では、「反百年・募金阻止」をめぐり、さらに「文学部長室坐り込み」をめぐって 大きな議論が巻き起こっていた。
社会学科、東洋史学科を中心として各学科間の交流・連帯を推進し、これらの問題について連続した学科討論、類別討論で論議を深めてきた諸学科は、学科間の連絡機関として「募金反対学科連絡会」を結成し、学生大会に向けた提案の作成を開始した。
このような活発な学科討論・学科間討論を背景として、5月18日、文学部学生大会は、実に10年前の東大闘争以来初めて成立した。そして、この学生大会において、「募金反対学科連絡会」の提案が賛成146、反対48で可決された。「募金反対学科連絡会」の提案の主文は次の通りである。
「以下①②の要求を貫徹するため「団交を実行する会」(団交実)を結成して、5月25日(木)までに対文教授会団交を行なおう。
①文教授会は 募金反対400署名無視、10・26確認空洞化と3・3機動隊導入による反対運動弾圧への加担とを自己批判すること、及び4・3今道学部長名文書を自己批判し 、白紙撤回すること。
②文教授会は文学部に募金非協力体制を確立すること。
この団交要求への無条件かつ明確な受諾確約回答が22日正午までにない場合、我々全文学部生は23、24両日午前8時半より午後5時までのストライキを行い、再度、団交実は文教授会に団交を要求する。」
この他、文学部学友会執行部(当時)提案はひとつも可決されず、特に「学部長室坐り込み解除」を要求する提案は賛成44、反対125で否決され、また、文有志の提案は逆に一つも否決されないという結果に終わり、この学生大会によって文学部学生の募金に反対の声は公式に確認されたのであった。 p29
5月19日、団交実は文教授会に対して団交要求を提出したが、これに対する文教授会の回答は次のようなものであった。
「学部交渉のルールに則った交渉を行う 」
これに対し、団交実は①断交の責任主体が教授会であるということが不明瞭、②「学部交渉のルール」なる 意味不明の条件が付けられていること、③「学部交渉のルール」なるものに対して一切の説明を拒否したこと」等を根拠としてこの回答に対して抗議し 、学生大会決定に基づき、5月23、 24日と抗議ストライキを行った。
続いて5月25日臨時学生大会が成立、再度、スト権確立を背景とした対教授会団交要求が可決され、その後スト権を背景に、教授会との予備折衝が行われていった 。 6月上旬2日間のストライキを打ち抜き、粘り強い議論を重ねる中で、教授会の出してきた不当条件はことごとく論理的破産に追い込まれ、また3日間のスト権を背景に迫った要求によって、不当条件は完全に撤廃されて 、6月23日の団交が確認されたのである。
第7節 今道の団交逃亡
学生大会決議に基づく 団交実の 2項目要求に対し、第1回団交が6月23日に開かれた。これには文教教授会側代表として今道学部長、辻村(評議員)、 戸川、青井、高橋の各教官が出席し、また学生側は文学部3番大教室に溢れる300名を超える出席があった。
しかしこの中で示された文学部当局の態度は次のようなものであった。
「 ① 本来大衆的な場で議論されるべきものではないが、教授会の考えを浸透させるために交渉に応じた。②学生の2項目要求については何といっても応諾できない。文学部は募金非協力体制などという学問教育と別の事柄についての「---体制」を確立することはできない。ただ、文学部は一貫して募金協力体制を取ってきているのだ。③ 2週間ほど前に、5月1日付けで辻村教授(評議員)を募金委員に任命した。」 p30
このように文学部全学生の要求としてかち取られた団交の席上にあっても、文教授会は山本前文学部長との間でもたれたような討論を一切回避し、右のような見解を繰り返すのみであった。
この日結局時間切れとなった団交は6月29日、第2回団交として継続されることとなった。第2回団交出席者は、教授会側は今道学部長、 辻村、青井、土田、戸川の各教官、学生側はやはり300名にのぼる学生が出席していた。 この第2回団交は、 主に団交実が提出した辻村募金委員の辞任要求をめぐってなされたが 、それに対する辻村評議員の回答は次のようなものに終始した。
教授会が募金協力体制をとっている以上、募金委員を出すのは当然であり私がなった。募金に賛成する理由は簡単だ。教授会の立場は常識の立場である。還暦の祝いのように百年にあたって節目として記念するのは常識である。これを機に通常の予算でまかないきれないものを募金で補うのだ。
こうして二回の団交は、10・26確認の有効性とその正しさ、募金自体のはらむ問題性などに対する学生側の質問に対して何ら正面から噛み合う論議としてなされないままに終わってしまうのである。ここには、前年の山本学部長(当時) との団交でなされたような、 東大100年の問題性、募金が意図する東大の再編をめぐる情況などを、学生と教官とが討論の中で考えを深め、自らの問題として態度を決していくという姿勢が全く欠如しているのである。それのみか、「話し合いではなく説明」、「常識」という論議からも明らかなように、むしろ、この団交の場を 教授会側の意見を一方的に押し付けるものとしていたのである。
こうした文教授会の姿勢が明らかに示されたのが、7月7日、第3回の団交であった。7月7日、第3回団交が始まる直前、学生側の席に座っていた文学部の一教官に対して 、団交実の学生が、団交に参加するのなら教授会側の席に座り、学生の質問に答えてほしいと促したところ、その教官は団交会場から退出したのであった 。それを見た第二委員(学友会担当)で、団交の「立会人」であった浜川教授は「学生が教官を追い出した」と発言、この発言の撤回を求める学生側との間で紛糾し、結局団交に入れぬまま終わってしまった。今道学部長はこの途中で「定期健康診断の予約」を理由に退席、そのまま戻ってこなかったのである。
この7月7日の団交が、開始以前に紛糾し団交に入れなかったことについて、 この団交に教授会側代表として出席していた辻村、青井、土田、戸川の各教官は以下のように確認している。
「 7月7日に予定されていた第3回学部交渉(団交)の開始直前において、立会人の浜川詳枝第二委員の適切でない発言があり、その内容をめぐって議論が紛糾し、その結果、交渉(団交)の開始が大幅に遅れている。立会人の石井進第二委員長はこの事態を打開するため、学友会・団交を実行する会と確認書を作成すべく努力を重ねていたが、石井委員長の都合によりこの作業は中断の状態にたちいたった。 今後この作業が継続されることが望まれる。学部交渉のために出席していた教授会メンバーとして以上のことを確認する。 」
こうして7月7日第3回団交は結局延期とされ、前記代表団との間で7月10日に再度団交がもたれることが確認された。だがこの7月10日の団交も 、教授会は「①教授会メンバーの健康上の理由と第二委員会の不整備。② 7日、8日の異常な事態」を 理由に一方的に拒否の通告を行ってきたのである。
このようにして、団交の場においても学生の質問、要求に正面から答えようとしなかった今道学部長、文教授会は、これ以後団交に応ずることをも拒否していくのである。
10日の団交の一方的破棄に抗議した団交実と、文教授会執行部との間で直接確認された7月28日の団交も、その前日になって条件を提示し、その条件が満たされない限り団交には応じないとしてきたのである。その条件とは、すでに教授会代表団が教授会側に非があると認めていた7月7日の団交前の事態について、一学生を名指しで、その謝罪を求めるというものであった。そしてこれ以後、 今道学部長は、その謝罪すべき内容が何かということにすら一切答えることなく、 以後全ての話し合い要求を拒否し続けるのである。
p32
こうして全ての話し合い要求を拒否したまま、今道学部長は、3・3機動隊導入以来の強権的闘争圧殺への傾斜を急速に強めていく。その第一のあらわれが8月23日の学部長室への登場であった。この日、戸川助教授を引き連れて学部長室に登場した今道学部長は 「 傷つかない前に出ていけ 」という科白を残して帰っていったのである。これに対して学部長室に坐り込んでいた文学部学生院生有志は 8月31日「弾圧粉砕全学集会」 もって応え、坐り込み防衛体制を強化していったのである。
だが今道学部長のこの強権的姿勢は、自治会主催の学部祭の不許可、さらに、9月22日付、文学部長今道友信名の文書「文学部学生諸君へ」において、話し合いを拒否したまま、この「占拠を放置しておくことはできない」ので「教授会としては事態の早急な解決を 計る」という中で、より露骨に文学部学友会の自治活動に対する弾圧、学部長室坐り込みに対する強権的決着の方針の打ち出しという形であらわれれているのである。p32
第2章 9.22火災以降の諸弾圧と処分策動 p33
序
今道文学部長(当時)の主導のもと、文学部教授会は団交を形骸化し、7月7、8日の事態を逆手に取る形で、団交拒否へとその路線を展開していた。今道文学部長は 「 ふたたび文学部学生諸君へ 」の中で「 ついに---終わった団交実 」と団交実の終焉を一方的に宣告している( 書証第二号)。これは、団交実を中心に闘われてきた団交要求ストライキ・予備折衝・団交等々の経緯を見るならば、反百年運動の提起した団交に最終的に拒絶の宣告をしたものである。
それに対して団交実を中心とした文・学友会は10月、学生大会・ストライキという方針を提起し、9月初中旬の段階でパンフレット( 「募金阻止闘争勝利のために」 )を土台とした学科討論を組織し、9月18日には秋期文闘争勝利総決起集会によって反百年への意志を表明した。当時、今道学部長の団交拒否の不当性はその中でますます明らかになっていった。
そのような中で9月22日文学部長室火災が発生する。文教授会メンバーの多くは これを学生の失火と臆断し、今道学部長はそれを基盤として、 文闘争の鎮圧のための諸「措置」を 講じていく。団交拒否の路線から学生自治活動の全面的な妨害・破壊へと身を乗り出すのである。
立て看破壊・撤去、文ホール夜間ロックアウト、集会妨害、個人の実名掲載、 個人に対する恫喝、ストライキ方針を採決する学生大会への恫喝等々、そして最終的最大の切り札として学生処分策動。それらはその不当性のゆえに、文学部生、全学の強い抗議の声を生み出した。
文学部においては10月26日から開始された今道執行部退陣要求署名、 処分反対・今道退陣要求ストライキ。全学各部局においては評議員追及、全学集会。さらには1・18全国学生集会等々。全学・全階層の闘い、全国学生と連帯した闘いによって今道学部長の処分策動は破綻していった。 p34
しかし、その処分策動が国政レベルからの要請に支えられていたことから、 処分策動の破綻は 2月14日の弾圧へと移り変わっていくのである。
第1節 今道による火災直後の諸弾圧
1、 全面ロックアウト・学生側の現場検証立会い阻止
火災直後、教授会メンバーの多くは、火災が座り込み闘争を継続していた学生による失火であると臆断していた。9月25日から一週間の法文Ⅰ、Ⅱ号館全面ロックアウトは、学生の自治活動を保証する場である文学部学生ホール、さらに学生の日常的な様々な自主的活動の空間として活用されていた諸学科研究室等からの 学生の排除としてあった。それに込められた意図が学生の自治活動、とりわけ反百年運動の妨害にあったことは、9月22日当日は文学生ホールが使用できた 事実から、またその後の経緯から十分推察しうる。
22日当日、警察の現場検証に学友会副委員長、同書記長は従来の慣例にのっとり、立会を要請した。ところが教授会メンバーは学生を突きのけるといった形で現場検証への立会いをほとんど暴力的に拒否した。この現場検証立会い拒否は、教授会メンバーの 「学生の失火」 なる臆断に基づく 「学生への不信感」 と、学生自治活動の妨害の意図からなされている。
これは、従来の慣例を無視した点でも 、また、教授会が学生側の責任追及を当初から口にしつつも、この立会い拒否をはじめとして、火災についての情報を独占し、公表しなかった経緯から見ても、不当なものと言わざるを得ない。また、現場検証以前にパトカー2台分の書類が持ち出されていることが挙げられるが、このような不当な措置をチェックする可能性を学生側から奪ったこと一事でも、この立会拒否を不当なものと断じざるを得ないのである。 p35
1週間ロックアウト、現場検証への学友会の立会いの阻止の措置において、当時文学部長の座にあった今道友信が主導的な役割を果たしていたことは明瞭である。それは今道友信名のいくつかの文書等に表れている見解によっても確認できるし、火災直後発足した対策委員会(小委員会として中期対策委、長期対策委。委員長はそれぞれ、梅丘、辻村評議員)の委員長として今道学部長がいたことからも断定できる。
2、 立て看破壊・ 撤去、9・25集会に対する教授会の妨害
教授会は9月23日から9月24日にかけて、法文Ⅱ号館周辺の立て看(立て看板)を全面的に撤去し、破壊した。立て看はビラ等とともに、学生側の表現媒体の中心的な存在であり、 破壊された立て看の多くは 反百年運動の意志、思想、要求を現に表していた。
この立て看破壊は、その後、10月18日に至るまで教授会メンバーが夜こっそりと立て看を撤去するという事態として継続される。それは学生側の表現媒体、あるいは表現自体を破壊し、討論、活動を保障する最低限の空間を奪い、学生の自主、自治活動、とりわけ反百年運動に対する全面的妨害の一環としてあったのである 。
この立て看破壊・撤去の理由として、教授会メンバーは、「立て看は可燃物であって危険であるから撤去する」といったことを提示しているが、大学には背広を着た可燃物が我が物顔で右往左往し、活字を刻印された可燃物がうず高く蓄蔵されており 、この可燃物に満ちた空間の中で立て看の移動―隔離などは可燃物撤去に何の有効性ももたない。立て看の破壊もまたそのような理由では正当化できないことはいうまでもない。 それは、まさに反百年運動に対する弾圧としてあったし、 4・20文部次官通達の指示に沿うものだった。
9月25日、学生側は、一週間のロックアウト、現場検証立会い阻止 、立て看の破壊等に抗議し、 また9・22火災を口実とした運動に対する弾圧を抑止することを目的として集会を開催した。それに対して、当時の文学部長今道友信をはじめとする文教授会メンバーは、学生側を火つけ呼ばわりし 「(大学から)出て行け 」 と叫び、あげくの果てには、学生を押し出さんと 、小突く、蹴る等、集会を暴力的に妨害した。学生側はあくまで集会を貫徹しようとし、もみ合いの中で、学生側に時計の損壊等の 被害が出た。この時、今道学部長は教授会メンバーの最先頭に立っていたことから、今道学部長のこの集会妨害における積極的、主導的役割がうかがえる。 この集会は、大学当局が火災の事後措置と称してなしていた不当な弾圧に抗議し、今後それを抑止せんとして行われたものであり、学生側の当然の権利としての集会を侵害することはまったく不当なものと言わざるを得ない。
3.文ホール夜間ロックアウト
火災の事後措置と称する大学当局による学生自治・自主活動に対する妨害は、法文二号館の一週間の全面的なロックアウトに継続して、文学部学生ホールの夜間ロックアウトとしても現出した。
10年にわたって、学生が24時間、自治・自主活動の場として使用してきた空間を、それが火災現場とは何ら関わりを持たないにもかかわらず、1週間ロックアウトし、さらにそれ以後午後5時以降ロックアウトし、学友会の闘いによってそれを維持することが困難となるや、7時に消灯し、学生を追い出すといったことは正当化されえない。今道学部長は文学部長名による掲示の中で、「学生が反省せずに出入りしているため」との理由を提示しているが、火災が学生による失火であるということが明瞭になった段階でならばともかく、原因不明の段階でそのような措置を取り、学生に反省を強要することは臆断に基づいた一方的な断罪でしかない。また、その理由をもって、学友会全般の活動に対する妨害を為すことは論理的飛躍であり、学友会の反省を求めるならば、 原因不明の段階で何についての反省を求めるのかを明示し、その当否について学友会側との討論をする必要があろう。当時、今道学部長をはじめとする文・教授会は、団交をはじめとするあらゆる討論を避けており、そのような状態で文・学生ホールを5時以降(後、7時以降)ロックアウトすることは、学生の自治・自主活動に対する不当な侵害でしかない。 p37
第2節 9・22火災、及びその原因
このような論理的飛躍と臆断に満ちた姿勢によって、反百年運動を鎮圧せんとするものであると断ぜざるを得ない諸「措置」をなしていく文・教授会 、とりわけ今道執行部は、このような中で学生処分策動を進めていくのである。その処分策動の契機となり、最後までそれに連関させて、学生処分を講じようとした9・22火災とはどういうものであったろうか。
1.9・22火災
火災前後の状況を簡単にまとめてみよう。
22日午前5時頃東大病院北病棟で、6時頃農学部で、6時6分頃文学部で火災ベルが鳴った。またこの頃「農学部が火事だ」と若い男の声で安田講堂内警備本部に怪電話。
6時12分頃各消防署から出動。15分頃消防車10台前後農学部に入る。18分頃消防車が農学部から移動、正門から入り、25分頃消防士が室内放水を学生と交替。 30分頃消防車が外から放水開始。
7時~7時半、付近にいた学生を本富士署が強制連行。7時35分頃鎮火、40分頃パトカー2台で書類を運び去る。
同日午後1時から現場検証。10月4日再現場検証。
いくつかの不審な点が浮かび上がってくる。それらを列挙してみよう。
(1)ほぼ同時に学内三ケ所で火災ベルが鳴っている。
(2)「農学部が火事」と通報したのが誰なのかは全く不明であり、消防車が初め農学部に入ったため消火活動が遅れている。
(3)現場検証の一回性の原則を破って、2度も検証している。(書証第3号)
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2.火災の原因は不明である。
火災直後から、文・教授会、マスコミ等が等が 「学生の失火」 とする予断をもっていたことは、文・教授会の対応、マスコミの記事によってはっきりしていた。そして、政府-文部省もまた、そのような臆断のもとに、学生の厳重な処分、損害賠償請求等を指示していた。 そのような中で、消防署からの情報等、火災についての情報は大学当局により独占され、学内にはほとんど公表されなかった。
そして12月末の消防署による最終的な原因判定書において、9・22火災の原因が不明であるとされたことも、なぜか首都圏の新聞では報道されず、わずかに信濃毎日新聞、南日本新聞において、遠隔地域において報道されたものであった。
しかし、ともあれ消防署は火災の原因は不明と判定した。
火災の原因として、失火、放火、自然発火の三つが考えられるが、漏電等、 自然発火の形跡は無いという。
また失火であるとすれば、火源から直接的に燃え広がったか、着火物(例えば布団)を媒介にして燃え広がったのかのどちらかである。
まず前者については、松田雅雄 本郷消防署予防課長によれば、「出火場所は文学部長室の壁際と確定できたが、火種はあらゆる可能性を考えても否定定材料ばかり、タバコか蚊取り線香の可能性を推定できるが、実験でもタバコとか線香では床に火がつかなかった。」と否定されている。 また文学部教授会の上申した処分案(書証第4号)と資料によれば、文・教授会は布団が着火物となったと推定しているが、火源と布団とは少なくとも4~5 メートルは離れており、無理な推定であることがわかる。
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さらに放火の可能性については、文・教授会は次の論理で否定している。放火には多くの場合油を使う。今回の火災において油を使った形跡はない。故に放火ではない、と。この論理が飛躍であることは、明白であろう。油を使っての放火の可能性が否定されようと、放火一般の可能性が全面的に否定されたわけではないのである。しかし放火の証拠もまた見つかってはいない。
結局、この火災の原因は不明である理由であるが、文・教授会の主張するように失火の蓋然性が極めて高いわけではなく、むしろ、放火の可能性の方がほとんど検証されずに残っている。処分策動、また 上申された処分案自体が、布団=着火物という自らのデータが反証している説を持ち出し、失火の可能性が高いとしているという予断と偏見に満ちたものである。また、このような姿勢こそが火災に端を発した文・教授会の自治活動に対する諸々の妨害のあらわれ、不当な処分案を提示する基盤となったことを見て取らねばならない。
第3節 政府・文部省の動き
ここで、火災直後から学生処分・損害賠償を指令し、後には刑事事件による弾圧を鼓舞した政府・文部省の動きを見ておかねばならない。
1. 9・22火災に至るまでの動向
文学部長室座り込み闘争が開始されたその前日の1月26日、サンケイ新聞が東大病院精神科病棟(赤レンガ)の自主管理を中傷するキャンペーンを繰り広げ始めた。自民党、新自由クラブなどが直ちに国会で取り上げ、さらに文学部問題を含め様々に「東大正常化」を政府に迫った。 p40
3・26三里塚闘争以後、政府・文部省は過激派狩りキャンペーンを行いつつ、4・20文部次官通達をはじめとして全国大学に対する管理の徹底強化を指示した。とりわけ東大に対しては、自民党議員津島によるスパイまがいの「調査」(4月18日)、文部省会計課長による「会計検査」(5月2日)、超党派国会議員団による「調査」など、不当介入が続いた。また向坊総長の国会喚問がこの時期に行われ、 管理強化が要請されている。
これら政府・文部省 、自民党などによる攻撃は、有事立法攻撃をはじめとする全社会的治安再編に並行して、全国大学の管理強化と数年来続けられている移転再編の更なる推進の一環としてかけられたものであった。東大に対しては、百年記念事業‐百億円募金をテコとする東大再編を支援・推進するとともに、管理強化を目指すものとしてあった。しかしそれらは文学部における反百年・反募金闘争の高揚などに直面し、その意図を貫徹できなくなっていた。
2. 9・22火災以降の直接指令
9・22火災が発生するや、連続して閣議が開かれ、多くの予断と偏見により 「占拠学生の失火」等々の決めつけがなされた。9月26日には、砂田文部大臣が「失火学生の厳正処分、損害賠償請求」を東大に指示している。すでに22、23日の閣議でも環境庁長官や法相などが「 東大はビラや立て看で汚い」、「東大は無秩序状態だ」 等の発言をしており、政府・文部省が火災原因の究明を飛び越して、いわば“火事場騒ぎ”を利用し学内の闘争に対し強権的に介入しようとしたことは明らかである。それは、1月より続いてきた東大への管理強化攻撃をさらに飛躍させようとするものであった。
この政府・文部省の指示に呼応して、今道学部長は、その時期およびそれ以降学生処分をはじめとする攻撃を推進していくのである。
さらに10月24日文部省は
「学生が長期に渡って文学部長室を占拠するという不法状態が続いていたことや、火災当日学生が泊まり込んでいた事実---から 火災原因が占拠学生によるものであることは疑いがない。」(佐野大学局長)、「東京大学が今回の事件に適切に対処するとともに、これを契機として----毅然とした態度で大学の使命を果たすことを強く期待する」(砂田文相、いずれも10月25日付サンケイによる)として、向坊総長、今道文学部長他9名の処分を発表した。これは処分対象者の異議申し立ての手続きを端折ってなされた「異例な」かつ「前代未聞の」大量処分であった。
また火災原因は不明のまま一般的に「建物管理の不行き届き」の責任を追及する内容のものである。(火災原因が不明の時に管理責任を問うことは、当局が管理していればいかなる火災もありえないとすることであり、不合理である。)
これらのことから見て取れることは、まずこの当局者への処分が、処分がなされた翌日のサンケイが 「残る課題は学生処分」 とキャンペーンしたことからもわかるように、学生処分を推進するための布石であった。学生処分を早く行わせるために、それは急いで出され、学生処分を有無を言わせず(処分となる特定の行為は何か等々全く不明瞭である)行わせるために、正規の手続きを無視し(例えば東大の会計課長等が文学部坐り込み問題に何らか関与し一定の態度を取る立場にあったとは到底思えないが)なされたのだ。
さらにその当局者処分は一般的に建物管理の責任を問うものであり、従って火災と直接の関係なしにとにかく大学の管理強化を大学当局に命令するものであった。ここに、総長の従来取ってきた一定の「対話の姿勢」はおさえつけられ、今道学部長の むき出しの弾圧路線、すなわち学生との間で問題となった事柄を真摯な討論を通じて解決していくのではなく、自らの考えを一方的に力ずくで押し通しそれを阻止しようとする者には弾圧を加えるというやり方が幅を利かす状況が作られることになったのである。 p42
だが、 これらの政府・文部省の号令を受けて進められた処分決定は、12月末にいたっても出されなかった。文学部での処分粉砕に向けた学友会の闘いの高揚、全学の反対の声、教官内にも反対の声が上がり、当局者内部においても医学部長の反対の確認書など亀裂が広がり、12月末の消防署の原因判定書も火災原因は不明とする中で、処分は出せなくなったのである。そのような状況の中で、年が明けた1月末から2月初めにかけて、政府・文部省は再々度東大への介入・圧力を強化してきたのである。
1月31日内藤文相は、あらためて東大に対し学生処分の指示を行った。また2月3日には赤レンガに対する「正常化」指令が、2月5日には東大三鷹寮に「ゲバ棒が集められている」という全く事実無根の発言が、国会で相次いでなされている。こうした政府・文部省、また国会をも通した東大への攻撃は、文学部における学生処分のみならず、刑事、民事責任を問うなどあらゆる形で東大を「正常化」していくことを求めるものであった。
9・22火災以降、 政府・文部省は何度も東大当局に叱咤号令をかけ、学生処分、刑事、民事責任の追及を執拗に繰り返した。これらは全て、赤レンガ自主管理闘争への弾圧キャンペーンから始まる一連の「東大正常化」攻撃の延長線上にある 。数年にわたって続けられてきた全国大学の移転等による再編、4・20文部次官通達に端的に表れている大学管理強化攻撃の東大版がこの政府・文部省の攻撃に他ならない。東大においては、百年記念事業‐百億円募金をテコとした再編合理化がもくろまれている。その再編を支持し、かつ管理をより強化して行こうとするのが、これら政府・文部省の弾圧号令の意味である。
この政府・文部省の路線に応え、また積極的に推進して行こうとしたのが、東大においては今道学部長であった。その論文で「勇気を出して不正の告訴と処分に励むのでなければならない」とする今道学部長は、今回の事態の中で全く孤立しているにもかかわらず、処分を強行しようとし、また被害届を提出し警察力導入による逮捕まで行なってきた。その今道学部長の孤立をカバーし、彼を鼓舞したものこそ、政府・文部省の相次ぐ弾圧指令だったのである。 p43
第4節 今道学部長の処分策動とそれへの反撃
1. 今道学部長の処分策動
a、 「失火」処分から不法占拠処分へ
9・22火災当日、今道学部長は文学部長名告示の中で 「----- 文学部は出火の原因が明らかにされるのを待って、その責任を徹底的に糾明する所存である」 ことを表明した。この時期、教授会メンバーが学生に対して「お前たち、火を出したな。」と発言し、各新聞が「学生の失火か」と報道するなど、学生による失火という雰囲気が支配していたことを考えると、学生の失火という憶測のもとに責任糾明が考えられていたことは疑いない。
この火災当日、文学部臨時教授会が開かれ、今道学部長を長とする「火災事故に伴う事後措置に関する対策委員会」が発足した。これは、休校措置や事務員の配置等緊急対策を検討する第一委員会と、10月以降の授業計画・学生問題等中期的対策を扱う第2委員会とに分かれていて、それぞれ梅岡、辻村両評議員を 委員長としていた。
また、「責任問題検討委員会」も発足し、10月初めには「学部長と占拠を続けている一部学生に責任がある」との答申を出している。これらは総じて今道学部長のリーダーシップのもとで学生の「責任糾明」を行おうとする体制が即座に準備されたことを示している。
他方、9月26日の砂田文相の「指示」が失火学生の処分、賠償請求を打ち出した。しかし、火災原因の発表は一週間を経てもなされなかった。そのような中、9月29日に今道友信名「再び文学部学生諸君へ」が出され、そこにおいて今道学部長は、
「-----出火の直接的原因が何であれ----その占拠に加わったものはすべて何らかの意味で火災の責任から逃れることはできない----」(証書第2号)
と述べている。9月22日付け告示から10日も経ぬうちに出されたこの言葉は、当初臆断した失火の可能性が薄れる中で、占拠それ自体を理由とした責任糾明を行おうとするものであった。
しかしながら、その「占拠」していたとすることもこじつけにほかならなかった.。文学部長室坐り込み闘争が行われていた間、当局者はそれを座り込みと呼び、占拠と呼んだことは一度もない。3月3日の機動隊導入の際の学内広報は、坐り込みを「座り込み」と表現し、この年6月に国会喚問された向坊総長は「座り込みは民主主義の突きつけである」、「異常事態とは考えていない」などと答えている。
今道学部長自身、4月3日付「文学部における昨今の一連の事態について」では一貫して「座り込み」と呼び(書証第5号)、また数回出された学部長室からの退去命令でも「座り込み」をやめろとしていた。それが9月22日付文書で「『座り込み』占拠」という言葉に突然変わり(書証第6号)、 9月29日には占拠となっているのである。
これらのことを見るとき、わざわざ占拠と表現し始めたことは、坐り込み闘争そのものを不法とし、刑事事件の対象、あるいは学内における処罰の対象とするためのこじつけと言うべき措置であることは歴然としている。そして、失火による責任糾明が無理と見るや、坐り込み闘争を不法占拠とこじつけて何とか責任糾明できる口実にしようとしたのである。
その責任糾明とは何だったのか。9月26日の文相指示が学生処分を要求する中で、10月7日、今道学部長は東大新聞のインタビューに答えて、「ルール不在で処分ができないのならば、世界中の悪者はみんな東大に入ればよいことになる」という趣旨の発言をして処分を行うことを公言し(書証第7号)、また10月17日には一学生に向かって「退学の覚悟はできているだろうな」と発言している。今道学部長が学生処分によって責任糾明を果たそうとしていたことは、これから明らかであろう。 さらにその処分の理由とは、原因究明を行おうともせずに臆断した「失火」であったし、その「失火」が無理と見てからはこじつけによる不法占拠であった。
p45
だが、不法占拠と言うならば、その座り込み闘争の行われたそもそもの理由である文学部教授会の募金非協力確認空洞化に対して、自らに突きつけられた問いに答えることが必要であろう。それもせずにただ処分するというのでは、「占拠」を処分するための口実としたと言うしかなく、9・22火災を利用して学生処分をとにかく行うことを狙ったものと言うべきである。すなわち学生の異議申し立てを封じ込めるための処分策動であり、また政府・文部省の指示に応えるための処分策動に他ならなかった。
b、 失火デッチ上げキャンペーンと実名掲載
こうして今道は失火処分を断念し、かわって不法占拠処分を画策したのであるが、しかし、火災が失火であるとの臆断は捨てず、かつ学生らの反撃により、処分が困難となり追い詰められていく中で、処分のための、あるいは学生分断のための学内世論形成に向けた失火デッチ上げキャンペーンを展開するのである。
それは例えば、11月6日付「三たび文学部学生諸君へ」に顕著である。当時学生側は、9・22火災が多くの不審な点をはらんでいること、及び原因が不明であることをもって不審火と称していたが、それに対して同文書においては、「『不審火」と呼んで恥じないのは----(中略)----具体的根拠を示すことなく一般の人々を心理的に誘導して火災の原因を曖昧に糊塗することを狙っており、その点極めて悪質なデマゴギーであるとともに、これらの者の知的・倫理的な退廃を余すところなく露呈するものである」とまで決めつけている。その上で、「火災原因の究明は東京消防庁・警視庁などの専門機関により今なお続けられている。これまで判明したところでは『文有志』集団の占拠宿泊していた出火現場には長時間にわたる緩慢な燃焼を示す焦げ跡が床面に残っており、かつ電気、ガス系統に起因する出火ではないということである。かかる状況から察するに、当夜そこに居合わせた者による失火の可能性が極めて強いことは否定できない」と、「失火」を強調するのである。
ところが、この今道の主張にしても、「失火」の根拠として、長時間にわたる緩慢な燃焼であること、及びガス・電気によるものではないということがあげられているだけであり、 むしろ今道自身が「具体的根拠を示すことなく一般の人々を心理的に誘導して火災の原因」を 失火と「することを狙っている」のである。また現場検証への学友会の立会いを暴力的に拒否するなどしてその情報を独占しておきながら、学生に「具体的根拠を示」せというのは全くの転倒に他ならない。(書証第8号)
この文書に代表されるように、今道は一貫して9・22日火災が失火であったかの発言をし続け、学内世論の形成をはかったのであり、文学部処分上申書添付資料「出火事件経過関係資料」は その集大成であった。
こうして一方では「失火」キャンペーンのばらまきにより文有志・学友会団交実メンバーらと一般学生の分断をはかり、また、他方文有志・学友会団交実メンバーに対しては 「学内広報」や掲示を使って実名を挙げるという個人恫喝を行なっていった。
11月6日の「三たび文学部学生諸君へ」では、大略以下のことが書かれている。
① 出火当夜、「常にリーダー格であった鈴木、『文有志』集団と『団交実』の有力メンバーである三好・森田の本学部学生が----宿泊していたのである。(この)3名は----「不審火」、「失火デッチ上げ」など卑怯な表現のかげに隠れようと奔走している」
② 「昨年4月の須藤ら『文有志』集団による山本前学部長に対する騙し打ち的な『話し合い』の強要」
③ 「本年7月7日から8日にかけての----鈴木ら『団交実』による徹夜の個人『追及』」
これはいずれも事実に基づかぬ一方的な決めつけであり、文学部長名を付した公文書での特定の個人に対する誹謗中傷を行っているのである。
また12月11日付学内広報においては、12月6日から8日まで「学生ストライキ」を行い授業妨害を行った、との文脈の中で11名の文学部学生の名前を挙げ個人攻撃を行っている。総計すればこの間のべ80余名にも及ぶ学生の名前を「学内広報」に掲載し個人攻撃・恫喝を加えているのである。
これらはいずれも、この間の今道自身の弾圧路線・処分強行策動などに対して学生の間で高まってきていた批判と、とりわけ「今道執行部退陣要求署名」によって完全に窮地に追い込まれていた今道の、切羽詰まった「反撃」ではあったのだが、学生はこの今道の常軌を逸した誹謗中傷により、むしろ今道を完全に見放すに至るのである。
c、 学生分断策動
今道が、学生の要求である募金非協力を強硬手段で弾圧して行く上で、必須の要件としてあったのが学生を分断し、学生の団結を阻止することであった。今道は学部長に就任当初から、さまざまにこの学生分断策動を繰り返してきたのであるが、9・22以後の諸弾圧に対して学生の反撃が開始される10月以降、この学生分断策動は繰り返しかけられてくるのである。
「今道退陣要求署名」に対しては、やはり11・6の「三たび文学部学生諸君へ」において 「(学友会常任委・団交実の)意図するところは、署名をいくらかでも集めることにより、 出火を含め自らの現在までの無責任な言動に免罪符を得んとすることであり、さらには今後ますます常軌を逸した行動を学内外で放埒に取り続けるための口実を獲得せんとすることである。もしそうした意図を看過し、これらの者の呼びかけに誘われて軽々しく署名に応じるならば、欲せずして彼らの無責任かつ無自覚な行動の過誤を過去にまで遡って共に分かち担うことになるであろう」と署名の意図を故意に歪曲した上で、その署名に応じることへの<警告>を発し、その署名に対しあからさまな敵意を表している。
11月8日には暴行キャンペーンが行われた。これら一連のキャンペーンを見ても、自ら追い詰められた末の失地回復を狙うものとして、また学生の分断を目論むものであることは明らかであろう。
こうした学生分断のための 宣伝は、11・22学生大会に向け、学生に対する恫喝にまで至るのである。11月20日には「来年1月末までの期間に学生大会決議などに基づき、授業の放棄・妨害などの行われた場合には、必要な日数を満たすための補講措置を講ずる余地のないことをあらかじめ学生諸君に警告しておく」という内容の文書を郵送し、学生を恫喝して、当時議論されていた今道退陣要求ストライキの決議を学生大会であげさせまいとしているのである。
かかる分断策動が失敗に終わり、学生大会が成功し、今道退陣要求決議があげられ、ストライキに突入するや、今度は12月2日に「憂慮すべき『学生ストライキ』の影響について」と題し、「文学部学友会委員会は----11月22日の学生大会に、断続的ないしは連続的 『ストライキ』を含む決議案を提出し、これが可決されたとして、まず11月29にち、30日に授業を妨害する挙に出た。
これによって来春3月に予定された卒業・進学が憂慮されるの事態に至っている。それにもかかわらず、文学部学友会委員会はさらに今後も同じ行為に出る態度を示している。もしこうしたことが無思慮にもなお実際行われ続けるならば、やがては重大な事態を招くことが予想される」として、学生大会決議という文学部学生の総意のもとにとり行われたストライキにまで、最終的管理権をたてにしての恫喝を加えたのであった。
2.学生処分攻撃等の諸弾圧への反撃 p49
a、闘争キャンプ
本章第1節に示した諸弾圧、前項に述べた学生処分策動に対して、文学部学友会を中心とする全学の学生・労働者は、これが9・22火災に名をかりた闘争の圧殺攻撃、そして学友会そのもの、自治活動そのものを規制し抑圧する攻撃であると確認し、その攻撃を許さない陣形を組んで行った。
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9・25集会において教授会メンバーによる暴行を受けながらも集会は貫徹され、文学部学生ホールの5時ロックアウトに対しても、文学部教授会のほとんどの教官、本部職員暴力部隊(いわゆるゲバ職)の動員による学生叩き出しに抗して、文学部学生は全学の学生・労働者の支援の中で、様々な暴行に対抗するピケットライン、坐り込みで7時までの使用を獲得してきた。
それらの闘いによって学友会そのものまでも抑圧・規制せんとする攻撃は頓挫した。そして9・22火災を契機にかけられてくるこの攻撃が「失火」デッチ上げを匂わしつつの学生処分のもくろみに端的に表されているように、火災の事後処理というよりも文学部における反百年・反募金の闘争を潰す目的、またそれに乗じて自治会活動をも規制して行こうとする目的に貫かれていることが鮮明になってきた。
すなわち、そのような目的を持って様々な攻撃をかけてくる今道学部長をはじめとする文学部教授会執行部そのものに対する反撃が要求されてきたのである。
そのような中で10月16日、文学部学生・院生有志は、今道学部長などの教授会執行部を打倒していくべく闘争キャンプに突入した。学部長今道は以前にも示したように、勝共連合のフロントサークルとも関係し、また9・22火災以降の弾圧を率先して行い、自治活動そのものをも規制せんとする張本人でもある。
また2名の評議員のうち、 辻村は、学生の募金反対運動の高揚の中でわざわざ募金委員となった当人で、10月24 日付サンケイ紙上「正論」欄において、処分に反対し弾圧に抗議する学生を「正常な人格の持ち主であるかどうかさえも疑われる」と称して、弾圧の正当化キャンペーンを行っている人物である。
もう一方の評議員梅岡は、北海道大学文学部の教官であった当時学生運動対策に名を馳せたと言われており、辻村とともに今道を長とする「火災事故に伴う事後措置に関する対策委員会」の小委員会を牽引し、上記の諸弾圧の推進役を果たしていた。これら、学生との話し合いに一切応じようとしない教授会執行部の動きを封じることがすなわち弾圧を許さず、また処分攻撃を粉砕する道でもあった。
こうして闘争キャンプにおいて、各教官に対し、弾圧に抗議しまた団交等話し合いを要求していく行動が取られていった。教官はこの要求を拒否あるいは黙殺し、とりわけ今道ら執行部は体当たりを食らわして学生を突き倒すなどの行為を繰り返し、話し合い要求を無視・抑圧しようとしていた。
しかし、この闘争キャンプのスローガンに象徴的に示された文学部教授会今道執行部打倒の理念は、その後、今道執行部退陣要求署名への多くの学友の結集、文学部学生大会(11月22日)における今道退陣・処分粉砕を目指すストライキ権の確立など、多くの学生の共通の認識としてかちとられていった。
b、今道執行部退陣要求署名
一方団交実は、 募金非協力確認をかちとってから一年経ったことも含め、10月26日に学生集会を開き、その場から、今道執行部(今道学部長、梅岡、辻村両評議員)の退陣を要求する署名を開始した。それは火災以降の 立て看板破壊・撤去、文ホール使用制限といった今道執行部によって行われた諸弾圧を糾弾し、反百年・募金阻止のためには、「話し合い」すらしようとせずひたすら学生の主張を潰し運動を圧殺するためにのみ登場してきた今道執行部をまずは退陣させなければならないとの立場を取ったのである。
6月に二度行われた団交における今道・辻村の発言から考えるに、また7・7団交以降の団交逃亡に、諸弾圧、ひいては学生処分策動等を見るとき、その要求は学生の多数の共感を獲得するものであった。 学部長の退陣を要求するというおそらくは前代未聞のこの署名は、11月10日までという短期間に250名にも達し、今道執行部退陣要求は、文学部生の大きな声となったのである。
この間今道は11月6日付で「三たび文学部学生諸君へ」なる文書を文学部学生全てに郵送し、 この退陣要求署名をしないようにと学生に訴えて学生の分断をはかった。また今道自身の必修ゼミにおいて「団交実を指示する学生は私のゼミから出て行け」と学生に単位認定権まで持ち出して恫喝をかけてきた。
こうした妨害がなされる中で、この署名が短期間に多数の学生の賛同を得たのは、まさに今道らのこれまでの所業から、今道執行部の体質が看破されており、 今道執行部退陣要求が、文学部学生の一大世論であったことを雄弁に物語っていると言えよう。実に今道学部長は、その学部長としての適格性までをも否定されたのである。
c 、 11・15全学集会
このように、闘争キャンプ及び退陣要求署名への支持という二つを軸として、あらゆる弾圧、そして処分策動に対する反撃が展開され、 日ましに今道執行部を追い詰めていった。その動きは11月22日に予定されていた文学部学生大会を目指し、再び学生大会の場で、今道執行部退陣・ 処分粉砕の大衆的決議を上げて、5月18日の学生大会に決議された2項目要求を貫徹しようとするものであった。
この学生大会の一週間前に当たる11月15日、学友会委員会・団交実の主催により、 処分「復活」攻撃粉砕・全学総決起集会が開かれた。当日銀杏並木には、農学部自治会、医学部自治会をはじめとして全学から35団体、250名にも及ぶ学生・職員・労働者が結集した。 その場では、この処分問題が決して文学部だけの問題ではなく、4・20文部次官通達・新大管法の先取り実質化としての処分「復活」策動であり、全学の学生・労働者にかけられた問題であることが確認され、処分粉砕に向け、今後全学的規模で闘うことを表明した。また、京都大学同学会よりの参加もあり、こうした管理強化が全国の大学で画策されているとの指摘もあった。こうした認識から、1・18全国学生集会もまた準備されていくのである。
こうして今道執行部は全学的規模で糾弾されることとなり、今道はますます孤立を深めていくのであった。
d、 11・22学生大会
10月末から始まる今道執行部退陣要求署名は、文学部生300の数を集め、11・15集会には250名が結集して 、処分を許さぬ流れが今道を追い詰めてきた。この流れは、11月22日文学部学生大会(以下11・22学大)が三度目の成立を成し遂げ、そこにおいて処分粉砕・今道執行部退陣を要求するスト権が確立されて、より大きくかつ決定的なものとなった。
この11・22学大には、 学友会委員会と団交を実行する会より、次のような提案が提出された。すなわち、「学友会は今道執行部の退陣を要求する」というもので、文教授会にそのための団交を求め、受諾ない場合、11月29、30日、12月6、7、8日、同月20、21、22、23日、1月18、19日の4波、11日間に渡ってストライキを行う。他方、処分がなされた場合には、処分撤回を求めてその処分が出された翌日から1月26日まで連続ストライキ体制に突入する、という内容であった。
そして、今道執行部が発足以来、機動隊導入、団交破壊逃亡、9・22火災以降の諸弾圧を通して、 また学生処分攻撃によって行なってきた弾圧が糾弾され、その弾圧が ①反「百年」-募金阻止闘争を闘ってきた文学部の突出した大衆運動に対する政治弾圧、②百年祭の強行に続き、再編=合理化=移転に反対する今後の闘いに対し予防的に全面圧殺をなさんとするもの、③ 政府・自民党の目論む筑波型 新大管法攻撃の先取り実質化とその飛躍的評価であることが指摘された。 p53
かかる内容の提案は、その草案が出された後11月20日の今道学部長名掲示によって、「授業の放棄妨害があれば---- 補講を講ずる余地はない」という趣旨で攻撃されていた。これは、それまで様々になされたキャンペーンの延長上にあり、その上学生大会という自治活動の基本的機構の議事の内容にまで介入、干渉を加えるという行為にほかならなかった。
さらに付言すれば、11・22当日においても、学生大会の議事が行われている最中の午後7時、大会会場内外の電灯を全て消す、ということまで行われた。 学友会は即座にサーチライトを準備し、議事の円滑な進行を保障して事なきを得たが、この消灯は、その時会場に200名近くの学生がおり、ひとたび間違えば学生が出口に殺到するなどのパニック状態を引き起こし負傷者も出かねない行為であり、暴挙としか呼びようのないものであった。
それにもかかわらず、学生大会は延べ300名近い学生が参加して3度目の成立を勝ち取り、上記の今道退陣を要求し、処分を許さないスト権を確立する強固な方針が189名中113対54で可決されたのである。このことは、今道執行部の理不尽な弾圧こそが問われるべきであり、今道を退陣させ処分は許さない、ということが大衆的に確認されたことを物語っている 。この11・22学大によって、それまで行なってきた今道の様々なキャンペーンは完全に破綻し、処分の行き詰まりが決定的となったのである。
3. 11・7討論要求の立場と正当性
本件起訴状記載の11月7日の事態は、上のような流れの中で起こったものである。もちろん、記載事実そのものは不当かつ歪曲されたものにほかならない。が、ここにおいて、11月7日の我々学生による今道学部長への討論要求が全く正当なものであったこともまたはっきりしている。
9・22火災を契機とする様々な弾圧、学友会諸活動への干渉・圧迫などは、10月の段階で一定程度挫折した。しかも、10月中旬よりの闘争キャンプ、下旬の今道執行部退陣要求署名の提起と短期間での署名の急増という中にあって、今道学部長は、その学生処分の狙いがうまく進まなくなったのみならず、自らの学部長としての適格性においても多大の疑義を突きつけられたのである。
追い詰められた今道学部長は、10月24日の管理者処分による政府-文部省の弾圧号令を受けて、さらに強権的な対応に出てきた。すなわち、失火デッチ上げキャンペーン、実名掲載などである。そして署名の急増に歩調を合わせて授業中に恫喝を行ったり、文学部祭の中止命令を出すなどし 、11月6日には「署名をするな」という文章を全学生に郵送するまでに至っていた。これら一切は、それ自体許されない不当なものであるとともに、学生との話し合いを全て拒否して行われた強権的なものであった 。
それに対し、学生の側から今道学部長に討論を要求し、学生処分の動きや文学部祭中止命令に抗議していくのは当然で、正当な行為であった。11月7日の討論要求はそのようなものであったし、当時追い詰められて窮地にあった今道学部長に対し、我々が暴行を加える理由は全くないのである。むしろ今道学部長の方においてこそ「暴行」事件を作り上げ自らの失地を回復するテコにしようとしたということこそ考えられうる状況であった。
事実、以上のキャンペーンでは足りぬとみたのであろう。11月7日の討論要求を「暴行」と捏造してのキャンペーンが11月8日から行われた。10月末にも「暴行事件」が あったとしたこの暴行キャンペーンを見るとき、10月末より暴行事件を作り上げて行こうとしていた今道学部長の意図が読み取れるのである。
ともあれ、先のデマキャンペーンに続くこの暴行キャンペーンによって学生を分断し、処分が出せる下地を作ろうとしていった今道学部長の意図は、11・22学生大会において処分粉砕・今道退陣の方針が可決され、学友会総体が今道学部長を弾劾する中で、完全に破綻したのである。 p55
第5節 学生処分策動の挫折
1、学内外からも巻き上がる処分反対の声
今道学部長が意図していた学生処分は、学内規則25条に基づくいわゆる「教育的処分」と言われるものであり、これは68~69年の東大闘争の経過の中で凍結するとされていたものである。 これを復活させようとする今道学部長の意図に対しては、従って、学内諸階層から反対の声が上がっていた。
11・22文学部学生大会において、万一処分が決定された場合にはそれに対して長期ストライキでの闘いで抗議するという提案が可決されたのを始めとし、 教授会内部にも処分は現行ではできないとする声が上がり始めた。12月6日には、全学の教官有志60余名の呼びかけにより、「学生処分復活反対全東大集会」 が広範な労働者・市民をも含めた出席で開かれ、折原浩助教授・高橋晄正講師らがそれぞれ10年前の東大闘争の経緯から説き起こし、「教育的処分」の不当性を明らかにしてゆき、全学の世論に大きな影響を与えていった。
12月6日には医学部の山村学部長が「百年祭糾弾全医学部実行委員会」との団交の場で、次のような確認を行っている。
1.本日の話し合いによれば、文学部長室座り込み、9月22日火災を口実にした学生処分には評議員として反対せざるを得ないし、事情聴取抜きにいかなる処分も行えないことを確認する。
2.医学部教授会、評議会は「教育的処分」を含めた一切の学生処分について現在凍結中であり、非常に難しい問題なので処分問題を検討するのは慎重にすべきである。
3.医学部教授会は自らに非のあったことを認め、1968年の17名処分を撤回したことを踏まえ、文教授会が慎重に対応すべきであると考える。 p56
さらに農学部評議員、応用微生物研究所所長、工学部評議員、教養学部評議員がそれぞれ処分に反対、ないしは問題点のあることを指摘するなど、全学の評議員の間にも今道学部長の「教育的処分」に対する意見の対立が表面化してきたのであった。
79年の1月18日には、東大における処分復活が、全国大学に対する更なる管理強化の水路を切り拓くものであり、全国大学の再編をいよいよ推し進めるものである、と捉えた全国20数大学、500名の学生を集めて、「1・18 東大闘争10年 大管法-処分攻撃粉砕 4・20通達粉砕 全国学生集会」が東大安田講堂前で開かれ、処分反対の声は全国に波及したのである。
こうして、処分反対の声の高まりの中、1月26日、文学部学生大会は「年内処分粉砕闘争の勝利を踏まえ、処分完全粉砕に向け闘おう!」という学友会委員会・団交実の提案が149対62で可決された。と同時に、この決議に基づいて銀杏並木に「処分粉砕監視追及ポイント」 を設置し、文教授会・学部長会議・評議会に対する連続抗議行動を継続した。
こうした一連の闘いの中で、文学部教授会の内部においても、学生処分をめぐっては深刻な対立が生ずるに至り、2月10日に文学部としての処分案決定に際しても、その旨の但し書きが添えられて総長に上申された。この処分案の上申を受けた総長も、前述のごとき諸評議員の発言に見られるような評議会内部での意見分裂をも考慮に入れ、文教授会の 上申案の但し書き(「10年間処分が行われてこなかった」)に依拠し、処分を断念するに至ったのである。
2、 12・26刑事事件化
自らの「美学」でもありまた政府・文部省の後押しをも受けて、「学生処分」に固執し続けていた今道学部長ではあるが、こうした学内外を通じての強い処分反対の声の前に、処分を強行し難い状況にあることをいやが上にも思い知らされる結果となった。しかしながら、その著作の中にも率直に心情を吐露しているように、大学に対する批判的言動を行う学生を憎悪してやまない今道学部長は、やはりその「美学」に従って、進んで告訴・告発を行って、学内問題を刑事事件化し、それをもって処分に代替させる方針へと踏み切ったのである。
本件被告人が逮捕され、拘留を続けられた容疑は一貫して「12月26日の暴行事件」だったのであるが、この刑事事件化こそ、今道学部長の姿勢をはっきり示すものである。
当日、文学部学友会はこの日予定されていた学部長会議に対して、処分反対の集会とデモンストレーションを準備していたのであるが、そこに現れた今道学部長に対して、処分の根拠を問いただし、話し合いに応じるようにと求めた。が、今道学部長は例によって、「馬鹿者め」とか「話す必要はない」とか繰り返すのみで、本部職員・警察官等に守られ救急車で逃亡したのである。
この12・26「事件」で逮捕・長期拘留された者を、1名も起訴し得なかったという事実、さらに、本件被告人においてはその現場にすらい合わせなかったという事実は、この12・26「事件」がひたすら今道学部長の 個人的憎悪に基づいて、処分に代わるものとして政治的弾圧の手段に用いられたことを明らかにしている。
そして12・26「事件」での起訴が不可能となるや、さらにその代替として持ち出されたのが本件なのである。
第3章 2・14弾圧―刑事事件化による攻撃 p59
第1節 文学部長室火災についての証人召喚
1978年12月末、本郷消防署は、9月22日の東京大学文学部長室の火災原因について、「火災原因は不明である」との原因判定書を提出した。これをもって、この火災事件に対する消防当局としての最終的決着がつけられたのである。
ところが、年が明けた1979年1月中旬、東京地方裁判所刑事14部は、火災発生当時文学部長室にいたとされていた学生に対し、「 被疑者不詳の文学部長室失火事件」について証人として喚問したいとの召喚状を送付した。刑事訴訟法226条に基づくこの証人召喚は、しかしながら、様々な問題をはらむものであった。
第一に、この現場に居合わせたとされる学生たちは、9月22日当日、現場から半ば強制的に本富士署に連行され、 その場で事情聴取に応じている。またその後の任意の取り調べにも応じており、従って刑訴法226条の適用自体が不当であること。
第二に、文学部長室火災直後からの新聞報道などではいずれも「学生の失火」を強く示唆する報道がなされ、閣議においても「失火学生」という発言がなされるなど、火災現場に居合わせた学生らに対しては事実上被疑者との扱いがされてきていた。そうした学生らに対して、借りに被疑者であるならば本来保証されるべき正当な防御権をも剥奪して行われる密室での証人尋問には、重大な人権侵害の恐れがある
。
第三に、火災発生後すでに4ヶ月を経、また消防署が「原因不明」と結論を出した後の時点でのこの証人召喚には、政治的意図が極めて濃厚に伺われるということである。すなわち学内において9月22日の文学部長室火災を口実とした学生処分が挫折せんとしている状況の中で、再度、この火災事件を刑事事件として取り上げて行こうとする意図のあらわれである 。 p60
こうした問題点をはらむこの証人召喚に対して、証人とされた学生らは「新たな失火デッチ上げを目論むもの」として出頭を拒否し、また弁護士十数名の連署による反対意見書も提出された。さらに東京大学教養学部の助教授折原浩氏はこの証人召喚がdue process に欠けるという意見書発表し、これに賛同する東大教官9名の署名を添えて東京地裁刑事14部に提出した。この他、文学部学友会、農学部学生自治会、医学部自治会の各委員長名で 、この証人召喚は今道文教授会執行部の学生処分策動に加担するものであるとの抗議文、1・18全国学生集会での抗議決議、1・26文学部学生大会における決議など、抗議の声が相次いで上がっていった。
2月17日には農・文・ 医3学部自治会 、東大教官有志、40数名の弁護士の呼びかけにより、「司法のファッショ化を許すな―労学市民集会」が開かれ、法学者、弁護士、救援団体などからの意見表明がなされていった。この中で、参加した200名を超える労働者・学生・市民は、この証人召喚が刑事訴訟法上も不当な捜査に濫用されやすい不備な規定であり 、「被疑者」、「参考人」を恣意的に使い分けて今回のような人権侵害を行うものであること、これは戦前の予審制度の復活、弁護人抜き裁判の実質化につながるものであることを確認して行った。そしてこうした危険な動きに対しては、広範な声を結集して大衆的に抗議する必要のあることを全体で確認していったのである。
こうした市民を含む各階層の抗議の声の前に、この証人召喚は結局実現することなく終わったのである。
第2節 2・14弾圧
こうして証人召喚ができなくなる中で、第2章第3節で述べたように政府・文部省の国会答弁を通じての学生処分要請が行われたのが1月末から2月初頭にかけてであった。これを承ける形で、2月7日文学部教授会の定例教授会が開かれ、さらに3日後の2月10日には霞ヶ関ビル33階で臨時教授会が行われた。いずれも学生の学年末試験の最中に開催されたもので、10日の臨時教授会では処分案が決定した。同時にこの時期、今道学部長より被害届が出されたことが第2回公判の証人今道の証言で明らかになっている。 p61
この処分案決定に対して、2月13日、従来より処分対象者とされていた学生3名がハンガー・ストライキに入った。同時に団交実およびそれを支援する全学の学生によって、9・22火災以降午後7時にロックアウトされていた文学部学生ホールを24時間使い切り、3名のハンストを防衛する闘いが行われた。ところがこの闘いに対して2月14日学内に警察力が導入され、3名の学生が逮捕されたのである。そして同時に学生ホールは24時間完全ロックアウトされ現在に至るも閉鎖され続けている。(以下このことを2・14弾圧と言う。)
1. 闘争の正当性
2・14弾圧の後、今道学部長は、警察力導入の理由について「① ハンガーストライキを2日間も放置するのは人道問題 ②大学の秩序を乱す行為には何らかの措置が必要」などと述べている(書証第9号、東大新聞3月9日号)。
しかしハンストは「大学に学生を裁く、闘争を裁く権利はない」として学生処分案決定に対する抗議として行われたのであり、話し合いを一切拒んできた教授会に対するギリギリの意志表示であった。今道学部長はむしろハンストに何らかの形で答えていくべき立場にあったのであり、まして警察力を学内に導入してハンスト中の学生たちを逮捕させていくことが「人道的」とは到底言えないのである。
また、文・学生ホールは従来学生が24時間自由に使用していたが、9・22火災以降何の説明も交渉もないままに教授会の手によって午後7時に閉められるようになっていた。文学部学友会は11月22日、1月26日の学生大会でいずれも学生ホール7時ロックアウトに抗議し、学生の自主的管理を取り戻そうという趣旨の決議を上げている。この文学部学生の意志に基づき、団交実は学生ホールを使い切っていく闘いに入ったのである。
そもそも学生ホールの24時間使用は、従来慣例として認められていたことであり、教授会が何らの説明も話し合いも行わず突然その慣例を反故にしてきた時に、学生が抗議して居残ることは正当かつ無理からぬことである。にもかかわらず今道学部長は、警察力導入を教授会の決定によることなく向坊総長に要請し、後には学生が一方的に悪いかの如く発言しているのである。 p62
2、 警察力導入前後の事実関係
2月13日夕刻、今道文学部長は向坊総長に警察力導入を要請した。これを 向坊総長は受理、大場学生部長が本富士署に赴き警察力導入を依頼するが、本富士署は「準備が整っていない」として受け入れなかった。同日午後7時以降、文学部当局が本部ゲバルト職員40~50名を動員して二度にわたり文・学生ホールにいる学生に退去勧告を行ったが、学生は24時間使用をやりきったのである。
翌14日も学生のハンスト及び文・学生ホール解放の戦いは続けられた。夜に入って午後7時と同9時の2回、本部ゲバルト職員らと共に、教授会の代表が文・ホールに近寄り「警告文」を読み上げた。
同10時少し前、今道学部長、本部ゲバルト職員、私服警官らが文ホールを取り囲み、今道楽部長が「警告文」を読み上げた。その時、文・ホールの外を通りかかった学生が1名逮捕された。文ホールの中にいた学生たちは外に出て抗議のデモンストレーションを行い学外に退出しようとした。ところが私服警官約50名が突如としてデモ隊列を止め、20~30分にわたって拘束した。そのうちに機動隊約100名が到着し、学生を包囲した。
その最中、もう一人の学生が逮捕された。続いて機動隊は学生を一人一人デモ隊列から引きずり出し、小突き回しながら盾で作った細い通路でいちいち顔写真を取り確認して行った。 その間に本件被告である3人目の学生が逮捕された。学生の逮捕に際して、指差して「アイツだ」と警官に教え人物を特定する協力をしたのは本部職員である。p63
2月15日出された談話で向坊総長は、警察力導入の根拠として大学構内からの午後10時退出規定を上げ、「----法的手段に訴えて、(学生を) 排除する措置を取った----」と述べている。しかし、前述のごとく外に出ようとしていた学生たちを止めたのは警官であり、この警察力導入は単に学生を排除するという以上の意図、すなわち学生を逮捕し起訴させていくという意図を持ったものであった。現に逮捕状はこの2月14日当日発行されている。そしてこの逮捕状は2月初旬の今道学部長の被害届提出に基づいて出されたものである。逮捕に向けての布石が十分に打たれた上での警察力導入であったことは、そこにおいても明らかである。
更に10時退出規定なるものも事実上空文化している規定で、学生が実験や自主的活動などで10時を過ぎても学内にいるのは日常的なことであり、この日に限っていわば口実としてこの規定が持ち出されたのである。 処分が難しいと見た学内当局、中でも今道学部長は、何とかして学生を押さえつけようと政治弾圧を画策し、排除の名目で警察力を導入したのである。
第3節 逮捕及び起訴の不当性
このような不当な2.14弾圧の中で、学生3名が逮捕された。しかもその被疑事実は12月26日に今道学部長に対し暴力行為を行ったというものであった。この逮捕は、前節にも述べたような大学内における処分粉砕・文ホール解放闘争への警察力導入による攻撃という不当な弾圧の中でなされたものであるとともに、逮捕自体も不当かつ政治的なものであった。
第一に、被疑事実である12月26日の暴行事件は、今道学部長の 恣意的被害届に基づくものである。12月26日の事態は、これまで述べてきたような学生処分反対の声、すなわち文学部学友会の処分粉砕・今道学部長ら文学部教授会執行部の退陣要求決議とそれに基づく団交要求及びストライキ闘争、他学部学生、教官の処分反対声明、医学部長の処分反対確認書 等々 の声にもかかわらず、今道学部長は何らの話し合いをも行わず処分強行に向けて画策し続けているという中で、文学部学友会が今道学部長に対し討論を要求したものである。
その要求行動に対しても、今道学部長は何ら話し合おうともせず、本部ゲバルト職員などを動員して討論を要求する学生を暴力的に排除した、というのが12月26日の真相である。事実、今道学部長はわざわざ救急車を呼び出すことまでしておきながら、なかなか救急車に乗ろうとせず、他のものと話をするなど、意気軒昂な様子であったことは多くの者が目撃している。逆に、この事態のすぐ後に、本部ゲバルト職員が一学生の手を故意にドアに挟んで指に裂傷を負わせ、その職員の上司小林広報課長が陳謝しているのである。これらのことを見るとき、この暴行事件はデッチ上げ以外の何ものでもないことがわかるのである。
第二に、逮捕者3名のうち篠田重晃は当時文学部学友会委員長であり、須藤自由児は文学部学友会に連帯して戦っていた人文系大学院生の中で、リーダー的位置にあって活躍していた。そして被告人である三好伸清は、9・22火災現場に居たとされ、かつ逮捕当時ハンガー・ストライキを行っていた 者であった。これは逮捕の目的が、12月26日の被疑事実を調べる、というものではなく、主要には9・22火災について調べる、証人召喚でできなかった穴を埋め合わせるものとしてあり、また文学部における闘争をになっている闘争体の規模や内情を探ろうというものとしてあったことを示している。
取り調べにおいて、委員長に対しては1月18日の全国集会について執拗に問いただし、被告人に対して9・22火災について尋問してきたことを見ても、それらの逮捕の目的が明らかである。
第三に、被告人は12月26日当日現場に居なかった。この一事をもってしても、この逮捕が完全にデッチ上げによる逮捕、デタラメな被害届に基づく違法な逮捕であることは明らかである。
以上のことから、この逮捕自体が不当かつ政治的なものであることは明らかといえよう。
この2・14弾圧に対しても広範な弾劾の声が起こった。前述の2月17日「司法のファッショ化を許すな―労学市民集会」 に集まった200名を超す参加者は糾弾決議を上げ、2月23日には文学部臨時学生大会が開かれた。春休みという困難な状況にもかかわらず、200名を超える多くの学生が結集して大会の成立を勝ち取り、逮捕者の即時釈放と4月1日から20日までのストライキが決定された。また3月2日の勾留理由開示公判には多くの学生が結集し 、同時に東大学内において逮捕を糾弾する集会が行われた。
逮捕自体が違法なものであり、またこのような反撃の闘いの高揚に直面して、12・26暴行容疑による起訴はできえなくなった。こうして、2名は釈放されたのであるが、被告人に対して、今度は11月7日傷害事件の容疑で起訴が行われたのである。
この11・7傷害事件による起訴もまた、 逮捕にかわらぬ不当かつ政治的なものである。
第一に、 逮捕の狙いに明らかなように、12・26暴行事件そのものがでっち上げであった。しかるにその容疑で起訴できぬと見るや、逮捕状も出さずになされたこの起訴は控訴権の濫用にほかならない 。
そこから第二に、この起訴が政治的なものであることが明らかになる。すでに述べたように、証人召喚が挫折する中で、今道学部長の被害届が出され、2月14日当日逮捕状が作られた。すなわち逮捕起訴による刑事事件化によって、文学部における闘争の圧殺、闘争体つぶしを狙う攻撃が行われたのである。しかしながらそれは12・26暴行容疑によっては到底起訴できなくなる中で、何とかして起訴まで持ち込むために持ち出されたものである。刑事事件化するための起訴なのである。
第三に、この11月7日の事態は、今道楽部長によってデッチ上げられた傷害事件である。第2章第4節で述べたように、当時、学部長の退陣が要求される前代未聞の状況にまで追い詰められ、恫喝とも言えるさまざまの言辞や掲示を出し、 11月6日付文書で団交実などに対し中傷キャンペーンを行っていた今道学部長は、さらに暴行キャンペーンによって自らの失地を回復し、学生の分断を図ろうとしたのである。そのために作り上げられたとも言うべきなのがこの11・7傷害事件であり、それが11月22日の学生大会において何らの説得力をも持たず、逆に自らの退陣を要求する決議が可決される中で、11月30日、今道学部長は診断書の作成を要請したのである。 そして、起訴状記載の被告人が傷害を負わせた事実はないのである。
これまで見てきたように9・22火災直後から、火災原因を究明しようともせぬ形で推し進められた学生処分攻撃は、文学部学生を先頭とする全学の学生・労働者・全国の学生の反撃によって挫折した。その後行われた証人召喚攻撃も頓挫した。そのような中で、今道学部長は被害届を提出している。第2回公判の証人今道の証言によれば提出時期は2月初旬である。その被害届が12月26日のものか、11月7日のものかははっきりしていないが、その被害届に基づいて今回の逮捕‐起訴が行われたことは間違いない。
2月10日に文学部教授会が処分案の上申を決定しているが、後日明らかになった処分案の内容を見ても「大学(学部)における自由な研究・教育の場の秩序----の破壊・阻害----の要因を作った」(書証第4号)というもので、処分に反対してきた全学の声を少しも説得できる内容ではなく、処分のための処分案でしかなかった。それで処分をやれないということを承知の上で出された案であり、それを踏まえて、ほぼ同時期に刑事事件化への布石が打たれたのである。これは、処分が不可能となる中で、処分に替わるものとして、今回の逮捕・起訴が行われたことを示している。
このような弾圧がなされた背景には、1月末より2月初旬にかけて政府・文部省の繰り返し行った弾圧号令がある。 昨年来、東大「正常化」に向けておびただしいキャンペーンがはられ、9月26日砂田文相指令にあるように、9・22火災を契機とする文学部への弾圧号令は激しいものであった。それに呼応して今道楽部長は処分を行おうとしてきた。そして処分が難しくなるや、再び政府・文部省の叱咤に呼応して 、国家権力の暴力装置である警察・機動隊の導入、逮捕-起訴による刑事事件化攻撃をかけてきたのである。
これらの動きは、1978年1月より続けられてきた政府-自民党による東大の「正常化」すなわちあらゆる闘争の封じ込めと圧殺を狙う攻撃の一環であり、全国大学の移転再編・管理強化を目指して百年記念事業-百億円募金をテコとする東大再編に援護射撃を行うものであった。今道学部長は、そのような政府-自民党の攻撃の最前線で文学部の闘争への弾圧を推進したのである。学生との話し合いを一切拒否し、むしろ政府-文部省との連携プレーのみを行ってきた今道学部長の弾圧、それが今回の逮捕-起訴攻撃なのである。 p67
第4節 3・27総長声明
以上で明らかなように、処分が無理となる中で、今道学部長による刑事事件化攻撃がなされてきた。そのことを認めざるを得なかったのが、3月27日出された総長(及び評議会)の決定、 同時に発表された総長見解と 総長声明である(書証第4号)。
大学当局者内においても反対の声が強かった処分を、結局断念することを公にしたものであり、それゆえ混乱に満ちた声明となっている。
しかしながら、その声明は今道文学部長の様々な弾圧を追認するものとしてあり、2・14弾圧もまた追認するものである。そして新たな処分制度を目論むなど、管理強化へと進む方向性を打ち出したものである。今道学部長の文学部闘争への中傷をそのまま採用したその声明は、この間の闘争を捏造・歪曲するものに他ならず、撤回されるべき内容でしかない。
とはいえ、この声明は処分断念を公にすることによって今回の逮捕‐起訴が処分に替わるものとしての刑事事件化であったことを逆証する声明となっているのである。
第4章 本件公訴事実の不存在 〔目次では「本件訴訟事実」〕 p69
第1節 暴行の事実の不存在 p69
1.本件当日の午前10時10分頃、今道文学部長は乗用車にて本件現場に到着した。その際同人の車は、北の方(法学部のある銀杏並木の方)から入ってきたのであり、同人の証言にあるような南の方(総合図書館のある方)からきたものではない。
この乗用車の運転手は植木 政一であり、車を玄関前に停止させてから、運転席より降りて左側後部ドアを開けて今道文学部長を 降ろしたものであり、それ以降同人のそばについて本件を終始目撃していたのである。
2.闘争キャンプの方からは、被告人、森田暁、佐藤寿一の順序にて右3名が今道文学部長のもとへ駆けつけてきたものであり、当日は、同人の証言に出た鈴木宏昌は終始現場には現れていないのである。
被告人及び森田が今道文学部長の前に立ちふさがったところ、同人はいつものように学生を挑発するように、肩や腕で学生らを強く押して前進し、ついには被告人を玄関のドアに押し付けるようにしたので、学生3名と今道文学部長は体が接触し、押し合いのような状態となった。
このような経過の中でも、学生らは学部祭の中止、あるいは学生処分等の問題について論理的に今道文学部長に問い正していたのである。
右のような状況の中で事務職員数名(柏原事務長補長、木村登等)が同人を迎えに玄関前まで出てきており、前記植木政一とともに玄関前にて、学生たち3名に手をかけ、学生らを押したり引いたりして今道文学部長より強引に引き離した。
それゆえ、今道文学部長は容易に玄関から中のホールに入ってしまったのである。
3.これに続いて学生3名、事務職員も右ホールに入って若干入り乱れる如く、あるいは団子状態になるような形になった。この時には、さに事務職員が加わり事務職員数名(中村健事務長、柏原宗太郎事務長補佐、松原幸子、木村登、植木政一等)がホールの中にて、学生等の身体に手をかけ、今道文学部長の逃走を容易にしようとしていたのである。
その直後、被告人の身体が今道文学部長の身体に接触しそうになった瞬間を同人はすかさず捉え、「貴様殴ったな」と言った。もちろん、被告人が手拳で今道文学部長を殴打した事実は全くない。
これに対し、学生たちは直ちに口々に「デッチ上げするな」、「ウソをつくな」と抗議したのである。この時学生たち、事務職員は、狭いホールにすべていたにもかかわらず、誰一人として被告人が暴行をしたのを目撃していないのであり、このことはまさに起訴状記載の公訴事実が完全なるデッチ上げであることを明瞭に示しているのである。
結局、事務員が今道文学部長と学生たちの間に入り、両者を引き離し、今道文学部長は奥の方へ進み、二階へと向かっていった。その時、同人は冷静な論争をしてくる学生たちにまともな応答を何一つできない悔しさから、いつものように「馬鹿者」、「愚か者」と大声で学生らに罵声を浴びせながら、階段を上り学生らを見下すようにして去っていったのである。
第2節 傷害の事実の不存在
1、今道文学部長は、右事件の事実をデッチ上げるため、何らかの被害についての診断書を入手することが必要であると考え、翌日から数回にわたり東京大学保健センターに通うこととなった。
しかしながら、右暴行がデッチ上げであったため、外形的客観的外傷は全くと言っていいほど存在せず、個人の主訴によってしか医師は診断し得なかったのであり、それゆえ、カルテにおける診断内容の記載は極めて主観的なものに止まった。ごく一部の客観的記載も暴行との因果関係を全く推論し得るものではなく、その部位すら特定しえない程のあいまいなものである。
2、また同人は以前より心臓病の持病を有しており、絶えず不整脈に伴う胸部への強い圧迫感を持っていた。それゆえ、同人が「胸が痛む」、「気分が悪い」、「吐き気がする」等と医者に言ったことが、心臓病によるものか、暴行によるものか、はたまた心労に伴う食欲不振によるものか分からず、医師は心臓病の薬(インデラール)、消化剤(フェストール)、貼ると気分のすっきりする湿布薬(パテックス、ヘルペックス)を次々に出すこととなった。
3、さらに11月10日、今道文学部長はなんでもいいから診断書を欲しいと申し出たところ、医者の方は症状のはっきりしている心臓病についてのみ記載した診断書を交付することとなったのである。
また同人の胸の痛みは常に胸全体に関するものであるため、医師も今道文学部長の訴える痛みの部位がどこであるかを特定できなかったが、今道文学部長の診断書への執着が強かったため、ようやく、11月30日になって初めて障害の部位を何とか特定して、診断書を作成するということとなった。全治約1ヶ月の傷害という診断書の記載も本人の訴えだけで記載されたものであり、全く客観的根拠に基づくものではないのである。
第5章 本件逮捕及び起訴の不当性 p75
1、本件捜査の経過
本件捜査の経過は次のとおりである。
1.昭和54年2月14日
東京大学構内に機動隊約100名、私服警官約100名が出動し、被告人他2名(篠田重晃、須藤自由児)を逮捕、被疑事実はいずれも同53年12月26日のトラブルについての暴力行為等処罰ニ関スル法律第1条違反(以下「12・26事件」という)、逮捕の際の首実検等の状況から右3名以外のものについての逮捕状も多数発布されていた模様
2.同月17日
勾留請求、勾留状発布、被疑事実は12・26事件
3.同月21日
被告人に対する弁護人接見を検察官が拒否、右接見拒否処分に対する準抗告申立
4.同月 22日
裁判所の斡旋により弁護人接見実現、警察官による東大構内検証、被疑事実は本件及び12・26事件
5.同月23日
勾留決定に対し交流の濫用を理由とする準抗告申立、右準抗告棄却決定
6.同月24日
本件についての今道友信の検面調書作成
7.同月26日
勾留延長決定
8.同月27日
12・26事件目撃者大津康子方に対する捜索、ビラ3枚、12・26事件及び本件と全く関係のない集会参加者名簿1点差押、被疑事実は12・26事件、右集会参加者名簿は後に還付請求し、検察官より還付される。
9.同年3月2日
勾留理由開示公判、弁護人の求釈明に対し勾留裁判官は12・26事件は現場共謀によるものである旨釈明、弁護人は、被告人らが12・26事件の現場におらず右事件とは全く無関係であることを指摘する
。
10.同月5日
被告人に対する警察官の取り調べに際して、供述調書(黙秘調書)、表題部に初めて本件(傷害被疑事件)の記載が加わる。
11.同月8日
被告人について求令状により本件起訴、他の2名釈放
なお、被告人は逮捕当初から取り調べに対し一貫して黙秘していたが、捜査官の取り調べは、文学部長室火災事件及び反対運動の主要メンバーを聞き出すことに終始し、本件についての取り調べはほとんどなかったものである。
2、本件逮捕、勾留の違法性
1.嫌疑の不存在
(1)被告人の逮捕、勾留の被疑事実は、一貫して12・26事件であり、現場共謀による暴力行為等処罰ニ関スル法律第1条違反、いわゆる集団暴行である。 しかし、現場共謀であれば、嫌疑をかけられる対象は最低限、事件現場にいた人間でなければならない。しかるに被告人は終始事件現場にはいなかった者である。従って本件逮捕、勾留は嫌疑なき逮捕であり、拘留であった。
(2)本件においては、嫌疑の不存在は、事後において初めて判明可能となったのではない。捜査段階においても捜査が慎重に行われてさえいれば当然判明可能であったはずのものである。
12・26事件のような集団事案では、被疑者の特定は慎重でなくてはならない。現行犯逮捕ではなく事件発生後1ヶ月半以上経過した時点で行われた事後逮捕である本件逮捕においてはなおさらそうでなくてはならない。しかるに捜査当局は、被告人も事件現場にいた旨の今道文学部長の供述のみを拠り所として被告人を逮捕勾留したのである。 しかし同学部長は紛争の対立当事者であり、かつ、従来から学生の自治活動に対し 偏向した見解を有しており、被告人ら反対運動を行っている学生に対し極端な悪感情を抱いていた人物である。このことは捜査当局には捜査当初から明らかだったはずである。逮捕、勾留の場合の嫌疑には、起訴に必要とされる程度の嫌疑の確かさは要求されないとしても、言わば喧嘩の相手方の言い分のみを根拠にしての安易な逮捕、勾留が許されようはずがない。本件の場合、捜査当局としては、かかる偏向した立場にある今道文学部長の言い分 を鵜呑みにすることなく、然るべき裏付け捜査により、同学部長の言い分に合理性があることの確証を得た上で逮捕、勾留に踏み切るべきであった。そしてこうした裏付け捜査さえ行っていれば、被告人が事件現場にいなかったことは容易に判明しえたはずであり、被告人に逮捕、勾留の理由がないことは明らかとなったはずである。
(3)しかし捜査当局は、これを行わなかった。その理由は二つ考えられる。その第一は裏付け捜査をするのをついうっかり忘れていたという場合である。しかしこれは善意の解釈である。その第二は、捜査当局には当初から被告人に嫌疑がないことは判っていた、あるいは、嫌疑の有無などどうでもよかった、今道文学部長の供述により一応の嫌疑らしきものの外観が作出されていたのだから、これを利用してとにかく被告人を逮捕、勾留するのが目的であったという場合である。
前者の場合、捜査当局には少なくとも捜査上の重大な落ち度があり、かかるずさんな捜査に基づきなされた逮捕、勾留は違法である。また後者の逮捕、勾留が違法であることは言うまでもない。
(4)3月2日の勾留理由開示公判において弁護人は被告人が12・26事件の現場にはいなかったことを明確に指摘した。したがって少なくともこの時以降捜査当局には嫌疑の有無につき疑いを抱く契機を与えられていたのであり、早急に裏付け捜査を行い、嫌疑のないことが判明し次第被告人を直ちに釈放すべき義務があった。しかし捜査当局はかかる義務に違背し漫然被告人の勾留を継続した。この点においても本件勾留は違法である。
2.余罪捜査の範囲の逸脱
(1)本件逮捕、勾留を利用しての被告人の取り調べは専ら文学部長室火災事件、反対運動のメンバーの割り出しに集中した。このことは、捜査当局が実は文学部長室火災事件の捜査のために、もともと起訴できないような12・26事件を利用して被告人を逮捕、勾留したことを裏付けるものである。
(2)余罪捜査は、逮捕、勾留の被疑事実と余罪とが同種同罪の時、科刑上一罪の関係にあるとき、余罪の方が軽微な時、両者が密接な関連性を持つときに限り許される。これ以外には強制処分における事件単位の原則から、他事件取り調べのための逮捕、勾留の流用は許されない。
ところで逮捕、勾留の被疑事実と文学部長室火災事件を比較すると、一方は暴力行為等処罰ニ関スル法律違反であり、他方は失火もしくは重過失失火であって、法定刑は逮捕、勾留の被疑事実の方が重い。しかし、余罪捜査の許容範囲を画する場合の事件の軽重とは、法定刑の軽重のみで形式的に決められるものではなく、実質的、社会的観点からもみた軽重も当然考慮されなければならないものである。そうするとマスコミによって大きく報道され世間の耳目を集めかつ国会や閣議でもその責任追及が論議された文学部長室火災事件の方がはるかに重大な事件であり、捜査当局の狙いも右火災事件立件化にあったということができる。したがって本件捜査においては、嫌疑が不確かで軽い12・26事件による逮捕、勾留を利用して右事件とは異質で何等関連性がなく、より重い文学部長室火災事件の捜査が行われたのである。右のような捜査は余罪捜査の許容範囲を大きく逸脱するものであり、令状主義を潜脱する違法な別件逮捕、別件勾留の典型である。
(3)本件勾留の後期に至り、文学部長室火災事件についても逮捕、勾留の被疑事実である12・26事件についても、被告人に嫌疑がなく従ってこれらについては起訴できないことを知った捜査当局は、是が非でも被告人を起訴に持ち込むべく、急ぎ当初は立件を予定していなかった本件(11・7事件)の捜査に切り替えた。しかし11・7事件と12・6事件は罪質が異なり、何ら関係性もなく、両者を比較すれば本件の方が重い事件である。従って12・26事件による勾留を利用しての、11・7事件捜査もまた勾留の流用に他ならず余罪捜査の許容範囲を逸脱する違法なものと言わざるを得ない。遅くとも12・26事件による起訴を断念し、11・7事件の捜査に切り替えた時点で勾留の理由は消滅したのであるから、捜査当局は直ちに被告人を釈放すべき義務があったのである。
3.捜査当局の不法な意図
以上述べた本件捜査の経過を通観すれば、結局捜査当局は、当初から他事件の捜査に流用することを予定し、あわせて学生の反対運動を弾圧することを企図して12・26事件による逮捕、勾留を行ったと断ぜざるを得ない。すなわち捜査当局は、第一に、被告人等運動の中心メンバーを逮捕、勾留し、長期間運動から引き離すことによって反対運動を鎮静することを意図したのである。そこにおいては逮捕、勾留の嫌疑の有無は二次的な問題であり、要は逮捕、勾留の理由の一応の外観を作り出すことにより1日でも長く被告人等の身柄を拘束することにあったのである。そしてそのためには、中心メンバー多数の逮捕、勾留が可能となる12・26事件を利用するのが捜査当局にとっては好都合であった。
第二に彼らが意図したのは、かかる逮捕、勾留を利用しての文学部長室火災事件の立件である。右火災の原因については消防署の調査によっても結局明らかとならず、また学生に右火災の責任を負わせる端緒を得ることを狙いとして行なった刑事訴訟法第226条による証人喚問においても初期の目的を達することができなかったので、捜査当局は右火災事件によっては学生を逮捕することは困難であった。そこで12・26事件により被告人らをとりあえず逮捕し、この機会を利用して右火災事件についての被告人等の供述を得ようとしたのである。
このように本件逮捕、勾留は結局、運動弾圧と令状主義潜脱を当初から意図して行われたものに他ならず、この点においても明らかに違法と言うべきである。
3、本件起訴の違法性
1.嫌疑なき起訴
(1)検察官は、今道文学部長の被告人に殴打された旨の記載のある供述調書と医師のカルテのみを基礎として本件起訴に踏み切ったものである。本件殴打行為を目撃したものは存在せず、従って当然にこうした目撃者の調書など一切存在しなかった。ところで今道文学部長は紛争の一方当事者であり、その供述を安易に鵜呑みにすることは許されない。しかも右のカルテも既に述べたように専ら同学部長の主訴に基づくものであり、果たしてどれほどの証拠価値があるものか疑わしいものである。従って右の二つの資料だけでは基礎に必要とされる程度の嫌疑の裏付けとしては到底不十分であると言わなければならない。
(2)ここで特に注意を喚起しておきたいのは、本件捜査の経過からも今道文学部長の本件供述には信を置くことはできないということである。
すなわち被告人逮捕のための資料に今道文学部長の12・26事件についての供述調書が用いられ、その中で同学部長は右事件現場に被告人がいた旨の供述をしていることは疑いを容れない。しかるに検察官は右事件ではついに被告人を起訴できなかった。このことは被告人が実際には右事件現場にはおらず、今道文学部長の供述が虚偽であったことを検察官においても認めざるを得なかったことを示すものである。
このように同学部長は12・26事件についても実際には現場に居なかった被告人が居たとする虚偽の供述をしているのである。このような人物が本件についても虚偽の供述をする可能性は十分に考えられるのであり、同学部長の本件供述についてもまず疑ってかかるのが筋である。しかも殴打行為の目撃者が全く存在しないということも今道供述の信用性に対する疑念を強めるものである。
(3)しかるに検察官は右のような信用性に大いに疑問のある今道文学部長の供述と証拠価値の薄弱なカルテのみに基づき被告人を起訴した。かような起訴は起訴できるだけの嫌疑がないのにあえて行われた違法な起訴と言うべきである。
2.不法な目的による起訴
右のように嫌疑薄弱な起訴を検察官があえて行ったことは、検察官において被告人をどうしても起訴しなければならない事情があったことを推測させるのに十分である。その事情とは第一に、政府-自民党及び今道執行部の意に迎合して反対運動弾圧のために被告人を起訴することが必要であったということであり、第二に、当初予定した文学部長室火災事件では到底被告人を起訴できず、またもちろん、逮捕、勾留の理由である12・26事件でも起訴できない状況に追い込まれた捜査当局の面子を繕うため、どうしても何らかの事件で被告人を起訴しなければならなかったということである。本件起訴はいわば身代わり起訴と言うべきであり、右のような不法な目的に基づく訴追裁量権を 濫用した違法な起訴である。
3.違法な逮捕、勾留に基づく起訴
本件逮捕、勾留が違法であることは既に述べた通りであり、かかる違法な手続きを前提としてなされた本件起訴は検察官に課せられた適正手続尊重義務に真向から反するものである。この点においても本件起訴は違法というべきである。
書証目録
1、「文学部長室座り込み闘争を貫徹し、企業募金阻止へ向けて共に闘おう」(文学部学生・院生有志パンフレット)より 資料Ⅳ(Ⅱ-15頁)
2、「ふたたび文学部学生諸君へ」 9月29日 文学部長 今道友信
3、「9・22文学部長室火災をめぐる第一次調査報告」1978年10月26日 文学部学友会常任委員会
4、「学内広報特別号」第440号 1979年3月27日 東京大学広報委員会
5、「文学部における昨今の一連の事態について」昭和53年4月3日 文学部長 今道友信
6、 「文学部学生諸君へ」1978年9月22日 文学部長 今道友信
7、「東京大学新聞」1978年10月9日
8、「三たび文学部学生諸君へ」昭和53年11月6日 文学部長 今道友信
9、「東京大学新聞」1979年3月9日