第三部:幸福、エピクーロスの哲学、スポーツ、遊び、釣りについて

An Essay concerning happiness,Epicureanism,sport,playing & fishing


第三部 目次

第1章 エピクーロスの「快楽=幸福」説について
第2章スポーツについて
第3章遊びについて
第4章 釣りについて、釣りの快楽について
第5章 釣りの回想の快楽、釣りについて書くことの快楽―永遠の幸福へ

全体の目次

序 文

epigraph

「わたしだって、できることならものごとについて、より完璧に理解したいと思いはするものの、すごく高い代価を支払ってまで買うつもりはない。私の腹づも りは、この残りの人生を、気持ちよくすごすことにほかならず、苦労してすごすことではない。そのためならば、さんざん脳みそをしぼってかまわないようなも のなど、もはやなにもないのだ。学問にしても同じで、どんなに価値があっても、そのためにあくせく苦労するのはごめんこうむりたい。私が書物にたいして求 めるのは、いわば、まともな暇つぶし(アミュズマン)によって、自分に喜びを与えたいからにほかならない。勉強するにしても、それは、自己認識を扱う学 問を、つまりは、りっぱに生きて、りっぱに死ぬことを教えてくれる学問を求めてのことなのだ。」
「わたしはなにごとに関しても、私見を自由に述べることにしたい。そんなことをすれば、わたしの能力を超えるかもしれないけれど、まったく管轄外のことが らについても、そうさせてもらう。わたしの意見とは、ものごとの寸法ではなしに、わたしの眼力の寸法を明らかにするためのものなのだ。」
ミシェル・ド・モンテーニュ/宮下志朗訳『エセー3』(白水社、2010)第二巻第10章「書物について」

「以下は、わたしの学識ではなく、わたしが勉強したことにすぎない。他人のための授業ではなく、自分のための授業なのだ。」
「わたしの仕事ならびに技術は、生きることだ。で、そのわたしの考え方、経験、習慣にもとづいて、生きることについて語るということを禁ずるというなら ば、建築家に、自分によらず、隣人によって、建物を語れと命じてみるがいいのだ。つまり、自分の知識でなく、他人の知識によって語れと命ずるがいい。」
同第6章「実地に学ぶことについて」 (写真はWikipediaによる)





釣り好きの作家でジャーナリストでもあった開高健の釣り旅行記『オーパ』(1977年)の冒頭には、次のような中国の古諺(コゲン)が掲げられている。

1時間幸せになりたかったら、酒を飲みなさい。
3日間幸せになりたかったら、結婚しなさい。
8日間幸せになりたかったら、豚を殺して食べなさい。
永遠に幸せになりたかったら、釣りを覚えなさい。

釣りは非常に楽しい。釣りをしているときに人は最高に幸福な時間を過ごしている。これはほとんどすべての釣り好きの人に当てはまるだろうと思う。そして釣 りは永遠に、つまり体を動かすことが無理になり、釣りが出来なくなってからでも、死ぬまで人を幸せにしてくれるというのは本当だと思う。
(右は「直筆原稿版 オーパ!」写真はアマゾンHPから。)

わたしは30代にイシダイを狙う磯釣りを始めた。仕事が忙しくほとんど釣りに行けなかった時期もあるが、60歳で退職し、漁村に移り住んで船釣りを始め た。およそ10年間好きなだけ釣りをすることができた。私は、釣りによって、これまでの人生を楽しく幸福なものにすることができたと強く感じるし、その「感じ」は今後も続くだろうと思う。

そして、私は、この楽しさをただ「感じている」、あるいは「味わっている」だけにとどめず、上の中国の古い諺にある「釣りによって永遠の幸せを得ることができる」というテーゼを論証したくなった。 「釣りってどこが楽しいの?」とたずねる人はいるかもしれないが、釣りの楽しさを「論証」する必要があると思う人はあるまい。

釣りはなぜ楽しく、どうして快楽と幸福を与えることができるのかを説明するということは、結局、釣りをしているときに、各自が感じる楽しさを説明することであり、自分がもっとも楽しいと感じたときの経験を語るということになると思われる。

だが、私は、実際に釣りをしているとき、あるいは釣りをして暮らしている時期に、楽しく幸福だというだけでなく、何年かの間、釣りを十分に楽しむことができれば、その後、体がきかなくなって釣りができなくなっても、過去の釣りを思い出すことによって、死ぬまで楽しい時間を持つことができるだろうと考えるようになった。

釣りは、釣りをしている現在、楽しいのだが、釣りができなくなってからでも、釣りができないことを悔しく思わず、楽しく心安らかに回想できる理由を私は発見したと思う。

釣りは、同じように快楽、喜びを与えてくれる他のこと、飲酒や、グルメや、あるいはまた他の遊びや、そしてまた身体活動であるという点で釣りに似ている他のスポーツなどと異なって、現在の中にすでに未来が含まれていると言えるところがある。

すこし大げさな表現になるが、現在の中に永遠が存在しているという感じを与えるところがある。すでに現在において、現在の釣りを回想して楽しむであろう未来の自分の姿が見えるのである。こうし たことを以下の5つの章全体を通じて、詳しく説明したい。

その際、快楽と幸福をテーマとする哲学を展開し、快楽で満たされた生こそが幸福なのだと説き、快楽主義の哲学者とされる古代ギリシアのエピクーロスの教説 について最初に考えることにした。

というのは、始め、「身体的快楽」と「精神的快楽」、「動的快楽」と「静的快楽」という区別を含む、かれの「快楽の哲学」が、スポーツでもある釣りの楽しさを考えるための手がかりを与えてくれるかもしれないと考えたからである。

また彼は、「隠れて生きよ」をモットーに、公的政治的活動を避け、少数の人々と交わり談話を楽しむ、静穏な生活を送った。また彼は、衣食住の贅沢はむしろ快楽の実現にとって妨げとなると考えており、極めて簡素な、現代風にいえばエコロジカルな生活を送った。私は仕事に就いていたときには、環境問題などで社会的な発言をしたり、市民運動に関わるなど多少は公的・社会的な行動も行っていたが、退職してからは、それらからも離れ隠居生活を送っていたので、エピクーロスの「隠れて生きる」生活は近しいものに感じられた。

また、私は、若いときからずっと、贅沢や浪費を望んだことがなかっただけでなく、家も車も買わず借家に住み自転車に乗る、節約の生活を続けてきた。退職後、思い切って中古の船を買い、釣り三昧の生活を送っているが、日々の生活は質素である。

この点でもエピクーロスの簡素な快楽主義思想に親しみを感じた。「幸福」を考えるときに、このような生き方をしたエピクーロスの哲学的教説が参考になるだろうと考えたのである。


だが、釣りの快楽と釣りを楽しむ人生について考えるのに、彼の思想が導きの糸になるのかといえば、そうは言えない。

彼は快楽が人を幸福にするというが、彼が最大の快楽としたのは身体的苦痛がなく魂に不安・動揺がない状態である。興奮や陽気さを伴う、われわれがふつう快楽と考える状態とは異なり、むしろ、静かな「苦しみのない状態」である。彼はこれを「静的な快楽」と呼ぶ。

われわれの常識では、たとえば体を動かさず、室内で音楽を聴いて楽しむ快楽が「静的」な快楽だと思いたいが、エピクーロスの言う「静的な快楽」はそれとは異なる。

そして、彼がいう「動的な快楽」とは、たとえば喉が渇いて水を飲むときのような、苦痛を解消するための過程で感じられる、大きさの変化する快のことであり、たとえば磯釣りなど、身体を駆使するダイナミックな楽しみのことなのではない。

彼は、自然研究や哲学的な談論などが、死への不安や神罰への恐れのような、当時の人々の魂を苦しめていた根本原因を解消し、快楽(「静的快楽」)の実現に役立つと、積極的に勧めた。また、彼は、様々な欲望を追求することはかえって余計な苦労をしなければならないことになると、「自然的で必要不可欠な」欲求の実現にとどめるよう勧めた。(写真はWikipediaによる。)

私が、30代の頃に東京で行なっていたイシダイ釣りは、さまざまなスポーツないし遊びの一種として、「積極的な快楽」というにふさわしいダイナミックさ、興奮と活気を伴う身体活動であり、大学院の博士課程終了後、オーバードクターで職探しをしつつ、家事育児が中心の生活の中で感じていたストレスを解消し、気分を晴らしてくれるものだった。

私はイシダイ釣りを念頭において、釣りを「肉体的」、「動的な」積極的快楽だと考えていた。それはエピクーロスが重要視した「精神的な快楽」、「静的な快楽」とは別物であり、しかも「自然的」でも「不可欠」でもない欲求に基づく快楽の一種である。

そこで、エピクーロスを読み直し始めた当初は、彼の哲学と関連付けて釣りの快楽を考察することは無理なのではないかとも思った。

しかし、10年近く、漁村に住んで、天気さえ良ければ毎日のように釣りをして暮らしてきて、地元で教わり、今私が好んで行っているマキコボシ釣りという独特の釣り方のなかに、格闘技にも似たところのあるイシダイ釣りとは対照的な、静かな釣りを発見した。

マキコボシ釣りでは、イシダイ釣りで使うような大きくて重いリールや太くて頑丈な釣竿などは使わない。餌をつけた針から伸びた細い糸を直接手で持つ。また、針に掛かけた魚を竿やリールを使って力ずくで寄せるのではなく、だましだまし時間をかけて寄せるので、体力を使う度合いがはるかに小さい。

糸を伝わってくる魚の当り=魚信は指先で取るので、竿を使う釣りの場合のように竿先の動きを見ている必要がなく、目を閉じて休んでいることができ、瞑想(居眠り?)もできる。

頻繁に当りがあって魚が釣れる時には無理だが、当りがないとき、釣れない時には、釣れなくてもイライラしなければ、「瞑想」の時間がたっぷりある。このとき、様々な空想、幻想のようなものに没入することもある。また、釣りをしていることを忘れた、没我ともいうべき情態になることもある。

「寒江独釣、万事無心、一釣竿の境地に没入する」という言葉があるが、マキコボシ釣りには瞑想し「無心」になる時間がたっぷりある。

マキコボシ釣りは、単に、体を動かし、興奮を伴った快楽を楽しむばかりではなく、体を動かさず静かに瞑想を楽しむことを可能にしてくれる。

この静かな釣りは年をとり、身体的な衰えを感じつつあった私には、お誂え向きでもあった。

私は60歳で退職、隠居し、漁村に住んで釣り中心の生活を始めるとともに日記を付けるようになった。始めは、次ぎの釣りに何か役に立つのではないかと考え て書いていたので、その日の釣果、釣り場の特徴や潮の流れなどに関することがほとんどであった。昼間、数時間を海の上で、ただ一人で過ごし、夜、疲れてい なければ、パソコンに向かってその日の釣りを思い出して、ときには、家の周囲などに聞こえる野鳥の鳴き声のことなども合わせて、書き連ねた。
次第に、その 日1日を、時には時化(シケ)の休漁日には2、3日分をまとめて、思い出しながら書くこと自体が楽しくなり、次回の釣りに役立たせるためにではなく、すで に過去となった釣りを思い出して楽しむために書くようになった。そして書きながら釣りを振り返り、あれこれ考えるとともに、しばらくたって日記を読み返し 半年前、1年前の過去の釣りを思い出すことが、ほとんど釣りをするのと同じくらい楽しいということを発見した。私は釣りの回想の快楽を発見した。

多くの快楽は一過性である。またわれわれは、明日の、未来の快楽を楽しみにして今日の辛く苦しい仕事を我慢するが、しかし、未来の快楽は不確実である。こ れに対して過去の快楽は、記憶を失わない限り、全く確かなものであり、過去に味わった快楽の記憶は、われわれが楽しく生きていくことに大きく寄与する。
エピクーロスは、肉体的な快苦(快楽と苦痛)には限度があり、またそれは現在に限られるのに対して、魂は現在からだけでなく過去からも未来からも快苦を得る と述べている。彼は弟子に宛てた手紙の中で、現在の病気の苦痛に過去の楽しかった思い出を対抗させることによって、その苦を克服していると述べている。体 を使った快楽を楽しむことができなくなる老人も、過去の快楽を回想することによって、若者に劣らず、いやそれ以上に、楽しい時間を持つことができる。時に は、エピクーロスのように、意識的に過去の楽しい記憶をたどることで体の痛みに耐えることができるかもしれない。

こうして私は、再び、釣りの快楽について、自分の釣り生活について、エピクーロスの教説と関連づけて書くことができるようになったと思った。人生における 釣りと幸福の関係や釣りの快や苦について考えているうちに、以前ざっと読んだだけであったエピクーロスをもう一度ていねいに読んで見たくなった。彼は、快 楽が幸福だと唱えたが、どちらかといえば楽しさや興奮をともなう積極的快楽とは反対に苦痛の欠如が快楽なのだとする。他の哲学者から「快楽」と「苦痛の欠 如」は同じではないという批判を受けている、エピクーロスのこの一見奇妙な「快楽主義」が気になり、もう一度きちんと読み直して見たくなったというのが真 相で、次の第一章は古代ギリシアの哲学者・エピクーロスの快楽説をまとめ、私の意見を述べたものである。

 第1章 エピクーロスの「快楽=幸福」説について

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