第1節 多種多様な釣りがある
「他のスポーツとは違い、釣りは間口が広い」
釣りは分類を拒む?
第2節 釣りは何でないか
釣りは社交的・社会的な遊びではない
人に会わないための釣り、プロレタリア作家・葉山嘉樹の釣り
釣りはゲームでも純粋な遊びでもない
釣りは競技ではない
釣りはスポーツとは違い、子どもにとって「将来に役立つ」活動ではない
第3節 釣りは獲物のある遊び
日本の釣りは「唯物論的」で「土ン百姓的」である
17世紀英国、ハズバンドリーにおける釣り
英国の「食べるための釣り」、コース・フィッシング
釣りはルールで作られたゲームではなく、直接に自然と対峙する遊びである
半分遊び、半分生活だから面白い
プロとアマの区別
漁師の「プロ」性
釣りと狩猟
生き物を殺すことについて
動物を仲間と感じること
魚食と文化
「釣った魚は食べるべき」か「殺さず放流すべき」か。どちらか一方が正しいと言えるか。
第4節 釣りの快と狩猟本能
どうして釣りをするのか。不適切な説明
釣りは「狩猟本能」による行動?
本能行動とは
動物行動学と本能概念
釣りと「狩猟本能」を結びつけること
釣りに伴う危険
釣りは日常生活からの脱出。危険で英雄的な行為?
本能という語の日常的な意味
釣り好きは男性ホルモンで決まる?
釣り好きは nature or nurture?
説明のしかたについて
知識人・文化人の精神労働と非知識人・非文化人の原始的ムスケル(手作業)
釣りの楽しさを説明できなかった理由
第5節 当たりと合わせ――釣りの快の原点
「当たり」と「合わせ」
感覚的快と快の判断
釣りの経験
異次元世界の相手とつながる
第6節 自然を楽しむ。孤独を楽しむ。社交を楽しむ
幸田露伴の中年期以降の釣り
ロシアの作家アクサーコフの釣り
遊び・娯楽の分類、私案
内面的あるいは内向的であること、あるいは孤独を好むこと
社交と竿釣り、手釣り
第7節 釣りの快と釣りの苦
第8節 苦行そのものの釣り―開高健はなぜ釣りを楽しめなかったか
釣りは文明の狂気からの脱出?
開高健にとって「川は戦場」だったか?
第9節 「釣りは労働」:哲学者・内山節(たかし)の説。そして私の反論
(1)『山里の釣りから』の三つのテーマ。渓流釣り、川、山村の暮らし
@渓流釣りについて
釣りへの「自己嫌悪」
釣りを通じた「自然化」?
A川について、流れの思想から用水の思想へ
ダム建設、首都圏は「がん細胞」
B山村の生活と「人間の自然化」
山村の労働と生活は「人間の自然化」
鳥や動物との共存?
上記三つのテーマに関する私の反論
@ 内山の「ウォルトンの「釣りの哲学」」批判への反論
内山のウォルトン批判:「釣りの中に人生の意味を見いだすことは退廃の思想」
ウォルトンの人となり、彼にとっての釣りの意味
ウォルトン/森秀人訳『釣魚大全』の紹介
ウォルトンの『釣魚大全』は「哲学」ではなく素朴な釣り賛歌である
ウォルトンの<脱労働>
内山は単に都市の人なのか。また都市的生活とは何か。
A川の荒廃は都市民のダム建設によるという内山説の批判
ダム建設を推進しているのは「都市民」ではない
水問題に対する都市民の責任
都市民・内山は都市の環境問題に全くふれない
自動車公害への内山の無関心
B畑を耕すことで人間は「自然化」されるのか。
村人と野生動物の「共存」?
鉄砲を使えなかった江戸時代の農民と野生動物との「共存」
「人間の自然化」という概念が不明瞭であること
Cあるべき社会について
山仕事の厳しさに耐えるべきだと内山は言う
どのように仕事の厳しさに耐えるか
ふつうの若者は自然資源の有無で仕事を決めるわけではない
(2)「釣りは労働だ」という説とそれに対する私の反論
労働であるような<山里の釣り>とは
釣りは道具、腕、精神が一体化した「原始的労働」
農業とアソビ
釣りは「広義の労働」
反論1.上野村での内山の畑作りは遊びである
内山はなぜ釣りは労働だと言いたいのか
反論2.釣りの楽しさと農業の楽しさは一致しない
反論3.かつての社会にも脱労働と遊びを求めた人がいた
勤勉な農夫と反抗して家出した息子の話
反論4.存在喪失?釣りは原始的労働の擬似的経験?
現代の労働者に「喪失体験」はない
本能としての「原始的労働」への欲求?
20世紀フランスの労働者はどうして釣りを好んだか
釣り人口の増加は余暇活動全般の高まりの反映
反論5.釣りは「意味付与」なしに、単に面白いと感じるから行われる
(3)内山の余暇無用論とそれに対する反論
余暇と生活活動
「かつての職人」:「権力者たる父親」・「主人たる夫」のイメージ
余暇を計画的に過ごすことは余暇の否定?
余暇活動の産物で収入を得るのは矛盾か?
内山の「仕事の充実=自由」という「自由」観と余暇観
古代ギリシアにおける「閑暇」
日本の労働者は「企業嫌い」であり「労働嫌い」ではない?
がまんして働くことも「労働の意味」であり、余暇は必要だ。
間奏曲 「人生至楽」
やったことのない人がその遊びあるいはスポーツについて知りたいことは、それのどこが、どうして面白いのかということであり、それを理解するのに必要な限りでのその遊び方であろう。ところが、釣りには多くの種類の、つまり釣り方の異なる多くの釣りがあり、釣り方の違いに応じて、面白さが異なる。釣りは、実際には、一種類の遊びというよりは、非常に多くの種類の遊びであり、それぞれに応じてその面白さを説明する必要があるのである。だが、私がやった釣りは第一部「釣り」に書いてある、せいぜい4、5種類の釣りにすぎず、他の釣りはやったことがない。だから本当は「釣り」の面白さを説明することはできないのである。
しかし、以下ではやったことのある数種類の釣りを比べながら、私が今一番面白いと思っている釣りのどこがどのように面白いかを説明したいと思う。釣りの本はたくさん出ているが、ほとんどは「釣り方」についての解説であり、釣りの面白さを書いた本は少ないので、多少は意味もあろう。そして、私は、その面白さ、快楽、魅力は、他の釣りにおいても共通していると密かに考えてもいるのである。つまり、糸の先についた針に魚をかけるということから得られるその単純な快楽がどの釣りにおいても中心にあると想像されるのである。ほかの釣りの本なども参考にしながら、まず、釣りの多様性を見ることからはじめたい。 第1節 多種多様な釣りがある
蚊針、毛鉤などと訳される、一種の擬餌針であるフライfly(本来はハエや蚊のように飛ぶ虫を意味する)を使って渓流魚を釣るのがフライ・フィッシングである。
写真は英国Lake Districtの川の一つRiver Eaden におけるフライフィッシング。風景も美しい。http://www.goflyfishinguk.com/fly-fishing-locations/chalk-streams/river-test.phpによる。
『フライフィッシング讃歌』(晶文社)の著者レインズに従えば、フライ・フィッシングと一般の釣りとでは、「単なる歩行と舞台上のバレーほどの違いがある」。フライで釣る人々は、他の釣り方でもっと簡単に釣れても、それよりフライで「美しく」釣りたいと考える。釣りを歩行に置き換えて言うと、普通の人が歩いて行くのに、この人たちは、バレーをやりながら進むというわけだ。
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多くの釣り紀行文を書いた開高健(芥川賞作家。1988年没)は、餌をつけて釣る「土ン百姓」の釣りでなく、貴族階級の釣りであるフライをやることに決めたと言い、フライは「芸術」だといっている。レインズがいうバレーも芸術である。フライをやる人は、その芸術的優美さ、繊細さに魅力を感じるのだろう。
サケ科のアマゴとヤマメは、分布域ははっきり異なるが、形態のよく似た魚で、同一種に属するとされる渓流魚である。これらは川虫やミミズなどをつけたエサ釣りでも狙えるし、毛バリ(キジの羽を刺しゅう糸で巻いただけの単純な構造の「和式毛バリ」と本物の虫に精巧に似せた「洋式毛バリ」つまりフライとがある)を使って釣ることもあるし、ルアー(ルアーlureはおびき寄せるもの、つまり「疑似餌」である。小魚などに似せた金属片に鉤をつけたもので、多くの種類がある)を使ったジギング(リールを使ってルアーを引く)でも釣ることができるという。渓流魚でも、エサ釣り派と和式毛バリ派(これはとくにテンカラ釣りと呼ばれているという)、そしてフライ派そしてジギング派の違いがある。
表紙の上段右の写真は、厚木観光漁協の管理する『三川合流』エリアにおける相模川のアユ釣りの模様。同漁協HP(http://atsugikanko.gyokyo.info/)による。川の中に見えるコンクリートの柱は、地図を参照すると、首都圏連絡中央自動車道の橋脚と思われる。自然と人工物とが混然一体となった日本的な風景である。
下は修善寺、狩野川の鮎釣り。総合リゾートホテルラフォーレ修善寺HP(http://plus.laforet.co.jp/blog/)2010年5月22日の「アウトドアでアロマセラピー」と題せられた記事による。
図はhttp://astamuse.com/ja/published/JP/No/2012125157、図0011による。ただし、この記事は玉網にFとXを入れた時に掛け針が網の底に引っかからないような特殊な玉網の製造方法についての記事で、仕掛けそのものの記事ではない。
写真は英語版Wikipediaで「Fisherman jigging with a big fish from his boat」という題がついている。fishermanはアマの釣り人と漁師の両方を意味する。日本では職漁師でジグを使って大型魚を釣るという話は聞いたことがないが、英語圏ではジグで釣る職漁師もいるのかもしれない。
ジグはルアーの一種であるが、ジグを使う釣りにもいろいろある。水深100m以上の海で、50キロを越えるカンパチ、20キロを越えるヒラマサ、90キロの磯マグロなどを狙うジギングは、職人技とも違うが、また優雅さを気取ることもできず、ベンチプレス、ダンベルなどで筋力を鍛えておくことが求められる、パワーの釣りである。ジギングで大物を狙う人々にとって、釣りの快とは、巨魚との格闘に打ち勝ち、自己の体力の強さを示すことのなかにある。古谷秀之『ジギングshock!』週刊釣りサンデー、2002
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写真は富士五湖の一つ精進(ショウジ)湖のヘラブナ釣り。「ヘラブナ釣り場情報」で検索すると、東日本、西日本を問わず非常に多くの釣り場が載っている。周囲の景色のよいところも少なくないが、ヘラブナ釣りは競技である。
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雑魚クラブ編『随筆 釣自慢』(河出書房新社、S.34年刊)という本がある。雑魚(ざこ)とは、狙ったのではない小魚のことである。しらす干しはチリメンジャコともいう。ジャコとザコは同じものである。四国・宇和島などでは雑魚をすり身にして揚げたものを「ジャコ天」といい、単に「てんぷら」というと、このジャコ天を指すことがある。
「雑魚クラブ」は、釣り好きの画家、作家、ジャーナリスト、能楽師、ミュージカルの歌手などで作られたクラブである(あった)。この本の執筆者は24人で、巻頭には「お魚博士」と呼ばれた檜山義夫の文があり、井伏鱒二、三遊亭金馬、福田蘭童、火野葦平など、有名人が書いている。メンバーの一人、中日新聞常務・三浦秀文は、「釣り天国」という文で、釣りの趣味を三つに分け、
1)フナ・コイなどの野釣りでは人生哲学的な解脱を観じて、寒江独釣、万事無心一釣竿の境地に没入することができる。
2)渓流釣り。スポーツ的、意欲的、芸術的な興味と興奮を感ぜしめる。渦巻く淵の巨岩の上に立って鮎などを釣る心境は、静中動、動中静の工夫が要求される。修行段階としては、野釣りの静中の工夫よりも上位にある。この釣りを覚えた連中は他の釣りにはあまり打ち込まない。
3)海釣り。海の幸を求める人間の本能が躍如としており、漁スナドリする心、大魚と取り組む爽快さ、大漁の喜びなど、生きるものの生命の躍動がある。前2者が唯心論的であるのに対して、海釣りはあくまで唯物論的である。したがって、前2者では獲物は第二義的、海釣りは釣果が第一義的、と言う。
海釣りでは大漁を期待する
三浦のエッセーでは釣りをまず場所により分類している。場所によって、対象魚、釣り方が変わり、釣り人の構え、態度が違ってくることを説明している。しかし、たとえば「寒江独釣万事無心一釣竿の境地」----これは、たぶん、寒々とした冬の川で一人釣る。宇宙全体のなかでただ一本の竿の動きだけが関心事であり、他の一切は問題ではない、とでも訳すことができるだろうが----この「境地」は、海釣りの場合にも、冬の寒い日に湾内で一人小船を出して釣るときなどには十分に当てはまる。
また、渓流釣りの「スポーツ的興奮」はハマチやヒラマサなどを狙った曳釣り(トローリング)やジギングなどによる海釣りの形容にぴったりである。また、潮の流れが激しい荒磯で釣るグレ(メジナ)釣りなどは、そのスポーツ性において鮎釣りに勝るとも劣らずといえるだろう。
こうした点はともかくとして、上の文では、釣りといってもさまざまで、野釣りにおいては哲学的な解脱の境地が、渓流釣りにおいてはスポーツ性と芸術性が、海釣りにおいては獲物が釣りの中心的関心事であるとされ、これら3種の釣りの異なる関心事を示すことに力点がおかれていて、共通な関心事が何であるのかは述べられていない。釣りの多様性については語られているが、様々な釣りがとにかく釣りであることについては(たぶん、糸と針などを使って魚を釣ることだという)常識を前提していて、それらを他のスポーツや遊びと比べたときの釣りという活動に共通する特徴、釣りの関心事、面白さ、魅力は何であるのかは語られていない。目指すところ・目的の異なるさまざまな釣りがあり、人はそれぞれの釣りに異なる快を求める。とすれば「なぜ釣りをするのか」、「なぜ釣りは面白いのか」の答えは釣り人の間では一致しないことになる。
全く釣りをしたことがなく、ある日突然、人に誘われて大型のフィッシング・ボートを使った外洋でのカジキマグロ釣りを始めたが、それ以外の釣りには一切興味がないというような人もあるかもしれない。しかし、多くの人は子どもの時、年上の友達や親に連れられて行った川での小ブナ釣り、あるいは港の堤防での小アジやイワシなどの小物釣りから始めて、次第に他の釣りへと範囲を広げていくのではないだろうか。そして、ただ一種類の釣りをするのではなく、何種類かの釣りをする人は多いし、主にやっていたある釣りをやめて他の釣りに変えていく人もいる。そして、他の遊びやスポーツではなく、釣りを選んだし、今も釣りをしている。このような人が多いと私は想像する。とすれば、やはり、多くの釣りに共通する「釣り」の特徴、面白さ、釣りから得られる快楽というものがあると考えられる。三浦の説明にもかかわらず、これを明らかにする必要が残っている。
永田一脩(カズナガ)『海釣り』(保育社、S41年)という本を見てみよう。永田は1903年生まれ。東京美術学校西洋画科卒業後、毎日新聞社に勤務し、『毎日カメラ』の編集の仕事をしていた。彼は画家で、美しい魚拓を作り、釣り仲間から「魚拓の名人」と言われていたという。『海釣り』は文庫本と同じくらいの分量の本だが、ほかに「日本釣魚史」ともいうべき『江戸時代からの釣り』(新日本出版社、1987)という500ページに上る大著も含め、多くの釣りに関する著書があり、また『プロレタリア絵画論』などの著書もある。
永田は常識的に釣りをスポーツの一種と考えているが「他のスポーツとはたいへんに違ったところがある」という。彼によると、
1) 対象魚が非常に多い。
2) 多くのスポーツは一定の道具と一定のルールによって行なうものだが、釣りでは各対象魚によって道具と釣り方が違うので、幾種類もの道具と釣り方がある。同じ対象魚にもいくつもの釣り方がある。
3) 対象魚により、餌、鉤(はり)も違えなければならない。
4) 一般のスポーツでは勝敗を争うか点数を争うが、釣りでは、釣り大会以外、勝敗は争わない。
5) 獲物がある。狩猟と同じ。外国ではクラブが「狩猟と釣りクラブ」として作られ、用具店も雑誌も狩猟と釣りが一つになっている。
〔カジキマグロなどを釣る〕ビッグゲーム・フィッシングという部門では、釣具の規定から釣り規則まで作られ、それにしたがって年間記録を作ったりしていて、最も一般スポーツに近いが、釣り全体の中では、ほんの小さい一部門にすぎない。
6) 一般スポーツではプロとアマは、規定によって明白に分離されているが、釣りでは特別な境界がなくなっている場合がある。日本の伝統的な船釣り(手釣り)などの部門に見られる特殊性といえる。
「ざっとこんな次第で、とにかく釣りというのは間口も広いし、奥行きも深いものである」。
永田は、釣りが他の「一般スポーツ」とは異なり、「間口の広い」こと、つまり別のスポーツと言ってもいいほど異なる多くの釣りがあるということを指摘している。そして他のスポーツとの違いとしては、競技ではない(勝敗を争う釣りはごく一部でしかない)ということと、アマとプロの間の境界がはっきりしていないという点を上げている。
永田は釣りについて重要な論点をすべて指摘している。以下では、私なりの観点で、永田の議論を敷衍して、述べる。
永田が言うように、実際非常にさまざまな釣りがあり、針と糸を使う点を除けば、それ以外の道具・用具、餌、釣り方に共通点はないとも言える。釣りは仮にスポーツと考えるにしても、ひとつの種類のスポーツと考えるよりも、たとえば、陸上競技、球技などのような、その中に多くの種類を含む競技の一分類に相当するものと考えたほうがいいかもしれない。
釣りには、海釣り、川釣り、湖沼の釣りがあり、海釣り一つをとっても、「場所」的には船、いかだ、防波堤、磯、浜からの釣りがあり、対象魚としては、マダイ、イシダイ、クロダイ(チヌ)、ブリ(ハマチ)、アジ、イサキ、等々があり、それぞれ用具、釣り方は異なる。
高木道郎『クロダイ・ウキ釣り入門』(池田書店、1996;著者はダイワ精工のフィールドテスター)では、クロダイ釣りとして、ウキ釣りのほかにブッコミ釣り、投げ釣り、ミャク釣り、落とし込み釣り、ダンゴ釣り、フカセ釣り、など11種類の釣り方があげられているが、さらに、「それらが地域によって豊富なバリエーションを展開する」。「ウキ釣り」は多くの釣り方のほんの一種に過ぎないという。
クロダイ釣りでは使われる餌の種類もきわめて多い。イワイソメ、フクロイソメといった虫エサ類、カニ類、イ貝やアケミ貝などの貝類、サナギ、オキアミ、イソギンチャク、魚の切り身、フナムシ、イカワタ、スイカ、サツマイモ、スイートコーン、等々。そして、エサが異なると仕掛けや釣り方も異なる。ウキの種類も多く、立ちウキ、カヤウキ、円錐ウキ、小型棒ウキ、2段ウキ、ダンゴ釣り専用の超ロングウキ、等々とあり、違うウキを使えば、釣り方もまた異なる。
だが、釣りに多種多様の釣りがあるからといって、それが他のスポーツと異なる釣りというスポーツ/遊びの特徴であるということにはならない。たとえば「釣り」と比較するために、スポーツとして「陸上競技」をとるとすれば、陸上競技の中にはトラックとフィールドの違いがあり、トラックでは短距離(100m、200m、400m)、中距離、長距離、障害物競走とあり、フィールドに幅跳び、高飛び、棒高跳び、三段跳びがあり、他に投擲競技として、砲丸投げ、ハンマー投げ、槍投げ、円盤投げがあり、さらにマラソン、競歩、十種競技などがある、というように、種目をひとつずつ数えると、相当な数の、つまりさまざまな種類の「陸上競技」がある。
そしてそれら異なる種目はそれぞれ違った「関心事」を持っていて、たとえば100m走とマラソンは全く異なる種目であり、ハンマー投げと走り高跳びは全く異質なスポーツだと考えることができる。他方「釣りは針と糸を道具にして魚を釣る」身体運動だと言うのと同様に、「陸上競技とは一定の場所、コースで走、跳、投の力を競う運動だ」というふうにして、ひとつのスポーツにまとめることはできる。
このように考えると「対象魚が異なる」結果として種類が多くなることが釣りの特徴なのではなく、スポーツは各種目がルールによって決まっている(そして、150m走、250m走、300m走など、ルールを作りさえすればいくらでも数は増やせる)のに対して、釣りには(ゲーム・フィッシングを除き)「ルールが存在」せず、種目・種類を明確に規定することはできないために、互いに種類が違うと言えるかどうかはっきりしないが、細かいところで少しずつ違う多種多様な釣りが存在するという点に特徴があるのである。
同じ魚を対象にした様々な釣り方がある一方、ひとつの釣り方で様々な種類の魚を狙うこともできる。こちらで分けたと思ったらあちらでは同一のグループにまとめられている。釣りは系統的な分類を拒むと言ってもよい。そもそも、ある釣りが他の釣りと違っているというべきかそうでないかはっきりしない。それぞれの釣りは、ある観点では異なる釣りだが別の観点では同じ釣りなのだ。筋の通った区別はできない。他方、スポーツは、ルールによって作り出されるもので、各種目の用具やコートなど内容的な違いを調べてみるまでもなく、はじめから違うものだということが明らかである。そして、違い・区別がはっきりしなければ、分類のしようがないのである。
釣りは、ベテランを真似ることがあるにしても各自が好きなように行なうもので、ルールによって特定の釣りが生み出されるのではない。釣りにはまず多様な現実がある。さまざまに異なる釣りは、名前がなくても存在しうる。競技スポーツは(起源においてはともかく)競技である点で、最初から複数(最低、対戦者の2人、勝敗を判定する人を入れれば3人)の関係者の存在を前提する。そして、複数の人々がそのスポーツを行なう(対戦する)ことに同意するために、他のスポーツと区別してそれを指し示す必要があり、そのためには、ルールと名前がなければならない。それぞれのスポーツはルールと名前によって、他のスポーツと異なる一つのスポーツとして存在することができる。そして競技である限り、勝敗を決めるルールがなければならない。名前は、それについて他の人と話をするときに必要なのであり、釣りは一人で釣ることができるのだから、その限りでは名前も不要である。各人がその釣り方を知っていさえすればよい。競技スポーツは一人の愛好者がいるだけでは成り立たず、複数の人、社会の存在を前提する。スポーツは(もともとは)人がその遊戯を媒介にして人と関係を持つ社交のためにあるとも言える。釣りは非社交的、非社会的な娯楽である。
第2章で、エリアスがキツネ狩りは他の狩猟と異なって、スポーツだとしていたことをみた。その際エリアスが引用している18世紀末の書、Beckford“Thoughts on Hare and Foxhunting”では、「釣りは退屈な娯楽で」あり、「狩猟は仲間を受け入れる余地があるが、人は多くはいらない。できるだけ多くの人々が歓迎される狐狩りに比べて、両方とも個人的で孤独な娯楽である」と言われている。狐狩りは大勢で「見て」楽しむものとしてのスポーツと考えられたが、狩猟と釣りは、そしてとくに釣りは「仲間を受け入れる余地」がなく、個人的で孤独な娯楽とみなされている。
17世紀に書かれた「釣りの聖書」と言われることもある、ウォルトン著『釣魚大全』邦訳の口絵に、原書の表紙に描かれている絵の写真があり、その中にはThe compleate angler or the contemplative man's recreation「完全な釣り人、瞑想的な人のレクリエーション」という文字が見える(compleate はcompleteの古語)。また本文の中には、「神を敬う思慮深い人間の瞑想にもっとも適した遊びである」という文が出てくる。友達と話をしていては瞑想はできない。彼は一人で釣ることを好んだのだろうし、釣りとは、孤独と瞑想を楽しむ遊びだと考えたのである。
長辻象平は彼の著書、『江戸釣魚大全』(平凡社、1996)の中で、江戸時代の最もよく知られた釣りの書『何羨録』(かせんろく)を著した津軽采女(うねめ)とウォルトンの共通点に触れながら「釣りは個人の内へ向かう遊び」だといい、またウォルトンの著書の副題にふれ、「釣りは社交のための遊びではない」という。私は、釣りが、特に孤独を求める、あるいは瞑想を求める遊びだと言う積りはない。しかし、どちらかと言えば、人と群れ、人と遊ぶことを楽しむ「社交のための遊び」ではないという点において、長辻に賛成する。
そして、人に会いたくなく、人に会わないために釣りをするということもある。田沢恭二「釣魚亡身」、丸山信編『文士と釣り』(阿坂書房、昭和54年)によると、葉山嘉樹(よしき)(1894−1945)は、日本の労働者文学・プロレタリア文学の草分けだというが、葉山の釣りはまさしく、人に会わないための釣りだった。
葉山は思想犯として何回か刑務所に入り、所内で書いた小説が認められ、プロレタリア運動が盛んになるにつれ人気が高まった(⇒注)。しかし、日本全体が右傾化、軍国主義化するなかで、死ぬまで特高の監視下に置かれた。
葉山は昭和13年に木曽川沿いの村に移り住んだ。書きたいことも書けず、作家として苦しんだだけでなく、子どもの中学入学を拒否され、村民から「非国民」とか「スパイ」と言われたりする日常生活での苦しみも加わった。日記には「書けない。書きたくない。書くことができない。書いてはならぬことだけが頭の中にあるのだ」と書いた。彼の中に「生まれるのは苦悩と自己嫌悪」だけであり、そこから逃れるには酒か釣りが必要だった。「釣っている間だけは、そいつを考えないで済む」。彼の釣りは一匹狼型で、人の大勢いる場所を嫌った。「人に会いたくなかった」、「人と出会わないような、渓流を選んで遡上する」と書いている。
「葉山嘉樹の痛ましい生涯を考えると、私は胸がいっぱいになる。だがその彼の生涯のなかで、釣りが一つの強力な支えとなっていたことに救いを感じる。もし彼が釣りを知らなかったら、彼の生活はもっと耐え難いものになっていたはずだ。この世に釣りが存在したことは葉山にとって幸福だった---」と田沢は書いている。
刑務所では権力と闘っていると感じられただろう。しかし、山村で、何もせず、何の希望もなく、自分から一室に閉じこもっていたら恐らく気が狂ってしまうであろう。人に会わずに一人でできること、一人で、夢中になってできることを葉山は釣りに見出したのだろう。
--------------------------------------------------注)三好行雄編『日本文学全史 6現代』(学燈社、昭和53年)によれば、葉山嘉樹は、大正13年(1924)に再刊された雑誌「文芸戦線」(同人の細井和喜蔵が『女工哀史』を刊行した)に、『淫売婦』大正14、『セメント樽の中の手紙』大正15を書いて一躍注目された。また、さらに日本近代文学上の優れた作品である『海に生くる人々』大正15年を改造社から刊行した。彼は実際の労働体験があった、という。 -------------------------------------------------
そもそも釣りをするのは、釣れないときには坊主も覚悟で、自然=魚とのかけひき(イシダイなどの場合には闘いと言ってもいいが)を楽しむために行うのであり、魚が相手であって、人間が相手なのではない。ホイジンハが言ったように、「競技」は人と人の交流(社交)、競争的交流、他の人に対する優越を示したいがための交流のために行われる。あえて言えば、釣りは自然との交流を目指すもので、他の人間との交流、社交が目的なのではない。
上で、「ビッグゲーム・フィッシング」という語がでてきたが、国際組織があり、禁止行為、魚種別に定められた糸の強さなど、ルールにしたがって釣りをし、魚の大きさを競う釣りをゲーム・フィッシングと呼んでいる。開高健はフライだけで釣ったわけではなく、カナダの管理釣り場でキングサーモンの大物を釣ったときには餌釣りであった。しかし、釣り上げた直後重量を測ってリリースしている。私は、国際組織のルールにきちんと従う釣りであるのかどうかに関わらず、食べることを目的にせず、より大きな魚を釣ったり、より多くの同一魚種を釣ったりすること、つまり「記録」を目指したり競技会でよい成績を目指したりする釣りを、一般的に、ゲーム・フィッシングと呼ぶことにしたい。
クロダイ(関西ではチヌ)やメジナ(関西ではグレ)の磯釣りで、釣具メーカーがスポンサーになって各地の釣り名人を集めて開催する「釣り選手権」が行なわれている。決められた時間、隣接ポイントで場所を取り替えながら(コート・チェンジと同じだ)、同一種の魚をどれだけ多く釣るかを競う。
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2013年10月下旬高知県で、第26回「全国健康福祉祭」の大会が開催された。「全国の高齢者約1万人がスポーツや文化活動で交流を深める」集いで、「ねんりんピック」と呼ばれている。ここでは、サッカーや水泳、囲碁、将棋など23種目のほかに、(その年は台風接近で中止になったが)フィッシング競技(愛媛新聞)もしくは「磯釣り」(NHK)の種目が行われている。
しかし、このような競技会形式の釣りは、ほんの一握りの人が参加するにすぎないのではなかろうか。日本中では、平均1,200万人が年10回釣りをしている(⇒注)。400万人が年に30回(月に2〜3回)釣りに行くと見ることもできる。他方、「釣り選手権」に出場するのは全国で百人かせいぜい数百人程度であろう。したがって、「競争」の釣りをする人は、釣り人口の1万分の1かそれ以下であろう。
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(注)『レジャー白書』2008年版によれば、釣りの参加率(対人口比)、年間回数、年間費用は《10.4%、10.1回、5.2万円》である。1996年版によって知られる87年から95年までの9年間と比較すると釣りの「参加率」は3割から4割低下したが、年間回数は変わらない。
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他のスポーツでは、競技会が年齢毎、小中高の学校毎、あるいは学年毎に、市町村レベルで始まり、県大会、地方大会、全国大会があり、それぞれが年に何回か行われる。年がら年中どこかで試合をやり、より上のレベルを目指す。それぞれの種目のスポーツを行う人口の過半数あるいは半数近くが何らかの競争試合に参加しているのではないだろうか。
「五目釣り」といって、乗合の遊漁船で、初心者が、船長任せで、その日、その時季に釣れるいろいろな魚を釣る海の釣りがある。しかし、少し経験のある釣り人は、時季により、釣りたい魚が釣れる場所に行き、その魚を狙って釣ろうとする。釣り人は、単に磯釣り、あるいは船釣りに行くのではなく、チヌ(クロダイ)を釣りに、グレ(メジナ)を釣りに、あるいはイシダイを釣りに磯へ出かけるのであり、大型のアジをねらい、イサギ(関東ではイサキ)をねらい、あるいはマダイを狙って船に乗る。
しかし、競技会でやるように、同じ場所にとどまって、同一種類の魚を、決まった時間内に釣るということが、実際の釣りにおいて重要なことだとは全然思われない。ある場所でしばらく釣れなければ、他の場所に移る。船で、イワシや小アジを狙うのでなければ、同一種類の魚が10匹も釣れたら、私なら、他の魚を釣りたいと考える。小型のマダイを何匹も釣るよりも、それらの合計重量よりは少し軽くても中型以上の1匹を釣ることのほうをたいていの釣り人は喜ぶ。イシダイなら2キロのイシダイを3匹釣るよりも4キロのイシダイを1匹釣ることの方が釣り人にはるかに大きな喜びを与える。狙った魚以外の魚は外道(げどう)と呼ばれるが、ふつうの海釣りでは、たとえば、アジを狙って釣っていて、マダイが釣れてきたら、外道ではあっても大いに歓迎される。しかしゲーム・フィッシングの場合であれば外道はゲームの妨害物であろう。
日本で広く行われているゲーム・フィッシング、バス釣りとヘラブナ釣りでは、基本的に、釣った魚は計測後、放流(リリース)し、獲物として持ち帰ったり食べたりはしない。釣り場で釣ることだけを楽しむ釣りである。
バス釣りは若者に人気がある。写真はBIGLOBEウェブリブログ http://36423425.at.webry.info/「中学生アングラーTERUのバス釣り日記」2011年7月17日の記事から借用。千葉県いすみ市を流れる夷隅(イスミ)川上流の荒木根ダムでの釣果という。外房線大原駅はいすみ市にある。TERU君は自転車で釣りに行くと書いている。
もともとフィッシングとは魚を獲ることを目的とした釣り、あるいは漁業そのものを意味していた。グランド・コンサイス英和辞典ではlive by fishingは「漁業で生活する」となっている。他方、欧米で広く行われているサケやマスのフライ・フィッシングなどは、ほとんど管理釣り場で放流を前提に行われる釣りで、食べるための釣りまたは漁師が行なう漁と区別された、セミやトンボを取るのと同様の遊びのためにのみ行なう釣りであることから、ゲーム・フィッシングと呼ばれるのである。
ゲーム・フィッシングでは、特定の魚だけを釣ろうとし、しかも持ち帰って食べない。これは、他の動物には目もくれず狐だけを追いかけ、しかも獲物を食べない、エリアスのいうイギリスの「狐狩り」と全く同様の「スポーツ」である。エリアスの言う「スポーツ」とは、「する」だけでなく「見る」ことを重視する、娯楽、遊びの意味であり、スポーツの試合においてプレーヤーだけでなく観客もそのスポーツに参加していると見なされる。彼の言う「スポーツ」は「身体運動」を意味していない。彼は、ゲーム・フィッシングは、観客がいるかどうかは別として、おそらく、スポーツだというであろう。エリアスの言うスポーツは、純粋な遊びだというところに特徴がある。実益でもある獲物が目的ではなく、プロセス自体、プレー、ここでは釣ること自体が目的なのだというだけではなく、実益、獲物があってはならないのである。獲物は純粋に釣るプロセスを楽しむことの妨げだと考えるのである。
日本では、本職の漁師が行う一本釣りを除き、釣りは遊びに分類されるが、遊びで行うからといって、釣り一般はゲーム・フィッシングとは呼ばれていない。日本では、釣りは、漁師でなくても魚を獲物として持って帰り、食べるというのが普通だからというよりも、ほとんどの釣り人は獲物を求めて、つまり魚を釣って持ち帰り、周囲に見せたり食べたりすることを主目的に釣りをするからである。釣れなかったときには、釣り人が家に帰る前に魚を買って、自分が釣ったかのような顔をすることすらある。
釣りには余禄、実益が伴う。というより、獲物がその日の釣りの成否、ゲームになぞらえて言うならば勝ち負けの判定基準なのである。釣りでは、魚を針にかけ、掛かった魚を手元に寄せて取り込むまでの「釣る」プロセスも楽しむが、放流はしない。したがって魚は単なる余禄なのではなく、やはり目指されるもの、あるいは目的である。
釣果に恵まれないことがしばしばあるせいかもしれないが、イシダイ釣りの場合には獲物は余禄という性格を帯びることもある。私は東京に住んでいたとき、イシダイ釣りをしていた。最初に5キロを超える大型のイシガキダイ(イシダイの一種)を釣ったときには、釣ったぞというその思いだけでそれまでに最大・最高の幸福感を1年間味わい続けることができた。
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釣ることが目的であった。しかしまた私は硬くて食べられない骨と歯以外のところはすべて食べた。私はイシダイを食べることによって自分がイシダイを釣ったことを実感したのだろうと思う。こうして釣果は、ゲーム・フィッシングの場合のように、体長や重量や匹数という単なる数字、つまり「観念的な」ものなのではなく、具体的で価値のあるもの、獲物、物であり、食べることによって確証される、「唯物論的」なものである。
そして、このような釣りは、「遊びは虚構だ」という説に対するもっとも有力な反証となる遊びである。数十mの海の中から魚を釣り上げるときに、あたかも、神秘の世界から魔法で魚を取り出すかのように感じることがある。だが虚構の世界からは生きた魚を取り出すことはできない。釣りと獲物としての魚は一体のものとして考えなければならない。こうして、食べるための釣りは、獲物と無関係に行われる「純粋な身体運動」としての遊び・スポーツではなく、囲碁や将棋のように、頭の中だけの「仮構の世界」で行われるゲームでもない。現実の世界における、「唯物論的」遊びである。
さて「ゲーム」という語は遊びを意味するとともに「競技」を意味する。カイヨワは競技をアゴーンと呼んだが、アゴーンとはできるだけ公平な条件の下で人と人が勝敗を争い、優劣を競う遊びであった。そして、勝ち負け、優劣が決まるためにはルールがきちんと決まっていなければならない。こうして、風雨の影響を受けない屋内のコートで試合を行う必要があり、屋外でも、凸凹やぬかるみのないきちんとしたコートやトラックで試合、レースを行う必要がある。つまり競技は好きな場所でやることはできず、競技場を使用するために時間の制限も受ける。あらかじめ決っている対戦相手と決められた日程、時間に、きまった場所つまり競技場で闘う。
他方、人間同士の戦いとしてのゲームにおいては、対戦相手が人間であることによって、その振る舞い方、体の動かし方に限りがあるだけでなく、また、ルール(遊び方)によって規定された特定のしかたで行為し、体を動かすので、ゲーム中の相手の動きは様々に変化するにしても一定の範囲内におさまる。こうして予想外のことが起こったり、偶然が働いたりすることは少ない。
釣りでは一般に競うことがなく、公平な条件を求める必要がないから、ルールは存在せず、コートのような特定の場所を利用する必要も時間の制限もない。天候という条件を除けば、釣り人は、自分の体調や気分、そして自分の都合だけに従って、自由に、釣りを開始することができ、ルールなど知らない自然の生き物を相手にし、「自然」と対峙するのである。ルールや規定という人為的な判定基準の介在なしに、釣れるか釣れないかの単純な結果を、ただ一人で、ありのままに受け入れることになる。
他方、ある日、ある場所で魚が釣れるかどうか、あるいは特定の日に望む魚を釣るためにどこの釣り場に行くべきかについては語りえない。とくに海であれば、魚は、餌を求めて、あるいは他の魚に追われて、あるいは産卵場所を探して移動する。また水温や酸素の濃度あるいはまだわかっていないほかの原因によって、積極的に餌を食ったり、食わなかったりする。そしてまた釣れるかどうかは潮流の方向や強さによってまったく変わるが、潮の流れも沿岸の地形と干潮、満潮だけによって決まるのではなく沖合いの黒潮などの勢いや流れ方の影響を受ける。
こうして、釣れる条件を特定することがほとんどできず、ある時期ある場所である魚が釣れるかどうかは、ごくごくおおまかに言えるだけで、正確なことは全くわからない。漁師もベテランの釣り人も経験(これを勘と呼ぶこともある)によってのみ、大雑把な見当をつけているに過ぎない。しかし、それで十分に楽しめるのである。釣りは自分の勘に頼りつつ、そこにいるかその近くにいてコマセによっておびき寄せられてくる魚を針にかける技量を発揮するとともに、半分は偶然に魚と出会うのを楽しむ遊びなのである。
他のスポーツ、競技の意味でのゲームにおいて、高校生が社会人を負かすというようなことがたまにあるが、それは「運がよかった」からではなくその高校生に実力があったからであろう。おそらくその高校生はその後も繰り返し良い成績を上げるだろう。初心者がベテランを運や「つき」で負かすなどということはまずありえない。しかし釣りの場合にはビギナーズ・ラックという言葉がある。同行したベテランがさっぱり釣らなかったのに、初心者が大物を釣るということがよくある。
釣りにおいてもゲーム・フィッシングである管理釣り場のヘラブナ釣りでは、流れがなく、釣り場(“コート”)がほぼ均一にできているからであろうが、隣り合った席の二人の釣り人の成績を決めるのは、餌の作り方、タナ(仕掛けを入れる水深)の狙い方、そして当たりの取り方と合わせかたなど、要するに腕だけだと考えられる。
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だが、磯釣りでは、同じ磯に乗った二人が全く違った釣果を得ることは珍しいことではない。(これはほぼ潮の向きによるだろう。)船外機船の貸し船に乗り、ハマチやタイの養殖生簀、あるいはアコヤ貝養殖の「筏」などに船を掛けて(係留して)釣る場合、同じ仕掛けで同じエサで2mと離れていないところで並んで釣っている二人のうちのひとり、それも初心者の方にだけ、何匹も釣れて、ベテランのほうには一匹も釣れなかった。あるいは、早朝の食いのたつ時間帯から釣っていた釣り客が全く釣れなかったのに、昼過ぎに、その客が帰ったあとにそこで釣った人が大釣りをしたというような話はいくらでもある。つまり、海釣りはあるいは川の釣りも、「コート」のように人為的に作られた「限定」された場所でなく、不定形で絶えず変化する自然の場所での遊びであり、公平な条件で競うことはとうていできないのである。釣りは、一般に、ゲームつまり競技ではないのでる。
だから、たしかに、長い期間を通してみれば上手な人ほど多く釣ることは確かだろうが、一回あるいは数回の「試合」でたくさん釣ったからと言って釣技が上だとは言えないと考えられる。こうして、決まった場所で決まった時間に同じ魚を多く釣り、重量を競うような競技会が意味のあるものと考える釣り人は、ほとんどいないだろう。
他のスポーツでは、すべてのスポーツ選手、部活でスポーツを行っている中高生、子供たち、あるいはその周囲の人々、スポーツファンは、ワールドカップやオリンピックの大会はもちろん、国内の競技大会でも、そこに出場し上位に入賞した選手を大いに賞賛し、うらやましいと思ったりするであろう。だが、どんなことに関しても競争に勝つことがすべてだと考えるどこかの大国の人間を除けば、釣り人・釣りファンは釣り競技のチャンピオンに対してそのような賞讃の念を感じることはないだろう。釣りの国際大会のようなものが行なわれ世界チャンピオンが選ばれたにしても、同じであろう。
スポーツ愛好家が上達を望むように、釣り人も釣りにうまくなりたいと考える。しかし、釣りにおいては、上達は人と競争して勝つために求められるのではない。釣りは、カイヨワの用語を使えば、ルドゥスではあるがアゴーンではない。自分がより楽しめ、より一層、自然=魚に肉迫し、あえて言えば釣りの極意のようなものを知りたいという、非社会的・個人的な関心から求められるものだ。
修正のための追加(2016/12/15)
ヘラブナ釣りなどゲーム(競争)であるような釣りは日本では例外的だと考えていたが、次の様な事実があることを知った。 『四国の川釣り River Fishing in Shikoku 釣師取材によるアユ・アマゴ天然ガイド』(四国4新聞社合同出版・愛媛新聞社発行、平成10年)という本がある。四国の24本の河川のアユとアマゴの360ポイントの入川地図、写真、解説からなる350ページの本である。この中に徳島県釣連盟競技部長という人を含む徳島のアユ師による座談会「徳島のアユ釣り」という記事が載っていて、そこでは次のように書かれている。<近代スポーツ>は、娯楽・遊びとして始まったが、競技性が強まって遊びの要素が少なくなった身体運動ということになる。だが、釣りは、逆に、実用・実益から始まって、「遊び」の要素が強まった身体運動と言えるだろう。そして、遊びは上手下手はあってもだれもがおこなうことできるが、<近代スポーツ>は競技性を増すことによって、他の人々よりも優れた力や技を持ち、人に勝る少数のスポーツ・エリート、専門的な運動選手が登場し、顕彰されることになった。さらにスポーツはショー化され、職業化されることになり、生活のほとんどすべてを、スポーツの技を磨き、能力を高めるために使う人々からなるスポーツ界が生まれた。
第2章で述べたように、学校に通う生徒たちが部活で、厳しい練習を必要とするスポーツを続けるのは、できれば将来プロの選手になって高給を稼いだり、オリンピックなどに出場し「有名になりたい」ということが動機となっているケースが多いと私は想像する。単にそのスポーツが好きで、いま、汗を流して楽しみたいから部活をやるのだという生徒は少数派だと私は思う。これは、集団で練習することを必要とせず、好きな時に好きなところで対局し練習できる囲碁や将棋についても言える。将棋や囲碁は身体を鍛えるための辛いトレーニングは必要ないから、スポーツと違い、楽しいというだけでやっている子どももいるだろうと思われるが、少し上達すれば、やはりプロになりたいと考えるだろう。もちろん、大人になってからもスポーツあるいは囲碁将棋を趣味として続ける人もいることはたしかであるが。
しかし、釣りをする小学生が、将来、一流の「釣りの選手」になることを夢見るということはありえない。釣りが好きで中学、高校を終えたあと、漁師になることを選ぶ子供がいないとは言えないが、それは極めてまれなことであろう。釣りは将来とは関係なく、もっぱら現在を楽しむ遊びである。
囲碁・将棋でもサッカーや野球のようなスポーツでも、また釣りでも、最初は楽しいから始めるであろう。だが、少しやって面白いと思わなくなるかもしれない。囲碁や将棋は上達せず、対局しても負けが続けばいやになるだろう。続けるかどうかは、才能があるかないかにかかっていると思われる。釣りは、釣り場の近くに住んでいれば続ける可能性が高くなる。しかし、年齢とともに他の趣味に移る者もいるだろう。釣りを続けさせるのは興味だけである。しかしスポーツの場合には、子供たちに興味と才能のほかにも、練習に耐えて、継続することを可能にする別な要因がある。
スポーツ・ニュースは毎日のようにテレビで報じられ、心理学で言う、スポーツ選手との同一視が起こりやすい。子どもたちは自分の将来像を描く。親も同じである。子どもはこの輝かしい目標に向かって、親に励まされつつ、練習の辛さに耐えるという面がかなりあると思われる。しばらく通って飽きたから、練習がきついからと言って、すぐにやめる子どもは少ないのではないか。スポーツ・クラブに通う子どもたちはスポーツを、現在を楽しむ遊びとして行うのではなく、現在を犠牲にすることを覚悟で、すばらしい将来に向かって努力する活動として行うのではないか。釣りは、典型的な遊びである。現在を楽しむだけの遊びである。
上で三浦秀文はコイやフナを釣る野釣り、鮎や山女を釣る渓流釣りは、一種の修行的要素があるという点で「唯心論的」だが、海釣りは「第一義的に」獲物、大漁を求めるので「唯物論的」だと言っていた。釣りは空腹を満たす必要のために、あるいは食料やお菜の足しにするために行なわれるのではない。つまり釣りは生活手段なのではない。生活手段として魚を獲る労働は漁である。釣りは漁ではなく、釣ることを楽しむのが主目的である。とはいえ、やはり食べるために、グルメのために行なわれるのである。釣ることを楽しむのだが、そのためには釣果がなければならないのであり、獲物はゲーム・フィッシングの場合と違って、放流されてはならない。
米国などではスポーツとして大物と戦い冒険することを目的にサメ釣りもおこなわれているようだ(飯田『釣りとイギリス人』p229)。しかし、日本では、大物を狙うひとびともサメを釣ろうとはしない。サメは一般に食べられないからである。サメを釣るのはふつう害獣駆除のためであり、漁業の一環としてである。
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写真は「カヤックに乗ってサメを釣り上げた男たち」(http://gigazine.net/news/20071015)。カヤックと釣り上げられたネズミザメの大きさはほぼ同じ。このチームはアラスカからオーストラリアにやってきて釣った。危険なので普通はボート(たぶん漁船などのことだろう)で釣るという。
釣り人が巨魚を狙うとしたらクエである。そしてクエは非常にうまい魚である。クエ釣りは魚との格闘を目的とする釣りである。しかし、釣り上げる魚が食べてうまい魚であるから、格闘の釣りが単にK-1やボクシングなどの格闘技ではなく、また害獣駆除の労働でもなく、まさしく釣りであることになるのである。だから、食べる目的で魚を釣りに、海だけでなく野や山、あるいは渓谷にいく(行った)のであり、「唯物論的」であることには変わりがない。日本の釣りの多くは、修行、悟りを得ることを「第一義的」な目的としてなされるのでもないが、フライ・フィッシングのように技の美しさ、技巧を追求する一種の芸術として、貴族的趣味として行なわれるものでもないし、セミやトンボを取って遊ぶのと同じように魚と遊び、戯れるためにのみ、釣りをするのでもない。日本で一般的な釣りは釣ることを楽しむのだが、同時に獲物を食べることも楽しみにしている。その意味で「土ン百姓」的で、唯物論的な釣りなのである。
『図説 スポーツ史』著者は、中世ヨーロッパの農民の遊びとして弓射と釣りが行われていたと言い、それを描いた当時の絵を載せている。弓射と釣りを楽しんだ農民たちは、当然ながら、射止めた鳥やウサギを食べただろうし、釣った魚を食べたであろう。また飯田の『釣りとイギリス人』で見るように、近代になってからも、フライを使うゲーム・フィッシングとは別に、食べるための釣り、コース・フィッシングも行われている。もともとは世界中どこでも釣りは魚を釣って食べるために釣った。しかし釣りは他の労働とは違い、楽しい。そこで、他の仕事が必要なときにサボってでも、魚釣りがどうしても必要でないときにも、釣りをする。こうして釣りは、労働の生産力があがって皆が一日中必要な労働に追われなくてもよくなったとき、主に遊びとして行われるようになったと考えられるだろう。
すでに第2章で見たことだが、近代的な「スポーツ」はその発祥地である英国においては、娯楽・遊びとして始まった。スポーツ一般は、遊びとして、フットボールが祝祭日に行われたように、衣食住の生活に必要な作業や労働という枠から脱出するために始められたものだから、日常生活においては無意味で、それと無関係な動作・身体運動から成り立っている。たとえば、相手が投げるボールをバットで打って遠くに飛ばすという動作は、生活の必要という文脈のなかでは意味を持ちえず、「ルール」や約束によってはじめて意味をもつことのできる動作である。スポーツは現代においては職業となり、選手たちはスポーツを行なうことで金を稼ぎ生活を営む。だが、それ以外の人々は、仕事以外の時間にスポーツを遊び、楽しむ。
他方、釣りは、もともとは、自給自足の、生存のために行われていた業であり、今では、釣りは、海や川で体を使って魚を釣って楽しむ遊びである。漁師のように、それを職業にすることも可能だが、それは、もともと釣りが生産活動の一種として、生業のために行われた活動であり、獲物があれば、それを食料にすることも、交換して他の物資を手に入れることもできるという、釣りに「内在的」な要素による。現代のエンターテインメント産業のように、アマチュアのスポーツであった娯楽・遊びが、資本家や企業などの力で、商業化、産業化され、プレーヤーの職業化がなされたのとは事情が全く異なる。
大島襄二「漁労文化」『平凡社百科事典』によると、〈漁〉という字は日本語で〈いさる〉と読むが、これは〈磯求食る(いそあさる)〉から転じたという。すなわち、磯で貝類や藻類を集めたり、干潟で逃げおくれた小魚や甲殻類を手づかみで捕らえるという行為が漁労の最初の形である。同じく〈漁〉という字を〈すなどる〉と読むのは〈磯魚捕る(いそなどる)〉から転じたとされるが、まさに磯でそのような小魚を捕らえることであって、道具を使うことなく採集行為をするものといってよい。現代の冬の岩場での〈海苔(のり)つみ〉つまりイワノリ採取も遠浅の砂浜での〈潮干狩り〉も、いわばこのような原初形態の漁労活動のなごりだ、という。
私は、磯で釣りをしていて、潮が引いて魚が釣れる見込みがなくなると、サザエやとこぶしを探したり、用心に軍手をはめて付近の岩の割れ目を探ってカニを取ったりした。ヒトデや熱帯魚のような食べられないものは採集対象ではない。磯遊びと釣りはふだん手が届かず、見えないところにいる生き物を捕まえることができる点で共通していて、非常に楽しい。状況に応じて釣りではなく磯遊びをするのは全く当然で、両者は同じ種類の喜びを与えてくれる。
さて、前掲飯田操『釣りとイギリス人』を読むと、イギリスでは、異なる時代に異なる階級の人々が、さまざまに異なる釣りを行ったことがわかる。そして、私が今述べたことは、17世紀に盛んに行われたハズバンドリーという農業の中で行われた釣りに似ており、また、19世紀、ゲーム・フィッシングあるいはフライ・フィッシングと区別された、コース・フィッシングにごく近いように思われる。それらの点にふれながら、イギリスにおける釣り文化の歴史を一瞥してみよう。
ロイ・ポーター/目羅公和訳『イングランド18世紀の社会』(法政大学出版会、1996)によると、1700年ごろには、イギリスの貴族あるいは地主階級などのジェントルマン(全人口の1.2%)が土地の20%から30%を所有し、さらに20人ほどの上流貴族は10万エーカー以上の土地を所有していた。(1エーカーは約4000平米、1万エーカーは4000ha)。江戸時代の日本の藩主のような存在と考えていいのかもしれない。彼らは、ロンドンと田舎の両方に家を持ち、議会開会中はロンドンで政治と社交の生活を送ったが、それ以外の時期には田舎で遊びと、友人知人を招いての社交の生活を送った。後に、19世紀頃からは不在地主化するが、それまでは田舎で他の農民たちとも交わり、村の祝祭のスポンサーなども務めていた。
飯田によると、ジェントルマンは、自分の屋敷や牧場を含めた農園の管理、果樹・庭園の手入れ、家畜の飼育などに自ら関わった。そして、農村生活におけるこのような「家政の知識と方法を語る分野」はハズバンドリーと呼ばれていた。印刷の発達とも関連しつつ、17世紀には多くのハズバンドリーの書物が発行された。ハズバンドリーのなかでは、鷹狩、魚釣り、捕鳥、猟犬による狩猟、闘鶏などのレクリエーションについても書かれていた。
貴族やジェントリーは広大な土地を所有し、多額の地代収入で贅沢な生活を送っていた。そもそもハズバンドリーは、「産業」つまり利潤を得ることを目的とする活動ではなく、田舎の自分の屋敷にいるときに、そこでの自給自足の贅沢な食生活のための、楽しみを兼ねて行う活動であった。飯田は「当時、このような農作業がそれ自体レクリエーションにほかならなかった。」「この時代は生活と遊びが境界線のはっきりしないままに共存していた時代---であった」と言う。
レクリエーションとしての釣りを広める働きをしたウォルトンの『釣魚大全』が発行された17世紀は、レクリエーションが「労働のなかの楽しみ」から「労働から分離した遊び」としての意味を獲得していく時代でもあった。やがてイギリスの農業・漁業がより専門化し、さらに社会全体が産業化するにつれ、利益を追求する釣りは仕事として職業化され、レクリエーションとしての釣りはスポーツとして次第に拡大し、大衆化してゆく。それに応じて釣りの本におけるこのレクリエーションとハズバンドリーの分化の傾向も顕著になったと飯田はいう。
実益を兼ねたハズバンドリーの一部としての釣りとレクリエーションとしての釣りの分化の中でフライ・フィッシングの人気が高まった。一方、イギリスにおいては、ゲーム・フィッシングとコース・フィッシングという区別がある。
イギリスの法律では河川における漁獲権はその河川の通る土地の所有者のものであり、海や河口の「潮入り川」のようには開放されていない。公共の施設である運河や貯水池などの場合も漁獲権は釣り協会、漁業組合などに賃貸しされ、その管理・運営はそれらの団体に委ねられている。
「ゲーム・フィッシングとフライ・フィッシングはほぼ重ねて考えることができる。猟鳥の場合と同様、現在では、多くの場合リヴァー・キーパーと呼ばれる特別の管理人を置いた個人や法人の所有する釣り場で、一定の期間、限られた人たちのスポーツとして楽しまれる釣りである。これに対してコース・フィッシングと呼ばれるものがある。コースcoarseは本来、「並の」とか「下品な」という意味で、コース・フィッシュはサケ科以外の雑魚をさす。したがって、コース・フィッシングはサケ科以外の雑魚を釣る意味から生まれたと考えられる。しかし大部分のコース・フィッシングは餌をつけて釣るベイト・フィッシングbait-fishing〔餌釣り〕であり、このような釣りを一級下に見る意味が含まれているようにも思われる」と飯田はいう。
コース・フィッシングが「下品」だと考えられている、あるいはそのニュアンスを伴っている理由は、飯田が引用しているいくつかの書物の文章にあるように、ベイト、つまり餌に「ウジや虫を針につける」ときの「不愉快さ」や「残酷さ」と、知恵と「技術art」の作品である擬似フライを使う釣りの「清潔さ」との対比、簡単に言えばフライは知的であり、ベイト・フィッシングは自然的原始的であるという見方に基づいているということは確かだろう。
だが、エリアスが狐狩りのスポーツ化について説明している議論を参考にして考えると、さらに別な理由も推測される。19世紀にフライ・フィッシングの人気が高まった時期、あるいはジェントルマンたちが「コース・フィッシング」を自分たちの釣りであるゲーム・フィッシングと区別し、劣等視するようになった時期には、17世紀、ウォルトンの頃とは違って、ジェントルマンたちはすでにサケ科の魚を自分で釣って食べるのをやめていたのではないだろうか。エリアスによれば17世紀ごろまでのジェントルマンたちは、害獣の駆除と食べる楽しみを兼ねて狩りの娯楽を楽しんでいた。しかし18世紀になると食べる楽しみを放棄するとともに、自らの手で獲物を殺すことも止め、自分たちが訓練した猟犬にやらせ、「見る」のを楽しむ「スポーツ」として狐狩りを行うようになる。スポーツは「実益」を兼ね備えていてはならないと考えられるようになり、スポーツはいわば精神的、「唯心論的」快楽という純化された目的のものに変わった。
この観点からすれば、ジェントルマンたちが、管理された釣り場で、スポーツとしてのフライ・フィッシングで釣るサケ科の魚は食べられてはならなかったはずである。食べるのは「唯物論的」な「土ン百姓」のすることである。ジェントルマンが魚料理を食べたいときには、都会のレストランに出かけるか、あるいは、自分の家の召使いか料理人に指示すればよい。かれらが専業の漁師から入手した魚を料理するであろう。一方、庶民の釣りであったコース・フィッシングにおいては、食べることが主要な目的である。コース・フィッシングは、純粋な「スポーツ」を行う余裕のない下層の人間が、胃袋を満たすためにする釣りである。しかし、釣りをこうした「純粋なスポーツ」あるいは「ゲーム」として捉えることに反対する者もいた。
飯田によると、シェリンガムは、「ウォルトンの『釣魚大全』と並ぶ釣りの名著といわれる」1912年の『コース・フィッシング』のなかで次のように書いている。 「釣り〔コースフィッシング〕において、殺生のための殺生を望んではならない。---しかし、釦(ハリ)、そしてふざけ半分ではなく網で魚を取ろうとするのは、悪ではない。われわれの意図は殺すことにあるのではなく、知恵と技術を競い合うこと、食べること、あるいは利益を得ることにあるのだ」。
また、1924年刊行『陽光とドライ・フライ』で、J・W・ダンは次のように言っている。 「スポーツ」はゲームではないし、そのように考えられてはならない。娯楽のこの2つの形態は根本的に異なる。「ゲームは本質的には、作られたものです。その規則や規定がそれを成り立たせる骨と身なのです。それらを取り去ると、大人の人間に訴えるに足るものは何も残らないでしょう。しかし、狩りや釣りは、ゲームに欠けている特質、すなわち、あれこれと加えられた規則などまったくなしに存在する基本的な魅力と魅惑をふんだんにもつ娯楽なのです。----ゲームでは戦う相手は規則に縛られた人間にほかならないのです。しかし、スポーツにおいては、相手は自然そのものなのです。野生の、自由な、法に縛られない自然、強情で、騙し、せせら笑い、そそのかし、限りなく多様で、絶えず変化して魂を奪う自然なのです。」
ここで用いられている「スポーツ」という語は「狩や釣り」などの自然相手に行われる遊びの活動を指しており、「ゲーム」という語は規則によって作られたスポーツを指していることは明らかである。私はこのダンの文が、ゲーム・フィッシング以外のふつうの釣りの本質的な快と、他の競技(ゲーム)的なスポーツと異なる釣りの特徴とを完全に言い当てていると思う。釣りは、人間を相手にした、規則によって作られ、規則に縛られた遊び、つまりゲームでなく、法律や社会的「慣例」から脱出し、他の人間との関係を最小限にした自然的な遊びであるがゆえに楽しいのだと私は思う。
だが、私はダンが言うようにゲームでは、規則や規定を取り去ると「大人の人間に訴えるに足るものは何も残らない」とは思わない。子どもはともかく、大人であればこそ、規則によって手足を縛り、人為的な困難な状況で闘うことが楽しいと感じる、近代スポーツのゲームの愛好者がたくさんいることも十分に理解できる。
私はスポーツをエリアスの概念にしたがって理解する。つまり観衆とプレーヤーが一体となって興奮を楽しむものと考える。そして、ほとんどのスポーツが勝ち負けを争う競技であり、当然、ルールを必要とし、この意味ではゲームである。競技であるゲームは見る人をも興奮させるのである。スポーツはアマも休日に行なって楽しむことができるが、しかし、観衆を集めることができるなら、投資先(儲け口)を探している金がいくらでも存在し、プロ化、商業化が可能である。
現代においては、スポーツはいずれすべてプロ化されるだろう。(ウォーキングやジョギングなど、プロ化されない身体運動は「レジャー活動」と呼ばれている。)スポーツはプロ・スポーツであるか、もしくはプロ化されるであろう身体運動である。スポーツが観衆を獲得しうるためには、プレーヤーはルールで定められたゲーム/競技のプレーに全力を投入しなければならないのであり、その過程でゲームと関係のない利益、余禄を得てはならない。観客が興ざめするだろう。スポーツは純粋なゲーム(遊戯)であればこそ、観衆の興奮と喜びを獲得できる。だから、私は、スポーツとゲームを区別しない。
そこで、私は、(ほとんどの、日本における)釣りは、スポーツでもゲームもないと考える。ほとんどの釣りは人と競争せず、人に見てもらうことを期待せずに、魚と対決することを楽しむ遊びであるが、それには余禄、実益が伴う。というより、獲物の有無がその日の釣りの成否の判断基準である。したがって魚は単なる余禄なのではなく、やはり目指されるもの、あるいは目的である。日本の釣りの多くは、英国のかつてのハズバンドリーに多少似ており、19世紀以降のコース・フィッシングに近い。つまり、釣って獲物を得ること、それを食べることをその楽しみの一部、重要な一部として含む釣りである。
ただしハズバンドリーとして行なわれた釣りが、飯田の言うように「実益と楽しみ」をかねたものだということに関しては、多少、疑問が残る。贅沢したい放題の食生活を送ることのできたジェントルマンたちが、釣りを遊びとして行ったことは当然だとしても「実益」も求めたとは考えにくいからである。釣ったことを自慢するために持って帰ったかもしれない。そして召使が料理したものを、一口か二口食べたかもしれない。しかし、食料にする「必要」は感じなかったのではないか。
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ロイ・ポーターによれば、彼らは大勢の客を招いて「ローストビーフの山」を食べた。釣った魚でもてなす必要があったかどうか怪しい。ハズバンドリーの書物のなかで釣りもふれられていたにせよ、いずれ、スポーツに純化される運命にあったのではないか。ハズバンドリーとしての釣りは、ジェントルマンなど少数者が、都会では社交を楽しんでいた一方で、田舎暮らしをするときには、やはり友人らと一緒に遊び、彼らをもてなし、自分も楽しむ方法として、狩猟や鷹狩などと並んで行なったスポーツで、そもそも、「生活」のありかたが、庶民と全く違っている。ハズバンドリーとしての釣りは、獲物を食べたという点で似てはいるが、庶民のコース・フィッシングと同種類の活動と考えるのは難しいのではないか。
現代日本における釣りは、わずかな種類のゲーム・フィッシングを別とすると、磯遊び、潮干狩り、山菜取りなどとともに収穫物、獲物を狙う遊びである。釣りによってわれわれは食料を手に入れることができるのであるから、その身体運動によって遊び、楽しむのではあっても、単なる「ゲーム」、「遊戯」では決してない。
アユ釣りやウナギ釣りのように、おもに食べるため、あるいはグルメのための釣りもある。私の釣りは海釣りである。ゼンゴ(小アジ)なら空揚げにしてから南蛮漬けにする。小ダイや中アジ、小型イサキなら開いて一夜干しにして冷凍保存しておく。中型以上のマダイや大アジ、イサギなら、一匹を一人で食べるには多すぎるので、私の友人・親戚に贈り、あるいは魚好きでグルメの知人に買ってもらう。沢山釣れたときには(知人の勧めで)市場に持っていったこともあるし、知り合いの旅館やレストランに買ってもらったこともある。プロから注文を受けたり、あるいは釣りの腕を評価してもらったりするとうれしくなる。
エサはほとんどは買うが、イシダイ釣り用のウニの群生場所を自分で探して取ったり、ハマチの曳き釣り用の長大な仕掛けを手作りするときなどは、本物の漁師になったようで非常に楽しい。私にとって釣りは「唯物論的」で「土ン百姓」的なところが面白いのだが、言い換えると遊びでやっていることが同時に生活に役立つから、あるいは、人に雇われて決められた時間働いて給料をもらうのでなく、働きたいときにだけ、また自分のやりたいことだけをやって働いて稼ぐことができ、ほんの少しだが「自給自足」に似た生活ができるから、つまり半分遊びで半分働いているから、面白いのだと思う。私はエリアスの言う「慣例的」で束縛のある職業労働は苦痛に感じるが、非慣例的な、つまり不規則で、好みやその時々の気分に従って行う労働は決していやではない。
私は漁村で釣りだけをしているわけではない。ヒオウギ貝というホタテ貝に似た貝の稚貝をもらい、養殖している。地元の主産業であるアコヤ貝の養殖を行っている漁業者の友人から借りたアコヤ貝養殖用のネットに入れて海中に吊るしておき、年に2〜3回ネットを交換したり、貝の表面に付着するフジツボやカイメンなどの生物をこすり落とす。個数はせいぜい数百であるが、これはもう6〜7年続いている。⇒第二部第4章「アオサ、トウゴロウイワシ、ナガレコ、ツワ菜(ツワブキ)を採り、ヒオウギ貝を養殖する」参照。
また、2月ごろ近くの磯に生える青海苔を採集したり、春には裏山でツワブキを取る。トウゴロウイワシの網漁を手伝う(網に刺さったイワシを網からはずす)。2キロほどのところにある離れ島に船で渡り、ウェットスーツを着て下半身海に浸かりながらトコブシを採る、など「慣例化」されない様々な漁労を行う。どれも7〜8年間に1回か、2回ずつであり、はじめてで珍しかったからやっただけではないか言われそうだが、そうとばかりは言えない。トウゴロウイワシは誘ってもらって手伝った年の後、2年はイワシが寄らなかった。3年目に魚は寄ったが、私が暮れから正月に松山に帰っている間であった。網を持っているのは隣の集落の人で、いつも顔をあわせるわけではない。明日やるという日に会えば誘ってくれる。しかし私が松山にもどっていれば、誘ってもらうことはできず、その年は終わりである。
青海苔の採取については、青海苔は年により出来が異なる。2、3年続けて出来が悪かったという。そして青海苔が生えている磯に行くために、また帰港後採った青海苔をバケツとザルを使って何度も海水で洗って砂利などを取り除く作業を行うためには、平底の船をもっている人に誘ってもらわなければならず、冬、海苔の芽がでてから1ヶ月くらいのあいだに、凪のときに、船を持っている友人の都合が良くなければ、その年は終わりである。
トコブシは20個か30個採ろうと思えば5月下旬の大潮の干潮時の2、3日のあいだに少し離れた小島に行かねばならない。その間に海が荒れればもうその年は採れない。3月の大潮もチャンスで村人の中には3月に行く人もいる。しかし、そのころは水温が低く寒さに弱い私には無理である。こういうわけで、行こうとしても2度がやっとなのである。
これらの活動、遊びは村人も行っているが、やはり同じように、毎年おこなっているわけではなく、時々にしか行っていない。漁村に住んでいても、海の状況に左右される磯と海の遊びである「採集/捕獲、栽培」活動は毎年コンスタントにできるわけではないのである。機会があれば喜んでやるが、チャンスが少ないのである。そしてチャンスが少ないから面白いのである。
カイヨワは、遊びは労働や芸術と異なり「いかなる富もいかなる作品も生み出さない」。「遊びは純粋な消費の機会」だと言っていた。たしかに、ゲーム・フィッシングは「遊戯」つまり単なる遊びであり、釣った魚はリリースし、獲物にしない。収穫物あるいは生活に役立つものを生み出さず、入手させてくれない。だが、日本中で行われている多くの釣りや磯遊びはそうではない。
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釣りは(そして磯遊びは)確実ではなく、根気も必要だが、大いに有益な富を与えてくれる。遊びなのだから、釣った魚がおかずとして食べられて食費の軽減に役立つ程度は問題ではない。都会からでかける交通費なども含めて、遊びとして当然必要な経費を差し引けば、マイナスになることは明らかである。重要なことは、釣りがもたらすものは、競技・ゲームで相手に「勝つ」という単なる「精神的」「唯心論的」な喜びだとか、メッキで光るメダルだとか賞状だとかではなくて、実際に味わい、食べることができる獲物だということにある。釣りは仮構の世界における遊びなのではなく、現実世界の中での遊びであり、衣食住の生活と連続している。
退職者の私は、アパート暮らしの学生が衣食住の生活を行いつつ大学に通っているように、また農民が衣食住の生活をしつつ昼間畑にでかけるように、この漁村の家で生活をしつつ昼間は海にでて釣りをする。年金で暮らしており、釣りで生計を立てているのではないという点で、農民と異なり、学生の生活に似ている。しかし、2週間あるいは3週間つづけて漁村で釣りをして暮らすときには、釣りは、炊事洗濯など暮らしに必要な活動と連続した、日常の「現実活動」の大きな一部であり、カイヨワやホイジンハがいうような「はじめと終わり」の定まった「現実からの脱出」の企てでは全くない。しかし私は、60歳のときの退職によって、それまでの仕事/労働から脱出して、この釣り中心の現実的生活を開始した。日々の釣りは日常のほかの仕事/活動、あるいは生活と連続しており、この海辺の村での私の生活全体は脱仕事/労働の遊びである。
多くのスポーツの場合にあてはまる「プロ」と「アマ」の区別が、釣りにはあてはまらないということは釣りとスポーツの違いを考える上で重要である。上で永田一脩は一般スポーツではプロとアマは、規定によって明白に分離されているが、釣りでは特別な境界がなくなっている場合があるといっているが、そもそもプロかアマかという区別は(近代)スポーツの誕生とともに生まれたものである。
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スポーツ界におけるプロとアマの違いは「プロスポーツ」という制度によって作りだされたもので、プロかアマかという区別はそのスポーツ界を支える社会的な仕組みによって設定される。近代スポーツは競争を中心とするので、ルールを明文化し、施設・用具を規格化し、競技の管理・運営をそれぞれの協会などで組織的・系統的に行う。その種類毎にはっきりしたルールが定められており、試合の行い方、あるいは興行の行い方などを管理・運営する機構(日本相撲協会、JFLサッカー連盟、日本プロゴルフ協会、等)が存在する。プロ・スポーツプレイヤーになるためには、「資格試験」、プロのチームに所属するための選抜テスト、採用試験のようなものを通る必要がある。これはプロであることの「形式」にかかわる。
プロになるためには、テストを受けて合格しなければならない。しかし、宮里藍は高校生で、まだ、アマだったときに、日本女子プロゴルフ協会主催のツアーで優勝した。〔彼女はプロテストは免除されたという。〕また愛媛県出身の松山英樹も大学生でアマだったときに日本プロゴルフ協会主催のツアーで優勝した。こうした例を見れば、たとえ平均的にはアマとプロの実力差は断然大きいとしても、プロであるということは、アマよりも常に技能が上であることを意味するわけではない。「プロ」は「プロ」を定義する社会的な仕組みによって与えられる形式である。
しかし、アマとプロの実質的な違いもある。アマは他人に教えて報酬を受け取ることはできない(「レッスン・プロ」の制度がある。)し、大会で、上位に入賞しても、賞金や商品をもらうことはできない。そこでアマは、ゴルフで食べていくことはできない。自立した生活のためには「プロ」になる必要がある。
釣りにおいては、ウィークエンド・アングラーズやセカンドライフ・アングラーズのように遊びの釣りであるのか、それとも漁師としての生業のための釣りなのかという違いはあるが、スポーツ界におけるアマとプロの区別とは異なり、その違い・区別は何らかの契約や資格の有無によって生じるのではない。漁を始めたばかりの下手な漁師は、下手であっても、漁で生活を立てているなら、そのときすでに、プロというならプロの漁師であるはずである。アマの漁師(または釣師)が何らかの社会的な仕組みの関与によってプロの漁師(釣師)に変わるということはない。
漁協の組合員資格は、漁師で生活を立てることとは関係がない。延縄や網や籠を使った漁でなければ、つまり一本釣りの場合には、漁協に加入しなくても、誰でも自由に、あるいは勝手に行うことができる。延縄漁や網や籠を使った漁をするには、漁協を通して自治体の許可を受ける必要がある。しかし、組合に加入するためには最初一定の出資金を払うことが求められるだけで、何か技量審査やテストのようなものがあるわけではない。こうして、だれでも漁師になれるし、また、漁協の組合員になることもできる。
しかし、漁協の組合員になることは生活の保障とは関係がない。サッカーや野球ならプロのチームに所属することで給料が支払われる。あるいは日本相撲協会に所属する「相撲部屋」に入れば、関取になるまでは部屋の仕事をし、無給だが生活が保障され、関取となればきちんとした給料をもらえる。漁協が沖に定置網などを所有し、そこにかかる魚を水揚げして出荷する仕事を漁協としてやっているところもあるようだ。その場合には漁民が漁協に加入することは他の会社に入って働くのとおなじことになる。しかし、一本釣りの漁師の場合には、「資格」や「所属」に関係なく、自分の実力だけで自分と家族の生活を支える。釣りだけで生活を成り立たせるのは難しく、他のアルバイトで不足分を稼ぐ「兼業漁業者」もいるが、漁ないし釣りが生計を立てる稼ぎとして行われているかぎり、アマかプロかどちらかに分類するとすれば、プロの漁師ということになろう。
こうしたことは漁業(釣り)に関してだけあてはまる特殊事情ではなく、主として自家用の米や野菜作りを行っている農業者などにも当てはまる。私の友人で、東大哲学科卒業で、農業で暮らしている者がいる。農業を営むのに資格は必要ない。かれはサラリーマンが趣味で休日に畑作りをしているのとはわけが違う。プロとアマという語を用いて、労働(身体活動)を生計のために行っているのかそれとも遊びのためなのかを分類するとすれば、その私の友人はプロの農業者である。
漁師ではなく、釣り具メーカーなどから給料を貰う少数の「プロの」釣師がいる。このプロたちは魚を、食べたり売ったりするために釣るのではない。新しく開発された釣具をテストするテスターという仕事にふさわしい釣技を持っていることを示すために釣るのである。かれらの社会経済的地位を規定するとすれば、特別の技能を買われて雇用されている「嘱託」というところではないだろうか。
遊びを起源にもつスポーツ、あるいは、近代になって新たに作り出されたスポーツでは、身体運動とその技は、実用的な事物を生み出すことのない「遊戯」であるが、釣りはもともと獲物、食料を手に入れるための技ないし業である。資格や所属によるアマとプロの違いがないというだけでなく、ゲーム・フィッシングを除けば、釣りにおいては単なる遊びの釣りと生業の釣りのあいだの区別自体が存在しない。釣人が釣果、獲物をどのように扱うか、自分と自分の家族の主な生活手段にするのかどうかの境目のはっきりしない違いがあるだけである。
収穫・獲物があると言う点では、釣りは、家庭菜園での野菜作りや、山菜取り、潮干狩り、磯遊び、素潜り、狩猟などとおなじグループに入る。釣りは、さまざまな遊び、趣味のうち、(知的精神的快楽を得るというよりは)獲物を得ることを目指す、屋外での、あるいは自然環境のなかでの遊びの一種と定義できる。
ベジタリアン的志向を持つ人々は、野菜、山菜を作ったり採ったりすることと、動物を殺すことになる猟や釣り(さらに潮干狩りも?)との間に、線を引きたいと思うかもしれない。ベジタリアンの「生命倫理」については議論しないが、私は、釣りと狩猟との間にはかなりの違いがあると思う。
外国には釣りと猟が1つのクラブになっているところもあるという。釣りも猟も動物を獲物として狙う点は共通する。しかし、両者の違いも大きいようにも思われる。生け捕りは別として、銃で動物を撃つということは殺すことを意図するということである。殺すことを抜きにした猟というのは普通考えられない。エリアスによれば、狩猟では人間が直接に獲物を殺すが、英国において、18世紀末くらいから始まったスポーツとしての狐狩りでは、人間は直接手を下さず、訓練した犬に追跡させ、捕まえた後も最終的に犬に殺させる。だがそれでも、狐を追いかけ、捉え、殺すのを「見る」興奮を楽しむのである。
しかし、釣りにおいて当りに合わせて釣り針に魚を掛けることは、殺すことではないし、殺すことを意図していない。銃で動物を狙うのは、剥き出しの暴力によって、有無を言わせず相手を殺すことである。釣りにおいては、餌を取って逃げようとする魚との駆け引きがある。釣り人はしばしば餌取りのうまい魚に餌を取られて悔しがる。針に掛けた後、イシダイやハマチなどの大型魚では力ずくの戦いになるが、たいていは、糸を手繰ったり出したりして魚とやりとりをしながらすこしずつ寄せる、かけひきを楽しむのであり、取り込んだあとも、船内の生簀などに入れて帰り、その後、もっと大きな生簀に移して、しばらく眺めて楽しむこともある。私は、マダイ釣りを始めて間もない頃に釣った、産卵前できれいな桜色に輝く70センチ超のマダイを、1週間、直径1.5m深さ2mほどの生簀に入れて毎日眺めた。しかし、最後は生簀の網にこすれて片方の眼が白濁してしまった。生簀に入れてもいつまでも元気に泳がせておくのは無理なのである。
何回か、船から釣ったイシダイ、イシガキダイ、マダイを生かしたまま、なじみの旅館に持っていき、客に見せるための水槽に入れて泳がせたことがある。このとき、釣りの愉しさを最も強く感じた。(この魚も早晩、客の注文に応じて食卓に供せられることになるのだが。)
東京にいたときには、三宅島などで大型を含め10匹ほどイシダイを釣ったが、すべて、死んでから家に持ち帰るほかなかった。愛媛の漁村に住み、船で釣ったイシダイは最大でも3キロ半足らず。多くは2キロほどで大きくはなかったが、生きて泳ぐその勇姿をみることができ、強い快楽を感じた。死なせたくないと思うし、自分で包丁の先をえらの後ろから刺して殺す(〆る)のは楽しくない。他の人がそうするのを「見る」ことも楽しくはない。猟では殺すことの興奮を楽しむのであるが、釣りにおいては全く違う。釣った魚は最終的には〆て、つまり殺して、自分で食べたり、他所に送ったりするのだが、釣ることが即殺すことではなく、また釣った魚を殺すことを楽しむということは全くない。釣りは猟とは異なる、そう感じる。
Hunting,英語版Wikipedia
『平凡社百科事典』によれば、狩猟とは人類が他生物と交渉する形態の一つで「保護、畏敬、無視などと並ぶ敵対の関係に属し、その生物とくに野生鳥獣を捕獲殺害することを目的とする行為」である。「人類が野生鳥獣と競合・闘争して相手を排除しようとする方式を、人の側からみた場合の呼称であって、これを日常の生活手段としている者が狩人と呼ばれる。この古い意味が人類の勝利が明らかになるにつれてうすれていき、しだいに娯楽・スポーツとしての意味を多く含むようになったのが現代の狩猟である」という。
現代日本においては、人間社会が、ハンターと言う「専門家」を通じて、クマやイノシシなどの動物を殺害・排除して、平穏な生活を守ろうとする活動が狩猟だということである。観光客や住民がこれらの動物に襲われる事件が起こると、地元の猟友会などに捕獲要請が行われる。こうした場合には、狩猟は遊びではなく、専門的な仕事であることがはっきりする。カモ猟などは少し違うだろうが、銃があるからといっても、狩猟は命懸けの戦いであり、釣りやゴルフを楽しむように、一般サラリーマンが簡単に趣味にすることはとうていできない荒っぽいスポーツである。
人食いザメなら「害獣」として、殺し、排除することを目的に釣るかもしれないが、一般の魚を釣るのは、それらと「競合・闘争して相手を排除」するためではない。もともとは食料を得るための楽しい労働として、そして現代においては大部分は魚との駆け引きや格闘を楽しみまた幾分かは生活に役立たせるために、釣るのである。
自分で手を下さず犬を使って狐を殺させるイギリスの「狐狩り」のように、「殺させる」ことも全く同じように残酷だと感じる人もあるだろう。現代人は、日常的に刀剣や弓矢であるいは銃で、人や他の動物と戦い、殺害する必要が全くない。戦争という異常時にも一般市民は、かつてよりもはるかにひどい被害を受ける可能性は強まっているが、敵を殺害するために直接に自分で手を下すことはほとんどないであろう。
50年以上前、つまり子どもだった頃に、私は、飼って育てたニワトリやウサギを私の親が絞め、羽をむしり、皮を剥ぎ解体するのを見たし、その肉を使った料理を食べた経験がある。当時は日本の経済成長前で肉は十分食べられなかった。市営住宅団地であったが、周囲の家でもニワトリを飼っている家はいくらでもあった。しかし、現在では、田舎であっても、そうした光景はめったに見られず、ほとんどの人がスーパーなどで肉を買う。「殺す」プロセスは家庭から遠ざかってしまった。
現代社会で暮らす私たちは、生き物を傷つけたり殺したりすることには慣らされていないし、見慣れてもいない。われわれが日常的に必要とする衣食住に関わる品々のほとんどすべては自分で作ることはなく、出来合いのものを買う。家を作ることについては言うに及ばず、イスやテーブル、本箱などを作る人がどれだけいるだろうか。食事も、食材を買ってきて調理するというのがせいぜいで、コンビニで弁当を買ったり、ファミレスやラーメン店でしょっちゅう食べるという人も多いだろう。そして、食材を自前で調達できる家庭はほとんどない。少々の野菜なら、庭があれば自分でも育てることができるが、肉や魚介類の場合には、牛や豚を育てそれらを殺し解体処理することなどとうてい不可能だし、海辺に住んでいても魚や貝を獲ることも簡単ではなく、われわれは、職業として行う、専門の牧畜業者や食肉処理業者、あるいは漁業関係者に依存せざるを得ず、それらの人々の手を経た食材として入手するほかないのである。
私たちは「屠畜場」に運ばれた家畜が「屠殺」されるということは知っている。しかし、その方法は知らない。私の使っているパソコンの「辞書」には「屠畜場」という語も「屠殺」も入っていない。私たちは殺された動物の解体処理について何も知らない。私たちが目にする肉はすでに切り分けられパッケージされたものか、胃や腸の内容物などはもちろんのこと血液などもついていない、きれいに処理された枝肉であって、われわれは、殺すことに伴う苦労や負い目を一切感じずに舌の快楽だけを味わうことができる。われわれは日常の食事に供する哺乳動物を自分で殺してから食べなさいと言われたら、たぶん食べずに我慢することのほうを選ぶだろう。
つまり現代人のほとんどは、動物性の食物に対する欲求、あるいは動物の肉を食べることへの欲求を持ってはいても、その動物を捕獲し殺すこととは無縁の生活を送っているのである。こうして、生き物を殺すこと、生き物を傷つけ血を流すことを、自分の食べている肉や魚と結び付けることなく、「残酷」だと考える。
この10年かせいぜい15年ほどのことではないかと思うが、イノシシなど野生動物が人里に現れて問題になっている。私の住む漁村でもイノシシが出没し、今日も庭のあるいはわずかばかりの畑の作物をやられたと住民がこぼす。役所に頼み捕獲用の檻が仕掛けられたこともあった。また、あるとき、アコヤガイ養殖の仕事中の漁業者が、海を泳いでいるイノシシに出くわし、二人がかりでロープを掛けて捕獲した。港についたところで「ゲンノウを食らわした」がすぐには死なず、さらに縛ったまま作業用のホイストで吊るし、喉を切って殺した。子供たちも数人、うわさを聞きつけて集まったが、近づいて観察しようとする(私はそうしたのだが)子供は一人もいなかった。顔を手で蔽い、目だけ覗かせて、5〜6mも離れてこわごわ眺めるだけだった。捕獲し、「ゲンノウを食らわせ」、喉を切ったのは、70過ぎの漁民である。これから毛を丁寧に焼いてきれいにする。皮のところがうまいのだという。彼の息子はサラリーマンである。息子はきっとイノシシと出会っても、自分の手で捕獲しようとか、殺して食おうとはしないだろう。
そのイノシシであったか別のものだったかは尋ねなかったのだが、春祭りの折、消防団のために用意されたシシ鍋に呼んでもらい、イノシシの肉を食する機会に与った。予想とは違って、やわらかく、癖もまったくなく、おいしかった。だが、私も、都会暮らしが長くなってしまったためだとしか考えられないが、食べるために自らの手を下すことは遠慮したいと思うし、また、これは大きい声では言えないが、家の裏にイノシシが現れ、捕獲用の檻が仕掛けられたときには、イノシシがそこに入らないように願っていた。
われわれは、次第しだいに、理屈ではなく感覚において、対象を直接に狙って殺す猟は好まなくなっているのだ。日本人のほとんどは哺乳類以上の動物を自らの手で殺害することを好まないし、ウサギやニワトリのような小動物でも一羽を解体処理して食べるということはしないだろう。
2011年1月4日愛媛新聞には、見開き2ページを使って「獣たちの“逆襲”、県内野生生物被害は今」と題する特集を行なっている。この特集で「評論」を書いている愛媛大学農学部の研究者によれば、農林業の衰退、農村の縮小により、動物たちが山から平野部におりてこられるようになった結果、被害が拡大しているという。私のここでの議論と関係があるのは、これら獣の駆除に関連した、狩猟に関する点である。20年ほどの間に「狩猟人口」は2割ほど減った。猟銃免許取得者数が減っている。しかし、わな猟免許の取得者は増えているという。野生動物と敵対関係が生じているにしても、直接殺すことは避けたいという傾向があることの表れと見ることできるのではないか。
古代ギリシャ人は違った言葉を話す人間を自分たちとは異なる生物だとみなし、牛馬並みに、奴隷として扱うことを厭わなかった。だが、他方で、猛獣や「害獣」と異なり、付き合いが難しくなく、四肢を有し、人間の姿かたちに近い哺乳動物に関しては、自分たちの同類とも感じた。爬虫類の多くは四肢を有しても害獣であるか、ヘビ使いのような特殊な職業の持ち主以外には「つきあう」理由がないと感じられただろう。ただしウミガメなどは海洋民族にとって、親近感を感じた存在だったかもしれない。小学生の頃、イモリやカエルを教室の水槽で飼って観察したことがあるが、両生類も飼って眺める対象にはなりえても、親しく「付き合う」関係にはならないだろう。
犬や猫などと較べれば、大型で糞の始末などは大変なのではないかと想像される牛や馬などの家畜が、かつて農家で人の暮らす居住部分に同居していたこともある。これは、機械の存在しない時代、単に、労働力として重視された結果だとばかりは思われない。ペットに対するのに似た親近感を人々が抱くことができたからに違いない。
私が小学校の頃にはハトを飼うのが流行った。私もハト小屋を作ってもらい、何羽も買ったが、ハトは賢く、よくなつき、友達になることができた。文鳥など、小鳥も同様である。あるとき、ゴム紐と木の枝の又を使って作るパチンコ(ゴム弓)が流行った。ハトを飼うずっと前である。電線に止まっているスズメを狙って打ったら、運悪く当り、スズメが地上に落ちた。「当った!」と喜んだのは一瞬だけであった。私は小さなスズメの死骸を手にして、かわいそうなことをしてしまったと強い後悔の念に囚われた。これは「鳥には足があり人間に似ている」と思っていたからではない。飛び回っているのを見るのが楽しいのに、私が放った石のせいで死んで動かなくなっているスズメを見るのが悲しく、悪いことをしたと感じたのである。すずめ焼というものが有り、昔はかすみ網などで取って食糧にしたこともあったようだ。また今でも、珍味として食べさせる店もあるようだ。しかし、スズメのような小鳥は食料としての価値は少ない。私は、パチンコで何かを狙って打ち、的に当てることが楽しかっただけであり、小鳥を獲って食べようとする積りはなかった。小鳥は食べるために存在しているのでなく、飛び回って目を楽しませてくれる存在だった。
野鳥でも餌付けがうまくいけば飼うことができて、ウグイスやメジロのように鳴き声で人を楽しませてくれる鳥もいる。あるいは鷹狩では、狐狩りの猟犬のように、人間のスポーツの助手として、あるいは人間はそこでは単に「見る」だけだとするなら、「プレーヤー」として活躍して、人間を楽しませてくれる。こうして、鳥は人間が「付き合う」理由が大いにある動物である。鳥類は人間に親しいものであり、近いものだと感じられる。
焼き魚にするのであれ刺身にするのであれ、魚屋で1匹物の魚を買うときに、気味が悪いと感じる人はほとんどあるまい。だが、クリスマスにローストチキンを作ろうと、ブロイラー、つまり頭と足先、羽毛のついていないニワトリないし鶏肉を丸ごと一羽あるいは一匹買うときに、全く何も感じない日本人はどれくらいいるだろうか。ニワトリは「手羽」と腿(もも)がついている。つまり、「手足」がある。少なくとも二本の足がある。獣や鳥は足を使って歩行する。鳥の主要な移動手段は翼であるにせよ、すでに、人間の手で絶滅されたドードーのように歩行しかしない鳥もかつては存在したし、ニワトリのように、ほとんどは歩いて生活する鳥類もいる。歩行は人間への近さの重要な指標と感覚的には感じられる。
しかし、魚は、ヒレだけである。ヒレが鳥や獣の、そして人間の「手足」に似ていると感じる人はほとんどいないだろう。そして、魚は足を使って歩行するのではなく、ヒレで泳ぐのである。
イザリウオは腕のように太い胸ビレを使って、人間の赤ん坊が「這う」ように海底を這って移動する。ホウボウは、大きなムナビレの先端がササラのように分かれていて、これを細かく律動させることで、海底を這うというより滑行するように進む。ホウボウは「這(は)うぼう」、つまり「這うウオ」が語源だという。
イザリウオは、(除外例を詳しく述べる必要は全くないのに!)アンコウ目(モク)の魚で、アンコウと同様、背びれの変形したものである「吻端(ふんたん)触手」を揺り動かして餌動物を誘引する。アンコウの英語名anglerfishは「釣りをする魚」を意味する。イザリウオも釣りをするのである。〈アンコウの待ち食い〉ということわざがあるというが、アンコウは実際には海底に静止したまま餌の動物が近づくのを待つだけではなく、しばしば中層ないし表層まで泳ぎ上がって回遊性の魚や海鳥を食うと言う(平凡社、DVDROM『世界大百科事典』)。アンコウは胸ビレが大きく、うまく泳ぐことができるのだろう。しかしイザリウオのムナビレはほとんど腕のようで泳力は小さいと思われる。体つきも頭がひどく大きく、泳ぎの遅いハリセンボンよりさらにずんぐりしている。これでは素早く泳いで餌動物を捉えることはできないはずだ。やや薀蓄を傾けすぎたかもしれない。イザリウオが歩くと言うことが重要なのではなく、魚は歩かず、泳ぐのだと言いたいのである。
また、魚は水中に住みエラで呼吸するが、鳥や獣は人間と同様、地上に住んで――昼間は空を飛ぶ鳥も夜は、地面に生えている樹木に止まって寝るのである――空気を吸い、肺で呼吸するのである。また、生物学的には、魚のウロコは鳥の羽毛や動物の体毛と同様、皮膚の変化したものだとされるが、感覚的には、ウロコは、魚の姿形と同様、鳥や獣との違いを示す証拠であるように思われる。
近代の有名な生物学者をはるかに超えているとダーウィンに言わせた、すぐれた生物学研究者でもあったアリストテレースは動物を生息場所によって区別し、水生動物と陸生動物および両生の動物に区分した上で、イルカとクジラを「あらゆる動物中で最も奇異」だと呼んだ。彼は魚がエラで呼吸することはもちろん、他方でイルカとクジラが噴水管をもち肺で呼吸していることを認識していた。また哺乳することも知っていた。魚類はほとんど卵生である。そこでアリストテレースの分類ではクジラやイルカは「胎生(哺乳)水生動物」であった。確かに、空気を取り入れて肺で呼吸するにもかかわらず、水中で暮らすというのは不便であろうから、「奇異」と彼が言うのももっともである。
また、彼は軟体類、昆虫類などを「無血動物」と呼ぶ一方、「有血」つまり赤い血を持つ脊椎動物を、二足歩行(人間と鳥類)、四足歩行(獣と爬虫類)、魚類に分けた。彼は動物の本性は感覚と運動にあると考えたが、足は運動の主要器官だからである。彼が「足の数を重視した」(『動物誌』の訳者・島崎三郎の解説。岩波文庫p359.)のも当然である。
日本においても昔から、同じ海洋生物であってもヒレをもつ魚類と4本の足をもつ亀(注)とをはっきりと区別していたことは、浦島太郎の物語から分かる。かれは漁師であり魚を獲って生活していたが、亀は助けてやった。
(注)海ガメの足はヒレのようなかたちをしている。『国民大百科事典』によればカメの四肢は五指性で指先につめを備えているが、水生種には指間に水かきが発達する。四肢はリクガメでは柱状でウミガメは櫂状となる、という。ウミガメの足はヒレに似ているがヒレではなく「櫂状」の足なのである。
こうして、クジラ類が肺で呼吸しており、哺乳動物であっても、水の中で暮らしており、手も足も持たないとすれば、他の陸上の動物よりも魚類に似たもの、魚の仲間と見なされたとしても何の不思議もない。われわれの日常の感覚は「科学的、生物学的」知見、あるいは現代の動物分類学の概念とは一致しない。
人間は他の動物を食べるために殺すのだが、殺すことに抵抗を感ずるかどうかは、人間がその生物を自分に近いものと感じ、仲間と見なすかどうかということによって左右される。こうして、昔から漁業国であったノルウェーをのぞく、欧米諸国の捕鯨の全面禁止の要求にもかかわらず、われわれ日本人は、クジラ肉を食べることは牛や豚やニワトリの肉を食べるのと較べて、はるかに、抵抗がない。(もちろん種の保存の必要などはまた別な問題である。)
とはいえ、クジラ肉を食べるのは、終戦/敗戦直後とは違い、必要からではない。われわれの食習慣の延長上のことではあるがグルメのために食べるのである。すると、種の保存を重視し、またクジラやイルカを仲間、友達と見なして、捕鯨やイルカの漁に強く反対する、欧米諸国の人々の感情を尊重してもよいのではないだろうか。イルカの保護団体は彼らの文化の中で形成されたハビトゥス(習慣)に従い、イルカ漁は人間の虐待同様に許せないものと感じるのである。すると、問題は文化と文化をどのように折り合わせるかということである。確かに彼らの行為の中には一部行き過ぎがあったかもしれない。しかし、イルカが高い知能を持っていて、相当な程度コミュニケーション可能であることなどがテレビなどで放映されたり、多くの水族館でショーが演じられたりしていて、日本人でも、子供たちにとっては、犬などのペットに劣らず、自分たちに近しく親しい、友達同様の存在と感じられるようになりつつあると思われる。おそらく、近いうちに、イルカを食べるべきではないというのは日本でも世論になるだろう。神事など伝統的な文化のためにイルカの捕獲が必要だというのであれば、追い込み漁のように多数のイルカを捕獲する必要はないのではないか。また、実際に殺さずに、模擬的な行為に変える工夫も考えられるのではないか。
われわれは前章でエリアスに従って、「スポーツの歴史」が暴力を抑制する「文明化の過程」であることを見た。人間は、戦争という非常時を除き、暴力の行使を抑制する傾向を強めてきた。剣闘士のような人間同士における殺し合いばかりでなく、猫を焼殺して楽しむというようなアニマル・スポーツは次第に嫌われるようになった。英国ジェントルマンの好んだスポーツである狐狩りも今世紀に入って、反対世論の高まりによって、禁止された。ペット動物の虐待も強く非難される傾向にある。捕鯨やイルカ漁に反対し、体を張って阻止・妨害の行動が行なわれている。私は、残酷だと感じるレベルが国や文化的伝統によって異なることは認めるが、残酷だと感じられる行為はできる限り(というのは必要との関係においてであるが)減らすべきだと考える。
「文明化の過程」は、仲間とみなすもの、近しいと感じられるものに対して行使する暴力を次第に抑制する過程であった。あるいは、同類と感じ、仲間扱いする動物の範囲を広げる過程であった。暴力の抑制を求める範囲は、人間に「似たもの」から始まり、次第に広がっていくということはたしかだろう。
18世紀後半以降のイギリスでは、アニマル・スポーツに反対する運動がおこなわれるようになった。飯田前掲書、また、松井良明「失われた民衆娯楽―イギリスにおけるアニマル・スポーツの禁圧過程」望田幸男、村岡健司監修『スポーツ』<近代ヨーロッパの探求>G(ミネルヴァ書房、2002)、第4章)などによると、この時代に福音主義者たちによる人道主義的な、動物愛護論が展開された。アニマル・スポーツや狩猟ばかりでなく釣りも残酷だとする論者もいた。この運動が最高潮に達したのは、1824年に「動物愛護協会」が設立され、「牛馬愛護法」や「闘鶏禁止法」が成立したときで、牛攻めや闘鶏など庶民のスポーツは禁止された。だが、釣りは禁止されず、また支配階級であるジェントルマンたちのスポーツである狐狩りも禁止されなかった。後者には、大衆的な娯楽ではないがゆえに目立たなかったことと、また議会を支配する者たちの階級的エゴイズムが関係していると推測される。
他方、大衆的に行なわれていたにもかかわらず釣りが禁止されなかった理由は明らかであろう。つまり、猫や牛に較べて魚は人間の親戚とは感じられなかったがゆえに、釣ること、釣って食べることが残虐な行為だと感じる人が少なかったということである。猫を焼殺し、逃げられないようにした牛に犬をけしかけるのをみれば、猫や牛が苦しんでいることは一目でわかる。なるほど、ジェントルマンたちは犬に狐をかみ殺させるのを楽しんでいた。しかし、猫や牛は家畜として身近にいる動物であるのに対して、狐は野生で、飼っているニワトリを襲う害獣でもあるなど、一応、区別はできるのである。そして、魚は、市場に行けば、魚屋で売られている。それは食料なのである。釣り人以外は、針にかかって暴れる魚を目にすることはない。そして何よりも、姿形が、陸上の動物とは全く異なる。魚は人間が仲間と感ずるには極めて遠くにいる存在である。私は、英国・人道主義者の運動が魚釣りの禁止に失敗したのは当然だと思う。
魚は切り身で売っているものもあるが、多くが1匹物で売られている。日本人の多くはサンマ、サバ、アジ、イワシなどを家庭で丸のままか、あるいは三枚ないし二枚に「下ろして」から切り身にして、焼いたり煮たりして食べている。このような現代日本における日常生活を背景にした、魚に対する常識的な考え方、感じ方のなかで、われわれは釣りをし、釣った魚を〆、食べているのである。人間の愛好する特定の動物に関して虐待や殺害を禁じる法律が実際に存在するし、その範囲が拡大する可能性はあるが、動物一般を殺すことを悪として禁じることを倫理学的に根拠付けることは不可能であろうし、数万年の間、動物を食べてきた人間の多数が菜食主義に進んで移ることは考えにくい。
だが、釣りと狩猟との間に、魚類を殺すことと哺乳類を殺すこととの間に、絶対的な違いがあるとも言えない。また、人間が動物性たんぱく質をとらなければ生きていけないという、生物学的、あるいは医学的根拠があるとも思われない。だが、また、牧畜は大きな環境負荷を与えるから牛肉などの消費量は減らされるべきだろうが、魚介類を食べることを一切止めて、つまり、海洋資源に頼ることを一切止めて、たんぱく質をすべて植物性のものに切り替えるべきだというような、地球環境を保護する観点からの根拠があるとも思われない。
結局、どの動物を食べるか、どれを食べるために殺すことをかまわないと考えるかは、倫理学、とくに環境倫理学的議論によってではなく、その社会の歴史、文化的背景によって決まることだろう。現代日本においては、今のところ、それほど大きな罪悪感を持つことなく魚を殺すことができるが、しかし、哺乳類の動物については、それと違った感じ方、考え方をする人が多いということははっきりしていると思われる。
釣りの「獲物」についてもう少し考えよう。バス釣り、あるいはヘラブナ釣りなどでは、対象となる魚は、釣ったあと、生きたまま計量をしてリリースする、つまり水に戻すのであり、他の釣りの場合のように釣った魚を獲物とするのではなく、生き物を釣り上げるまでは同じだが、食べることは考えていない。魚を針に掛け、釣り上げるプロセス(そして釣果を他者と競うこと)に楽しみを見出す。それが目的である。
私は、食べられない魚か小さすぎる魚以外はすべて獲物として持って帰る。私の釣りは獲物を得ることが目的だ。とはいえ、現在は自分自身で食べることを主な目的にして釣るのではない。すでに書いたが、30年程前、東京にいたときに行なったイシダイ釣りも、食べることを目的に始めたのではないが、釣ったイシダイは食べられるところはすべて食べた。そして、6年程前、愛媛県南部、愛南町の漁村に来て船釣りをはじめたばかりの頃は毎日のように釣った魚を食べた。⇒第2部第5章中の「魚好きだった私」参照
しかし、今では、釣った魚のうち、自分で食べるのは1割にも満たないだろう。ほとんどは家族に食べさせるか、知人、友人、親戚にあげるか買ってもらう。買ってもらうのは生計のためではなく、釣りの楽しみを続ける資金の一部に充てるためである。従って現在の私の釣りの目的はほぼ釣ること自体にあるとも言える。ただし、釣った魚を再び逃がしてやるということはしない。
私は「食べない(放流する)なら釣るな」とか、「単に傷を負わせて放流するという釣りは邪道だ」などと言う(⇒注)つもりはない。確かに「遊ぶ」だけの目的で他の生物を傷つけるのは残酷だと感じる人がいると思う。私は対象が哺乳類なら、あるいは鳥類でも、そうすべきではないと思う。しかしゲーム・フィッシングが禁止されるべきだとは思わない。
私は現在、日本に、魚を釣るのは残酷だからやめるべきだという多少でも一般的な意見があるとは思わない。だから、釣り自体の正当化のための議論が必要だとは思わない。釣りに関して多少議論が行なわれているのは、せいぜい、食べることが当然と考えている人々と放流を前提とするゲーム・フィッシングを好む人々との間の議論くらいだろう。その議論は、煎じ詰めると、遊びのために魚を傷つけるたり殺したりすることの是非の問題になる。
まず、一方は、自分たちが、食べるために釣っているのであり、単に遊びで釣っているのではないという前提に立っているように思われる。その前提があるから、他方に対して、遊ぶだけで、釣った魚を食べないのは間違いだという非難をするのだろう。しかし釣って食べるにしても、生活の必要から食べるために釣るということと、遊びで釣るが釣った魚は食べるということは異なるであろう。
「遊びの釣り」は定義が容易である。まず、余暇活動として、愉しみのために行われる釣りは、自分で食べようが家族や友人に食べさせようが、すべて遊びの釣りである。魚を買って食べることができる、つまり魚を購入するだけの収入はあるのに、新鮮であるとか、魚屋で買えない珍しい魚であるとかの理由、煎じ詰めればグルメのために行う釣りは、釣ることよりも食べることに重点が置かれているようにも思われるが、やはり遊びの釣りと考えられる。釣らなくても生活が困窮することはないからである。
では、漁師ではないのに、生活の必要から釣るとはどういうことだろうか。現代においてはほとんど実例を見いだすことができないが、戦前の日本と、戦後間もないころの日本にはその例を見いだすことができる。
一つは、戦後間もないころの高知県での例で、上で触れた雑魚クラブ編『随筆釣自慢』の中で作家の森下雨村が書いた「運・鈍・根」という随筆に登場する彼の釣り仲間の森田という人の例で、森田は、戦争の混乱時に数反歩の土地も、家もなくし、洋裁の店をやっていた奥さんにも死なれた戦争犠牲者で、わずかな貯えも尽きて、食うために、たまたま知り合いに勧められて漁を始めたという。漁師ではないのに「食わんがため」に行なった森田の釣りに関しては⇒第一部「釣り」第6章「 雨の中、風の中の釣り、暑さ、寒さの釣り」のなかの「私はマゾヒストなのか」の節で書いている。もう一つの例は、昭和11年に出版された『水辺手帳』(竹村書房)という本に見ることができる。著者の太田黒克彦という人は「物書き」を職業としていたが、昭和4年の早春、一家をあげて、東京から、常陸の国(今の茨城)、潮来(いたこ)の町外れに、夫婦と子ども5人で移住した。友人から紹介された人を頼りにして、全く過去に縁のなかったその土地へ、「ブラジル移民よろしくの覚悟ででかけた」のである。
「生活の方法は、まず7分は従来の雑文書き、残る3分は漁獲と心にさだめて、かくして、次第に努力していって6分4分、やがて五分五分の半漁半稿というところまでこぎつけることができれば、それで希望の第一期へ到達。それから小資金を作って、やおら第二期の「単純生活」の獲得へという考えであった」。「単純な生活」についての説明はないが、自給自足の素朴で自然的な生活を指すようである。後に、三宅島で釣りをして暮らすことに決めたとき、この島には「損なわれぬ自然はあり、蜘蛛の糸の届かぬ自由はあり、産児制限を必要とせぬ豊かな楽土はあるような思いがされた」と言っている。
潮来に来て、最初は「からだ慣らしや地理水理に精通することが肝要」と、近所の農家から1艘の田舟を借りて、日々、「遠近東西へ艪を押して鮒鯉を釣り廻った」。要するにかれは釣りが好きで、東京で「雑文」を書く暮らしに満足できず、水郷地帯で釣りをしながら暮らそうと考えたのだである。それは露伴や研堂の釣りのように、文章を書く合間を見て、気分転換のためあるいは「趣味娯楽」のために行う釣りではなく、生活の7割を物書きの収入で充てた残りを満たすはずの仕事でもあるような、その漁獲によって生活の糧を得るための釣りであった。この釣りは「必要からの釣り」と考えられる。
実際には、移住後間もなく、妻が悪性の脚気を患って東京の病院に入院治療させる必要が生じるなどして、1年も経たないうちにこの「移民の企ては---挫折」し、東京にいったん戻る。妻の退院後は、湿気の多い水郷地帯は脚気によくないため、潮来に戻ることはあきらめた。しかし近所に三宅島の宿屋の長女だという人がいて、その人のつてで今度は三宅島に移住し、島内の池や磯で釣りをして暮らすのである。この大田黒の場合には、釣り好きの「ロマンチシズムの過剰」(大田黒)がもたらしたことだが、彼は遊んでいるのではなく生活のために釣りをしている。彼が釣らなければ5人の子どもと妻に食べさせることができない。
このような無邪気なロマンチシズムと一体になった「生活の必要」からの釣りを行っている人は、現在の日本でまず見つけることはできないだろう。したがって、漁師ではない釣り人はすべて遊びで釣りを行っていると考えられるのである。
そこで、いま述べた食べる釣り人も、ゲーム・フィッシングで放流する釣り人も、両者とも遊びで釣りを行っているのであるが、一方は食べるために殺すが、他方は殺さず、ただ傷つけるというところに両者の違いがあることになる。
釣った魚を食べずに放置して死なせることと、持ち帰って食べることとを比較するときには、明らかに前者はよくないと、たいていの人は思うだろう。しかし、どちらも魚を「殺す」のである。したがって、そこでは、殺すかどうか、あるいは苦しませずに殺したのかどうかというような、通常、生命倫理と呼ばれる領域で取られる観点とは別の観点から、善悪の判断が行なわれている。そこでは、利用できるものは十分に利用すべきだ、物は無駄にすべきでないという、功利的観点が判断の根拠になっている。
物を大切にしないこと、浪費的であることは、大量のゴミの廃棄と、したがってまた環境破壊とつながっている。そして環境破壊は生存や生活の安全にかかわることである。したがって、たとえば、企業が環境破壊的行動を行なうなら、われわれはそれに抗議しその行為を処罰することを求めることはできる。できるというだけでなくそうすべきであろう。また、釣った魚を堤防の上に放置して他の釣り人の迷惑になるという場合には、それを注意するのも当然であろう。しかし、一般に、釣った魚を食べずに死なせることは他の人に迷惑や危害を及ぼす行為だとは言えない。そして、各人が自己の所有物(釣った魚はその人のものだ)をどのように処分するかは各人の自由に委ねられるということは自由主義に立つ現代社会の一般的な原理であり、他者が、その人としかるべき関係にある場合には、アドバイスをするなどのことはありえても、赤の他人が口出しすべきことではない。つまり、釣った魚を食べるか食べないかは、各人にとっての功利の問題であり、他者が関与すべきことではないし、もちろん非難したり攻撃したりすることはできない。
「食べてやることが命を大切にすることだ」などと言う人がいる。これは「物を無駄にするのはよくない」ということとは少し違う。この主張には自然界の食物連鎖の仕組みを始めとする生物間の相互依存関係、ある生物は他の生物の役に立つために存在しているという観点が含まれている。自然の摂理によって、ある生命は他の生命に食われるために存在し、食われるのは当然である。人間が魚や豚や牛を食うことは、生命の本来の意味、働き、使命を実現させてやること、生命を尊重し、大切にすることであり、自然法則に意識的に従うこととして、その考えは是認されるように思われるかもしれない。
だが、それは人間が生物界の頂点に立っていて、食われる心配がないと考えることから来る、傲慢さが言わせることではないのか。人間が生物界の頂点に位置するというのは勘違いである。人間はノミやシラミに食われる。あるいは寄生虫や細菌やヴィルスによって寄生される。人間も、自然界の食い食われる関係、利用し利用される関係の中にある。そのことを踏まえた上で、この人は、それでも、その自然の法則に進んで従うことは正しいことだと考え、体内に寄生虫がいることが分かっても虫下しは飲まず、ノミやシラミが体についても大切に飼って生かし続けるだろうか。
食べることにより魚の命を奪っておいて、それは命を大切にしているからだと主張したり、あるいは、ひどい場合には、骨も皮も全て大切に食べてやることが魚を本当に愛することなのだ、とさえ言う人もあるのだが、落語に出てくる禅問答のようなもので、もし、韜晦し、答えをはぐらかそうとする意図で言われるのでないとすれば、全くの独り善がり、自分勝手な思い込みでしかない。
生き物にとっては生きていることが善であり、死は生の否定である。生が始めから悪であり存在すべきものでないと仮定するのでなければ、生にとってその否定である死は悪である。人間は誰でも死を厭い、魚でも他の動物でも、掴まって殺されそうになれば、必死に逃れようとする。この誰もが知っている単純な事実を抽象的に表現したものが「生は善で死は悪である。生きているものを殺すことは悪である」である。他の生物を利用すること、殺すことが、人間にとって、自己の生を維持し、また遊びも含めて自己の幸福を増大させることになるということが事実であるにせよ、そのことが同時にその利用され殺される生物の生を大切にすることであったり、その生物に愛情を持つことであるなどということは、全く言えない。
戦前の日本では一般に、あるいは、敗戦後しばらくの間社会が貧しかった時には、釣りは生活の一部として、生活に必要な行為として行なわれていたし、そのようなものだと一般に考えられていた。そして世間の常識として、物は大切にしなければならないと誰もが考えていた。そのような条件下では、釣りが、しばしば楽しみのために、他の仕事をさぼって行なわれることがあったにしても、やはり一般論として「釣りは食べるために行なう活動だ」とみなされていた。そして、当然、釣った魚は、どんな雑魚でも、大切に持ち帰って食べたし、食べなければならなかった。
釣りは楽しい。しかし釣りの目的は楽しむこと、遊ぶことにあるのではないという考え方はそのような社会で育った人々がもっているハビトゥス、習慣の中で獲得されたものの見方、価値基準であり行動を規定する原理、性向の一部である。このような考え方に立つ人々からすれば、釣った魚を食べずに放流する釣り、食べることを目的とせず、ただ釣ることだけを目的とする釣りは「邪道である」、人の道に反する行為でさえあるように見える。しかし、それは、かつての社会で育った人たちの考えでしかない。
豊な社会に育ち、また、生活が職業労働に拘束された不自由な時間とそれ以外の自由時間(各自の裁量にしたがって使うことのできる時間)に区別された生活形態が一般的であるような社会に育った人は、別な考え方をしている。釣りは、空腹を満たしたり、少ない夕食のおかずの足しにする必要から行なうのではなく、必要から行なう昼間のあるいは週日の仕事から解放された後で、遊びで行なうものだと考えている。遊びには、魚を釣り、釣った魚を食べる遊びと、食べずに釣ることだけを楽しむ遊びがあると考えている。現在の社会においては、釣りは生活の必要から行なう行為ではない。釣りは遊びである。どのような遊び方をしようと、人に迷惑を掛けたり危害を及ぼすことがないかぎり自由に行なって構わないのだ。
それでは、次のような主張は可能だろうか。キャッチ・アンド・リリースは、傷つけはしても殺さないという点で、魚の生命を大切にすることである。だから、むしろ、食べるために行なう釣り、殺す釣りはやめるべきで、釣った魚はすべて放流すべきだ。このような主張は正しいと言えるだろうか。私は言えないと思う。
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そのような主張は、魚を傷つけることは構わない、悪いことではないが、殺すことは悪いことだと言うことと同じである。しかし、そのような区別はできない。傷つけ、害することの最大の行為が殺すことであり、生命を損傷することの極限が殺すことである。そして生命を傷つけ、害することが悪であるから、その極限である殺害は悪なのであり、殺害だけが悪であり、殺害に至らない傷害は悪ではないということにはならない。
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現在の日本の常識では、魚は食べてよいし、したがって殺しても構わない生物である。また、遊びの釣りも広く認められている。現在の日本の常識では、釣って(殺して)自分で食べる、あるいは人にあげることが悪いことではなく、またゲーム・フィッシングで傷つけ(て放流す)るのも悪いことではないと考えられている。(この常識が覆される可能性がないとは言えないが、当分はないだろう。)
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だが、もし、魚を殺傷することが、人間を殺傷することあるいは人間の仲間・友達と考えられているペット動物を殺傷することと同様に、悪だと考えられているとすれば、ゲーム・フィッシングも、それ以外の釣りも同じように悪である。
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刑法においては傷害罪は殺人罪よりも刑は軽い。しかし、このことと魚の殺傷を類比的に考えることはできない。人間の場合には殺すことも傷つけることもともに悪であり、禁じられているのである。その上で刑の軽重がある。しかし、魚の場合には、そもそも殺傷は禁じられていない。禁じられていない、つまり悪でない二種類の行為、魚を殺すことと傷つけることの悪の度合いを語ることも、どちらがより悪いかを言うこともできない。一方の釣りは他方の釣りよりも、より悪くもないし、よりよくもない。したがって釣った魚を食べる釣りよりもキャッチ・アンド・リリースを行うゲームフィッシングの方が「より良い」釣りであり、勧められるべきだ、という主張は間違っている。
生命倫理という学問分野がある。その中で放牧の畜牛は殺して(食べて)よいが、クジラは殺してはならないといった説があり、いかなる生物に「生存権」を認めるべきかという、一見筋の通った、しかし正しいとは私は思わない、いくつかの説が欧米の哲学者によって提出されている。加藤尚武編新版『環境と倫理』(有斐閣、2005年)、第6章、伊勢田哲治「動物解放論」でそれらの説の紹介がなされている。第8章「自然保護―どんな自然とどんな社会をもとめるのか」では私がそうした説への反論を行っている。また加藤編『倫理力を鍛える』(小学館、2003年)PART2で私が担当した「商業捕鯨禁止は正当か」、「絶滅に瀕する生き物自身が人間を告訴できるか」への答え、さらに拙稿「自然保護・エコファシズム・社会進化論―キャリコットの環境倫理思想の検討」、川本隆史、高橋久一郎編『応用倫理学の転換』(ナカニシヤ出版、2000年)も参照していただきたい。
さて、釣りは、自然の中で獲物を得ることを楽しいと感じる人によって好まれるだろう。釣りをするのは愉しいから、面白いからだということは確かであり、その面白さ、魅力を分析してみたい。だが、なぜ、釣りをするのかと問われたときに、いくつかの説明があるが、答えにならないものもある。これらをまず退けておきたい。
上では、多種多様な釣りがあること、あるいは、多種多様な目的で釣りが行われていることを見た。「どうして釣りをするのか」という問いに対しては多種多様な答えが可能だということもできる。私は、にもかかわらず、釣りに共通する面白さを説明しようとしている。
他方、釣りは生き物をいじめ殺害する行為であると考える人は(いてもごく少ないと私は信ずるが)なぜそんな野蛮な行為を行うのかと問うだろう。問いの趣旨は異なるが、この場合にも「どうして釣りをするのか」の説明が求められていることになる。
以下では、飯田の著書の中で、紹介され、引用されている、イギリス人たちが行なった議論を材料にして、「釣りをする理由」について検討してみる。
1840年初版の『サケとマスの川釣り』の著者のヤンガーは「健康によいとか、道徳的な瞑想の手段であるとか、美しい田園に出会うためであるとか、詩的感情を喚起するためであるとかという理由付けとそれに対するさまざまな反論を紹介」すること、釣りについてそのような「講釈をすることこそ馬鹿らしいのであり、われわれの中に残った最良の部分、すなわち子どもの部分が昔のままにそうさせるのが釣りであると述べ」ている。
もし、ヤンガーの説明がどうして人は釣りをするのかという問いに対する答えであるとすれば、「人の中に残っている子どもの部分が釣りを求めさせる」のだという説明はほとんど意味のないものである。子どもの頃に夢中になる遊びはいろいろある。ボール遊び、お人形遊び、南国の海辺なら水遊び、北国ならスキー、スケート。これらが大人になってからのスポーツや趣味の選択に大いに影響を及ぼしたと考えることは十分に可能だ。たとえばボール遊びがサッカーに、お人形遊びは演劇に、水遊びはスキューバダイビングに、スキー、スケートは本格的なスキー、スケートに。ヤンガー流の説明では、これらすべてのスポーツが「その人の中に残っている子どもの部分がそのスポーツを求めさせるのだ」ということになってしまう。子どもの時に夢中になった遊びを、成長して大人になってからもそのまま続けているかあるいはそれと同種のスポーツや趣味を行っている人ばかりではないだろうし、そのようなケースがあったとしても、そうした説明では、それぞれのスポーツや趣味のもっているさまざまな魅力を分析し、解明することにはならないということは明らかだろう。
イギリスでは18世紀末に、福音主義者たちによる動物愛護運動がおこなわれるようになった。釣りだけではないが、釣りは生き物を殺す。当時の英国では「遊びで生き物を殺すことは残酷な行為を煽り立てることになる」という社会的非難があった
風景画家であったスクループの1843年の著書『ツウィード川でのサケ釣りの日夜』は、野外スポーツとしての積極的楽しさを語るもので、釣りに対する非難に反論することを直接の目的にして書かれたものではないようだ。しかし、彼が釣りを「正当化」する必要を感じていることは明らかで、次のように書いている。
「ウォルトンの時代から現在まで、釣りについて書いた作家は誰もが、釣りの楽しみを正当化するためになにがしかの努力をしてきたと思います。---しかし釣りにこのような正当化が必要でしょうか。---もし釣りを道理に従わせようというのであれば、私は困惑するばかりです。それは、本能であり、情熱であり、もともと生存のために人間に与えられた力強いものなのです。---」
私は、今、「釣りを正当化」する必要があると考えて書いているのではないが、仮に、正当化が求められたと仮定してみる。スクループは、釣りは「本能であり、情熱であり、もともと生存のために人間に与えられた力強いもの」だと述べることで正当化できると考えている。あるいは、それを、釣りは正当化する必要がないということの理由にしようとしている。
「もともと生存のために与えられた力強いもの」とはどういうことだろうか。釣りは、最初は、単なる遊び、楽しみとして行われたものでなく、生存のため、食糧を得るためにおこなわれた自然との闘いなのだということだろう。これは肯定できる。しかし、「もともと」そうであったにしても、今、19世紀英国の画家が、たとえコース・フィッシングとして食べるために釣っているのだとしても、サケ釣りを「生存」のための食料を得る手段として行なっているのでないことは確かだから、もし釣りが非難を受けているとすれば、「もともと」を持ち出しても、正当化にはならない。
「情熱」とは何か。釣りをする人々は釣りに強い情熱を感じる。たぶんそうだろう。しかし、情熱を感じる楽しみやスポーツは釣りだけではない。ゴルフも、オートバイの爆走も、切手集めも、昆虫採集も、やっている人の多くは情熱を感じているに違いない。別の言葉で言えば、それらの楽しみ、スポーツは、非常に面白いということである。だが、そのスポーツに何か問題があって非難されているとすれば、そして実際、遊びで生き物を殺すのは残酷だというような非難があるとすれば、「それが非常に面白いから」と言っても、何にもならない。
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たとえば、人の生活が行われている場所の近くでのオートバイの爆走は騒音によって人々の生活を妨害することは明らかだ。またゴルフ場の建設と維持管理には自然破壊と環境汚染を伴うという問題がある。(たとえば、谷山鉄郎『日本ゴルフ列島―失われる森、汚される水―』、日本消費者連盟『ゴルフ場はいらない』など参照。中村敏夫『スポーツルールの社会学」(朝日新聞社、1991)は、スポーツ愛好者の観点からゴルフ場建設の問題点を10ページにわたって論じており、参考になる。)「私は爆走に情熱を感じる」、「私はゴルフが非常に面白い」といっても、非難・批判に答えたことにはならない。
スクループは釣りは「本能だ」とも言っている。彼は当時のイギリスにあった釣りに対する懐疑や批判に応え、釣りを正当化するために本能を持ち出していると考えられるのだが、現在の日本では、釣りに対する非難のようなものは、釣り場を汚すマナーの悪い釣り人がままあることと、外来種であるブラック・バスなどが勝手に持ち込まれ在来種の魚類が脅かされ、あるいは湖などが不心得者により私物化されていることについての指摘などを別とすれば、ほとんどないと言ってよいと思われる。だが、正当化のためにではないが、釣りの快楽を説明しようとして、しばしば本能が持ち出される。
上で見た三浦秀文の「釣り天国」という文では、「海釣りにおいては、海の幸を求める人間の本能が躍如としており、漁スナドリする心、----生きるものの生命の躍動がある」と言っていた。
また大下宇陀児(1896−1966)は本業は推理小説家であったが、私の記憶では、かつてNHKラジオの「二十の扉」か「話の泉」どちらかのレギュラー出演者であった。彼は、「ぼくは原始人」(『釣り師のこころ』<集成 日本の釣り文学6> 作品社、1995 )という随筆で、「なぜ釣が面白いかと聞かれると原始人の狩猟本能が残っているからだ、とでもこたえるよりほかない。つまり、ぼくは、甚だ原始人的である。-----原始人であるぼくは、原始人である証拠には、現代文化の特産物を欲しいと思わない。パリへも行きたくない。よいカメラやよい時計、よい万年筆ですらとくに欲しいとは思わない。ほしいのは、よく釣れる、静かな、そして足場のいい川だけだ」と言っている。彼は「生まれつき足が弱い」と他のところで書いている。
中村星湖も本能が原因だとしている。星湖は明治40年早稲田大学英文科卒業、明治末期から昭和初期にかけての自然主義作家として知られている人物である。かれの『釣りざんまい』(1935年、昭和10年刊)は4篇構成で、第一篇「釣りの文献」には釣りや漁について書いてある古今東西の文献からの文章が集められている。第二篇「釣りの哲理」で人はなぜ釣りをするかなどの議論がなされ、第三篇「釣りの実際」は釣り方、釣り餌などについて書かれ、第四篇「釣りの随筆」には18編ほどの随筆が載っている。以上は丸山信『釣りの文化誌』の紹介による。
私が読んだのは『釣りひと筋』(<集成 日本の釣り文学>1.)で『釣りざんまい』第二篇「釣りの哲理」を再録したものである。星湖は「時間をかけ、さまざまな準備をし、また河海の険難を冒して魚を釣ろうとする、この釣りの趣味、職業でもないのに魚を捕らえようという欲望の原因は何か」と問うて、曰く、釣り好きになる事情、原因は「理性的、意識的なものでなく感情的、意欲的もしくは本能的なものであろう」。だが、釣りが本能的、あるいは本能にもっとも近いものと考える理由は無邪気な児童また無知な野蛮人に強くあらわれているからばかりではなく、人間の原始時代の生活手段のもっとも重要なものの一つから来ているからである。
「生物もしくは人間の本能は二つ、自己保存と種族保存の本能。自己保存本能に属すると言うことは、職漁家の場合にはぴったり当てはまるが、遊漁家には間遠いような気がする。ただ食物を得ようとする本能というだけでなく、種族本能〔つまり性欲〕も関係しているのではないか」と言う。
星湖は道楽と言うほどのものは少なかったが、「凝るほうで」、「文学が第一で、次は碁もしくは弓だった。三番目が釣りだ」という。彼によると、性欲を満たす行為を「実行に移すときには泥まぶれにもなれば、砂まぶれにも、もっと汚いものにもなる」。そして「人生の現実は汚わいに他ならない。この現実に耐え切れないものが、恋を夢見、芸術を造り、娯楽に逃れ、旅にさすらう」。彼は、「文学は性欲、すなわち種族本能の変態〔変形〕だと早くから考えていた。釣りもそうじゃないか」という。彼は、当たりを感じたとき、魚と引き合うときの快感を、「後頭部に、そうでなければ腰で感ずる。これは性的快感と似ている」と言う。中村星湖は「泥まぶれ」になることを嫌って、性欲を遠ざけた結果、文学と釣りを行うことになったのかもしれない。
『思想の科学』という雑誌の編集者だったことがあり、またウォルトンの『釣魚大全』の訳者である、森秀人は、釣師を海へ誘うものは縄文人文化への郷愁と見ているという。彼は釣りをとおして、「ぼくの中の古代人を発掘している----。人間の本当の姿はケダモノであると思う」と述べているという。(仲村祥一「釣魚論−時間と娯楽―」、仲村編『現代娯楽の構造』、昭和48年、文和書房)
また、森は『日本大百科全書』(小学館、昭和62年(1987))の彼が執筆した「釣り」の項目では、「男性のほうが女性より釣りを好むのは、男性がアンドロゲンとよばれる男性ホルモンの分泌やアドレナリン(副腎皮質ホルモン)の分泌において、女性を上回るからである。どちらの物質も、狩猟本能、攻撃本能を増加させる」と述べ、釣りを「狩猟本能」に基づくもの、しかも、狩猟本能には性差があり、釣りは男性によって、より好まれると言う。性差に関してはあとで再度触れる。
森は「へら鮒の生態」(<名随筆>4『釣』)という随筆の中では、「現代のへら鮒釣は狩猟に似たゲームになっている。浮子〔ウキ〕の前触れは、ねらいを定めて鳥の翼の静まるのを待っているハンターと同じ心象を与える。鳥は、ねらいの圏内に入っても警戒して少しも静止しない。鉄の臭い、人間の臭い、火薬の臭いが鳥の注意力を高めるから。狩猟家は引き金に当てた人差し指に力を込めたまま、自らも息をこらしてチャンスを待つ。浮子の前触れが瞬間、わずかに止まり、ほんの数ミリだけ、もぞもぞと沈む。ブレーキの効いた重量感のある当たりである。愛竿のサオ尻を握り締めた右手が前方にさっと突き出される。この感触はハンターが引き金をひくそれとまったく酷似している。----」と言う。
森は、狩猟もやったことがあり、ヘラブナ釣りと銃を使った狩猟に共通する、緊張、興奮を見出したのかもしれない。そして、ハイテク素材による釣具を使い、専門のエサを工夫する、ゲーム・フィッシングと言われる現代のヘラブナ釣りの面白さを、「狩猟」をキーワードにして、人類の祖先の「狩猟行動」と結びつけて「連想」したのかもしれない。
だが、釣りにおける合わせの緊張を、銃を発射するときの引き金を引く瞬間と重ね合わせることに必然性はない。たとえば、狩猟をやったことはなく野球を熱心にやっている人は、3ボール2ストライクのあと、投手の投げた変化球を打ち返すべく、狙い済ましてバットを振ろうとする瞬間を思い描くかもしれない。また、陸上の短距離走においてスタートの合図を待つランナーたち、チームで行うスカイダイビングで飛行機から飛び出すタイミングを計るダイバーたちなども同じように緊張を感じるはずだ。だから、釣りの合わせが感じさせる緊張感が森秀人には銃撃の瞬間を連想させたにせよ、様々に可能な連想の1つに過ぎず、狩猟との結びつきを特に根拠付けるものではない。
ほとんどの人は、生物としての基本的な欲求の実現には快を感じるようになっている。原始人であれ、現代人であれ、ほとんどの人にとって、生存は快であり(死は恐怖であり、苦である)、食も快であり、セックスも快であろう。生きることが苦痛になり、食べたくなくなり、セックスを避けるとすれば、一般的には、心身に何らかの不調が起こっているためだと考えていいだろう。アリストテレースが『動物誌』のなかで生殖と食の追求に関して語りつつ「本性に適ったことは快く、すべての動物は本性に適った快楽を求める」と言っている(589A)ことは、人間にもあてはまる。
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釣りが快であり、楽しいのは、生物あるいは動物としての基本的な欲求を満たすからなのだろうか。基本的な欲求は本能といっていいのだろうか。そもそも本能とはなんであろうか。アリストテレースのいう本性とは本質的な性質・特徴という意味であり、決まった固定的な行動パターンを意味する本能のことではない。
辞書では、本能とは「動物が外囲の変化に対して行う、生得的でその種に特有な反応形式」で、本能的とは「本能によって体や感情が動かされるさま」とある(『広辞苑』第4版)。また、「動物が生まれながらにもっている能力で、経験や学習によらずに環境に順応し個体および種の維持生長を達しめる先天的傾向」で、本能的とは「意思が働かず本能によって動かされる様」とある(『広辞林』第5版)。私は『広辞林』の説明のほうがより適切だと思う。
人間は他の動物と異なり、経験や学習に基づいて、また知的な洞察に基づいて行動することが多い。しかし、人間にも他の動物同様、生存本能やセックスの本能があるともいう。生まれたばかりの人間の赤ん坊は、教えられなくても、他の動物と同様、「本能的に」母親の乳房をくわえ、吸うことができる。しかし、人間の子どもは、これ以外には他者から教えられることなしにはなにもできないという。狼の中で育った少女は四つんばいで早く走ったといわれている。立って歩くことでさえ、教えられ、習わなければうまくできるようにはならないのだ。人間は言葉を話す能力を持っているが、(たとえば他の人間から隔離されて育ち)教えられなければ、言葉を話せるようにはならない。
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他方、リスは土を掘って木の実を貯める行動を行うが、他の仲間と切り離されて育てられた個体においても、成長段階のそれぞれの時期になると、きちんと行なうことができるようになる(⇒注)。他の動物では、その種に特有の多くの複雑な行動が経験や学習によらずに行うことができる。遺伝によってその行動様式がプログラムされているためである。本能行動とはこのような遺伝的にプログラムされた行動パターンのことである。
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(注)リスは木の実を、餌不足に備えて地面に穴を掘って貯えるが、実験では、木の実を経験できないように液体の餌で育て、貯えの必要がないように餌を常に大量に与え、穴を掘れないように床は固いところで飼育した。しかし、リスは最初に木の実と地面をみたときに、やはり穴を掘ってそれを埋めた。これは生得的な行動で、本能と呼ぶことができる。スレーター『動物行動学入門』日高敏隆・百瀬浩訳、岩波書店、1988
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動物の行動様式を研究していたK.ローレンツをはじめとする学者たちは、1930年代に詳しい実験・観察を行い、本能ないし衝動行動について盛んに論争を行った。
ローレンツは当時のあいまいな「本能」という概念を批判し、厳密化しようとした。「生得的でしかも生まれながらに合目的的な行動様式が存在するということ自体は、すでに中世以来知られてきた」。それは「超自然的要因」とされている。それは、動物の「特定の行動様式、明らかに意味があり、種維持の目的にかなっているのだが、その合目的性をわれわれに自身の体験から知られている了解機能に基づいて説明することができないような行動様式に出会うと、常にそのみかけだけの説明に持ち出されるのである」と述べている。
彼がそれに代わって提出した概念をまとめると以下のようなものである。本能は動物が生まれつき持っているもので、外部の刺激に反応して、種特有の決まった形での運動により、「目的」(求愛、攻撃、就餌など)を達成する行動様式である。「硬直した行動様式」だが、パブロフなどにより研究された機械的な反射過程とは異なるもので、刺激に対する反応性が内部から高まってくる「自発性」によるものである。詳しい紹介は避けるが、この時期の動物行動学者たちは、本能とそれ以外の能力、学習能力、知的洞察能力などをはっきりと定義し、それらの区別と連関を明らかにしようとした。
ローレンツの鳥類の本能行動に関する論文を収めた『動物行動学―T』の原著は1965年に出版されている。日高敏隆による邦訳初版の出版が77年である。日高敏隆選集などによると、60年代後半以降、動物行動について、従って本能についても盛んに論じられ、エソロジー・動物行動学の隆盛は80年代まで続いたようだ。
日高の1971年に書かれた「本能と代理本能の間」(<選集V> ランダムハウス講談社、2007年。初刊は1966年 )という文では、本能という言葉の定義は大変難しいが、本能は衝動とは異なって、実際にあらわれた行動について用いられるべきことばである。行動は衝動があってはじめて起こるものだから、行動と衝動を切り離すことはできない。けれど、たとえば性衝動があれば即、性行動が起こるかといえば、そうではない。しかるべき対象から発する、しかるべき刺激が必要である。刺激(の強度と種類)・リリーサー〔解発因〕、さらに水の出る蛇口の形により行動の型が決まる。動物では蛇口の型は遺伝によって決まっている。この場合、それを本能だという。
日高は『動物にとって社会とは何か』<選集U>では、マングースは毒蛇の毒に対する免疫をもっていない。巧みな攻撃によって自分は咬まれずに、毒蛇を専門的に捉えて食うことができる本能行動を有する。ありとあらゆる動物に対する攻撃法を本能的に身につけているなどということはありえず、本能行動は必然的に特殊的である。
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他方、人類はその誕生の時から、何の専門家でもなかった。ある時はヤギュウを襲い、野生ウマを襲い、古くはマンモスや、毛深サイまで襲って食物にした。それら動物に対する本能的な攻撃方法を身に着けていなかった初期人類にはおそらく犠牲者も多かったであろう。人間における本能の欠如は実に驚くべきものである。性本能とか、それを多少ごまかした種族維持の本能とかいうものは、人間とくに男にはかならずそなわっているものと、だれもが思いこんでいる。だが、これはどうも完全に間違っているらしい。人間は性衝動だけをもっているのであって、これを満たすための行動を人間の本能は知らないのだ。人間はそれを何らかの方法で学ぶのである。このように日高は述べている。
これらの文から、動物行動学で使われていた「本能」の意味が分かり、またその意味においては人間には、性や食のようなもっとも基本的欲求と思われるものも含め、「本能」は存在しないということが知られる。人間にあるのは食や性や攻撃の「衝動」だけである。本能行動は学習や、思考なしで行うことができる。道具を用いて、その使い方をマスターして行う必要のあるような行動は、本能行動ではありえない。もし人間が魚を捕獲しようとする本能を持っていたら、川獺やラッコのように、水の中に飛び込んで、手で捕まえようとするか、直接、口で噛みつこうとするであろう。
石器時代の祖先たちは、始めは狩りによるのではなく、ハイエナやハゲタカ同様、動物の死体を漁(あさ)るなどして、動物の肉を手に入れる、scavenger(腐肉を食う動物)であった。やがて、たんぱく質の摂取により脳が発達し、石器を製作することができるようになった。20万年前くらいに登場した新人クロマニョンはそれ以前の旧人ネアンデルタール、原人、猿人とは明らかに異なる、多彩な用途や機能と結びついた特殊な形状の道具(狩猟具、解体具)を作り出した。旧石器革命と呼ぶ研究者もあるという。
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ウマ、シカ、バイソンはネアンデルタール人と共通していたが、クロマニョン人においてはマンモスとウサギが重要なメニューとして加わった。現代人の祖先がもっていた「本能」は腐肉をあさるか、カニや虫などの小動物を手で捕まえるといったものであったが、後に登場した現代人は、複雑な狩猟具を作り、言語を用いてコミュニケーションを行いながら、狩を行った(印東道子編『人類大移動―アフリカからイースター島へ』朝日新聞出版、2012年)。こうした人類学的な知見から見ても、狩猟を動物行動学で言う本能とみなすことができないのは明らかだと思われる。
だが、最近では動物行動の研究者たちの間で、本能という語はすっかり使われなくなってしまっているようだ。たとえば、加納隆至は、「人間の本性は悪なのか?」『ホミニゼーション』<講座生態人類学>第8巻(京都大学学術出版会、2001)の中で、「本能と言う用語は、その意味するところが複雑でむつかしく、かつ曖昧なので、いまではすっかり使われなくなってしまった用語だ」と述べている。
人類が狩猟を行っていた時期の経済は「採集・狩猟経済」と呼ばれる。人類はこの時期には狩猟による獲物ばかりでなく、野生の植物、木の実などを「採集」して食べていた。しかし、家庭菜園を「採集本能」に結びつけて説明しようとする人はいない。すでに狩猟の「本能」というものは、動物行動学でいうような厳密な意味では存在しないことは述べたが、釣りを狩猟本能に結び付けて説明することにはどのような意味があるだろうか。
釣りに関してそれが本能に基づくものだと言われるときには、釣りという行動の生物学的あるいは動物行動学的説明が意図されているのではなく、「原始人が行った」のと同じことを「現代人」が行うということに意味が見出されているのである。たとえば、中世の農民のなかで釣りを好むものがいたとして、その理由を尋ねられたとき、ずっと昔の人間も釣りを好んだということを理由にするとは思われない。エアコンの効いたビルのオフィスで、パソコンを使用して、法律や規則や契約などに縛られながら仕事をしている現代人だからこそ、そこからちょっと離れた海や川で、野蛮人が泥まみれ血まみれ汗まみれになって狩猟を行ったであろうのと同様、べとべとしたコマセや餌を使って、汗に、時には船に酔って嘔吐物にまみれながら、生き物を捕獲するという行為が、特別に、「原始的」だと感じられるのではなかろうか。
大下宇陀児は、パリに興味はなく、「現代文化の特産物」、よいカメラやよい腕時計をほしいとも思わないと言っている。だが、彼の小説家そして文化人としての生活は、まさに、大都会東京を舞台に営まれていた。彼は都市、カメラ、時計に縁がない暮らしをしていたから原始人だと感じたのではなく、それらに取り囲まれてうんざりし、そこから脱出したいと感じていたからこそ、自分を原始人だと言っているのである。
家庭菜園を楽しむ人が増えており、茸取りや山菜取りを楽しむ人も多い。家庭菜園の楽しみは、デュマズディエが説明したように、それらが「機械の時間」に従属せずに自分のリズムに従った活動であり、工場での「疎外された」労働のように自分の労働の成果が他人のものになることはなく、自分の努力がすべて報いられるという点に満足感が得られるというふうに、説明できる。これらを原始時代の「採集」本能の現われだという説明はしない。そして旧石器時代の採集経済は後に農業に取って代わられた。農業は現代に至るまで重要な経済活動として続いており、「自然」的でも、「原始的」でもない。都会の貸し農園で行うことのできる家庭菜園=ミニ農業に「原始」の趣を求めるのはとうてい無理である。結局、家庭菜園の目的は、機械的労働の代償としての自由な時間の享受と生産物の所有ということになる。
しかし釣りは自由な時間の享受や生産物の所有だけでなく、「原始」の趣も楽しむことができるのだ。釣りは、原始人が行った狩猟と同様に「獲物」を求め、「文明」ではない自然の環境と同じような「非文化的」で「野蛮な」状況のなかで行われる。こうして「釣りは原始時代の狩猟本能の表れ」という説明が行われることになる。(ただし、そのように語るとき、その人は、釣りに出かけるときに、自動車を使っていること、港から釣り場までは、瀬渡し船か遊漁船に乗るのだということ、彼の道具がハイテクを用いて作られたカーボンの釣竿であり、チタン合金のリールであること、あるいは餌も決して自分で掘ったものでなく、南氷洋で獲られたオキアミであること、これらが高度な産業の発達によって支えられていることなどをすっかり忘れているのだが。)
釣りは登山、ダイビングなどと同様、自然とじかに触れ合って行われるだけに、命を失うことがある。磯釣りでも、自分の船による釣りでも、風や波のあるときには危険である。磯で夜釣りをしていて波にさらわれて死亡するという事件はしばしば起こっている。陸から歩いていける釣り場を地磯という。潮が引いているときには簡単に行けるが潮が満ちると途中が水没してしまうような釣り場もある。地磯の釣りでは潮時を間違えると天候が好くても戻れなくなり遭難することがある。船で渡る沖の小島や岩礁の釣り場を沖磯という。沖磯では、時々、渡船(瀬渡し船)が事故を起こし、釣り客が犠牲になっている。
第一部「釣り」の「関東でのイシダイ釣り」では、真鶴で私自身が遭難しかかったこと、三宅島大野原群礁(通称、三本岳)のある磯で、私が釣っていた場所にあとで渡ってきた若者が、船頭の指示に従わず1m半ほど低い下の段で竿を出していて波にさらわれたこと、別の磯で夜明け前の暗い海で渡船が島に激突し、乗っていた釣り客が大怪我をした事件があったこと、あるいは、私が2度行ったことがあるだけの、銭州という神津島の沖の絶海の孤島と言ってもいいような小島で、釣り客を磯に渡した直後に船が船頭もろとも沈んでしまい、釣り客が翌日になって救助された事件があったことなどを書いている。ハマチの曳き釣りやイシダイなど大型魚の釣りでは、魚と引き合ったときや取り込みのときに船や磯から転落する危険もある。
このように釣りには危険が伴い、したがって釣りにはある種の冒険の要素がある。もちろん、植村直己や河野兵市などの探検家・冒険家のように冒険を目的とし、危険と闘うために危険を冒すのではないから、釣りにおける冒険の要素はごく一部である。しかし、釣りは人工的で、安全な環境の中での遊びではなく、自然のなかで行う遊びであることによる危険があることは確かである。私が1980年代に行なっていたイシダイの磯釣りはたいてい単独釣行であった。携帯電話もまだなかった。この場合には、何か起こったときに他の人に助けてもらうことはできないので、さらに危険が増すが、それにもかかわらず最初に立てた目標を無事に達成するという、より大きな達成感、喜びがある。
印東の前掲書p79.では「今日の狩猟採集民の社会でも、食料の大半は野生の植物に依存しながら、狩猟に対しては異常なほどの関心を示し、社会のシンボルとされるものも狩猟活動にちなむものである」という。狩猟は単なる生業―経済活動として行なわれたのでなく、宗教的、象徴的意味をもつものとして行われたと考えるべきかもしれない。
原始人は狩猟に頼らなくても生存できた。あえて狩りをおこなったのは食の必要からではなくそのスリルを好んだからだとする説もある(奥野卓司「テクノロジーと遊びの間に」、講座、現代社会学20)。
これらの説を踏まえると、原始人は現代人と同様、生きるための工夫---少しでもうまいものをたくさん食べ、寒さや暑さを免れて快適に眠る、安楽な生活を送るための工夫----を行ったであろうが、他方で、そうした月並みで平凡な「日常生活」を送るだけでは満たされず、命がけの行動を行うことで現実を超出しようという、他の動物にはない特別の欲求を持っていたと考えることができると思われる。
現代人は、さまざまな遊びによって、平凡な日常性、現実世界を超出しようとする欲求を持っているが、原始人もまた比較的安全な日常生活に飽き足らず、現実を超出したいという欲求を持っていたのであり、それを実現する行動が狩猟であった。「遊び」の次元のものであったのか、それとも「宗教的」な、聖なるものに向かおうとするものであったのかについては、私には論ずる力がない。しかし、狩猟が命がけで行われるものだという点で、何かヒロイックなもの、実益を越えた、美的で高級な活動だと感じる/考える人もいるだろう。(ただし、ベルギーでは、最近、アフリカに狩猟のために出かけた国王を、国民が強く批判したという。狩猟は、もはや、エリートの遊びとしてうらやましがられるような地位を失ってしまっているのが現実のようだ。)
釣りは、ボクシングなどの格闘技は別として、他のスポーツと比べて、危険に身をさらす度合いが多少大きい。磯釣りでは磯から転落したり波にさらわれたりする危険があり、また遊漁船であっても「板子一枚下は地獄」というように、救命胴衣の着用が必要で、安心できないところのある、「冒険」的要素を伴った遊びであると述べたが、そうした釣りが狩猟の一種なのだと改めて分類しなおすことができ、他のスポーツに比べ、危険であるがそれだけヒロイックで、高級なのだということになれば、優越感を感じることができる。
こうして、狩猟の一種と見なされた釣りは他のスポーツとは異なって、その起源において人類の誕生時近くにまで遡ることができる由緒ある活動であり、しかも、命懸けで現実世界を超出しようという、美的で高尚な活動だということになる。
「釣りは狩猟本能の表れ」という言葉が意味しているところをやや大げさに言えばこのようなものだと思われる。もちろん、私は自分の釣りにそんなふうな大見得を切る積もりは全くないが。
動物は予知能力があるとも言われる。動物は(人間の知りえない方法で)地震の発生を知りうるとすれば、それは「本能」によるのだと、われわれは言う。ローレンツは「明らかに意味があり、種維持の目的にかなっているのだが、その合目的性をわれわれに自身の体験から知られている了解機能に基づいて説明することができないような行動様式」に出会うと「本能」と言うことがあると言っている。他の生物の行動が、人間の持つ5つの感覚を使って確認することのできる事実や根拠をあげることができず、論理的な推論や科学的理論によって説明することができないようなしかたで、目的に適い、有意味であるときに、それを「本能」と呼んでいるというのである。
人間の場合、『広辞苑』の用例で「彼は本能に身をかがめた」というのは、人間の欲望が知性や理性でコントロールできなくなった状態を指している。おそらく、動物は知性・理性をもたず、性、食のみの欲求で行動するが、これを蔑みつつ、動物の行動をすべて「本能」と見なし、動物的な行動をする人間を本能で行動する、と言うのだろう。
熟考し、納得した形で決断された行動、それを行なうことが適切かつ正当であることを人にも説明できる行動は「本能的」とは言われない。逆に、自分自身納得できず、そして他人にも説明できない(つまり社会的にも是認されない)やりかたで、食や性に関する欲望や衝動を実現するならば、それを本能的と呼ぶのだろう。
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もちろん、釣りが社会的に是認されない楽しみであるがゆえに、釣りに対する好みが「本能的なもの」だと言われているのではない。そうではなく、本能が持ち出される多くの場合、釣りはその楽しさを他の人がわかるように説明できないと言う点で、「本能的なもの」と考えられているのではないだろうか。そして、説明できないことの一つの重要な原因は、釣りの快の原点とも言うべき当たりが、結局、手で感じるものであり、言葉で説明しにくいものだという点にあると思われる。私はこの「当たり」を、後で、詳しく説明したいと思っている。
ここで、『日本大百科全書』「釣り」における森秀人の記述について少々触れたい。彼は、「狩猟本能」が男性ホルモンなどにより「増加させ」られ、そして釣りを好む男性が多いのは、男性ホルモンをたくさん持つからであると述べている。すなわち、「男性が女性より釣りを好むのは、男性がアンドロゲンと呼ばれる男性ホルモンの分泌やアドレナリン〔副腎皮質ホルモン〕の分泌において女性を上回るからである。どちらの物質も、狩猟本能、攻撃本能を増加させる」という。ただし、「本能」は衝動、欲求の意味で使われているのだろう。
森は、これらの物質が、「狩猟の衝動」「攻撃衝動」を増加させるというが、どのような根拠に基づいているのだろうか。それらを人間に服用させ、実際に釣りがしたくなるかどうかという実験のようなものが行ない得るとはとても考えられない。マウスその他の実験動物にそれら薬物を投与すれば、動く活き餌を積極的に食べるようになるという結果がえられるかもしれない。しかし、もちろん、マウスの(活き餌の?)就餌活動と、人間の「狩猟本能」、「攻撃的本能」とを同一視することはできない。
だがそれらの物質がそうした行動への傾向、衝動を強めると仮定してみよう。森が言う「攻撃的」というのは、すぐに激昂し人を傷つけたり殺害したりといった際立った傾向のことでなく、釣りを好む人に該当する程度の攻撃性である。つまり何かを自分の物にしたい、何かに挑戦したい、何かを達成したいと考え、積極的に行動するという程度の「攻撃性」のことであろう。だから、これは、極めて内向的で、穏やかであるか、あるいは消極的であるような性格の人を除けば、たいていの人に当てはまるものだ。室内楽などを一人で静かに楽しむ(ことしかしない)ような人を除き、将棋や囲碁、屋内スポーツを含め、勝ち負けの伴う、全てのスポーツを好む人にあてはまるだろう。
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つまり雄性ホルモンが「攻撃」本能を刺激するといっても、それはさまざまな、ゲーム、スポーツへと駆り立てるのである。そうだとすれば、雄性ホルモンが、釣りの原因あるいは誘因になると述べることはほとんど意味のないことだと私には思われる。アドレナリンも活動性を高めることは知られているが、同じく、その分泌が多いことはその人が活動的だというだけで、特別、釣りに限って、何か意味があるわけではないだろう。
そこで、このように考えると、この二つの物質の分泌量が男性に多いということは、釣り人が男性に多いという事実を説明するものではないことが分る。確かに、幼児は竿を持つだけの体力、腕力がつくまでは釣りは無理だし、歳を取って、体力が低下すれば足場の悪いところで釣りをするのは難しくなる。しかし、私が石鯛釣りは止めてマキコボシ釣りのような体力をあまり必要としない釣りをしているように、釣り方を選べば、歳をとっても、やれる。つまり、男性も女性も、よほど体力に劣る人でなければ、釣りをすることができる。従って、森の議論に従うなら、男であれ、女であれ、釣りをしないで、他のスポーツをする人がどうしてこんなに多いのかが不思議であり、また、平均的な体力や活動度の男女差は僅かであるから、女性の釣り人が男性に較べて少なすぎるということが不思議なのである。たぶん、これらは生物学的にではなく、社会的な要因により説明されることであろう。
男性に混じって釣りを楽しむ19世紀の英国女性。飯田操『釣りとイギリス人』より
釣りは19世紀の英国においては社交目的で行なわれ、女性も釣りをした。また、百科事典のなかで森も述べているが「世界で最初のつり入門書」は15世紀末にイギリスのジュリアナ・バーナーズという女性によって書かれた。日本では明治時代には、あるいは昭和の時代になっても前半までは、釣りをする女性は非常に少なかった。だからと言って、わたしは、イギリスの女性の男性ホルモンとアドレナリンの分泌量は日本人女性より多いのだろうとは、考えない。日本でも、有名な釣り人の妻や娘で釣りをする人がかなりある。詩人の室生犀星は釣り名人としても知られていたが、その娘、室生朝子も釣りが好きで、釣り随筆の本もある。大下宇陀児の夫人も娘も「一流の釣り師」だったと言う(小佐野孝『釣り狂』)。すると、釣りをするかしないか、あるいは上手か下手かは男性ホルモンの分泌量によって、きまるのではなく、むしろ、血筋あるいはDNAによってきまると考える人もあるかもしれない。(夫人は別だが。)しかし、人の性格や心身の能力、行動の仕方等々がDNAつまり遺伝によって決まるのかそれともその生育環境によってきまるのか、つまり氏か育ちか(nature or nurture)は、異なる環境で育てられた一卵性双生児の研究を含め、さまざまな研究がなされてきたが、その一方だけですべてが説明できるとは考えられていない。
他の動物ばかりでなく、人間においても、自然淘汰を通じた進化の相続物として親から子へ伝えられる遺伝子が行動に影響を与えていることは否定できない。だが、人間の場合、行動には極めて大きな幅がある。そして、人間が現に暮らしている環境は、人類がかつて進化してきた環境とは似ても似つかぬ代物である。進化の過程で獲得された遺伝子は複雑化した現代社会における行動の一つ一つを決定することはできない。私たちは生まれて後、学習し経験したことを元手にして、環境に適応した行動が取れる柔軟性をもっているのだ。一つ一つの行動を「決定する」遺伝子を見出そうとしても無駄である。
19世紀のイギリスで釣りをした女性たちは上層階級に属していた。彼女らは社交としての釣りをおこなう前に、自由に社交界に出入りすることができたのである。彼女らは自分に与えられた環境の中で、その当時のイギリスの上流階級に「適応」するために、つまり、適当な伴侶を見出すために、さまざまな行動をおこなう。その一つが釣りであったろう。
なぜ釣りをするのかということについての説明は様々な仕方で行なうことができる。アユやウナギやアオリイカのようなうまい魚やイカを釣って食べたいからだ。これはこれで十分に納得がいく。荒磯で巨魚と戦い、あるいは「幻の魚」を釣り上げてみたい。これもまた納得がいくだろう。そして私はこれから、当たりを取って魚を掛けることの一種のスリルとサスペンスが強い快を与えてくれるということを十分説明しようと考える。このように、行動、行為に関する説明には、個々人の視点に立った、その人の内側から見られ、感じられる限りの行動、行為の説明がある。
他方、外からの、「科学的」な、あるいは因果的な説明も可能である。人が、あるいは多くの男が、釣りをするのは、「狩猟本能」という大昔に作られた遺伝子の働きによることであるという一つの説明形式がある。あるいは、男性ホルモンとアドレナリンという化学物質の分泌によるのであるという説明もその一つである。森は彼の釣りの説明を「科学的」に行なおうとしたのだろうか。たぶん、半分はそう言える。しかし、彼は、自分が原始的な本能のようなもの、攻撃的衝動のようなものを持っているとも述べている。だから、「釣りは本能だ」というその立言は、半分は、彼の直感、自己認識、ないし主観的な想念の吐露だとも考えられるのである。
彼は文筆業に携わっている。釣りは趣味である。(本職の漁師ではない。)ウォルトンの『釣魚大全』を翻訳し、釣り文学に詳しく、多くの釣りの随筆を書いている。また『思想の科学』の編集者として、多くの文章を読む、思想家でもあっただろう。だが、彼は、机に向かって文字を読んだり書いたりすることと、釣りをすることとの間になにか異質なものがある、両者の精神構造に大きな違いがあると感じたことがなかっただろうか。文字を読み書きすることは、インテリ、知識人、文化人/文明人にふさわしい。他方、ゴルフならいざ知らず、海や川で、しばしば風に吹かれ雨に叩かれながら、あるいは汗まみれ泥まみれになりながらミミズや虫などを針に刺し魚を釣るのは、野蛮人とまではいわないにしても、知識人とは異なる庶民、開高健の言葉を使えば「土ン百姓」のやることのように思われる。実はこれは私自身が感じたことである。
私は20代半ばから40歳になるころまで、学生運動や労働運動に加わった経験がある。1960年代末の大学闘争に参加した。そして、いったん就職した後に再入学し大学院に進学したのだが、こんどは、学生の闘いに続いて、教授・研究者に雇われている臨時職員、「臨職」と呼ばれていた人々の「定員化」を要求する「臨職闘争」が起こっており、私はその運動の支援に加わった。
おりしも、78年に東大が創立100年を迎えることを「記念」して、研究資金として企業などから百億円を募金し、「百年誌」を編纂するなど「百年祭」を挙行するという計画が発表された。直ちに、「臨職」を使い捨てにして研究業績を独り占めしてきた教授・研究者の支配体制を批判する見地からこの「百年祭」反対の声が上がった。また当時、医学部では、脳外科の教授らによる患者への人体実験的な「ロボトミー手術」など、精神医学における「研究至上主義」を批判する若手医師らを中心とする運動があった。また工学部では助手の宇井純氏(後、沖縄大教授)らによる、水俣病における東大関係者の原因企業への加担を批判し告発する「自主講座」運動が行われていた。このような状況の中で文学部学生などから「東大の百年」を問う声が上がり、企業募金反対の運動が起こった。私は臨職闘争支援を行いながら、この「反百年祭」の運動に加わることになった。
私はそのなかで、手書きのビラ(チラシ)を作り---当時はまだビラは鉄筆で原紙を切り、謄写版を使って、つまり一枚一枚手刷りで印刷していた。70年代半ばからリソグラフがつかわれるようになったが、原稿は先の細い専用のペンで書いた---朝、大学の門の前で、出勤してくる職員に手渡すこと、また、ベニヤ板と角材を釘で打ちつけて立て看板を作り、小麦粉を煮て作った糊で紙を貼り、朱墨や墨汁を使って訴えの文字を書く、活動家たちの間で「ムスケル」(ドイツ語で「筋肉」を意味する)と呼ばれた、そうした手作業、あるいは肉体労働が楽しいと感じた。
学者・研究者とそれを支える職員・労働者との間の支配・被支配の関係にも似た不公正な関係に抗議する活動のための作業として有意義に感じられたということとは別に、作業それ自体が楽しいと感じられた。私は、当時、主として、ヘーゲル哲学を研究していた。ドイツ語でヘーゲルの『論理学』や『精神現象学』などの難解な著作を読んだ。そうした頭を使う精神労働と、ビラを刷り、立て看板を書くといった手作業の労働との間には断絶があると感じた。「理論と実践」、あるいは「精神労働と肉体労働」などとして、繰り返し当時の哲学的な議論のテーマにもなった事柄である。私はそうしたことを論じた現代の哲学者や思想家の著作を読んだが、納得のいく答えを得たとも、また自ら何か答えを出したとも思わなかった。突き詰めて考えようとはしなかった。私は自分の個人的な行動の中で、実践的にそれら両者の統一を成し遂げているなどと「おおらかに」考えて済ませていた。しかし、その後、釣りをやるようになってからも、大学に正規の職を見つけることはできないでいたが、「研究」は続けており、その自分の「仕事」と「趣味」における精神と身体のあり方に大きな違いがあるという感じは続いた。
臨職闘争の支援のために、何度も一緒に「座り込み」などをやった全共闘運動の指導者と目されたY氏も闘争の支援を最後まで続けていた。しかし彼の趣味がスポーツだとは聞いていない。彼は「闘争」に関わっているとき以外は、一貫して学究的な生活を送っていたようだ。かれは何冊もの科学史の大著を著した。かれは本当に/純粋に知識人であり文化人だった。世の中には様々な傾向の人がいると思われる。屋内で行なう精神的な仕事や趣味だけを好む人もいる。野外で体を使って何かすることを好む人もいる。私のようにあれもこれもという人間もいる。
ふだん文化/文明の中にどっぷりと浸かって、頭ばかり使っているからこそ、時々、自然の中で、頭を休め体を使って釣りをするのが愉快なのだとも考えられるが、文化人に徹しきれないことに不満を感じ、文化人/文明人でありつつ、自然の中で肉体を使う遊びに喜びを見出すことに矛盾を感じる人もいるかもしれない。私は、両者の違いは感じたが、自分の生き方に矛盾があるという風には思わなかった。しかし、森秀人はもしかしたらそういう感じ方をする人だったのかもしれない。
そして、文化や文明は原始の否定、あるいは反対なのではなく、それらは原始的、本能的なものの進化・発展の結果なのだ考えることができるとすれば、知識人、文化人でありつつ、釣り好きであることは矛盾でもなんでもないことである。釣りは、長い進化あるいは文明化の過程を経て、人間が獲得したもっとも高度な行動形態の一つなのだ。釣りは、原始人の持っていた狩猟本能、攻撃本能に由来するものであり、医学や科学の用語を用いて言えば、男性ホルモンやアドレナリンの多少によって客観的に説明できるものである。そして、現代社会において、人間は進化発展した狩猟本能を、釣りという知的なスポーツの形態で発揮し、それを楽しむのである。釣りは頭脳と身体という人間の両側面を統合し、人間の本質を示す活動である、云々。(彼は、ウォルトン『釣魚大全』の「訳者解題」の中で、「釣魚を単なる子供の遊びとか老人の隠居道楽でしかないと考える人々は不幸である。釣行は現在において狩猟そのものであり、狩猟よりよりもはるかに難しい技術であり、考える遊戯の最高のものなのだ」と、最高級の言辞を釣りに呈している。)釣りについて私がいま行った説明が大げさでわざとらしいことは認めよう。だが、釣りが、人間の自然的で原始的な活動に由来しつつ同時に文化的で知的な活動であるという見方を、科学の用語を使わずに、もう少し上手く述べた文がある。
再び、飯田の『釣りとイギリス人』から引用しよう。これはデイヴィと言う人がフライ・フィッシングの好ましさを語った19世紀の文章である。しかし、そこに書かれていることは、フライ・フィッシングに限らず、釣り一般に当てはまる。
「食糧追求は、われわれの本性に属する本能である。棍棒や槍で猟獣や魚を殺す最も粗野で原始的な状態の野蛮人から、その目的を確実にするため、巧妙な工夫(“artifice”)と道具、様々なほかの動物をその手段として用いる最も文明化した社会の人間に至るまで、楽しみの起源は類似しており、その目的は同一である。大変な技術(“art”)を要するこの種の楽しみは、最も高級で知的な状態にある人間の特徴であると言えるかもしれない。フライでサケやマスを釣ろうとする釣人は、自分の肉体的な力を助けるために道具を用いるだけでなく、困難を克服するために頭を使うのである。身体を使う活動の楽しみ同様、巧妙な手段と工夫から引き出される楽しみがフライ・フィッシングにはある」。
「フライでサケやマスを釣ろうとする」という個所を削除し、「フライ・フィッシング」を「釣り」に置き換えれば、この文は釣り一般に関して語られたことになるが、私は、そのように文を書き換えることが十分に有意味であると思う。要するに、釣りは粗野で原始的で野蛮な要素と、現代的な知的で巧妙な手段、技術とが長い時間の隔たりを超えて結び付けられ、総合された活動であり、頭脳の活動と身体の活動の両方が結びついた、精神と肉体とが総合された活動だということである。また、先に、「釣りを狩猟本能の現れ」と考えることの内には、釣りを「命懸けで現実世界を超出しようという美的で高尚な活動」「ヒロイックな」冒険と考えることが含まれていると言ったが、これを付け加えると、釣りは、人類の誕生時からの歴史を背後にもつ由緒ある活動で、しかも、近代的技術で支えられた、知的で、かつ冒険的で美的で高尚な、総合性のある完全な活動だということになる。
このような総合性、完全性は芸術活動にはないかもしれず、またチェスや将棋のような、座って行なう知的なゲームにもないと言える。しかし、それは釣り以外のほとんどすべての、身体を用いた活動、スポーツには多かれ少なかれ当てはまることであろう。人類が最近になって、全く新しくゼロから発明したようなスポーツの名前を挙げるのは難しいだろうし、また、身体の行使に関して困難や危険を乗り越える必要が全くないようなスポーツもほとんどないだろうと思われるからである。私は、釣りが、人間にとってこれ以上ない完全な すばらしい活動であるなどと考える必要も、賛美する必要も全く感じない。遊び、スポーツはそれぞれ好みに応じて選ぶもので、それを行なうことが人類あるいは人間の活動として持つかもしれない意味あるいは意義に照らして、選ばなければならないものではないと思う。
大下宇陀児は「よいカメラやよい時計」といった文明の利器をほしいとも思わず、また世界文化の中心地、花の都、パリに行ってみたいとも思わない。彼が「ほしいのはよく釣れる川」だ。彼も作家であり文化人であって、釣りの趣味と自分の仕事との間に、異質なものを感じている。しかし、彼は、それにさほどこだわりもしない。仕事は仕事、趣味は趣味であると割り切っている。しかし、なぜ釣りが面白いのかは説明できない。そこで「原始人の狩猟本能が残っているからだとでも答えるよりほかない」と言うのである。彼はそれが説明になっているとは思っていない。釣りの面白さについて説明できないから、しかたなしに、そう言ってみただけの話である。半分冗談で言っているのであり、彼は、人間のなかには原始人と同じ「本能」が残っている、あるいは突然変異のようにそうした本能、あるいは衝動が芽生えるということを、本気で主張しているわけでは全くない。
そして、釣りの楽しさを説明できないのは、これまで釣りがいかなる趣味、楽しみであり、どうして愉しいのかについて詳しい説明を求められる機会が少なく、説明がほとんど試みられないままにきた結果ではないかと私は思う。
すでに前章第二節で触れたが 釣りに関する多くの文を書いた幸田露伴も釣りの面白さに関してはほとんど説明していない。「かいづ釣りの記」で、合わせ時を今かいまかと待つ間の楽しさを「恋も無常も忘れ果てて思ひ邪無き童心オサナゴコロの昔に還り、また世の何の悲しむべく憂ふべきことのあるを知らず」と書いているくらいで、釣りの面白さの分析は行なっていない。彼は最初の10年くらいはさまざまな釣りをやり夢中になって釣ったが、その後、釣ることは二の次で船を浮かべて時には酒を飲みながら周囲の景色を楽しみ詩歌を作るのんびりした釣りを楽しむようになる。針と糸を使って魚を掛けるという釣りの面白さを十分分析してみようとは考えなかったのだと思われる。
この章の第8節でのべるが、開高健も釣りがどうして面白く、楽しいのかを説明してはいない。彼にとって、釣りは世界の辺境に出掛け、極寒、熱湿、蚊やダニの猛攻に耐え、死にもの狂いで巨大魚と格闘することであったが、彼は楽しんでいなかったからである。彼は魚を釣り上げる場面を臨場感あふれる筆遣いで見事に描いており、読む者を興奮させる。しかし、開高自身は決して楽しさを味わいながら釣りをしていなかった。そして釣りの情景を描くことと釣りはどうして面白いのかを説明することは全く別のことだと思われる。
社交的な遊び、趣味としての文学や音楽、あるいはゲームや競争的なスポーツの場合には、実際の作品の制作(たとえば俳句)、音楽の演奏、野球の試合、ゴルフのプレー等々を楽しむだけでなく、その前後に、別な場所で、仲間やチームメイトと、しばしば、それらについて語り合い、論じ合うことが行なわれ、そうした語らいがそれら趣味の一部になっていると思われる。それらの趣味やスポーツの活動が、他の人間に向かって、あるいは他の人間とともに行われるという社会的・社交的な性格上、仲間の間では単に技術向上のための情報交換だけでなく、その魅力あるいは目的などについてもしばしば語りあうことが行なわれ、それを楽しむ人の多くには、その趣味やスポーツのもつ基本的な魅力や目的に関する共通の理解ができていると思われる。
それに対して、釣りは基本的に非社交的な遊びであり、自然のなかで自然に向って営まれる。海や川で、一人一人が魚に向かうだけであり、釣りクラブに入っているのでなければ(あるいは入っていても)、仲間が集まってなぜ釣りは面白いのか、どこが面白いのかを語り合う機会というものが、ほとんどない。釣り雑誌はあっても、どうしたら釣れるかを手っ取り早く知りたいという一人一人の釣り人の関心にこたえるべく、掲載記事は、釣り場に関する情報や、釣りの技術や仕掛けに関する解説がほとんどである。図書館に並んでいる釣りの本も、ほとんど、対象魚、釣りかた、必要な道具などの説明ばかりで、結局どうやったら釣れるかということしか書いていない。釣りについて書かれた随筆集や釣り文学は、釣りやスポーツの棚から遠くはなれた「文学」の棚に置かれている。
こうして、釣り人は釣るだけの人であり、文学好きの人が、あまり興味をもったことのない釣りについて書かれた文をたまたま見つけて読むという、スポーツと文学、身体と精神、技術と知性、実益と教養の分離が続いている。たぶん釣り文学、あるいは私が今書いているような、釣りについてあれこれ考えてみるというような、両方にまたがった文章は、釣り好きの人からも文学好きな人からも好まれず、読む人はほとんどいないのではないかと思う。
釣り人は、釣りのどこが面白く、なぜ釣りが好きなのかに関して、自分で考えたこともないし、他の人と話し合うことも、ほかの人の説明を聴くこともない。そこで、釣りの面白さ、魅力のゆえんを説明できないまま、時折、説明する必要に迫られたときに、一種の方便として、魚を釣りたい=獲物を得たいという衝動を狩猟と結びつけ、かつ、自分にも他人にもわかるように説明できないために「本能」を持ち出し、釣りは「狩猟本能の表れ」ということにしてしまっている。このように私は推測する。
だが、釣りはなぜ面白いか、なぜ釣りをする(好む)のかと聞かれたときに、「本能」を持ち出すことは「楽しい」「快である」ことの所以、あるいは理由を説明することには役立たないということを上で示した。その所以や理由を知りたいと考える人がいるのかどうかは明らかではないが、とにかく、私は、説明したくなった。その説明の役に立たない、本能説は退けたので、今度は、いよいよ、私なりの説明にとりかかろう。
それでは、釣りの快はどこにあるのだろうか。様々な釣り方による、さまざまな魚を対象にした、多くの種類の釣りがあるが、釣りは煎じ詰めると、糸と針、そして獲物である魚に帰着する。他のスポーツと区別され、かつすべての釣りに共通する釣りの魅力は、魚を針に掛け、手元まで引き寄せることのなかにあるだろう。食べることだけが目的なら鮎は網でも取れるし、ウナギも「地獄」という、入ることはできるがいったん入ってしまうと出られなくなる筒状の仕掛けを使った漁で獲ることもできる。しかし、針と糸を使う釣りにはそれら漁とは異なる釣りの面白さ、釣りの快があるはずだ。
釣りにおいては、魚は針に掛かることによって釣られる。アユの友釣りでは針につけてあるアユを泳がせてやり、これが川の中にいる他のアユの縄張りに入っていくと、これを撃退しようとして川の中のアユが、仕掛けについているほかの針に引っ掛かってしまうという仕方で釣られるのである。しかし、これは非常に特殊な釣り方である。他のほとんどの釣りでは針の先に餌を刺すか、餌に似せた擬餌針を使い、これを魚に食わせて針にかける。
フライ・フィッシングでは虫に似せた擬餌針・フライを水面を流すか川面すれすれのところに投げてやるとサケ科の魚が食いつく。しかし魚はくわえた瞬間に本物の餌ではないことを知り、すぐに放す。釣り人は魚がフライを口に入れると同時に竿をあおって糸を引き、魚の口に針を掛ける。この動作を「合わせる」という。
ヘラブナ釣りやグレ(メジナ)釣りなどの釣りでは、針に本物の餌がついている。これを刺し餌という。魚は刺し餌を食う。海では、底に棲んでいて底物と呼ばれるホゴ(カサゴ)、コショウダイなどは大口を開けて丸呑みするが、泳ぎ回る多くの魚は丸呑みするのではなく、餌だけを噛み砕くなどして呑み込み、中の針を吐き出してしまう。だが、ヘラブナ釣りやグレ(メジナ)釣りなどの釣りでは道糸の途中にウキがついていて、釣り人は、魚がエサをくわえたときに生ずる糸の小さな動き(これを「当たり」あるいは「魚信」という)がウキに表れるのを見て、すばやく竿を振り上げて糸を引いて「合わせ」を行ない、魚を針に掛ける。
初心者が堤防などで行う釣りでは、竿とリールを使い、道糸の先にサビキという擬餌針が10本ほどついた仕掛けと、オモリを兼ねたコマセカゴをつけた道具、「サビキ釣り仕掛け」を用いる。
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コマセカゴにアミエビなどを入れて仕掛けを投入して竿を上下に振りコマセを撒くと、小アジやイワシなどがよってきて、コマセを食い、そしてサビキ針も食って針に掛かる。魚が泳ぎ回り逃げようとする動きは竿に伝わり竿が上下に揺れ、竿をもつ手にも感じられる。
水温の高い夏場では、魚が活発に泳ぎまわって競争で餌を食うので、向う合わせで釣れるが、マキコボシ釣りの本領は、水温が下がって魚の食いが落ち、魚が止まって静かに餌を食う冬場に発揮される。ゆっくり餌に近付き確かめてから食うためであろう、擬餌針にはあまりに食いつかない。また、天秤やオモリがついていたり、竿を使う釣りでは、ふつう、魚が餌に触れただけの小さな当たりはわからないので、魚が静かに餌を食い、針を吐き出してしまう場合には、釣ることができない。しかし、撒きこぼし釣りでは、道糸と針のあいだに介在物がほとんどないため、小さな当たりがストレートに伝わり、糸を持っている指先に感じられる。
私がよく行く場所では30センチから40センチ、ときには50センチもある大型のアジが釣れる。仕掛けを何回か入れてコマセを撒いていると、たいてい、コツンとかカサッといった前当たりがある。波による船の上下動、あるいは風が道糸に当たることによっても、指に変化が感じられるが、魚が触れたときに起こる変化は全く違う。この当たりが出ると私は魚の到来を知り、「よーし」と気持ちを引き締め、興奮と期待の快を感じる。アジの場合、前当たりに続いてカリカリッ、あるいはカサコソッ、あるいはプルプルッという当たりが来る。これがなんとも言えない快を与える。
アミエビなどのコマセに寄ってきた大アジは、冬場は特に、刺し餌(オキアミ、とくにボイル)を一気に呑み込むのではなく、ちょっとつついて味見をしたり、深く呑み込まず、口先だけでしゃぶったりするようだ。そしてそのあとで本格的に口の中に吸いこみ、餌を噛み砕き、異物である針を吐き出すようだ。
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というのは、まず、カサコソ、あるいはモゾモゾ、プルプルという細かい当たりがきたとき、すぐに糸を引いてもすっぽ抜け、無傷の刺し餌が帰ってくることになるので、最初の当たりでは餌を口の中に入れていないことがわかる。そしてこのモゾモゾ、カサコソのまま待っていると、やがて餌はなくなり、空針が帰ってくる。そこでこの細かい当たりがでたら合わせのタイミングを計る。はっきりせず、断続的なカサコソの当たりだけで、今合わせようか、次に合わせようかと迷う。カサコソ、モゾモゾのあとジワーッと重くなることもある。これは餌が口の中に吸い込まれた時で、合わせるとたいてい掛かる。カサコソ、モゾモゾが続く場合には、ジワーが出なくとも合わせると掛かることもある。強く合わせず、道糸を持った手をすっと上にあげるだけで針掛りすることもある。多分吸い込みかかった餌が逃げると感じて急いで口をとじるのだろう。
イサキは5〜6月から夏場に釣れる。最初の短い当たりでは、まだ本格的に食っていないらしく、合わせられてもほとんど針にはかからない。2回目のあたりで刺し餌を口に入れると同時に餌をとってしまうので、2回目のあたりを待ち、素早く合わせなければならない。静かに食うときもあり、ジンワリとした重みが感じられたら合わせる。かすかな当たりやジンワリとした重みの変化などがわかるようになるには、やはり、経験がいるようで、私は3〜4年かかったように思う。
オキアミの生ナマは味や匂いが濃厚なのであろう。一気に呑みこむことが多い。そして生のオキアミはやわらかく簡単に取られてしまう。魚が寄ってきたことがわかったら一瞬も気を抜けず、忙しい。ボイルは食うのに時間がかかり、合わせに多少の余裕がある。そういうわけで私は真冬以外はボイルを使うか、両方一緒に刺す。
アジ、イサキ、タイで異なるが、ボイルの場合、2回目のカサコソで合わせても針掛りせず、3回目か4回目に合わせるのがよいということもある。しかし、2回目のカサコソで餌がなくなってしまうこともある。何回目で合わせるのがよいかはその日によって違う。
餌がなくなるので魚がいるらしいのだが、なかなかはっきりした当たりがでないこともある。手首だけ2〜3センチ動かして「聞く/聴く」か、あるいはヒジを曲げ伸ばしして10cmか20cmほどゆっくり上げたり下げたりすると、これが「誘い」になるようで、ガツンと来たり、スッと餌を呑み込むはっきりした当たりが出、静かに合わせるだけで針掛かりする。その日その日で食い方が違う。
こうして、当たりが出てから、合わせて魚を針に掛けるまでの、長くて20秒か30秒の間、指先に注意を集中して当たりをとっているときに、スリルを感じ、緊張する。このとき目は開いていても何も見ていない。地元ではマキコボシ釣りをバクダンと呼ぶ。地元のベテランが「バクダンをするには目はいらない」と言ったことがある。竿釣りではなく、指で当たりを取るマキコボシ釣りでは、当たりを取っているときにはこれは事実である。
それだけではない。当たりを取っているときには、何も考えておらず、頭は空っぽである。また波の音が鼓膜を振動させているはずであるがなにも聞こえない。代わりに、この釣りを始めた1年ほどは、指先で感じるはずの当たりが「カサコソ」とか「プリプリ」とか「カリカリ」と、ハッキリと「音が聞こえた」。不思議である。ただし、最近は音は聞こえず、指先の感触だけになった。が、とにかく、この当たりをとっている間は、緊張と期待の、ワクワク、ドキドキする快楽にほとんど完全に浸りきる。
魚がかかれば、静かに糸を手繰って魚を浮かせ、船内に取り込む。水深が50mを超えるところでは、よく釣れるときにも、仕掛けを投入して魚を掛けて釣り上げるまでに10分近くかかる。こうして30センチ以上のアジならば私は10匹以上釣れば十分満足できる。
マダイは冬の低水温期を除き、当たりがはっきりしている。とくに手のひら大のものから30センチ以下のものの場合にガツーンとひったくるように向こう合わせで食うことが多いが、それ以上の型になるとかえって静かに食う。アジかと思う小さな当たりでコツンと来て、次のカサッで合わせるとグーンと重くなる。
(この「第4章」のファイルのハイパーテキスト化を行っていた2016年の2月、ほかの魚が期待できなかったので、タイがよく釣れる、水深30m弱の浅い釣り場で釣りをした。3〜4時間の釣りで20センチから40センチ超までのタイを6〜7匹釣った。タイしか釣れず、数も少ないが真冬だからしかたがない。このときは一回もはっきりしたアタリはでなかった。カサッもなく本当にかすかなモヤモヤッとした感じがあり合わせて釣れたか、あるいはまったく何も感じられなかったが(少し待ったら仕掛けを上げることにしているので)仕掛けを挙げようとして食っていることがわかり、ぱっと強く引いて掛けた。)
大きさは合わせた瞬間にほぼわかる。魚は必ず走る。中くらいなら1ヒロか2ヒロ(2〜3m)、もっと大きいときにはあっという間もなく4〜5m突っ走る。魚を疲れさせるために糸はブレーキを掛けながら出すが、魚が大きい場合、ブレーキの掛け方が悪いと手にやけどをして黒い跡がつく。
魚は少し走って止まるので、止まったら糸を手繰る。魚は反転してまた走る。これを何回か繰り返して浮かせる。魚が止まった時にはふつうゆっくり引っ張って糸を手繰るが、引っ張られていると相手が気がつかないようにテンションを与えずに少しずつ糸を手繰ると、全く無抵抗に上がってくることもある。こういうやりかたでで50センチから70センチ程度までのマダイを1日に数匹釣ったことが何回もある。しかし、掛けた後、一方的に泳がれ糸を引き出されるばかりで、止められないやつも何度も掛け、糸を切られている。これは仕方がないとあきらめている。
魚を針掛りさせてから道糸を手繰って魚を寄せるときにも大きな快を感じる。大物の場合には、船の中に取り込み、針を外すときに興奮で手が震えるし、「よーし!やったー!」とガッツポーズを取りたくなる。
だが、たまにしか釣れない大物の場合は別として、いつもは、やはり、魚を針に掛けた瞬間が、心のなかで快哉を叫ぶ瞬間であり、当たりが出始めてから魚を針に掛けるまでの数秒間、長くて数十秒間が緊張に満ちた最大の快を感じる時間なのである。
このように、当たりを取り、魚を掛けるまでの時間に最大の快を感じるというのは、たぶんマキコボシ釣り特有の事情によることであろう。しかし、魚を掛けることを求めない釣りはありえず、また魚が掛った(ことがわかった)瞬間は、すべての釣り人が快を感じる瞬間だろう。一日中、当たりのない釣りは、釣れなかった、釣りにならなかった釣りである。当たりがあり、魚を掛けて(魚が掛って)こそ、釣りの快を楽しむことができるのである。これはすべての釣りに共通して言えることである。
昭和初期の詩人で釣り名人の一人、佐藤惣之助(1890−1942)は『魚心釣心』という本のなかで、当たりを取り、合わせ、魚を掛けて寄せるときに、「微妙深甚の感覚」とか「法悦境」を感じると言う。
「釣道の真諦---と訊ねられると、-----何がそういう風にひきつける、夢中にするかというと、どうも釣り人の落ち行くところは、あの得も言われぬ感覚の反応にあるように思う。つまり、魚のアタリ、魚力と争う感応、またはぐっとやる把握的な触覚にあるように思える。それをまず基調とする。中枢とする。あるいは醍醐味と言ってもよし、牽引力ないし恍惚境と言ってもよい。-----水天一髪の間に泛(うか)かんで澄明清気をとおしてやってくる魚信、---魚の引く力というものは水を切り骨を浸透してシン〔ママ。「心」であろう〕身に応える。くくとして、ぐっとして。重く軽く、電光の如く、電波もたまらず身に応える味というものは言外の言、幽なる、杲〔コウ:明るく輝く〕たる、感覚を絶した官能の冷たい花火である」。
また「魚がかかって、ググと来たり、ツツンとあがってくる瞬間の法悦境、そのアタリと魚をまったく掌中のものとしてしまうまでの何秒間、それが釣技の深奥の目的であり陶酔鏡なのである。----「釣りは最後の道楽だ」と謂う。全くだ。この法悦境に年齢は無く、また心理的区別がありようがない。微妙深甚の感覚,魚のアタリは一点懸かってその瞬間にある」とも言う。
佐藤は詩人らしく、アタリは、「トーンと軽く、とろとろと、みらみら、つさつさ、ぎくと、てろりとやってくる----」とさまざまに表現している。
佐藤は当たりが与える「法悦境」つまり強い快楽には、「年齢は無くまた心理的区別がありようがない」といい、「感応」、「触覚」、「感覚の反応」だと言っている。マキコボシ釣りでは当たりを指先に感じ、緊張し、わくわくし、興奮し、快を感じる。
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しかし、もちろんその快は指先のマッサージを受けているときに感じる気持ちよさとは全く別である。道糸が指を糸の太さの幅で押し付けるからといって、指は気持ちいいわけではない。魚の大きさによってはひどく痛いこともある。一度、合わせて針掛かりさせた瞬間に大型魚が突っ走り、ズシンという手ごたえと同時に、道糸で指が(1〜2ミリの深さで)スパッと切れ、激しい痛みに襲われたことがある。このときは大きな「身体的苦」に圧倒されてしまった。飛び出て行く糸の摩擦で指が焼けて黒くなったことは何度もある。
最初の小さな当たりを感じたときの快、魚を掛けた瞬間に感じる快は「魚が来た!」、「魚を掛けた!」という判断から生じる精神的な快である。この快は一種の勝利感、目標が達成できたとき、あるいはなにかを計画通りに実現できたときに感じるのと同じ、精神的な喜びである。
だが、その意味では、この快はゴルフでショットを飛ばしバーディパットが決まったとき(実は私はゴルフをやったことはないのだが)、日曜大工で作りたかった本棚をうまく完成させることができたとき、あるいはキノコ採りで食べたいと思っていたキノコを見つけることができたときに感じる、「やった!」、「成功したぞ!」という興奮を伴った喜びと同種の快である。異なっているのは「やった」、「成功した」という判断を引き起こす信号ないし情報である。ゴルフではボールがホールの中に落ちてたてる「カラーン」という音であり、日曜大工では寸法どおりにきちんと組み立てられた本棚の長方形の形であり、キノコ採りでは手のひらの中のキノコの形や色や感触だろう。そしてそれぞれの遊び、スポーツをする人には、これらを「成功」のシグナルとして読み取る、知的・精神的構え、枠組みが用意されている。
時代小説家・井川香四郎「ゴルフ人生」という随筆(愛媛新聞11.10.25、「四季録」)は、「「成功ショット」なんてものはほとんどない。失敗を重ねても、次善をつくすことで人並みにホールアウトできるのだ。---目の前の一打に集中して、そのときにできる自分の技術で前に飛ばし、池やバンカーに入っても、悲嘆に暮れず、次に繋げるショットをする。---でも失敗ばかり。うまくいかないから面白いのかもしれない。」と書いている。
最後のパットが決まった時にだけ「やった!」があるのでなく、それぞれのショットに「やった!」があるようであり、池やバンカーに入っても、次に繋ぐことができる。これを読むとゴルフの楽しさは非常に複雑な内容をもっており、門外漢の私はゴルフについてピント外れのことを書いているのかもしれない。他方で、釣りの快は、やはり、単純であるとも思う。魚が食ってこなければ、(しんぼうするにしても)どうにもしかたがない。なにか「次善を尽くす」ことができるわけではない。
マキコボシ釣りの場合には、指に感じる当たり/魚信つまり道糸の振動が「成功」の判断の源である。魚が掛かってから、道糸を手繰り寄せるときに、あるいは竿を持ってリールを巻いているときに、感じられる魚の引きを含めて考えよう。道糸を手繰っている間、あるいはリールで道糸を巻き取っている間、「魚を釣った」という「判断」が維持され、「やったぞ」「釣ったぞ」という快に満ちた興奮が続く。これが釣り特有の快である。
しかし、次のように考えるべきではないか。肉体的な快と苦は人によりその感じ方やそれに対する反応は少しずつ異なるとはいえ、人間という種にほぼ共通しているだろう。たとえば体の表面を尖ったもので突かれれば痛みを感じ、それから逃れようとする。マゾヒズムは稀な例である。優しく撫でられたり、マッサージされたりすれば気持ちよい。そしてこれは子どもでも大人でも、大体同じである。人種や民族による違いもさほど大きくないと想定できるだろう。人間という種にほぼ共通のこれら身体的な快と苦を土台にして、好みの原因となるDNAが存在し多少影響があるかもしれないが、同時に、あるいは主として特定の文化的環境のなかで学習されることによって、精神的な快と苦の感じ方が形成され、民族差、階級差、また個人差を生む。文学が好きかスポーツが好きか音楽が好きか、どんなスポーツ(相撲かボクシングか)が面白いと感じられ、どんな曲(演歌かジャズか)が琴線にふれるか、好みはみな違い、子どもと大人では好きな「遊び」は異なる。
魚信/当たりが与える感覚が、人間という種に共通なものとして、子どものときから、はじめから喜ばしく楽しく感じられるということはないと思う。それは、はじめは快でも苦でもない、なぞめいた皮膚感覚である。だが、その感覚が、謎めいた原因が明らかになったとき、不安に打ち勝ってなにかを成し遂げたとき、手柄を立てて周囲から賞賛されるときなどに感じる喜びに類した、精神的な快、幸福感と結びつくことで、「来た!」、「掛かった!」「引いてる、引いてる!」の快を引き起こす信号になるのだろうと考えられる。
防波堤や船の上から見ればただ水が広がり表面を覆っているだけで、暗い海の中は見えない。初めての釣りでやや大きな魚が掛かったとしよう。何か得体の知れないものが引っ掛かり、しかも自分の持つ竿を奪い取ろうとでもするかのような不気味な動きをする。ぎょっとし、緊張する。何かが海の中で道糸を引いて竿先を曲げ、私が竿を立てるのに抵抗する。これは小学校低学年のときにはじめて堤防釣りに連れて行った息子が、イワシが釣れていたときには、ギャアギャア騒ぎながら釣っていたのに、急に黙り込み必死の形相で竿をつかんで動こうとしなくなった時の彼の心の中の情景を想像して描いたものである。私に手伝ってもらって釣り上げたのは15〜6センチのメジナであったが、彼にとっては、予想しなかった大物だった。
はじめて大物を掛けたときには、気の弱いひと、臆病な子供は恐いと感じ、引きが強い時には手を離してしまいたいと思う場合もあるだろう。しかし、一緒に来た、経験のある友達や親に励まされたり手伝ってもらったりして、必死にリール巻く。数十秒の戦いののち、海の中からきらきら光った魚が姿を現し、そしてぶるんぶるんと体を震わせながら抜き上げられ、防波堤の上に転がされる。危険な生物でないことを知りほっと安堵し、あるいは魚屋で見て知っている魚が、今、ここでは生きていてぴんぴん跳ねるのに驚き、感激し、「よくやった」「すごい、すごい」とまわりの人に誉められ、自分の成し遂げたことを誇らしく感じ、そして喜ぶ。
「カヌーイスト」の野田知佑は『魚眼漫遊大雑記』(新潮文庫、1988)で次のように書いている。アメリカ先住民ナバホ族の取材でアメリカに滞在していたとき、コロラド川をせき止めて作られた人工湖の岸辺で釣りをした。5歳くらいの女の子を連れた白人の家族が釣っていた。「---その時、女の子の立てていた竿が倒れてスーッと水上を走り出した。何かかかったのだ。水に飛び込んで竿をつかまえ、上げようとするが、竿は強くしなり、ぶるぶるとふるえた。しばらく顔を赤くしてふんばっていたその子はとうとう泣き出した。「お父ちゃん、魚が私を引っぱっていくのよう!」---男は叱るように言った。「自分で上げるんだ。力いっぱい引っぱれ。魚なんかに負けるんじゃないぞ!」その声を聞くととたんに女の子は変身した。それまでの甘ったれた赤ん坊的な様子は消え、決然とした表情になり、右、左にゆれ動く竿を小さな腕でしっかり掴み、魚と格闘を始めたのである。----魚がズルズルと上がってきた。50センチくらいの鯉である。「いいぞ、えらい!」まわりの大人は腹を抱えて笑いながら、彼女の闘志をほめた」。
この女の子にある程度釣りの経験があることは、水の上を竿が走り出したときに、飛び込んで掴んだというところでわかる。しかし「50センチのコイ」の引きは初めてで、不安から泣き出した。だが、彼女は父親の励ましによりこれを釣り上げ、そして周囲の大人たちによって誉められたことを通じて、大物の「手ごたえ」、引きの快を経験することができたのである。大人たちの反応のしかたによっては、この女の子は、魚の姿を見ることができないまま、何か気味の悪いものに引っぱられたという不快な経験、あるいは釣り上げても単に疲れただけのつまらない苦労をしたという経験を持つことになっただろう。
釣りが好きになるにはこうした釣りの経験が必要だ。何回かこうした経験をすることで、人は体で感じる「当たり」あるいは魚の引きを快と感じるようになる。皮膚に感ずる生ナマの感触がはじめから快を生むのではない。この生ナマの感触が「魚が掛かったこと」、「成功を手にいれつつあること」の信号になることによって、快を生む、あるいは快と感じられるようになるのである。
釣りにおいて魚信をキャッチして感じる快は、釣りを終えた後で魚拓を取りながら感じる快、釣友に自慢するときの快、思い出し、日記につけながら感じる快とは全く違う。これらの快は指や腕に感じるものではない。これらは純粋に精神的な快である。他方、当たりと掛けた魚の引きの快楽は直接指や腕で感じる、身体的な快である。しかし、指で感じる糸の振動、腕で感じる竿の変化するたわみが不気味で不快でないのは、それが魚信であり魚の引きだという判断を伴った感覚だからである。それは「えも言われぬ」感覚であるが、指や腕が記憶している魚からくる当たりだとわかっているから楽しい興奮を与えるのである。このように経験を通じて形成された知覚の枠組みで、魚の当たりあるいは魚の引きだとわかる指先の感触、感覚(竿釣りの場合には竿の曲がり)こそが、昭和初期の詩人佐藤惣之助がいう、「釣道の真諦」、「醍醐味」であり、釣りの快である。かかった後の引きも含め、当たりがすべての釣りに共通する釣り特有の魅力なのだと私は思う。
まず、魚の当たりを取り、合わせのタイミングを計るところから緊張と興奮に満ちた魚とのかけひきが始まる。魚を掛けた瞬間に興奮の一つの山場があり、快哉がある。だがそれで完了なのではない。魚が掛かるのは船のほぼ真下、30mから70mほどの海底であり、糸を手繰って魚を引き寄せ、取り込まなければならない。魚を掛けた後も緊張と興奮が続く。
魚は針に掛かったら合わせのショックに驚いて暴れ、引き寄せられることに抵抗し、必死に泳ぐ。魚の引く力の強弱、ハリスの太さに応じて、道糸の手繰り方を加減する必要がある。
アジは比較的一定のペースで泳ぎ、一定の力で抵抗しながら上がってくるので道糸をゆっくり同じ速度で手繰ればよい。しかしタイの引きは大きく変化する。こちらが道糸を強く速く手繰れば強く抵抗する。途中で抵抗が弱まり、近寄って来たと思うと再び元気を取戻し向きを変えて突っ走る。魚が走ったときにある程度泳がせてやらなければ、糸が切れるか針が引き伸ばされて外れるかする。釣り人用語で、バレる、あるいはバラすことになる。
竿と、ドラッグ(道糸が強く引かれるとリールが逆回転して糸が自動的に出る装置)のついたリールを使う場合には、竿の弾力とドラッグ機構により魚の急な動きは吸収され、とくに何かしなくても、リールを回して糸を巻くだけで魚をとりこむことができる。しかし手釣りでは手を使い体の動きで対処しなければならない。(取り込み方については、第一部「釣り」「第1章「マキコボシ釣り」を読んで欲しい。)
こうして、糸を出したり、手繰ったり、糸をやり取りをしつつ、時間を掛けて魚を寄せ、海面に浮かせたら最後に玉網で掬って船内に取り込む。アジなのかタイなのかは途中の引き方から容易に判断できる。しかし、そのどちらでもないこともある。同じ場所で30センチを越える大型のカイワリ、ウマヅラハギ、イトヨリ、メジナ、シマアジ、イロブダイ、40センチ以上のウスバハギ、50センチを越えるチヌ(クロダイ)、60センチを越えるコショウダイ、60センチ程度のハマチ、などが食って来ることもある。おおまかには見当がつくが、最終的には海面に魚を浮かせるまではわからない。マダイはしょっちゅう釣るが、その大きさは、浮かせてみたら途中の引き方から想像していたのとはだいぶちがうということもときどきある。思っていたよりはるかに大きく驚くこともあるが、てこずってこれはかなり大きいと思っていたのに40センチもないというようなこともある。魚が海面に浮く瞬間も釣りの楽しみの一部である。
レインズは『フライフィッシング賛歌』で、釣りは「帽子から兎を取り出すときに味わう」魔法と同様の経験だといっている。「水中の魚は可能性そのものでしかない。もし水が澄んでいなければ魚がいるかどうかもまったくわからない。釣り糸に結びついているものに魚を食いつかせ、私たちの世界に引きずり込むことは、神秘の領域から現実世界へとこれらの生き物を誕生させることにかかわることなのだ。それは一種の創造なのだ。----−写真家キティ・ピアソン・ヴィンセントは、魚は現実的な世界とは異なる次元にいるものだと宣言し、この視覚的経験を伝えようと努力している。そして「鱒は捕捉しがたい無意識の世界を徘徊する夢に似ている。鱒を捕らえること---には夜半の眠りの中の暗い門から一つの夢をつかみ取り、めざめたときにかみしめる、あの驚きの感覚がある」と付け加えている」と書いている。
私も、針にかけた魚が数分のやり取りのあとで水面に浮かび上がるとき、この魔法に似た感覚をたしかに感ずる。魚を神秘の領域から現実の世界へと引き出したのだと感じる。このように異次元の世界から何かが突然現れることが与える、魔術同様の驚きの感覚も釣りが与える快の一部である。
『雨の日の釣師のために 釣文学35の傑作』(D&G・パウナル/開高健編、野崎/小池訳、株式会社TBSブリタニカ、1985)のなかの、David Herbaert Lawrenceの「魚」は、「魚よ、ああ魚よ/こんなにも小さい物よ」ではじまる、185行の詩であるが、その終わりに近い箇所で、
「ぼくは岸に立って川を覗き込む人のように
ぼくの存在の境界に立ち、その向うを見る
すると、外のほうの世界に、魚がいるのが見えるのだ」
という言葉がでてくる。
また、アーサー・ランサム「釣竿と糸」という文には
「魚は別の世界に住んでいるのであって、可視の世界にいる釣り人は、いわば第四次元、不可知の世界に釣糸を垂れるのである」
という言葉がある。
空を飛ぶ鳥は簡単には触れたり、捕らえたりすることができないが、その鳴き声を聞くことができ、たいてい姿を見ることもできる。鳥は人間とともにこの世界の空気を吸って生きている。穀粒をまくなどして、庭やベランダに呼び集めることもできる。カラスやスズメは棒を振り回したり石を投げたりして追い払うこともできる。鳥は近くにいて「接触」することができる。人間とは違った仕方でではあるが、鳥はこの世界に確かに属している。
ところが、魚が棲んでいる海や川は、水深が10mもあれば、あるいは2〜3mでも、水中、水底は見えず、魚の姿は見えない。鳥のように声が聞こえてくることもない。海や川の表面にはふれることができるが、そこから向こうはこちらの世界となんのつながりもない。
海中に長時間、といっても1時間かそこらだろうが、潜ろうとすれば、重いアクアラングを身に付けなければならない。そして潜れてもせいぜい50m程度まででそれ以上の水深になると光が届かず真っ暗で、潜るには特別の訓練を受ける必要があるようだ。
海の中での活動の困難さは、大型のロケットによらなければ行けない高い空の上の宇宙での活動が宇宙服を着なければならないというのと変りがない。深海ともなれば、潜航艇から外へ出ることもできない。海(海中)は陸上の人間の世界から断絶しているのである。
浅いところなら素もぐりで、少し深ければアクアラングを着け、もぐって貝を採ることはできる。しかし魚を捕まえることは手に網(玉網)をもっていても、まずできない。魚は水中で自由自在に行動できるが、人間は、重いよろいを身に付けているかのように、のろのろとしか動けない。
漁師は網や籠を仕掛けて魚を取る。しかし、漁師以外の人間が、魚を捕獲しようとすれば、一般に、釣りの仕掛けを使うしかない。また、網や籠はたしかに魚を取ることはできるが、仕掛けた網や籠は置かれたままで魚が彼らのほうから網に引っかかり籠に入るのであって、それを人は海の上で待ち、一定時間経ってから引き上げて見るのである。漁師も魚と出会うのは海上、あるいは陸上でのことであって、海の中で魚を捕えることはだれにもできない。
釣り糸と針という仕掛けは、海あるいは川の中に人間が「手を伸ば」し、人間がそこに「入って」、魚と出会い、魚を捕えるほとんど唯一の方法なのである。(「ほとんど」と言うのはヤスや水中銃があるからであるが、しかし、これらの道具を使うことは殺すことになり、「捕らえる」こととは異なる。)他には海の中にいる魚に近づいて、自分の手で魚を捕まえる方法はない。釣り糸という特別な装置がなければ、その世界に関わることができない。海中と陸はまさに「細い糸」でしかつながっていないのである。
当たりを取り、合わせて魚を掛ける。そして釣り上げる。この興奮と緊張のプロセスに釣りの快の説明を求めるのとは別の、もう一つの考え方がある。それは自然を楽しむという考えである。周りの風景など眼中になくもっぱら獲物を追い求める釣師もいる一方、釣果は二の次、あるいは三の次で、自然のなかでのんびりと時を過ごすこと、自然を享受することを釣りの目的と考える人もいる。
カイヨワの遊びの分類に自然志向のあそびが含まれていないことに不満を述べた際に触れたが、太公望、呂尚は、渭水で釣り糸を垂らしてはいたが、魚を釣る気はまったくなかった(針をつけていなかった。あるいはまっ直ぐな針をつけていた)という話が伝わっている。獲物を求めない太公望的な釣り人は、海や川、湖などの自然のなかでゆったりと流れる時間を楽しむだけで満足できるのだろう。そのような釣りはエピクーロスも、大いに推奨したかもしれない。
釣りには、自然を楽しむという要素がある。しかし、獲物を全く求めず、ただ、自然の中で過ごすことだけを求める釣りというのはありえない。太公望は、自然の中で過ごすことを求めていたのではない。かれは、鯛ではなく、当時強国になりつつあった周を釣ること、周への仕官の口を求めていたという。次のような江戸時代の川柳がある:「釣り上げてみれば魚偏の取れた鯛」(前掲、長辻象平『江戸釣魚大全』)。 「釣った鯛直ぐな針ゆえ魚が落ち」、「直ぐな針鯛を半分釣り上げる」といった句もある。(鈴木克美『鯛(たい)』<ものと人間の文化史>69、法政大学出版局、1992)
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飯田(前出『釣りとイギリス人』)は「一言で言えば、イギリスの人々は、釣りの中に自然をもとめた」という。イギリス人にとって美しい風景の代表的なものの一つが清流を含む田園風景だった。釣りはこのような田園に接し季節の変化を体感する場だった。また、イギリス人はことのほか自然を愛する国民であり、この自然の中で釣りをすることを好んだとともに、この自然の美しい風景と季節の変化を、詩をはじめとする文章に残した。イギリス人は美しい自然を背景に、釣りと芸術とを愛した、という。
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英国の美しい田園風景の中での釣り。この章のトップページ上段左の写真とともに、"Go Fly Fishing UK" http://www.goflyfishinguk.com/による。
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トップページの写真は、Lake Districtと呼ばれるイングランド北西部を流れる川の一つ、the River Edenでの釣りの模様。この川ではブラウントラウト、グレイリング、サーモンが釣れるという。
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左の写真の川はChalk streams の一つ。Chalk streams とはチョークつまり石灰岩質の丘陵地帯から流れ出る川のことで、アルカリ性で水が澄んでいるのが特徴。世界中に210本のチョーク・ストリームがあり、そのうちの170本が英国にある。フライでマスtrout釣りを行う釣り人にはなじみのものといい(英語版Wikipedia)、Chalk streams の一つthe River TestはこのHPによれば「世界で最も有名なフライフィッシングの川」だという。この写真がthe River Testかどうかは不明。
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飯田はイギリス人が「清流を含む田園風景」とその中での釣りを好んだことを強調している。"Go Fly Fishing UK"H.P.に載っている釣り場は確かに非常に美しい。しかしそれらはまるでよく手入れが行われている大きな庭園の中の人工的な流れのように見える。
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飯田の著書の中でも書かれているように、英国では河川で釣りをするにはその川が流れる土地の所有者(ジェントルマンなど)による許可が必要であり、英国の釣り場が非常に美しいのは、川はかつては土地の所有者に雇われたリバー・キーパーによって、現在ではその所有者から委託された釣りクラブなどによって、あるいは場所によっては河川管理局によって、釣り方や釣りの時期が厳しく規制されているとともに、入念に管理されていることによるのであろう。
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他方、日本の河川は、途中にダムがつくられて流れが分断されていたり、川の中に鉄橋や自動車道の太いコンクリート製の橋脚が立ち、上を特急列車や自動車がけたたましい音を立てて通過する。あるいは川沿いにはたいてい舗装された道路が走っており、すぐ近くに人家や倉庫が立っていたりする。だが、それでもアユやアマゴを釣るポイントでは、美しいところも多い。そして、日本の川に残っている美しさは、英国の河川の、飼いならされ手入れの行き届いた人工的な美しさとは違って、ありのままの自然の流れがもつ美しさである。
露伴の釣りは若いころと中年以降とでは大きく変わった。詳しくは前の章の第2節を参照していただきたい。そこで引用した文と一部重なるが、40歳ごろの幸田露伴は次のように書いている。
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「一口に釣りといっても、種々様々で、私のするのは今は鱸スズキ釣りのみです。----鱸釣りは----酒を飲みながらでも、茶を啜りながらでも、また、詩集俳諧などを読みながらでもやれます。余裕ゆとりがある、一番ノンキな釣りです。半分は水の上で遊んでいるようなものです。------広い景色の中に船を浮かべて、そよそよ風に吹かれながらおとなしく遊ぶ、それが面白いのです。また夕暮れのクイナ、暁の千鳥、暗闇の五位鷺など、いずれも詩趣を起こさせます。〔スズキ釣りは夜釣りで行なうことが多いが〕昼間は昼間で、幾多の天象の変化、モヤ、キリ、雨、雲、夕立、それらを家にいるよりはきわめて親しく味わって、善悪ともに自然に抱かれるのです。蓋し、それらが興味の大部分を成しますのですネ」。
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「鱸はおおきい魚だから鮒でも釣る様にそう釣れるものではないが、何の目的(あて)なしにはいられないからこういうことになるのです。それに船を漕いだり、帆を揚げたり、カシ〔河岸。遊ぶ場所、釣り場〕を変えるために川を下ったりするために、多少の労作をする、之がまたひとつの面白みになるのでして、----室内のみにいるものにとっては、労働して発汗するのも愉快な気持ちを致す道ですからかもしれません。ソンナコンナで心地のよい遊びだものですから舟遊びが好きなのです」(「釣り談」)。
また「只多く釣ろうといふのを唯一の目的としている人は大概獲物が少ないとしょげ返っていますが、これは釣りの真の趣味を度外視したもので、私は好みませぬ。その真の趣味ですが、それはむしろ釣り以外の四辺(あたり)の光景にあるのですよ。その趣はもとより四季によりて違ひますが、いずれにしても山川草木、野山の美しい自然のうち、心静かに糸を垂れているのですもの、心地のよいことはこの上も無く、自然の美と溶け合うような感じがします」と言っている(「釣魚通」)。
中年期以降の露伴は釣りをしながら、自然現象を「極めて親しく味わう」ことを楽しんでいる。彼は魚が食うのを待つ間、あるいは釣れても釣れなくても、自然と交感し自然に溶け込む、静かな遊びを楽しんだ。
露伴より100年ほど前のロシアの作家アクサーコフも、釣り人が「あくせくした浮世のなりわい」、「無益な思考」、「気遣い、気苦労」から逃れて、「遠い田舎の、静寂、安息、ありのままの生活、簡素な人間関係」に、そして「自然の真っ只中」にやってくるべきだという。
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セルゲイ・ティモフェヴィッチ・アクサーコフ(1791−1859)の肖像
しかし、彼によれば、「いわゆる自然の美、すばらしく美しい場所、絵のような眺望、壮麗な日の出また落日」、「ひとめでわかる」ような、「風景画」的な自然は本当の自然ではない。「うっそうたる森の神秘な木陰や霊気の中」「丈の高い草の茂る、見渡す限りの大草原」、「暑い夏の夜の闇の静寂(しじま)の中に光る川の岸辺」、「周りに芦の生い茂ったとろりと淀む湖の岸」、「夜の鳥や虫のとぎれなく歌い、すだく声」、このような、われわれがその小さな一部分しか知らない、われわれを取り囲み、包み込む大自然こそが本当の自然なのだという。彼は、人間の矮小さを感じさせる、大自然の中で釣ることに快を見出した。S.T.アクサーコフ/貝沼一郎訳『釣魚雑筆』岩波文庫、1989釣りばかりではない。キノコ取り、山菜取りで山に入れば、たとえ、目的のキノコや山菜を見つけることができなくても、汗をかきかき山の斜面を昇り降りし、木陰で涼しい風を受けて一休みするのは、極めて大きな快楽であろう。登山、キャンプ、ハイキング、バードウォッチングなども、自然の中でなされるスポーツ、アウトドア・レジャー、遊びであり、「自然に抱かれ」て遊ぶ大きな快がある。
これらのレジャー活動や遊びは、それぞれ特有の楽しさ、面白さがあるに違いないが、少なくとも、囲碁や将棋、ゴルフやサッカーなど、室内で、あるいは人工的な空間で、頭脳を使ってあるいは運動技能において人と競う、競技・ゲームとは異なって、自然のなかで自然を享受する大きな楽しみをもつと言う点で、共通している。こうして、釣りは、自然を楽しむ遊びあるいはレジャー活動の一種だと言える。そしてその細かな区分において、登山、キャンプ、等々との違いが改めて問われるということになる。
釣りの面白さの原点は、当たりを取り、魚を針に掛け、釣り上げることにあるというのは1つの観点である。釣り人は異なる対象魚を釣ろうと、さまざまに異なる釣り方で、釣りを楽しむ。そして当たり、引きを楽しむ点では共通しているが、釣り方の違いから生じるそれぞれの釣りのなかに、異なる快を見出す。ゲームとして楽しむのか、釣果を食し味わうことを楽しむのか。強い引きを楽しむのか、微妙な当たりを感取、察知することの中に快を見出すのか。針に餌を付けて食うのを待つのか、疑似餌・擬餌針を使い騙して食わせるのか。優美な釣り方が好きなのか、豪快な格闘が楽しいのか。そして魚信がないときにはどうするか。なんとかして一匹でも釣ろうと最後まで餌を付け替え、仕掛けの入れなおしを繰り返し、釣ろうとがんばるか、土手の上にあるいは防波堤、船の上で寝転び、空を眺め休息することで「静的快」を求めるか。さまざまな釣り方がある。それらすべてのなかに魚との関係がある。
だが、露伴やアクサーコフが言うように、魚を釣り上げることは二の次にして、自然の中で遊び自然を享受することの快を、釣りにとってより本質的なものだと考えることもできる。そのように考える場合には釣りのほかにも、自然を享受することを楽しむ様々な身体運動・遊びがあり、釣りは自然を楽しむそれら運動・遊びの1つであるということになる。魚信をキャッチし魚を掛けるときの快や、目指す山菜やキノコを見つけ収穫するときの快、珍しい蝶やトンボを見つけ捕獲するときの快、あるいは木の上でさえずる鳥の姿を双眼鏡で覗き見、あるいはカメラに収める楽しみは、主目的である自然を享受する様々に異なる方法・スタイルの遊びだと考えることができ、釣りはその一種であることになる。
もし、すべての遊びやレジャー活動、娯楽が、自然をキーワードにして分類されるとすれば、次のような分類が考えられる。まず、自然を相手にするのかあるいは人間を相手にするのかで大きく2つに分けられ、さらに、そのそれぞれが相手に親和的であるか、そうではなく挑戦的かという観点で区分される。
このような観点から、次のような、遊び、娯楽の分類が可能かもしれない。
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1)人との親しい交わり、社交を楽しむ:ダンス、音楽、ごっこ遊び、いないいないばあ
2)人と戦い競うことを楽しむ:ほとんどのスポーツ、将棋、かけっこ
3)自然に挑戦する、自然と闘う:狩猟、ロッククライミング、探検
4)自然と交わり、自然に親しむ:海辺の遊び、ハイキング、山菜取り、バードウォッチング、磯遊び、舟遊び
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現在では、ほとんどの釣りは4番目に分類される。大物釣りは3)に入るだろう。しかしヘラブナ釣りやバス釣りなどのゲーム・フィッシングは、「自然」に親しむのでも挑戦するのでもなく、2)の「人と戦い競うことを楽しむこと」に入れるべきかもしれない。
19世紀のイギリスでは、釣りが社交の場となったことがあった。そこでは釣りは社交の単なる手段、一趣向であったにすぎない。社交はいろいろな場で可能である。ゴルフは本来は2)に分類されるべきスポーツだろうが、社交(ビジネス)を目的にして行なわれる場合もある。
また「のんびりと釣り糸を垂れる釣り」は「大物釣り」と対比するときには、「自然に親和的」と見ることができるが、魚は釣られ人間に食われるのだから、もっぱら「人間中心的」な観点からの分類にすぎない。
必ずしもすべての遊びをすっきりと分類できたわけではなく、問題点はいろいろあるが、ほかの分類法でもすべての遊びをうまく分類しているわけではないことを考慮すればも、このような分類も一応認めてもよいのではないか。
ダンス・舞踏では手や足の形や動作が決まっている。音楽では、楽譜に書かれている旋律やリズムにしたがって演奏がなされる。競技や囲碁・将棋などではルールに従った闘いや競争を求める。1)と2)では、決まりや約束に基づいて、遊び・スポーツが行われる。決まりや約束は自然には存在せず、社会や文化つまり人間によって作られたもので、1)、2)は人間を相手にした「遊び」であるために、決まりや約束を必要とする。
2017年1月新国立劇場で上演された歌劇「カルメン」の一場面(「チケットぴあ」http://t.pia.jp/pia/event/event.do?eventBundleCd=b1633630による)
決まりや約束なしに、人間を相手に一方的に「親和」や「融合」を求めるなら、欺瞞や支配になるだろうし、闘うとすれば喧嘩や戦争になるだろう。たとえば、カルメンはハバネラのなかで「恋に決まりなどない。私は好きになったら、欲しくなったら、なんとしてでも手に入れる。恋は自由だ」と歌いつつ、一方的にドン・ホセに言い寄る。このときから2人の人生は悲惨な結末に向かって進むことになる。
自然を相手にする遊びでは、約束や決まりは存在せず、自分の好きなように振舞うことができる。釣りは魚をだますことだというのはしばしばみられる考えであり、私の住む地元の老人のなかには「ルアー」を「だまし」と呼ぶ人もある。餌を付けていてもその中に針を潜ませているのだから、一種の「だまし討ち」である、と誰かが書いていた。
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自然を相手にして一人で行う遊びは、毎日の仕事のなかで「同調」や「協調」を求められストレスを感じている人には、大いに推奨できる。「礼儀」や「慣例」にしたがって振舞うことにうんざりしている人には、釣りは相手(魚)を騙すことも含め、やりたい放題をやる楽しみがある。ただし、しっぺ返しを食らい、怪我をしたり、場合によっては命を落とすこともある。
自然の中で行なわれるスポーツや遊びといっても、英国のある時代の釣りのように、自然を楽しむことが目的ではなく、社交を目的に行われていたこともある。あるいはキャンプは自然のなかで行なわれるものだが、自然を楽しむばかりでなく、あるいはそれ以上に、一緒に参加する仲間との関係を楽しむという要素がある。そして釣りにも、管理された釣り場で、競うことを中心にしたヘラブナ釣りなどがあり、釣りがすべて、一人で自然に交わる遊びだとはいえない。
釣りは人と交わることを積極的に求める(大勢で「盛り上がる」)遊びには分類されない。しかし、戦前の作家・葉山嘉樹のようなケースを除けば、孤独を求めることないしは自然の中で孤独を楽しむことが釣りの主な目的だとは言えない。とくに、魚が釣れたときには、気分が昂揚し、あるいは、非常に楽しくなる。この楽しさを目的に釣りにでかけるのだ。しかし、釣りはしばしば一日中まったく釣れないこともあるし、釣れるときでも待つ時間が長いこともある。孤独を楽しむ機会はいくらでもある。
釣りが特定の境遇や性格の人に向いている、あるいは釣りを好むのは特定の人であると言えるだろうか。
「釣りの聖書」ともいわれる『釣魚大全』はイギリスのI.ウォルトンの書いたものだが,この初版は1653年に出ている。長辻象平『江戸釣魚大全』によると、ウォルトンは裕福な繊維商人であった。他方、1723(享保8)年、江戸時代に書かれた『何羨録』は日本最古の釣りの書とも言われる。その著者、津軽采女(ウネメ)は、家禄4000石の旗本で、経済的には恵まれていた。ウォルトンも采女も、ともに家庭の幸せに縁が薄いところが共通していると、長辻はいう。
采女は16歳で父をなくし、4人の兄弟は采女26歳までに、26、22、16歳ですべて死んだ。妻は結婚後1年で病死した。再婚した妻との間に9人の子供をもうけたが、26歳で死んだ長女を含め、次女、3番目、4番目が死んだ。采女は47歳のときに五番目の子供である三女に養子を迎えた。その後も、6番目から9番目までの幼い子供が次々に死んだ。
ウォルトンは5歳のときに父親を亡くした。34歳のときに結婚した妻は10年後に死んだ。二人の間に生まれた7人の子供はすべて夭折した。後妻との間に生まれた長男は夭折したという。
しかし、当時の社会の一般的な状況と較べてウォルトンや采女が特別、家庭的に薄幸であったとはいえない。前出『イングランド18世紀の社会』によれば、1700年には、新生児の5分の1は生まれて1年以内に、3人に一人は5歳以前に死に、当時の英国の平均寿命は37歳だった。1740年代のロンドンのいくつかの教区では4人に3人の子どもが6歳未満で死んだ。
上流階級生まれの歴史家ギボンの兄弟姉妹6人もすべて幼児期に死んだし、ギボン自身も病弱だった。アン女王の子どもは一人も成年に達しなかった。そして、何万人と言う女性が産褥で死んだという。医学や公衆衛生が未発達な前近代の英国社会においては安全な出産も子どもの健やかな成長もまったく保証されていなかったのであり、江戸時代の日本でも変わらなかったはずだ。
明治40年生まれの民俗学者・宮本常一は、6人兄弟であったが子どものときに3人が死んだ。彼の父には5人の弟妹があったが、2人がやはり幼少のときに死んだと書いているという(岩田重則『宮本常一 逸脱の民俗学者』河出書房新社、2013)。ただし、子どもの死が悲しく辛いことかどうかは、子に対する親の愛情の多寡によってきまるであろうから、生まれた子どもの数が多いからといって子どもの死が不幸ではないとは言えないとも思う。
長辻は「荘子を始め、白居易や津軽采女の選んだ生き方は、本来釣りが個人の遊びであり、もっといえば自己の内面と向かい合う行為であることと無関係ではないだろう」と言っているのであり、家族的な薄幸がウォルトンと采女を釣りに向かわせた「原因」だと言っているわけではない。釣りは、人間嫌いとまでは言わないにしても、社交とは対極的な、個人的な遊びであることは確かである。ウォルトンは表題にcontemplative manつまり瞑想的な人と言う語を入れている。瞑想的な人は、社交家ではないだろう。
私がイシダイ釣りにのめり込んだ時期と、初めて生まれた娘が生後1ヶ月ほどで小児がんだと判明し、半年の入院とその後数年間経過を見るために通院した時期が重なる。「主たる家計の支持者」であった妻は同じ大学病院に勤務していたが、平日は、病室に昼休みに顔を出すくらいである。日曜日は妻が看護した。(妻には休日がなかったことになる。)私は塾や私大の非常勤講師などで週3日仕事をしていた。私と、応援に駆けつけてくれた私の母親が半分ずつ交代で泊り込んで看護をした。妻の姉が誕生祝いに贈ってくれたオルゴールがベッドの脇で奏でる「揺りかごの歌をカナリアが歌うよ---」がひどく寂しく聞え、目の前が暗くなるように感じたことを忘れることができない。
私は月に2〜3回休日に釣りに出かけた。伊豆半島や房総半島などに車に乗せて連れて行ってくれる友人と一緒の釣りもあったが、伊豆七島が中心で、大島、三宅島などに一人で通った。イシダイは、最初の1匹を釣るのに10年以上かかることも珍しくないほどめったに釣れない。当りもない。ほとんどの時間を茫洋と広がる海を眺めて過ごすことになる。私は磯の上で、娘のがんは治るのかどうか、このまま死んでしまうのではないか、娘が死んだとしたらその悲しみから立ち直れるだろうか、「自己の内面と向き合う」というのとは少し違うが、とにかく娘の病気のことで頭が一杯であった。しかし、当りが頻繁にあり、絶えず合わせのタイミングを計る、そして合わせて、力いっぱいリールを巻くというように、釣りで忙しければ、心配を忘れることができたかもしれない。私が伊豆大島で小型ながら始めてイシダイを釣り、その2ヶ月ほど後、三宅島で大型のイシガキダイ・クチジロを釣ったのは、娘が退院した直後であった。
釣りは魚を釣ることを目的に出かける。たくさん釣れれば人は快活になり、少々の憂さなら完全に吹き飛ばし、また明日からの仕事に向かうことができる。しかし、一人で行く釣りで、釣れないときには、囲碁や将棋を指しているときのように、指し手を読むのに集中することはできないし、大勢でキャンプをするときのようにわいわい言いながら作業をすることはできないのだから、否応なしに、内向的にならざるを得ず、気に掛かっていることを思い出し、反芻しないわけには行かない。
周囲の景色を眺めることもあるが、前方は海であり、釣りをしているときに、後方を眺めることはあまりしない。景色を楽しむのは磯に入るまでの途中の限られた時間であることが多い。そして、広がる海を眺め、あるいは川面を見ながら竿を出すことは景色を眺めて楽しむのとは違う。
長辻は、采女やウォルトンは一人で思索や想像にふけること、自分の内面に向かうことがもともと好きであって、そうした性向のゆえに釣りに行ったと言いたいのだろうか。それとも、采女やウォルトンは肉親を相次いで失うことの悲しみで内向的になってしまい、人と付き合わないで済む釣りに向かうことになったと言っているのだろうか。私は、当りがほとんどなく、常に海を眺めているしかなかったために、娘の病気について考えざるを得なかったのだという気がする。それにしても、釣れない釣りには人を内面に向かわせるものがあるということは言えるだろう。
私は、娘の入院中、イシダイ釣りに出かけることで、日ごろの憂さを吹き飛ばすことができたとは思わない。だが、治らずこのまま娘が死ぬかもしれないという恐ろしい不安、あるいは、いったん治って退院したがまだ再発の可能性が残っていると言われた時期に感じていた、頭のすみっこに靄がかかっているような気分に慣れようとしていた。悪いことが起こることを予想し、そうなっても我慢するしかないのだと言い聞かせようとしていた。死ぬかも知れない、死ぬだろう。それはひどく悲しいことだ。私は、その幼くして死んだ娘のことを忘れることができず悲しみながら、人生を生きて行くのだ。しかたのないことだ。それも人生だ。自分に対するそうした説得は、実際に娘が死んでいたら何か役に立ったかどうか怪しい。悲しみに打ちひしがれて精神を病んでいたかもしれないとも思う。エピクーロスは未来の不幸、苦しみを先取りして苦しみを増やすよりも、楽しいことを想像することのほうがよいという。たしかにそのほうが快は大きい。エピクーロスを批判するキケロは、苦しみの不意打ちは苦を増大させると言い、予めそれに備えることが有効だと言っている。私にはどちらが正しいかはわからない。
当りが頻繁にあり、魚がたくさん釣れる忙しい釣りは人が内面的であることを許さない。当りがめったになく、釣れない時には、他の人に接していない分、それだけ、いわば自由に内に向かうことができる。しかし、釣れないときに何もしないでぼんやりしている人はあまりいない。たいていの人はエサを付け替えたり、場所を変えたりして何か釣るための工夫をする。あるいは中年期以降の露伴のようにあくせく釣ろうとはしないが、代わりに一杯やりながら水上でのピクニックを楽しむ。ぼんやりとして時間を過ごすために釣りに行くという人はほとんどいないだろう。
人と囲碁や将棋あるいはテニスやゴルフをして楽しむよりも、一人で体を動かして遊ぶことが好きな人(第三章でふれたエッセーイストの玉村は小さいときから一人遊びをしていた)は釣りが好きになるかもしれない。ひとりでいること、孤独を好む人が釣りを好きになるということは言える。しかし、一人になるとしても、内面的になるかどうかは別である。カイヨワの言うホビーに打ち込む人は一人でミニアチュアの模型の制作に没頭するだろうが彼は細かな手作業に注意を集中するのであって、決して「内面的」であるのではなかろう。一人で音楽を聴くのが好きな人、一人で険しい山に登るのが好きな人、そして一人で釣りをするのを好む人も、必ずしも内面的であるとは言えないだろう。
私は釣りにほとんどいつも一人で行く。しかし仲間と一緒に釣りを楽しむ人もある。社交ダンスやゴルフなどと同様に、釣りが社交の場となることもありうる。竿を使った釣りとマキコボシ釣りとでは当たりの表れ方が異なり、そしてその結果、竿を使った釣りと手釣りとでは、社交に役立つかどうかに大きな違いが生じる。
ビシ釣りなどの竿釣りでは、魚が針に掛ると道糸が引っ張られて竿が曲がる。船縁の竿掛けから伸びた竿が海上に弧を描き、その先端が海中に突き刺さるように大きく揺れ動く様を見て、釣り人は「食った!」あるいは「釣れた!」と判断し、喜ぶ。
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「食った!」。竿が大きく曲がる。松山沖での釣り、遊漁船「愛釣丸」HP(http://www.aicyomaru.jp/index.html)より借用。
他方、竿を使わず道糸をじかに手で持って釣るマキコボシ釣りでは、かかった魚の引きが指から皮膚の下の神経を通じて脳に伝わり、「釣った!」という判断を生む。マキコボシ釣りの場合の喜びは、言ってみれば、私の狭小な体内にとどまっている。竿で釣る場合、当たりは竿の動きに表れ、近くにいる複数の人の視覚によって当たりが共有される。そして、イシダイ釣りなどでは、その当たりが、魚がちょっと口にくわえてみただけの前ぶれで、もう少し食い込むのを待ってから合わせたほうがいいなどということをベテランから教えてもらうことが可能であり、また、掛った魚の大きさが竿の曲がり方から予想がつき、小物だとわかれば、他の仲間は一瞥するだけで自分の釣りに専念し、大物だとわかれば、自分の竿を放っておいて、仲間が魚を上げてくるのを見守り、玉網を持って取り込みを手伝おうと準備したりすることになる。こうして釣りが仲間の間で共有化される。(仲間が皆、釣った人と同じく喜ぶかどうかは別な話しである。)
他方、マキコボシ釣りでは、当たりは指先から伝わる感触だけであり、その感触は見ることも聞くこともできない。隣りの人が「感じる」ことも不可能である。釣っている人が1人で緊張し、興奮し、喜ぶしかない。魚を掛けた後は、大ものなら体全体を使ってのやりとりになるから、隣りの人にもわかる。しかし、たいていは、(特にベテランは顔に出さず)釣れたか釣れないかは道糸を引き上げる速度が違うだけで、黙って静かに糸を手繰るので、傍で見ていてもわからないくらいだ。マキコボシ釣りは数人が集まって近くで釣っていても1人で釣っているときとなんら変わらないといえる。
釣りは他の遊びあるいはスポーツ、例えばゴルフなどと比べて、自然との関係が強く、人間との関係、社会性(社交性)が薄いが、釣りの中でも、特にマキコボシ釣りは人間関係の最も薄い釣りだと言える。マキコボシ釣りでは、人は喜びや興奮を誰とも分かち合うことなく、また人と競争することもなく、ただ1人で自然と向き合う。(とはいえ、船や針や糸その他用具においてはもちろん、どの魚を釣りたいか、どの魚を釣ったときに私の喜びが大きいかは、すべて社会により支えられ、規定されていることもまた事実なのだが。)
釣りの快の原点は、当たりを取り、魚を掛ける瞬間に、あるいは魚を掛けてから取り込むまでの間に魚の引きを感じることにあると述べてきた。そして、他のスポーツや遊びと比べ、人間社会のなかで、社交を求めたり、ゲームで競ったりするのではなく、自然のなかで周囲の自然を享受することに(も)喜びを見出しつつ行なう、遊びだと述べてきた。
上で、私が今最も大きな快を見出している釣りである、マキコボシ釣りで享受する快について考えた。マキコボシ釣りでは、大物を掛けて全身で渡り合い、格闘するのではなく、静かに、座ったままで、微妙な当りをキャッチすることに主たる快がある。この釣りでは、オモリ代わりの石を30個か40個集めて運ぶ、ちょっとした労働は必要だが、ハマチの曳釣り・トローリングのように、船を走らせる間中、長く重いビシ糸を持ち続けることもなく、イシダイの磯釣りのように、太い竿、大きく重いリール、オモリ、頑丈な竿掛け、竿掛け用のピトンを岩場に打ち込むためのハンマー、等々、重い道具を運ぶ必要もない。船を使う釣りである限り、どんな釣りをするにせよ、船を管理する苦労があるが、それを除けば、毎回の釣りは、最も楽で、怪我や事故の危険性も最も少ない。
船を使った釣りでも、イシダイ釣りは、釣り場によっては、外道のコブダイなどに悩まされる。10キロを超えるコブダイと渡り合うことは体力を激しく消耗させる。体力が衰えた老人には、イシダイ(を狙う)釣りは、それに伴う苦が大きすぎる。
これに対して、マキコボシ釣りは、大物釣りの面白さとは別種の、しかし、それに勝るとも劣らぬ大きな快が得られ、しかも苦が最も少ない釣りだ。だから、マキコボシ釣りについてだけ考えれば、苦について考える必要は余りないといえる。しかし、あと1、2年で古希を迎えるが、私はたまにはスリルや格闘の大物釣りに行こうと思う。〔実際、この第三部第4章「釣りについて、釣りの快楽について」を書き上げて2年ほどして私は泳がせ釣りでハマチを釣って格闘した。しかし、そのあとぎっくり腰になった。⇒第一部第二章の3.参照〕また、釣りは一般にいつでも釣れるわけではなく、釣れない時には快がゼロだというよりむしろマイナスつまり苦になることもある。以下では釣りにともなう苦を考えるため、イシダイ釣りを例にとって考えることにする。
エピクーロスによれば、幸福は最大の快を得ることで達せられる。そして快の総量は、得られた快と蒙った苦を差し引きして得られる。イシダイ釣りに限らず、釣りは楽しいだけでなく、苦も伴う。真夏の灼熱の太陽の下で、あるいは冷たい雨の中で、あるいはごうごうと吹く寒風のなかで、それら悪条件にじっと耐えながら釣りを続け(⇒第一部第6章「雨の中、風の中の釣り、寒中の釣り、真夏の釣り」参照)、そして何の当たりも釣果もなかった日の釣りは苦しかもたらさない。
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帰港して、船を係留している場所から家に戻るために300メートルか400メートルの緩い上り坂になった道を歩くときの足は極めて重く、何度か立ち止まって息を整えないと前に進めないということもある。しかし、その苦を避けるために釣りをやめようとは、金輪際思わない。むしろ、時々釣れないことがあるから、釣れたときの喜びがその分大きなものになると感じ、時々釣れないことはよいことだとさえ言えるように思う。釣りでする苦労は釣りの快の源とも言える。
私は東京に住んでいたころ、イシダイ釣りを10年近くやった。イシダイは「時として釣れないこともある」どころか、年がら年中ほとんど釣れない。別稿「関東でのイシダイ釣り」(⇒第一部第3章の2.)の中でもふれたが、スポーツ紙に載っていたあるイシダイ釣りファンは最初の一匹を釣るのに13年かかったという。何年もイシダイを追いかけたが、一匹も釣ることがないまま、イシダイ釣りをやめた人もたくさんいる。私は運良く、数十回の釣行により、始めてから2年で最初のイシダイを釣ることができた。だが、私が東京でイシダイ釣りをやっていた10年ほどの間に、釣行した回数は100回や200回ではきかない。そして獲物(イシダイ、イシガキダイ)を手にしたのは10回程度に過ぎない。しかし何百回かの釣れなかった釣行が、イシダイを釣り上げたときの私を、まさしく、天にも昇る心地にさせてくれた。大型イシダイを最初に釣り上げた時は、少なくとも、その後の1年間は「釣った、釣った」という興奮が続き、その思いだけで十分幸福であった。
イシダイ釣りでは大きく太い針、ワイヤーハリスなどの仕掛けを使うので、ほかの魚はまず釣れない。磯で「何か」釣りたいというのであれば、細いナイロンの糸と小さい針を使った上物(ウワモノ)釣りのほうが釣果を得やすい。しかし、当時の私はイシダイ釣り以外の釣りをやろうとは一度も思わなかった。「何か」ではなく、イシダイだけを追い求めた。イシダイは釣れない。釣れないからこそ、釣ったときに最高で最大の喜び、幸福感を得られるのだと思う。
イシダイ釣りは極端な例である。しかし、ほかの比較的釣りやすい魚でも、釣れないことはしばしばある。そしてその釣れない日には心身ともに疲労困憊し、腹立たしい思いに取り付かれる。しかし、腹立たしさや疲労感、落胆は1日、2日の後には消え去り、次回の釣りへの快く、楽しい期待感が沸いてくる。
開高健は1970年ごろから死ぬ直前の88年ごろまでの間に、雑誌社と契約し、運転手、カメラマンなどとともに何度か世界を旅し、大物を釣り、その報告記を書いた。しかし、狙う大魚はいつも簡単に釣れたわけではない。彼は、アラスカの川でサケ釣りをしているときの状態を次のように描いている。
「氷雨と強風で全身が凍(シバ)れてしまい、しかも14時間続けて竿を振ってもついに一回もアタリがなかった。---腰近くまで氷河の雪解け水につかり、足が砂泥に深くもぐりこみ、遠くから眺めると私は川に刺さった一本の棒のようである。-----棒と化しきった私の姿を遠くから見たら、世にも稀な静謐の結晶ともバカのかぎりとも映るだろう。しかし、本人の皮膚をはいでみると、なかなかそれどころではない。焦燥と倦怠がかわるがわる明滅して、煮えたみたいになっているのだ。主としてそれは釣れないことからくるのだが、ほかに釣りとは関係ない妄念、妄想の類がわらわらとこみあげ、からまりあって出没しメデューサの蛇のようになっている。釣りをしているあいだに私のこころに浮沈した言葉や情念をもし画にしたら、思わず眼を背けたくなるだろう。醜怪、下劣、珍妙、陰惨、とても静謐の研究などといったものではない。魚が1匹も釣れなくて水辺から去るときにおぼえるあの疲労のおびただしさは、体力の消耗よりはもっと膿んで腐敗した物から来るのである。私は自身の醜怪と陰惨にへとへとになる。そういうものからいちもくさんに逃げ出したくなって水辺へ来たはずなのにまたしても出会ってしまう」(開高健「ナクネク川のキング」1970年、『週間朝日』に連載。名随筆4、「フィッシュ・オン」『オーパ』<開高健全集、第16巻>)。なお「静謐の研究」という言葉はウォルトンの『釣漁大全』から来ているようだ。(注)
(注)飯田は『釣りとイギリス人』のなかで、『大全』の「初版の最後にある「争いを憎み、静かさと徳と釣りを愛するすべての人々の上に、祝福がありますように」という言葉、そして第二版以後付け加えられた「静かなることを学べ」(”Study to be quiet”)という「テサロニケ第一の手紙」からの引用に、この本の精神が集約されていることは確かである」と力説している。p62,244,250など。
だが、第五版にもとづくという森秀人による邦訳の(ウォルトン自身の筆になる第一部の)末尾においては、その語が見つからない。直前の猟師の「神の慈愛に包まれた生きとし生けるものがすべて主を信頼し、主に感謝するよう、祈って止みません。聖ペテロの祝福が、あなたの上にも、私の上にもありますように」という言葉に対する、釣り師(ウォルトン)の言葉は「そして、徳を愛し、神の摂理を信じるものの上にも。さらに温和な釣り師の上にもありますように」というものである。
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飯田の書いていることと森の訳のどちらを取るべきかは決められないが、恐らくStudy to be quietという言葉はいずれかの版にはあり、開高はその版を英語で読んでいたと考えられる。「静謐」あるいは静かさの「研究」などという語がひとりでにでてくるものとは思われない。
なお、「口語訳」のテサロニケ第一書簡には第4章11節に「つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい」(日本聖書協会訳)という言葉があり、 International Bible SocietyのHP(http://www.biblica.com/ )によれば "make it your ambition to lead a quiet life and attend to your own business and work with your hands"
である。
一回も当りがないのに、14時間も氷河の雪解け水の流れる冷たい川で釣り続けた彼の粘りは尋常ではない。普通の人なら、こんな悪条件の下での釣りであれば、どんなに粘っても4〜5時間が関の山というところではないだろうか。尋常ならざる開高の粘り、根気が、彼を14時間冷たい川に立ち続けさせた。しかし、獲物を獲たいという気持ちだけでは、到底その長時間の粘りは説明できない。
開高は、漁師ではない。しかし、一人で来て、遊びでサケを釣ろうというのでなく、釣行記を書くという仕事の一環として、釣る必要があるのである。確かに、釣れなくても、釣行記、釣りの苦心談は書けるだろう。しかし、読者が読むことを期待しているのは、釣れなかった釣りの苦心談ではなく、大魚を持ち上げ、大きく口を開けて笑う釣師の写真が添えられた、いかに苦労して釣り上げたかが書かれた報告記であろう。日本の何万という読者に、釣れなかった釣りの苦心談を書くのでは、自分の使命、職務を果たしていないことになる。彼のナクネク川における粘りを生んだのは、ジャーナリスト、釣文学者として良い仕事をしようとする尋常でない情熱だ、と言えるだろう。しかし、彼は、結局、釣りを楽しむことができなかった。彼は情熱的に釣りを行なったが、それは一種の苦行であった。彼は、悟りを得ようとして荒行、苦行を行なう僧と同じような姿勢で釣りに向かっていた。
芥川賞作家、小説家の開高健は、同時に、ジャーナリスト、ルポ・ライターとしての仕事に、稀有の才能を発揮したひとである。その才能は、事実・真実を自分の眼で見、体験するとともに、人に広く伝えようとすることについての強い情熱により支えられていた。彼は多くの歴史的大事件の現場に行って、直接自分の目で見、多少はその事件に自らも関与しつつ、記事を書いた。35歳のとき、ベトナム戦争の「事実」を伝えるために南ベトナム政府軍についていったジャングルでは、激しい銃撃戦に巻き込まれ、九死に一生を得た。政府軍側200人のうち、生き残ったのは記者の開高を含め17人だけだった。彼はこのジャングル戦から生還できたとき、よし、これから以後の人生はオマケだ、やりたい放題やったるぞ、と決心したと書いている。『オーパ、オーパ!!モンゴル・中国編』「中央アジアの草原にて」
「戦場の博物誌」への「あとがき」(1974年---このとき49歳)では、30代いっぱいと40代前半、いろいろな国の戦場や、紛争地や、学生暴動などをルポして歩いた。それ以後も海外放浪は続けたし現在もやっているが、もっぱらナチュラリスト〔自然愛好家〕として釣竿片手にであり、戦場はやめた、と言っている。彼のやりたいことは釣りであったようだ。しかし、彼は書くことは止めなかった。
14時間川の中で竿を振り続けても狙った魚が釣れず、当たりさえ全くないとすれば、はるばる出かけてきたこと自体、腹立たしく感じられ、怒りに似たようなものに取り付かれるだろうことは想像に難くない。しかし、彼が感じているのは失望や怒りなどに留まらない。彼は、そのときの情念をもっと「醜怪で陰惨」なものだと感じている。そう感じた理由は「膿んで腐敗した物」、普段、その中にいると「自分の醜怪と陰惨」を意識させられて「へとへとになるもの」、「それから一目散に逃げ出したくなって水辺へ来たはず」のものに「またしても出会ってしま」ったからである。
彼がそこで「またしても出会ってしまった」「膿んで腐敗したもの」とは別の言葉で言うと「文明の狂気」である。彼は文明を、外の自然と自己の内の両方に見出している。
日本では鉄橋の下を流れる川がアユ釣り師たちで混みあっている風景をしばしば見る。日本の河川は文明からも人里からもさほど離れてはいないと感じられる。他方、アラスカの河川といえば無人の荒野を流れる「自然」そのものと思い込みがちである。ところが、開高によれば、アラスカでもキーナイ川には年間20万人の釣師が北米から押し寄せ、シーズン中は毎日250隻から300隻の〔モーター〕ボートが出て、7〜8mおきに並んで川を流れながら釣る。下るだけ下ると再び上流に戻って、同じことを繰り返す。「川の流れのままひっそり---下りて行くボートの戦列と、そのすぐ横を轟音と轟波を蹴立てて上流へ突進していくボートの光景----、このボートの無数と言いたいひしめきを一瞥すると、君は競争の酷烈さをさまざまと見せ付けられて、ヘタヘタとなることだろう。野外へいくこと、釣りに行くことが手垢まみれの慣用語で言う「狂気の文明からの偉大な逃走」であるならば、そして事実その通りなのだが、狂気の混沌から逃げ出したつもりがここでふたたびもっとも露骨な狂気の沸騰にであうこととなる。」
キーナイ川で釣り上げたキングサーモンを抱える開高。写真はマルハニチロ・サーモンミュージアム、「サケと文化」
(https://www.maruha-nichiro.co.jp/salmon/culture/b01.html)の表紙から借用。「河は眠らない」は2009年2月に
>文芸春秋社からでた写真を多く含む著書で、キーナイ川でのボートの流し釣りの模様が含まれている。同名の動画
(上映時間約50分)が2016年4月7日にYouTube上で公開された。
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なお、飯田は『釣りとイギリス人』の中で、田園を描く釣り文学の主だった作品の一つとしてRoderic Haig=Brownの『川は眠らず』
>A River never sleeps という本を上げている。開高のこの著書と動画の名はそこから来ているのではないか。
開高は、釣りに関して書いた他の多数の随筆のなかで、川でも海でも、湖でも、釣り場がすでに文明によって汚染されてしまっていることを繰り返し指摘している。そして、「文明からの脱出は、自然=人為・人工の否定という考えあるいは短見もあろう。魚との一対一の体を張った対決?しかしボート、道具、人工的なもの無しでは釣りが始まらない」ともいう。
開高は、文明の狂気から逃れようとしてアラスカの大自然の中にやってきたというのに、再び、その文明の「狂気の沸騰」に出くわす。アラスカの自然といっても、モーターボートが轟音と轟波を立て、よい場所を取ろうと人々が競争しあっていて、湘南の海や、いや、東京という大都会の喧騒や忙しさと比べても、実はたいして違わないことを発見する。しかし、それだけなら、なんだ、当てが外れたと、落胆するだけで十分ではないか。そもそもかれは釣りは人工的なもの無しに始まらないことを充分承知しているはずだ。
にもかかわらず、行く先々で彼が、自然と出会い、体を張って自然と闘ったことも事実である。アラスカの原野を流れるウッドリバー、ヌシャガク川水系でのサケ釣りでは、野宿しながらボートで川を下って釣る。クマも出る場所で銃も持っていく。そして、「アラスカには蚊がいる。アマゾンの蚊はマラリア持ちだが、日が沈んでから7時までの1時間に限られる。アラスカの蚊は毒は持っていないが、朝、昼、晩、場所も川岸、潅木林、湖畔、いっさいおかまいなし。いつでも、どこでも、いつまでも、徹底的につきまとい徹底的に刺しまくる。雲古〔ママ〕を木の陰でしようと思うと、両手でのべつ左右のお尻をぴしゃぴしゃたたいていないとたちまち凹凸になる。」
ブラジルのジャングルを流れる川では、連日連夜、汗と、ムクイン(米糠くらいの大きさのダニで、体の柔らかいところはすべてやられる。猛烈に痒く、対策がないらしい。ただし、1週間か10日たつと突然「いなくなる」という。)と、蚊(ごわごわのジーパンの上からでもかまわず刺してくる)に苦しめられつつ、「たいそうながんばりようで」「忍耐し、力闘し、強行」した。
オリノコ川でパヴォン(バスの一種、ピーコック・バスのスペイン語圏での名称)を釣ろうとベネズエラで止った宿は「天井も壁も床も、粗っぽいコンクリートの打ちっぱなしで、灯も水もない。ベッドがあるにはあるが体が奇妙に沈んでみたり、ゴワゴワ引っかかってみたり。雲古、御叱呼〔ママ〕は戸外の草むらでどうぞ、という気安さ。ローソクの灯を消してしまうと真っ暗。---いてもたってもいられない熱湿である。全身がぬらぬらびしゃびしゃの汗まみれである。闇の中で蛾や羽虫や蚊が戸外から自由にやってきてブンブン飛びまわり、チクチクと刺す。-----蒸し風呂さながらの熱湿が一晩中衰えることなく続き、そのうえあけっぱなしの板戸からコーモリが飛び込んできたり、バッタが鋼鉄のはりのような足で顔を這いまわったりする」。
イトウ(サケ科の魚で日本で最大の淡水魚)を釣ろうと出かけたモンゴルでは、高原で強い風と雹の混じった冷たい雨のために、数日間テントに閉じ込められた。「氷雨が降り、それが霙〔みぞれ〕になり、それが吹雪になった。--それがやむと強風になった。それがやむと(また)氷雨になった。吹きさらしの高原で、森も林も何もないところで3夜をすごす。じりじりしながらただ耐える。高空をわたっていく猛風の音を聞きつつスリーピング・バッグにもぐりこんでエビのように体を丸めてい」た。これが自然との対峙、自然との戦いでなくてなんであろう。
46歳の中年男開高は「若いときからの不摂生のために、背が板を張ったみたいになり、腰は虎バサミという鋼鉄のわなに食い込まれたみたいに痛く、左右の手や指がシワシワと痛くなったり、しびれたりする----のでマグネットリング----をこっそり買って指にはめたりしていた」と書いている。
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ところが、釣り旅行にでかけ、自然と対峙することは、彼の中にある自然で健康な働きを取戻させる。ムクインや蚊の襲来を受けつつ、アマゾン河口から「大江をさかのぼるうち、三日もたつと、肩の痛み、腰の苦しみ、指の痺れ、何もかも消えてしまったので、例のリングは甲板から河へ叩き込んだ。つまり、神経の抑圧がことごとく消えたらしいのだ----」。東京では、文明の狂気が虎バサミのように、彼の心身のすべてをくわえ込んで離すことはなかった。ところが、自然の只中で自然と闘っていると、その虎バサミはどこかに行ってしまうのだ。
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釣りは「ボート、道具、そして人工的なもの無しでは」始まらない。しかし、釣りは「体を張った対決」であることも事実であり、釣りの旅に出ることは、彼に、体の中に残っている自然を目覚めさせ、本来の体力、健康を一部ではあれ、取戻させるのだ。釣りの旅が、書斎への閉じこもり、東京、出版界、日本、つまり文明からの脱出であることは確かなのである。
ではなぜ彼は、普段、文明のなかで感じているという「醜怪と陰惨」をおなじように川の中で感じなければならなかったのだろうか。
旅に出ていないときの、国内にいるときの開高はうんうんうなりながら書斎に閉じこもり、原稿の締め切りに追われる生活を送っていた。「私の生活は、まるで隠者のようだ。一室にたれこめたきりで一日をなんとなくウヤムヤに過ごし、早い夕飯を食べるとそそくさと万年床にもぐりこみ、夜更けにむっくり起き上がる。朝の4時ごろから〔夕の?〕5時ごろまで机に向かうが、たいてい、前向きに座って何もせず、よしなしごとに思いふけってときにはあやしう物狂おしくなる。----毎夜のようにバーからバーへ渡り歩いていたのは6年前、45歳くらいまでで、それ以後は----全戦線から撤退した。---かくて私の一日は一室にとじこもったきりで終始し、トイレと、机と、万年床の三点を往復するだけだから、独房の囚人とほとんど変わるところがない。---万歩メーターが売り出されたことがあったが、私などは一日200歩を歩くかどうか。---極端な運動不足。ニコチン。アルコール。妄想。心因性ストレス。----何が邪で何が正であるかもけじめがつかなくなった精神の慢性下痢患者----」。
開高は、彼の反自然的な文明生活、つまり仕事から脱出する必要をしばしば感じた。脱出先は海であり、川であって、彼は釣りに出かけることで文明の狂気から逃れたいと思った。野外へいくこと、釣りに行くことは「狂気の文明からの偉大な逃走」の企てであった。
彼のいう文明の狂気とは、彼を取り巻く環境、大都会東京、日本という文明社会の中にあり、彼をその中に閉じ込め、隠者のような生活を送ることを彼に強いているものである。隠者とは、人との交わりを絶ち、文明社会を離れて山野の中で暮らす人のことである。しかし、作家開高健の仕事は1億の「文明社会」の人々に向けて、文明社会の有様を書くことであり、一室に「垂れこめて」いるのは病む身体だけである。心は相変わらず狂気の文明社会の中で彷徨を続けている。
「告白的文学論」で開高は「いつか私は日本と日本人を交響曲においてえがいてみたいと思う。チベットとニューヨーク、高島易断と電子制御工場、炸裂する炭鉱と一本10万円のナポレオン・コニャックに飽いている上流階級、東西南北、四方八方に氾濫しているこの凸凹、ギクシャクの懊悩や豊満を全容においてとらえたい。民話、説話、私小説、寓話、風俗小説、詩、ルポルタージュ、その他すべて手に入る限りの発想法において描いてみたい。」と言っていた。
かれは『日本人の遊び場』、『ずばり東京』などで日米チキン戦争、深夜喫茶、プレオリンピック、タクシー運転手の世界、上野駅、ペット事情、練馬のお大尽百姓、屋台あれこれ、予備校、労災病院、手塚治虫の漫画、出稼ぎ、上野動物園、競馬の予想屋、下積みの新劇俳優、演歌師、すり、ホテル学校、葬儀屋、etc、etcの80編近いルポで、多種多様な「文明社会」の人間とその姿を描いた。
私は、30代半ばのころ、八丈島で釣りをした帰り、東海汽船の船の中で、コンピュータープログラマーをやっているという同年輩の人にあった。かれは数日間休みを取り、八丈島の磯でテントを張って一人きりで過ごしたあと、再び仕事に戻るところだと言っていた。彼はプログラミングの仕事を数ヶ月の間、休みを取らずにぶっ続けでやるのだという。仕事をしている間は休みたいとは思わないという。しかし、会社で何ヶ月か仕事を続けていると、ある日突然、無性に、自然の中で一人きりで過ごしたくなる。そうなったら、彼は矢も楯もたまらず、キャンプ用具の詰まったリュックを掴むと八丈島にやってきて、打ち寄せる波の音や風の音を聞きながら、数日間、テントで暮らす。宿には泊まらない。人と話をしたいと思わない。釣りや磯遊びをしたいと思ったことはないし、景色を楽しむというのでもない。嵐でさえなければ天候も問題ではない。ただ、磯の上に張ったテントで暮らすだけでいい。仕事を離れて、一人きりでいるだけでいい。このように語っていた。帰りの船の中では、この自然に浸りたいという欲求が満たされた後だったので、私との雑談にも応じたのだろう。
当時の私は、私立大学の非常勤講師や予備校の講師などのアルバイトをやりながら、「主たる家計の支持者」であった妻に代わって、家事、育児を行ないつつ、団地の自治会の活動などにもかなりの時間を割くといった、場末の映画館並みの3本立て、4本立ての生活を送っていた。一つの仕事に集中することはなかった。休日には妻が家事・育児を行なったので、私は、月に1、2回は好きな釣りに出かけることもできた。
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外での仕事も、家事・育児の仕事も相手があり、仕事を行なっている間は、ほかにやりたいことがあっても、一定の内容の一定量の仕事をこなさなければならない。義務であり、束縛がある。釣りをしているときには全く自由である。相手は魚である。釣らなくてもかまわない。もちろん行けば、釣るための工夫・努力を最大限行なうが、釣りは義務、仕事からの解放である。束縛からの脱出である。
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しかし、このコンピュータープログラマーのような、脱出の必要に対する切迫感、飢餓感のようなものは感じたことはない。稀有な才能に恵まれた作家であった開高は、このプログラマー以上に、仕事に集中したはずであり、それだけに、時々は、仕事から脱出する必要を、非常に強く感じただろうと思う。
確かに文明からの脱出、自然を志向することは釣りの目的の一部になりうるが、開高の場合、その文明生活からの脱出という動機があまりに昂じて、釣りを楽しめなくなってしまったと言えないだろうか。
開高は1988年に58か9で死んだ。その追悼号『ユリイカ』<特集・開高健>1990年7月号で、藤本和延(エディター)は「川は戦場」と題する文で、「ベトナム戦争、ビアフラの戦争、中近東の紛争と戦争を追った開高さんは、それを書くことに疲れてしまった。----釣師となった開高さんは戦争を追いかけるように川へ出かけていった。川は戦場であった。川の戦場で出会った戦いを本にして、出版し----」と書いている。
『ユリイカ』同号では、開高の妻で詩人の牧羊子が、開高を評した他の作家の言葉を紹介している。開高は作家であるとは何かということを恐ろしく真剣に問うた。彼は自分に三つの約束をした。第一は現実は何かと問うこと。現実の粗粗(あらあら)しさを素手で掴んでみること。第二は自己とは何かと問うこと。第三は書くとは何かと問うことだった、という。
藤本が「川は戦場」という言葉で言おうとしたのは、次のようなことだろう。開高は、他の人が見ていない真実を掴み、彼自身のボキャブラリーでその真実を表現し、人々に示すことを徹底的に追求した。開高はベトナムの戦場では敵の掃討を任務とする兵士と行動を共にしたが、それは、その現場に行かなければわからない真実、現実を掴むためであっただろう。戦場から撤退した開高は、今度は、実際に川や海に行って、魚を釣って、それを自分の言葉で描き出そうとした。そういうことを藤本は言いたいのだろう。
私は、これとは別の意味で、開高にとって川は戦場だったのではないかと思う。彼は10数時間「一本の棒」のように川の中に突っ立ってサオを振っているとき、「焦燥と倦怠がかわるがわる明滅して、煮えたみたいになっている」と言っている。彼が自分の書斎に閉じこもり、締め切りの迫っている原稿を前にして、筆が進まずにいらだっている姿と似ていないだろうか。(これは夢枕獏が書いているのだが)人気作家になると、連載小説を10数本も抱え、単発の原稿が山積みになるという。結局、それをすべてこなすのだから、作家と言うのはすごいものだが、「義理としがらみでがんじがらめ」で仕事を断れないらしい。作家がどれほど才能があり、新しい作品の構想や文章や言葉が次々に湧き出るにせよ、長年にわたって、「締め切り」に追われ続けることは心身に無理を強いることになるのではないだろうか。
開高は「虎バサミ」に挟まれているような体のあちこちの痛みやしびれを「不摂生」のせいにしていたが、不摂生はただ単に彼の個人的な性格や基本的な生活態度などがもたらしたものだとは考えられない。サラリーマンのように時間に縛られることはないが、また逆に不規則な生活を強いられもする、作家であることと深い関係があると私は思う。
彼は食道がんで死んだ。うろ覚えだが、嵐山光三郎が、健啖家で美食家であったことが寿命を縮める一因であったことは確かだと書いていた。しかし健啖家であり美食家であったことは彼のDNAによることなのだろうか。ストレスが高まるとアルコールが欲しくなると同様、ストレスが「健啖」に向かわせることもよくあることだ。私は開高の作家生活のストレスが健啖に、そして不摂生に向かわせ、そして体中の痛みや痺れを引き起こす病気を彼にもたらしたのであり、彼を早死にさせたこととも関係があると思う。
私には、彼がいう文明の狂気とは何であるのかよくわからないが、彼は自分が文明の狂気に囲まれていると感じ、彼自身が狂気に取り付かれていると感じていたのではないかと想像する。「寒江独釣万事無心一釣竿の境地」とまで美化しなくとも、「静謐の研究」というくらいのことは言いたかったのだろう。だが、彼は自身を「醜怪、下劣、珍妙、陰惨、とても静謐の研究などといったものでない」という。彼は、今、「川の中の一本の杭のように」立ち続けて、釣りを続けている自分を「醜怪、下劣、珍妙----」だと感じる。彼は頭の中が「釣りとは関係ない妄念、妄想の類がわらわらとこみあげ、からまりあって出没しメデューサの蛇」のようになっていると言う。
釣れない時に、釣り以外のことがいろいろ思い浮かんでくることはしばしばある。それが、幾つも抱えている連載の締め切りや、構想、出版関係者との交渉や印刷されたばかりの作品の評判等々、仕事についてのことだとすれば、よくあることで、当然とさえ思われる。しかし彼は、人並みはずれた真剣さで、外の世界の現実を捉えること、自己とは何か、そして書くとは何かと問うことを追求した。「釣りの現実」が独特のボキャブラリーを積み重ねていく文によって極めて魅力的に描かれているが、それは彼の文才からすればさほどの苦労を要することではなかっただろう。
問題は、何のために、誰のために、釣りの現実を書くのか、書かねばならないのか、アラスカやベネズエラの川はビアフラやベトナム、68年5月のパリ等々と同じく「現場」なのか、釣りをすることは戦場に赴き、デモの隊列に加わるのと同じく「現実を捉える」行為なのか----「恐ろしく真剣に」作家であることの意味を問う問いが、釣りのさなかに彼に向けられたのではないだろうか。
かれはイトウを釣るために出かけたモンゴルの高原で強い風と雹の混じった冷たい雨のために、数日間テントに閉じ込められ、スリーピングバッグにもぐって寒さに耐えていたときの想念を次のように書いている。
「これまでの56年間の生涯、ただ何かを切り売りすることと忍耐することにだけ、没頭してきたような気持ちになる。ちょっと誇張はあるものの、事実である。35歳のときに東南アジアのジャングル戦から生還できたとき、よし、これから以後の人生はオマケだ、やりたい放題やったるぞ、と決心したもので、そのこころはよくおぼえているのだが、それから20年、やっぱり切り売りと、妥協と、忍耐であった。うんざりだ、つくづく。う、ん、ざ、り、だよ。もう」。
「ニコチン。アルコール。妄想。心因性ストレス。------何が邪で何が正であるかもけじめがつかなくなった精神の慢性下痢患者----」。開高の鋭い自己意識は「書斎に垂れこめる」不自然、反自然の作家生活を、文明の狂気に取りつかれていると彼に考えさせたようだ。彼は文明と、また作家である自己と闘わなければならないと考えた。自然の只中で竿をふるって自由に楽しみたい。しかし彼が釣りに出かけるのは文明から脱出、逃走するためであり、楽しむためではない。釣りは文明からの脱出の単なる手段になってしまう。彼は、自分を包囲していると同時に自分の中に巣食っていると思われた文明の狂気と戦うために、遠くの海や川に行ったのだ。しかし、釣り場である川、海に行っても、自分が変わったわけではない。彼は、相変わらず、作家であり、釣りの文を書き、「切り売り」しなければならない。
医者は病人を治療し代金を受け取る。農業者は米や野菜を作って売る。作家は文章を書いて売ることで、生計を立てる。何の不思議もない、平明な事実である。釣りの好きな作家がスポンサーの費用で、世界を旅して釣りをすることができるのである。決まった日程のなかで釣れるかどうか、多少のプレッシャーはあるだろうが、とにかくその報告を書くというのは当たり前のことであり、そして書くこと自体は何でもないことであるはずだ。釣り好きな作家・開高にとってきわめてうまい話だったはずである。だが、彼は、素直に、あるいはナイーブに喜べなかった。
彼は作家としてその釣行記を書く。豪華な釣り旅行はその報酬の一部である。ベトナムに行き戦場のルポルタージュを書く際に、彼は新聞社から特派員としての報酬を受け取る。戦争の現実を伝えることには十二分の意義を彼は見出した。恐らく、報酬が高くても、彼は、それを危険手当のせいだとは考えず、その報道の重要性によるのだと考えることができただろう。しかし、たぶん、彼は、上で見た3つの問いを問いつづけていた限り、釣行記を書くことには、ベトナムのルポルタージュと同じような意義を見出すことが出来なかっただろう。彼は、書斎での仕事を止めて、釣りにでたが、しかし、釣行記を書く契約がある以上それは仕事であり、遊びではない。しかも、仕事であるなら、何のために書くのか、考えざるを得ない。あるいは、アラスカの、アマゾンの、川に行くのは文明からの脱出だと位置付ける。しかし文明とは、日本、出版界、作家生活である。彼が釣りをするのは、日本の釣りファン、出版社が求めている報告を作家として書くためである。彼は川の中で、文明の中に留まり続けている自己を再発見する。彼はこの矛盾した自己を詰問し、自己と闘う。
彼の釣りがこのようなものであったとしたら、彼は釣りを楽しむことができなかったであろう。彼は、川で、文明および文明化された自己、作家である自己という敵と遭遇し、戦う。川は戦場になってしまう。釣りが巨魚・大魚との格闘ではなく、自己自身との格闘、悟りを得るための修行、苦行になってしまう。開高は釣りを楽しむことはできなかった、というのはこのように私が想像するからである。
開高がうつ病だったと書いている人があるようだが、私は、開高の釣りに関連して上で述べたことについて、うつ病が関係していると考える必要のある個所は全くないと思う。彼の行動、初期にベトナムの戦場に行って命拾いしたこと、その後はナチュラリストに転向したこと、釣りが大好きだったが楽しむことはできなかったことのすべては、彼が抱いた思想との関連で十分に理解可能だと考える。
私はこれまで、他の人の説も紹介しながら釣りは一種の遊びまたはスポーツであるが、目的や釣り方の異なるさまざま釣りがあり、明確な分類はできないと述べてきた。ところが、哲学者・内山節は「哲学者の目からみた釣り」という文のなかで、釣りは遊びではなく労働だと言っている。彼は漁師の行う本業としての釣りとは異なるが、遊びでもスポーツでもない、労働である釣りがあるというのである。(<東京水産大学第19回公開講座>『釣から学ぶ―自然と人の関係』池田弥生編、盛山堂書店、平成7年)
内山は1950年生まれで、子供の頃は東京近くの海や川で何でも釣っていた。1970年頃から群馬県上野村に行くようになり、村と東京を往復して暮らしている。立教大学大学院の教授の職を持っているが、上野村では山菜を採ったり、借りた畑で野菜を作りながら、合間に近くの渓流で釣りをしている(『「里」という思想』、新潮社、2005年)。対象魚はヤマメとイワナ、真夏に時々鮎の友釣り、冬に寒バヤ。最初に釣りを題材にした本は『山里の釣りから』(日本経済評論社、1980)という書名であった。
ヤマメやイワナが対象だとなればふつうは渓流釣りと呼ばれるが、彼は渓流釣りという言葉には抵抗があるという。渓流釣りとは、都会の人が、都会とは別物としての自然の渓谷に入って行う遊びの釣りだ。本来の釣りは仕事と区別され仕事に対立するものとしての遊びとしての釣りではなく、暮らし、仕事と一体で、その楽しみは仕事の合間に感じられる仕事に関する楽しみだという。かれは自分の釣りが遊びの釣りと見られることを嫌って、渓流釣りではなく、山里の釣りあるいは渓流魚を釣る釣りだと言うのである。
仕事と区別されない「労働である釣り」のモデルは、上野村の一番奥の集落にある鉱泉宿の主人の釣りである。この人は自分で釣った魚を食べることもあるだろうが、主に、宿泊客に提供する食事のために魚を釣るのであり、宿を経営するサービス業としての労働の一部として行われるものだ。確かにこの人の釣りは、職漁師が生業として行う釣りではないが、仕事/労働として行われている。しかし、この旅館の主人は「兼業漁師」と呼ぶことができ、「遊びではない釣り、仕事/労働である釣りがある」という主張が、この宿屋の主人の行っているような釣りのことだというだけの話なら、ここで私が「さまざまな釣り」の一種類としてふれるほどのことでもない。
内山の議論はもう少し先に行く。上野村のほかの村人が自家用消費のためにおこなう釣りも、生活と切り離された純粋な遊びではない。山里では収入を得るための労働と自家用作物を作ったり食事を作ったりする労働との間に区別がない。そして、山里の生活では、すべてが自然と交流しつつ行われる(『山里の釣りから』)。
「労働とは自然と人間の交通である」とはかつて若きマルクスが述べた有名なテーゼである。また、内山の「釣りは労働だ」と言うテーゼは、マルクスの著作の一部を通りいっぺんにしか読んだことのない私にも思い出される『ドイツ・イデオロギー』のなかで述べられている共産主義社会のイメージ、社会が全般の生産を規制しており、誰もが固定した職業をもつことなしに、自由に「朝は狩を、昼は漁〔釣り〕を、夕べには家畜を飼い、食後には批判をする」ことができる、という文を連想させる。内山は、渓流での釣りを語りつつ、マルクス(主義)における「本来の労働」および、疎外された労働についての思想、(マルクスに不足している)自然保護思想、そして資本主義社会に代わる社会について語るのである。
彼は「戦後主体性論争に登場したいわゆる主体性派の哲学をサブテキストにして哲学を学んできた」と言っている(『自然と労働』)。私は、この論争でマルクス主義における主体性の必要を強調したという梅本克己(『戦後史大辞典』の鶴見俊輔による)の本を、70年代に一冊か二冊読んだことがあるというだけで内容も全く覚えていない。私にはマルクス主義や革命論、あるいは社会主義社会などについて論じる力が全く欠けている。
しかし、釣りは、本来、遊びではない、人間は本来労働する存在であり、労働と切り離された遊びやスポーツを求めるべきではないと言われて、知らん振りをして通り過ぎるわけにはいかない。
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私を含め、現代日本の社会に生きる人のほとんどは、釣りは(上野村の宿の主人のような<兼業>漁師の釣りも含め)本職の漁師の釣り以外は、遊びであると考えているだろう。その場合、遊びとは仕事に対立するものであり、仕事から脱けでて楽しむ、自由な活動である。したがって、釣りは遊びではなく労働/仕事の一部だと言う内山の主張は、こうした一般的な考え方に立つ私の「釣り=遊び」論のいわば全面否定である。
私の前に立ちふさがったのは、自ら「哲学者」と名乗る数少ない思想家、研究者の一人で、多くの著書を通じて自分の思想を展開している論客である。しかもかれの専門は「労働過程論」だといい、『労働の哲学』という著書もある。かれは、職業や労働に関する思想の専門家である。私は難敵の内山の説にうまく反駁し、自説を擁護することができるだろうか。
彼の独特な「釣り観」は彼独自の労働観、人間観、さらには自然観によって裏打ちされており、彼はその労働観・人間観・自然観に基づいて現代日本社会を批判し、あるべき社会を構想している。私は、釣りは遊びではなく労働だという彼の説に反論し、釣りは遊びだという常識的な私の立場を擁護したいだけである。彼の人間観、労働観、自然観、そしてあるべき社会についての彼の構想の全体をきちんと理解し、必要ならそれを批判するという作業を本格的にやりたいとは思わないし、その力があるとも思わない。
しかし、彼の『山里の釣りから』と言う本は「釣りを題材とした本だ」と彼は言っているのだが、そこには彼の労働観はもちろんのこと人間観、社会観、自然観、あるべき社会についての構想についてもかなりの程度述べられている。そこで、まず以下の(1)ではこの『山里の釣りから』を紹介しながら、彼の人間観、労働観、等々をまず明らかにしたい。それから(2)で公開講座での「釣り=労働」論を検討し反論することにする。なお彼の労働観あるいは「釣り観」は「余暇観」(彼に言わせれば「いわゆる余暇」についての彼の批判的見解)を含む。そこでついでに、(3)で彼の余暇論についても反論したい。
『山里の釣りから』ではおもに三つのテーマがあつかわれている。まず、都会人である内山が渓流で釣りを行なっている姿が周囲の自然とともに描かれている。彼が釣りをするのは、奥秩父連峰の一角、三国山から流れ出て利根川に注ぐ神流(かんな)川という渓川であるが、山の自然の中に入り「自然化」しつつあると感じながら釣りをする彼の姿が描かれる。
このエッセーの第二のテーマは川である。彼は神流川下流沿いの街道と町のつながり、川が果していた役割の変遷を江戸時代にさかのぼって描く。川はかつて筏流しが行われ、下流では物資を運搬する船が行き来する「流れ」であったが、現在は途中でいくつものダムや堰で断ち切られ、貯めて使う用水に変えられてしまった。彼は、ダムは豊富な水使用を可能にするという都市民の利益のために作られたものであり、ダム建設は都市民による山村の人々の財産(家や畑)と森林やそこに住まう動物たちと川に住まう魚など自然を破壊し自然資源を略奪する行為であると、論じる。
三つ目のテーマは都市のサラリーマン生活とは異なる山里(上野村)の人々の暮らしである。そこでは、平野の農家のように単一作物を作る農業とも違う、山里の豊かな自然を利用した多様な労働が暮らしや遊びと連続したもの、一体のものとして行なわれているという。そして、また山に住む鳥や動物との村人の「共存」が語られる。
エッセーは、これら三つのテーマが渾然一体となって巧みに織上げられた一枚の織物のように仕上げられている。そして全体を貫いて、都市と山村、人間と自然、現代(近代)と前近代の対立・相克、前者による後者の破壊という大きな物語が語られる。もう少し詳しく内容を紹介しよう。
かれは子どものころ、まだ清水が流れていた東京世田谷の川でさまざまな釣りをやっていた。多摩川でも鮎が釣れた。しかし、東京の川は次々にどぶ川に化して、近くの川は暗渠になったしまった。それも原因のひとつであったろう。またおそらく、彼が、より難しいテクニックを要する釣り、どこででも釣れる雑魚ではなく、名の通った「高級魚」を狙う釣りをやりたくなったのであろう。20歳のころに神流川に来た。宿は浜平という地区にある、昔からある鉱泉宿である。
渓流魚を釣るのは難しい。とくに山女は、養殖ものは別として、餌をくわえても中の異物(鉤)を感知すると瞬間的に吐き出してしまうので、合わせが難しく、はじめは全く釣れなかった。解禁日、昼過ぎに到着し、夕方一時間ほど竿を出したが、釣れぬまま寒さに負けて早々に宿に引き上げてくると、入り口にいた主人が言う。「もう帰ってきたのかい」。「こんなに寒くては気力が続かないですよ」。「今ごろもどってくるようじゃだめだ。これからだよ。どれ私についていらっしゃい」。
宿の主人は、内山が先ほど釣った、彼の竿には魚信(当たり)さえ感じることができなかったところで、彼の目の前で釣って見せた。かれは「大いに敬服し、---夕食をとりながらひとつひとつおそわることにした」。
内山は浜平に来てから1年間は全く釣ることができなかった。「その頃は魚を釣ることに夢中だった」。宿の主人に一緒に行ってもらい、釣り方のアドバイスを受けたりもした。特別の餌を教えてもらってようやく岩魚を釣ることができた。「嬉しさと興奮で周りの景色が真っ黒に見えたほどだ。---体中の血管がドクドクと鳴った」。
「一年もするといっぱしの釣り人のような口をきくようになった。しかし、それからまた一年たったころ、---スランプに陥った。全然釣れないのである」。しかし、ある日ビク(魚籠)をもたず、竿振りの練習だけにしようとでかけたところ、「大変な大漁になった。次々に岩魚がかかり、山女もかかる。それも20センチを越すのばかりである」。こうしてスランプを脱した。しかし「また一年がたったころ」、つまりこの釣りを始めて3、4年たったころからであろうか、かれの釣りは「きわめて淡白になった。無理に釣ろうとしなくなった。---釣るために朝早く起きることも、また山奥深く入ることもなくなった。----しかし釣りのコツをつかんだような気もしていた」。
彼は釣れなくてもよいという気持ちになっていた。魚を釣ることに対する自己嫌悪があった。「僕たちは山村を荒廃させてきた側にいる人間である。都市は山村を自己増殖の手段として利用してきた。そしてがん細胞のような都市を作り出してきた。その人間が再び山村を手段として、遊び場として利用する、そこにある種の自己矛盾を感じないのだろうか」。その「自己矛盾」を真剣に考えるなら渓流釣りを止めればいいのにと私は思うが、彼は違う。彼は渓流釣りをする一人の都市民の矛盾する自己についての意識を含め、現代日本社会の現実を観察し記述するということに自己の主体性を見いだすことにしたようである。
「しかし現実には僕は山里に釣りに行く。そこにどのような論理をつけたとしても、しょせん、一人の都市の人間が山里の川を荒らしにいくという関係でしかない。山村の人々が釣りをするのは山村の再生産活動の中の一環である。しかし僕の釣りは山里を荒らすだけであって、その再生産には少しも寄与していないのである。魚を釣ることに対する自己嫌悪とはたぶん説明してみればそんなことではないかと思っている。時々釣り堀のほうが高尚に見えてくることがある。釣り堀なら僕は釣り堀を手段として利用できる。それなら相対だ。もちろんいつでもそんなことをかんがえているわけではない。神流川に立って竿を振ると、その瞬間から僕は釣りに夢中になっている。山女や岩魚たちとのかけひきにすべての精神が集中していく。しかしそれでもなお魚を釣ることに対する淡白な意識は消し去ることができない」。
こうして、数年間、魚を釣ろうと川を這いずり回り、谷川を遡り山奥に入っていったが、その釣ることにこだわり、自然に「働きかける」行動は彼が山里の自然に溶け込み、そこに棲む生物たちと交流し、彼が自然化されることでもあった。「人のいない天然林の山は体の底に堆積されていくような恐怖感を与え、しかし山に暮らす動物たちの生活の場所をつくりだす。釣り人がしょせん山を荒らす者でしかない限り、人里から離れていくことはいつでも恐怖感を伴うものである。動物たちと同じように山の中で自分を再生産する〔暮らす〕ことができたなら、山への恐れは少しは取り払われるかもしれない」と彼は考える。
誰もいない川に沿って歩き、ところどころで竿を出すが釣れない。滝を迂回し、山を上り、竿を出すがやはり食わない。「「さて今日は帰ろうか。」誰もいない谷で一人で声を出して竿をしまう。ついに一匹も釣ることはできなかった。しかし目的は達しているような気がした。いくつもの沢を見た。---魚のいる場所を覚えた。----今日は一度も不安を覚えなかった。僕も山に慣れてきた」。彼はこうして自分が自然に「慣れ」、「自然化」していると感じた。
以上が、上野村の周囲の自然と交流しつつ渓流で行なっている内山の釣りの描写と、釣りを行う自己の省察についての概略である。
「古代から日本では、用水の便を確立することによって大地を稲作地帯に変え、排水体制を整備することによって、湿地帯を田へと転換してきた。---、水の管理は村の重要な仕事でありつづけてきた」。山村における川の役割は稲作地帯のそれとは全く異なる。「第一に生活の場であった。10年幾らか前には川は水汲み場であり炊事場であり、洗濯場であった」。「山のように積まれた野沢菜をおばさんたちが洗っている景色」があった。「第二に川は漁場であった。第三に川沿いにコミュニケーションのルートができた。---比較的大きな川には必ず寄り添うように街道が作られ、そこに集落も生まれてきた。---川と川ぞいの道が、人間と物との古くからの交流路であったからだろう。そこに川の第四の役割が現れる。というのは川自身がひとつの交通手段だったのであり、ここに用水の確立と比肩するほどの川の大きな仕事があった」。山から切り出された丸太は橇で斜面を下ろされ、川でいかだに組まれ川を下る。昭和初期には、このようにして材木が利根川を経て東京に運ばれた。
「近世以降の日本の内陸部の物資の輸送は川を使った船運が中心であった。---江戸時代初期には各地で盛んに---河川改修が行われ、その上に江戸中期以降の商品経済は開花するのである。---利根川は江戸と関東全域をつなぐような大動脈へと変貌」した。
「川は大きな流通路だったのである。とりわけ稲作を伴わない山村において、川の役割は水よりも流れに比重がおかれていた」。だが、現代では、山村でも流れの思想が消失し始めてきている。水道の普及で「生活の場」としての役割は消失し、養殖魚の出現は漁場としての魅力をも喪失させた。「こうして川は急速に、人間の匂いを失い、景観としての川に変貌していく---。山村からの川の退廃の進行であった」という。
発電のため、農業用水、工業用水、水道水を得るため、また治水の目的で、戦後日本において多くの堰やダム〔高さが15mまでのものを日本では堰と呼んでダムと区別しているが、基本的な違いはない〕が建設されてきた。ダム建設によって川の流れは断ち切られ、農業、工業、水道用水の「貯水池」に変えられた。
利根川の支流の一つ神流川にある下久保ダム。内山が投宿して釣りに通った上野村・浜平はその上流にある。写真はWikipedia。
神流川には下久保ダムが作られており、別名神流湖ともいう。そこにためられた水は導水管をとおって東京に水道用水として送られている。ダムの「下流は涸れた河川敷となって石の原の間に草が茂っている」。下久保ダムの竣工は1968年。堤の高さは129メートル。そのダムの中に、25キロメートルの道路、310世帯773棟の家々、学校、官公舎、97ヘクタールの田畑、178ヘクタールの山林が消えた。70年代の中期、工事のためにダムは二年近く水を干し上げた。内山はダムサイトに車を止めて、ダムの底から姿を現したかつての村の全貌をみたという。
「川を根底から変えてしまうのはなんといっても水資源の開発である。関東の地には東京=首都圏というとほうもなく大きながん細胞が存在している」と、内山は東京と首都圏を、すべてを呑みこみ死なせる「がん細胞」にたとえている。
宿を訪ねた近くの村人が、内山が見ていたテレビのニュースに登場した美濃部知事を批判する。「東京の知事としてはよい知事かもしれないが、なんでも東京の都合どおりに進めようとしているのが気にくわん」。村人がそういうと他のものもうなずいた。「利根川の水なんか全部東京行きじゃないか」。これは内山の言いたいことでもある。
鮭や鮎ばかりではなく多くの魚が海と川を行き来し、下流と上流を移動すると言う。しかし堰やダム建設はこれらの魚が移動することを不可能にする。いい加減な設計で作られた魚道が多く、魚は実際には遡上できないという。川は今では、流れを堰やダムで断ち切られ、魚は通行できなくなっている。
川はかつて船運、筏流しなどが行われる一大流通路でもあったが、現在の川は農業用水、工業用水、上水道のための貯水池になっている。近代以降の歴史の中で流れの思想が死に、ためて使うことだけが川の役割になった。「かつて川は1つの文化圏をなしていた。流れに沿って街ができ、人と物と文化の交流が行われた」。「川を通してのそのような関係が消えることは、源流の村が孤立することだった。---結果として山村の過疎化を招いた。山村は都市への水と電力と労働力の供給基地になった」。
以上が上野村を流れる神流川をひとつの支流とし、関東平野を流れ下って海に注ぐ利根川が高度経済成長、とりわけ東京都民のためのダムの建設によってこうむった変化、流れとしての川から管理された用水への変化に関する彼の説明である。
昔から、山村では斜面の畑に麦や粟や稗、蕎麦などを作っていたが、それらばかりを食べていたのではなく、主食である米を買って食べていた。山の者は米を作ることはできなくてもいつも腹いっぱい食べることができた。実際、山には現金を得るいろいろな賃仕事があった、このように内山は言う。
「人々は山で木を切って下へ運んだ。下枝をかり、炭を焼き、薪も売った。夏は〔川〕漁師であり冬は猟師であった。そのうち蚕を飼った。もちろん合間には百姓であった。---このような山村の生活はいまでも基本的に変わらない。今この村では多くの家で椎茸となめこが作られている。畑には蒟蒻コンニャクが植えられている。冬には熊猟が大きな収益を与える。最近再び炭を焼く人がでてきた。自分のもち山には杉や落葉松や桐を植えている。そして人々は木の切り出しや下刈りの山仕事に出る。何よりも道路工事に出る。いやその前に郵便局員であり、営林署の署員である」。
「山の基軸的な仕事が今日では道路工事の日当にあることはまちがいない。村人は百姓をやっていては損だという。それは農業がもうからないと言うことではなく、賃仕事の日当に比べて率が悪いと言うことである。だから当然のように漁師はどこの村でもいなくなった」。仕事の種類は経済・社会の変化の影響を受け変化してきたが、山村には常に人々の生活を豊かにしてくれる仕事がたっぷりあった。
村人の労働は、直接的に自然と交流して行われるものであると同時に生活(暮らし)と一体である、あるいは連続していることに特徴がある。
水田はないが畑はあり、さまざまな作物が作られる。流行によって値が上がったもの、儲けがでる作物は出荷されるが、多くは自家用に消費される。「この村ではさまざまな労働が行われている。---村人は労働によって得られる収入を一方で秤にかけ、もう一方の手で自分の好きな労働を計り、その調和の中で自分の労働を選び出す。それを可能にしているものは、労働の一つ一つが具体的であるという山村の労働の性格であるように思える」。
山里の生活を作り出そうとすればどうしても労働は雑多なものになっていかなければならない。浜平の鉱泉宿の主人も決して宿だけを専業にしているわけではない。一面では農民であり、そして椎茸やなめこを栽培し、また漁師であり、山の生産物を採取し、また木を育て伐採し、さらに自分の家をなおすときは大工でさえある。それに最近までは村の教育長でさえあった。「すべてが労働であり、すべてが生活の糧であるという山の生活と労働は確かに都市の労働と生活に対するひとつのアンチ・テーゼをなしている。労働とはひとつの企業に勤めることであり、仮に自営業を営むにしても、少なくとも、ひとつの仕事を専業にすることであるという、都市の感覚は山里では通用しない」。
内山の説明を読んでいると山里の労働はとても楽しそうである。定年退職してからでは無理かもしれないが、体力のあるうちに早期に退職し山村で暮らそうと考える人もあるかもしれない。
内山は畑を借りて耕し、いろいろな作物を作ってみた。ジャガイモは十分に成功したが、野菜はうまく育たなかった。ジャガイモのほかに成功したものは大瓢箪だけだったようである。彼は「土地に合ったものでなければだめ」だと言う。
「これら成功や失敗を繰り返していくなかで僕にも少しずつ山の畑のもつ自然環境というものがわかってきた。土地が肥えていくという感覚や傾斜地と言う土地の性格もわかってきた。---旅行者が山を見たとき感じるような漠然としたもの、抽象的なものとしての感覚がすこしずつ崩れ去り、山と人間の交歓というものがわかってきたのである。それは---明らかに僕自身が自然の一員に加わっていく過程だった。労働とは自然の人間化であるが、半面において人間の自然化である。それは釣り人として山村にかかわっているかぎりわからないことであった。労働によって自然との関係を作っていくことが人間自身の自然化を促進する。山里の畑を鳥やいのししが荒らし蜂蜜を熊が盗みに来る。〔村人が〕それを許容することができるのは、---村人自身が自然の一員であるという感覚から生じているのだと僕には思える。---労働は自然を克服することではなく、自然と共存することにつながる」。
「人間と自然とはどこまで接近したところで、しょせんその自己疎外関係を断ち切ることはできない。しかし神流川をとりまく巨大な天然林の中で、ひとと動物がある種の類的共存を得ることは可能なのかもしれない。動物も人が敵でないことを知ると、人間の匂いをも自分の生活圏のなかに織り込んでいく。---熊だって本州の熊は決して恐ろしいものではない。人間の生活を視野に収めながら、自分のほうから人間との共存をはかっていく心優しい動物である」と言う。
内山は言う「労働とは自然の人間化であるが、半面において人間の自然化である。それは釣り人として山村にかかわっているかぎりわからないことであった」。だが彼は畑を耕し作物を作ってみて、このことがわかったと考える。「労働によって自然との関係をつくっていくことが、人間自身の自然化を促進するのである。---自分自身を自然の中にとけこませていくこと、そこに労働がなりたつ以上、労働は自然を克服することではなくて、自然と共存することにつながる。そこに山に棲む人間のロマン主義が芽生える」。 以上が山村の生活についての彼の観察と、人間と自然の関係についての彼の哲学的テーゼ「人間は労働によって自然を人間化し、同時に自分を自然化する」に基づく理論的説明である。
『山里の釣りから』の中で書かれていることを大まかに三つに分けて、紹介した。以下ではこれらテーマに関連して内山の述べていることに対する私の批判あるいは反論を述べたい。
この@は内山が自分の釣りについて述べていることに対する批判と言うよりは、『釣魚大全』の著者ウォルトンに対して内山が行っている批判あるいは攻撃への反論である。彼自身の釣りについての考え方の批判は後の(2)で紹介する「公開講座」における釣り論の批判として行う。
内山は、釣りを通じた自然との一体化について述べている上の引用文の後ろに、「魚を釣りにきて魚を釣る意味を考えることほど愚かなことはない。僕はウォルトンのような精神は持ち合わせていない」という一文を付け加えている。その箇所ではその文の意味については何の説明もなく、唐突な感じがする。しかし『山里の釣りから』の「後記」のなかで再びウォルトンの名前を挙げ、『釣魚大全』が「釣り哲学の書」であることを攻撃している。「公開講座」の講演のなかでもウォルトンの「釣り哲学」が槍玉に挙げられている。
「後記」で内山は次のように言う。「このなかでウォルトンは魚釣りの技術から魚の料理法まで解説しながら、人生にとって釣りとはなにかということを綿々として述べている。釣り人どうしの会話、詩などをとおして釣り哲学が語られていくのである。---しかし私はこの釣り哲学と言う思考が肌に合わない。なぜなら釣りの中で人生を語ることができるのかどうかという点にまず懐疑的だからである。
もし釣り哲学の中で人生を語ることができるとすれば、それは遊びのなかに一生をかけることのできるひとだけに許されることであろう。いわばそれはロシア式ルーレットの思想である。---命をかけた遊びであるが、しかしそこには遊びの中でしか自分の生命を確認できなくなった、貴族たちの底のない退廃の思想がある。
釣り人もまた釣りの中にしか生命を発見できなくなった時にのみ、釣りの中に人生を見つけることができる、換言すればそこまで頽廃の中に身を沈めることのできない人間が釣り哲学を語ることには、どこかにウソがあるのである。---現在の釣りは生活との関連の中でしか成立しない。それなら釣りとはなにかということも、現在の生活との関係で述べたほうが正直である」。
また内山は、「公開講座」では「魚を釣る行為」に過ぎない釣りに「思想や人生を重ねていくのは愚劣なことだ」と、彼が釣りをしながらフランスを旅行していたときに立ち寄った本屋の主人が言ったと述べている。これは彼自身の考えでもあっただろう。
なるほどウォルトンは彼の著書の中で、内山とは違って、人生において職業や労働が占めている役割の重要性を強調したり、職業や労働の意味について直接語ることはしておらず、自分の好きな釣りについて語っているにすぎない。しかし私は内山のウォルトンに対する激しい攻撃に驚く。ウォルトンは釣り好きの商人であって、大学の研究者でも学者でも「哲学者」でもない。内山が近世以降の日本社会の変化、とりわけ戦後経済成長がもたらした社会・経済的な変化を見渡したように、ウォルトンが「ピューリタン革命」と呼ばれた内乱、政治闘争がもたらしつつあった当時の英国社会の激変を見通すことができたとは到底思われず、したがってまたそうした社会の変化を背景に、職業や労働と遊びやスポーツとの関係を論ずることができたとも全く思われない。
しかしかれは釣りを選び、釣りについて著作を刊行したその<実践>において、当時の多くの人が命をも懸けて関わろうとした政治的・宗教的なことがらに「かかわりを持つ」ことを拒否し、人生には政治や宗教よりも重要な事柄があるという彼の思想をはっきりと示している。また彼は著書のなかで、なぜかれが、労働/仕事を含めそのほかの生活よりも釣りを選ぶのかについても語っている。ウォルトンにとって釣りは、名誉や権力や富を追求する生活の拒否であり、そうした生活との結びつきを断つ行動、つまり遊びの一種であるがゆえに、それらとの「関係」において釣りを描くことはできないのである。
それはたぶん、内山が、人間は自然に働きかけ労働する存在だという哲学的前提に立つがゆえに、釣りを「人間の自然化」という観点と結びつけ、「労働=生活」という観点に関係付けて論ずることはできても、釣りの楽しさを他の遊びやスポーツと比較しながら説明できず、遊びの世界において釣りが占める位置、つまり釣りの他の遊びとの関係について全く説明できず、説明していないということとパラレルであると見ることができる。
『釣魚大全』を簡単にを紹介しておこう。『釣魚大全』の「釣りの哲学」の叙述は、彼がたまたま道連れになった鷹匠、猟師と各自の愛好するところについてその良さを互いに披露し自慢しあうという形式で展開されており、邦訳の書名は大変おおげさなものだが、そこで示されている人間観、自然観、世界観はごく素朴なものである。
『大全』には多くの詩が引用される。釣り好きだったイートン・カレッジ学寮長のヘンリー・ワットン卿の詩で、植物も動物も、「あらゆるものが華やかな喜びにあふれ、生命に満ち満ちて新しい生命を生む」田園のなかで釣りをする楽しさが述べられる。ジョー・ダヴィオの詩で、「ある者は法に背いて富を蓄え、ある者は酒におぼれ、争いや浮気に現を抜かしている。快楽を求めるものは快楽に身をゆだねればよい。わたしは一人、野や牧場に遊び日々さわやかな川辺を散歩する」。そして40行近くにわたって大自然のすばらしさをたたえたあと、「これらすべて神の創造性に目を留め、釣り人はその不思議さ、そのすばらしさに胸をときめかせる。深く瞑想し、--喜びの目で自然を見つめるとき、心は恍惚として空高く舞い上がる」と言う。
そして誰の作だとも言われていないので著者自身の作らしい「釣り師の唄」では、「心に深き愛あれば、その愛のみぞ尊けれ。あるひとこよなく犬を愛で、あるいは鷹や庭球を心の向くままいつくしむ。愛しきひとの腕のなかにこの世の幸を夢見るもあれ、われひとり釣りを楽しむ。狩に危険はつきもので、鷹匠もまた山野をさすらう。賭博は心を迷わせて、恋の天使は身の破滅。釣りの道ばかりは患いなし。この世に楽しみ山ほどあれど、勝手気ままな釣り(が)一番。他の遊びは飽みやすし。釣りのみひとりで楽しめて自由の天地を謳歌する」。
ここでは、この世に楽しみは山ほどあるが、ひとはそれぞれの愛好があると言われている。犬好きの人もいれば、鷹狩りやテニスが好きな人もいる。そして、賭博や恋愛におぼれることは身の破滅だと言う。勝手気ままに、自由に行うことができる釣りが一番だ、と言っている。
同じく「釣り人の願い」では、「草花の香にかこまれてせせらぎには耳を傾け、陶然と釣り糸をたれる。---ここに憩いわれはひそかに俗事のかなたに思いをはせる。とるにたりぬ悩みごと、喧騒の中の公事雑事、それらを超えてわれひとり岸辺に座して楽しまん。---太陽の輝きやがて没するを見る。翌くる日の日の出の輝くをいずくの野でかまた仰ぎみる。静止のなかで時を送り釣りのほかに雑念もなくやすらかなる往生をとげん」。
またハリー・ウォットン卿が書いたものだという詩の引用がある。そこでは「さらば汝亡びゆく愚かな者よ、おどけて哀しい道化師たちよ。---名声とはむなしき木魂コダマか、黄金は足の下の土塊ツチクレか。栄誉はわずか一日の恋人。--国家とは黄金の牢獄にして自由の羽をば打ちひしぐ。きらびやかなる裳裾の行列、そは奢れる形骸の見本なり。貴族の生まれと誇れども、自らの力にあらず、金の威力にあらず、遺伝の血筋を誇るのみ。名誉、名声、国家に血統、きらびやかなる衣裳に美貌、これらはすべて褪せたる仇花。--〔以下60行〕。
ウォルトンは社交家で、僧侶を含む多くの友人があった〔飯田前掲書〕というが、とくに知識階級に属していたわけではない。そうした一人の商人が釣りの楽しみについて語ることも、「哲学」だというならあえてそれは否定しなくてもかまわない。引用した詩はこの『釣魚大全』の「思想」ないし「哲学」のエッセンスといえるものである。だが、素直に見れば、この『釣魚大全』は釣りの楽しみを語った素朴な釣り讃歌というべきである。
ウォルトンは積極的に行動はしなかったが王党派であった。つまりプロテスタントの一派ピューリタンではないがゆえに明らかに、勤勉・禁欲の倫理に基づき、仕事に打ち込むべきだという考えをもっていない。
地の文で次のように述べているところがある。「われわれは健康であり、陽気であり、わずかなお金で楽しく食べ、かつ飲み、かつ笑い、そして釣りをし、歌いあい、ぐっすり眠ることができます。翌日目覚めると心配事などさらりと忘れて歌い、笑い、そして釣りをするのです。私たちの四十倍の財産家だって、この幸せを買い取ることはできません。----近所にもずいぶんと金持ちのひとがいますが、彼はゆっくりする暇もないほど忙しいのです。なにがそんなに忙しいのかといえば、金を儲けるため、さらに多くの金を儲けるため、の一事に尽きるのです。----かれはもっと多くの金を儲けるでしょう。そしてもっともっと財産家になるでしょう。そして奴隷のように卑しい仕事を続けながら、かれはソロモンの言葉を例に挙げるのです。「勤勉な手が富を作る」と。この言葉はなるほど真実です。しかし人間を幸せにするのは富の力ではないということに彼は気づかないのです。----ぎりぎりの貧窮から解放され、生きていくにたる資産を与えられているわれわれとしては満足とともに神に感謝こそすれ、不平をいったり、神の贈り物が不公平だなどというものではありません」。
この文は中世の昔から教会で説かれていた「清貧」の思想を繰り返しているに過ぎないが、ウェーバーに従えば資本家的精神の土台たるプロテスタント的「勤勉・禁欲」倫理をウォルトンがはっきりと退けているのがわかる。
そしてまた彼は人間をホモ・ファーベルとする人間観、人間の本性は労働することだという人間観を持っていなかったことは確かである。そして彼にとって自然は、人間が労働により手を加え、人間化しなければならないものではなく、「その不思議さに驚き、そのすばらしさに胸をときめかせ、--喜びの目で見つめる」べき神の贈り物であり、与えられるがままに感謝して受け取るべきものであった。これはウォルトン独自の、あるいは彼の独創的な考え方ではなく、中世以来どこの教会でも聞かれた教えである。
彼は、内山とは反対に、労働/仕事と人生を同一視しない。労働/仕事とは「ぎりぎりの貧窮から解放され、生きていくにたりる」だけの収入を得るために行う活動であり、仕事以外の時間に、好きな活動である釣りを自由に行って、神の業である大自然と交わり、神を知る喜びを見いだすことに人生の意味があると考えていた。とすれば、労働あるいは仕事について詳しく述べていなくても全く不思議はない。
内山は「現在の人間はいかなる階層に属していようとも、一生を遊びのなかに生きることはできない。それができない社会構造がある。それなのに釣りの中で人生を語ろうとすれば実際の生活に目をつむる必要がある」という。だが、ウォルトンは、釣りをすることに何の「自己嫌悪」も感じていない。自己をごまかすために、「実際の生活」つまり職業生活を主とする社会的関係に「目をつむる」必要を感じることは全く無かったはずだ。すでに述べたように彼は「社会的関係」を研究し、考察することができる知識階級に属していなかった。そして何よりも、彼は、当時の人々にとって重要事と思われたであろう政治活動や宗教活動などの「喧騒の中の公事雑事」に対する関わりをはっきりと拒否したのと同様に、労働/仕事を人生における重要事とはみなさず、生活の手段でしかないものと考えた。重要でないことをどうしてあれこれ研究し考察しなければならないことがあろう。
内山は「釣りの中で人生を語ることができるのかどうかという点に懐疑的で」、「釣りの哲学」つまり「労働=生活とは異なる活動である釣りのなかに人生の意味を見いだすべきだという」考えが「肌に合わない」と言う。こうした内山の懐疑と<アレルギー体質>を非難することはできない。しかし、他者が書いた(釣りの方法・技術論ではない)釣り論、「釣りの哲学」を「退廃的」だの「愚劣」だのと一方的に決め付けこきおろす、攻撃的態度は全くいただけない。
さて、内山が釣りについて述べるときに心に留めているはずの「生活との関連」とは、上野村での「生活との関連」ばかりでなく、彼の家がありまた本業である仕事を行っている都市における「生活との関連」も含んでいると思われる。彼は山里の人々の生活、および彼が山里にいるときの釣りと畑仕事については詳しくのべている。しかし彼の都市における生活については何も述べていない。
内山は彼が東京から通っていると言っているだけであり、東京での彼の生活、また一般に東京都民の生活がどのようなものであるかについてほとんど何も述べていない。また、都市とは賃金労働が支配的で、「労働と生活が分離した」ところであり、また山里を収奪しつつ繁栄してきた人々の集まっているところで、人々は、都市では失われしまった自然に親しむためという自分たちの都合だけで山里に遊びにやってくるのだと言う。彼は、抽象化され、単純化された都市生活と都市の人についてしか語らない。
彼の本業である大学教員という職、著作家あるいは新聞の寄稿者のような精神労働は、自動車工場の流れ作業で働く労働と同じく、文明が生み出した都市型労働であろう。だが、「主体性」という観点からは全く違ったタイプの労働である。両者をおなじように、都市型労働としてくくるだけでいいのか。そのような精神労働が主である生活と、山里での畑仕事と釣りという彼の遊びの生活は関係があるのかないのか、あるとすればどのような関係が考えられるか、等々の分析や説明を聞きたいと思うが、彼は都市の人間=賃金労働者として山村の人々に対置するだけである。
賃労働が都市において支配的な労働であるということには間違いがないと思われるが、他方で、都市における労働形態がそのまま「都市の生活」ではない。都市では、山里の生活と違って、暮らし、消費生活や余暇の活動と職業労働とが「分離」している。だが、また、都市の生活とは物を生産・販売して、消費する〔自己を再生産する〕「生命活動」であるだけでなく、政治活動をしたり、さまざまな社会運動に参加したり、「恋愛にうつつを抜かしたり」、金儲けや賭け事に夢中になったり、音楽やスポーツなど何か好きなこと、愛好することに打ち込みながら生きていくことでもあろう。かれは労働とは区別されるこれら都市生活の重要な半面については何も語らない。
しかし、内山は都市生活について何も語っていないだけでなく山里の生活に関しても、人々は山での仕事を楽しんでいると言うだけである。渓流釣り以外に趣味や娯楽が全くないという人ばかりなのであろうか。
このように考えてみると、ウォルトンが、自分の仕事にさほど打ち込まず、当時の英国の一大重要事であった内乱にも積極的にかかわろうとせず、釣りが他の遊び(現代では鷹狩りや狩猟はほとんど無理であるが)と比較して、また金儲けや名誉や権力を追い求める生き方にくらべてすばらしいものであると語ったことには十分な意味がある。
ほとんどの人は遊ぶだけでは(あるいはお金にならないボランティアの社会活動だけでは)生きていけないが、だからといって、生きるための活動である労働こそが人生の目的なのだと考える必要はなく、生きるために必要であるその分量だけ働き、残りの時間を自分の好きなこと、たとえば釣りに打ち込み、その楽しさをたたえる本を書くということも、十分に肯定できることである。
働くことについて考えるだけでなく、遊びについて考えることにも十分な意義がある。人間は本来労働する存在だという内山の前提はなんら明らかなことではなく、ウォルトンの「釣りの哲学」に対する彼の攻撃は道理にあわない。(やや我田引水的になったかもしれない。)
内山の著作活動の最終目的は後で見るように「労働本位」社会の実現にあると思われるが、この『山里の釣りから』を書く目的は、岩魚が釣れるような渓流を残すこと、もう少し広く、山村がその一部である自然を保護することにあるだろう。かれは山村の自然を保護するためには、山里の人々の自立した生活が可能であるような仕組みを作り出さなければならないと言う。戦後の日本の経済成長を支えた「開発思想」は、「山村を都市生活の手段と考え」、山村の富〔川の流れ、森林、山〕を奪い、山村が自立することを不可能にしてきた。渓流や森林の保護は、都市の人々が釣りや観光を楽しむための資源として利用するという発想に基づいてすすめられてはならない。山村の人々自身が山の自然を利用して生活を行うという、自立した経済構造を作る必要がある。これが『山里の釣りから』の趣旨である。
彼の言う「自立した山村経済」という考えには、山村の人々の金銭的な収入をどう確保するか、職業選択における好みの問題をどう考えるのかなどの点で疑問があるが、大まかにいえば、水資源開発(一部に「洪水を防ぐ」=治水)を目的にダム建設を進めることに反対し、山村の人々の生活と山村の森林を守る(環境・自然を保護する)べきだという主張であると理解することができ、その限り、内山が川とダムに関して述べていることに私も賛成する。とくに、私は、ダム建設によって、しばしばひとつの地域社会そのものが消滅してしまうということ、そうでなくても、その地域社会がひどく損なわれ、相当数の人々が家や畑を失い、他所の土地で新たに生活を始めなければならなくなるということは彼らに大変な犠牲を強いることであり、ダム建設は極力さけるべきであると考える。
だが『山里の釣りから』では、ダムの建設は自分たちの利益しか眼中にない多数者である東京都民(その利己主義の体現者である美濃部都知事)が、少数者である群馬の山村の人々を犠牲にすることにより、自分たちの利害を貫徹することとして、あるいはダム建設とは工業文明ないし都市=「人間」による、山村を流れる川=「自然」の破壊として描かれている。しかし、こうした図式は問題の単純化であるというよりも、間違っておりきわめて不適切である、と私は思う。
1980年代以降、ダムは都市民の必要(つまり都市におけるに生活用水の不足)にもとづいて計画されているのではない。次から次へとダムの建設を計画し、決定しているのは、道路や橋梁、堤防、鉄道や空港、それにダムなど、コンクリートや鉄を使う「土木建設」を行うことが国家の繁栄にとって必要だと信じ、また反対論を無視して独断的にその権限を行使して構わないと信じている国交省の技術官僚、およびその天下り先の水資源開発公団(当時)の官僚OBたちであり、またダム建設の利権を求め、また官僚たちに協力するために周囲に群がってくる政治家や大学の「研究者」、そして企業である。
ダム建設は、他の公共事業と同様「官僚独裁」によって進められる。「このシステムにはダムが作られる市町村の主張や議会は存在しない。完全なる中央集権で」ある(五十嵐敬喜他『公共事業をどうするか』岩波新書、1997)。そして、ダム建設は、すべてがそうだとは言わないが、しばしば、架空の水需要予測、根拠のない「既存の水資源の不安定化」などの理由づけ、水源地の降雨データの改ざん、(治水ダムの場合には、測定されていない「降雨データ」に基づく「洪水予測」)などなど、技術官僚たちによって捏造された「必要」によって計画され、賛成派の委員(「学識経験者」)を集めた「審議会」を経て、多数のほかの公共事業と一緒に「閣議決定」される。
以上に関しては、五十嵐同書のほかに、新藤宗幸『技術官僚』(岩波新書、2002)、嶋津暉之『水問題原論』(北斗出版、1991)、拙論「ダムと環境倫理」丸山徳次他編『岩波 応用倫理学講義2.環境』(岩波書店、2004)、拙著『愛媛の公共事業 山鳥坂ダムと中予分水を考える』(創風社出版、2001)などを参照してほしい。
ダム建設は都市民のあずかり知らぬところで勝手に計画され決定されているのである。そして、都民あるいは都の水道行政や環境行政に携わっている職員の中には、ダム建設計画が明らかになったときに、それが水源地住民の生活破壊であるとともに自然破壊であり、また税金の無駄使いであることを批判し、水源地住民のダム建設に反対する人々と連帯して、全国的に建設反対の運動を展開している人々もいる。たとえば『水問題原論』「あとがき」参照。
私はダム建設はすべて「自然破壊」であり行うべきではないとは考えない。急峻な山地に降った雨水を海に流れ去るままにせず、ダムを作って農業や都市の水道水に利用するということは間違いではない。とくに戦後間もない頃の、都市部の人口急増に伴う水道水の確保、農業用水の確保や、台風来襲による洪水被害の対策として考えられたいくつかのダムの建設はそうである。(ただし水没地住民への補償が適切に行われたとは到底言えない。)問題は必要性についての判断が合理的なしかたで行われたどうかにある。1980年代以降実際の水需要は拡大していないにもかかわらず架空の数字に基づいて、土建業界の利益など別の目的のために税金を投入し続けることが間違っているのである。
ダム建設における国交省の独断専行(とそれを支える利権集団の行動)を可能にする背景として、都市民(あるいは一般国民)の水問題に対する無関心を指摘することもできないわけではない。実際、高度成長期の日本政府の水資源開発政策を批判し、水需要を抑制すべきと説く論者の中にも、都市民の水問題に対する無関心を指摘する人もある。「都市住民の日常生活における水への無関心はおどろくべきことだと思う。いざ水道の断水ということになれば大騒ぎするが、日常、どれだけ水について考えているだろうか」。玉城哲『水の思想』(論創社、1979)。
私自身、1960年代半ばに大学に入学してから30年近く東京で暮らしたが、水問題について考えたことが全くなかった。私は、45歳を過ぎて四国、松山に住むようになってすぐ1994年に数百年に一度という異常渇水による長期断水を経験し、また2000年に浮上した県都松山に水を供給するための新たなダムの建設計画に対する反対運動に加わり、松山への新たな水道水給水が不必要であることを論証するために本を一冊書くことになったが、こうした「事件」がなかったら、水問題を真剣に考えることはなかったかもしれない。
大学で「環境倫理」の授業をもっている人間にしてこうである。一般の市民がふだん水問題に関心をもつことは難しい。そしてその原因は玉城も言うように、「水管理が集権的な行政官僚の独占物とされている」ことにある。つまりそうである限り「住民は水の単なる消費者でしかなく水問題もまた自己の自治の責任の範囲にあるということを自覚できない」からである。
しかも、生活において「自治の責任の範囲」にあると考えなければならない事柄は水問題だけではない。食の安全性の問題、原発・エネルギー政策の問題、都市における大気汚染など環境問題、子供の学校教育の問題、あるいは医療や保健の問題、等々、われわれが市民として、住民として、国民、あるいは納税者として、関心をもつだけでなく、自分の意見を持ち、関係機関に対して意見を述べるべきだと思われることがらを上げていけばきりがない。ふだん、都市の住民が「自治」的、「自主」的にさまざまな問題に関わることの必要性はわかっても、とくに水問題に強い関心を持ち、真剣に取り組むことは何かの機会つまり断水の経験などがないかぎり決して容易ではない。
内山が『山里の釣りから』で取り上げている下久保ダムは洪水調節、発電、上水道、工業用水、かんがいなどを目的とする「多目的」ダムであり、上水道は東京都と埼玉県に、また工業用水として埼玉県に供給し、農繁期のかんがい用水も供給することを目的に建設された。これを一括して、都市民の利益だと言ってしまうのは不正確でありほとんど間違いとさえ言える。また下久保ダムの竣工は内山が書いているように1968年である。しかし、建設省直轄ダムとして計画されたのはその10年以上前のことであり、65年にはダム本体の工事が開始されている。
他方、自民党が支えてきた都政を批判して、美濃部氏が知事になったのは67年である。なるほど、下久保ダムの完成により、美濃部氏を知事とする東京都民が水道水の供給を受けたということは事実であるが、内山が、上野村の住民の口を通して言わせているように、美濃部知事が東京都民の民意にもとづいてダム建設を決めたわけではないのである。
しかし、このようなこまかな事実はどうでもよいのかもしれない。内山にとっては、ダム建設においては、多数である都市民が利益を受け、自然が破壊され、少数の山村の人々が犠牲になるという構図だけが問題なのであろう。
しかし、私には、このように山村の人々と都市民、山村と都市、自然と文明を対立させてみても意味があるとは思われない。そしてダム建設の「原因」として、山村の資源を含め国土の資源を独占しようとする「都市民の利己主義」を問題にすることは間違いである。
五十嵐らの研究を踏まえれば、現在のような公共事業推進の仕組み、つまり行政システムおよびその根拠である河川法の体系を大幅に変えなければならない。これは一貫して土建的な公共事業を推進してきた自民党政権下では不可能であろう。だからダム(や高速道路、あるいは新幹線など)建設をストップさせることは非常に難しい(注)。しかし、内山のような見当はずれの議論をおこなうことはその困難さをかえって増大させることにはなっても、ダム建設をストップさせることにはほとんど役立たないと私は思う。
自然と文明と言う構図にも意味があるとは思われない。文明にもいろいろな文明がある。もっと自然を重視し、官僚独裁による経済成長や開発や土木建設による公共事業を進めるのではない文明があると私は考える。
(注)インターネットで調べると、その後2005年には上野村に、東京電力の、堤の高さ120m、日本最大の揚水式ダムが新たに作られたという。
内山の議論では単純化が目立つ。ダム建設によって都市民はもっぱら利益を受けるかのようにみなされ、都市民はみな同じように、高度経済成長の恩恵に浴しているかのようである。だが次々と行われるダム建設によって、都市民は消費者としては水道料金の値上げと言う形で不必要な支出を強いられ、また納税者としてはダム建設に伴う財政援助という「ばらまき」により無駄な税金を払わせられている。節水の努力なしに好きなだけ浪費的に水を使用できることは「利益」でも幸福でもない。土建業界、政治家、等々はダム建設により利益を手に入れる。都市民は利益を受けることなく、不利益だけを蒙っているとも言える。
もっと大きな「単純化のミス」は、内山が自然とは人の立ち入ることのない「原生自然」のことではなく、そこに住む人間生活と関係する自然のことだと言っているにもかかわらず、彼が自然保護というときには、山村の人々の生活環境である自然、つまり山の森林と動物たち、渓流とそこに住む岩魚や山女などのことだけしか考えておらず、都市住民の自然と生活環境の問題には全くふれようとしない点にある。
彼は「後記」で一行「本書では現在問題になっている自然破壊と公害については直接にはなにもふれていない」と言い、実際、本文の中では、多摩川が工場排水で汚染され、釣りができなくなってしまったと2、3行、都市の河川の環境問題にふれているだけで、そのほかには環境汚染、公害についてふれているところが全くない。
1970年代の都民は、山村の水を奪って都市文明の恩恵を享受する存在だったというよりは、工場からの排煙、排水、自動車の排ガスと騒音、多発する交通事故など、急速に拡大する経済活動と「工業文明」による公害、環境破壊によって生活の安全と健康を脅かされ侵害されつつあった。水俣病など四大公害病に対する反省からようやく、日本で環境保護対策が本格的にはじめられようとしていた時期(厚生省の一部局から独立して「環境庁」が創設されたのは1971年)であったが、東京や大阪などの大都市ではとくに大気汚染公害が深刻化した。
東京では呼吸器疾患に罹った学童が伊豆や房総にある、区の施設に疎開し、また自動車の排気ガスを主原因とする「光化学スモッグ」により、運動中の高校生が校庭で倒れるなど、毎年数万人の被害者が発生した。いったん厳しい環境基準が設けられたが、自動車業界などの反対で二酸化窒素の環境基準が緩和され、連日、テレビ、ラジオの天気予報の時間に二酸化窒素の濃度予報がなされるなど、幹線道路沿いの地域を中心に深刻な大気汚染が続いた。東京といっても山の手と下町では被害の大きさは異なり、下町、工場地帯では粉塵による被害も含め大気汚染ははるかに深刻であった。
また、急速に自家用車の保有台数が増加し、70年代から80年代にかけては、交通事故の死者数は毎年1万人を超え、多いときには1万5千人以上の死者があった。騒音の環境基準も定められていたが都心や道路沿いの地区のほとんどでこの基準は全く守られていなかった。ビルのオフィスでは防音対策が取られている。しかし下町や道路沿いの一般住宅で暮らす人々は自動車騒音に睡眠を妨げられ、精神を病む人々もあった。大都市を中心に「交通戦争」が起こっていた。また自動車の排ガスで各地の森林の被害も起こりつつあった。
ゴミの増大も深刻な環境問題を引き起こし、美濃部都知事が「ゴミ戦争宣言」を発したほどであった。焼却施設を持たず区外にゴミを搬出していた区と、埋立地がありそれらのゴミを持ち込まれる江東区との間に紛争が生じ、江東区は区外からのゴミを持込もうとするゴミ・トラックを実力で阻止した。
今は整備され遊歩道や公園になっている下町の運河跡も、水質が改善され遊覧船が行き交う隅田川なども、80年代までは真っ黒な水が流れるどぶ川であった。今は公園になっている、夢の島の先のゴミ埋立地の堤防から釣れる東京湾の魚は油臭かった。(それでも私を含め多くの庶民が東京湾の埋立地の周りで、サッパ、セイゴ・フッコ、クロダイなどの釣りを行なっていた。)内山は釣りとの関係で、東京の河川の汚染には気がついていた。しかし、なぜか、それは「自業自得」とされ、東京の環境問題には関心が示されないのである。
内山は、山村の自然保護には関心があったが、下町を中心に東京都民を苦しめていた環境問題にはほとんど全くふれていない。そして、とりわけ、自動車公害に関しては全く無関心であったように見える。彼は山村の川で行う遊びの釣りは、ダム建設を通じての都市による山村の富の搾取、収奪とおなじ性質の行為だと言い、釣りをしている自分に自己嫌悪を感じていると書いている。ところが彼が車を使って釣行していることについてはひとかけらのやましさも感じなかったようである。
当時も今も大多数の都市勤労住民はバスや電車、地下鉄を利用して通勤、通学する。他方、自営業者などが仕事で車を使うことは肯定されるだろう。地方では公共交通の便が悪く、車にたよらざるを得ない。だが、都内に住む大学教師である彼が自動車に乗る必要があったとは思われない。しかし、彼は「〔ダム建設で〕東京の繁栄が完成しても村に与えられたものは、テレビを見られるようになったことと自動車を所有するようになったことぐらいである。それと引き替えに村の失ったものは大きかった」と書き、あるいは彼が車で東京から上野村を毎月訪ねると書き、また車で日本各地の渓流を訪れ釣りをしていると書いている。
これらを読むとき、内山は、自動車の利用は他者に直接的な危害を加えることがあり、また環境を汚染して、人の健康を侵害し森林被害を引き起こすという、すでに当時マスコミの連日の報道によって明らかになっていた自動車がもつ重大なマイナスの側面と自動車が引き起こす環境問題に関する基本的な認識を全くもっていないか認識はあっても知らんふりを決め込んでいたかしていたことがわかる。山の自然から楽しみを得ることには負い目を感じていたが、車を乗り回すことで他者に不利益をもたらしつつ便益を得ることにはなんらの負い目も感じていない。
彼は、ダム建設によって川の流れを断ち切り水をためて利用するという、川の自然へのかかわり方の変化に、当時の日本の環境問題を見いだした。そして、彼は、岩魚と山村の自然の保護を説く。このことを否定する必要はないが、山村の自然と都市の文明、あるいは山村の住民と都市住民を二元的に対立させ、後者によってダム建設、自然破壊が進められているかのように説明するのは間違いである。彼は都市を利己的な人々の単一な集まりであるかのように描き、法的権限を独占し税金の無駄使いをしている官僚集団、ダム建設で儲けている業界、それと対照的に工場や自動車の排煙、排気ガス、騒音などで健康被害を受け、また水を浪費させられ余分な料金を支払わされる庶民など、「都市民」内部に存在する違いを無視しているが、これも間違っている。『山里の釣りから』における彼の議論にはこうした問題点があり、全体として全く賛成できない。
第三のテーマに関して、内山の批判を行うことにしよう。内山は、耕作労働が自然に手を加え、自然を労働化することであると同時に、労働する人間を自然化することでもあると言う。彼がこのように考えるようになったのは、彼が村人と同様に実際に畑を耕して、自然に対する働きかけをおこなった経験によると言っている。彼の畑作りは、村人が生活(自給)の必要から行っている畑作りとは全く違うということは、後の(2)「釣りは労働だ」に対する反論のところで述べる。だがそもそも山里の人々の生活は「人間の自然化」と言えるのかどうかを確かめてみよう。
内山は人間の自然化、動物との共存について語る直前の箇所で、次のように書いている。村人が畑に蒔いた種や豆は、カケス(カラス科の鳥)やキジバトが飛んできて、食べられてしまう。畑にテープを張ったりしても効き目がない。業を煮やした村人は捕まえたカケスを殺して、みせしめに吊るした。
「毎年この村では---〔熊に〕蜂蜜が取られる。それは山に棲むかぎり一種の必要経費である。---もっとも、それもあまりしばしばになれば何らかの防御措置をとることになる。そうしてつかまえられた熊もいる」。
村人は畑の耕作について色々な品種を試してみるだけの余裕は無いが、また鳥たちに種をほじられたり、あるいは収穫前の作物をイノシシに食われてしまったりすることを許容する余裕もない。だから、わなを仕掛けて捕獲するなどさまざまな対策を講じようとしているのだと私には思われる。村人の労働は遊びではないがゆえに、収穫をできるだけ確実なものにしようと努力する。
もし、村人自身が自分は自然の一員だと考えていると言ったとしたら、私はどのような意味でそうなのかと聞いてみたい。客観的な事実として、村人は冬季には熊を捕獲し毛皮や「熊の胆」を売って稼ぐ。また村人は、自己の労働の生産物を守るために、銃や捕獲用のわななど用いて動物を殺したりあるいは威嚇したりしている。
村人が「自然の一員」だとしたところで、人間は特別の特権をもった存在として振舞っているのであり、それを武器や狡知によって可能ならしめているに過ぎない。人間は動物の自由な存在、自然な行動を承認しているのではなく、殺すか、あるいは人間の都合で設定した区分によって「害獣」にならないよう、一定の枠内に彼らを押し込め、自分たちに都合のよい「一定の共存」を強制しているのであろう。
社会全体が何らかの原因で極度の緊張状態にあるときを除き、現代の人間社会においてその構成員の一部が他の構成員を殺して吊るしたり、死体をばらばらにしたりしても罪に問われることがないような社会はないといってよいだろう。ところが内山が言う人間を含む「自然の社会」なるものは、内部にひどい差別が存在し、<残虐行為>が認められている社会である。そして、この村人たる人間の特権集団はかれらが保持する武器と狡知によってこの差別的「共存」を維持しているのである。(もちろん、私は動物と人間の「権利の平等」という、一部欧米の論者に見られる空論は受け入れていないので、今述べたことで村人を非難しようとしているのではない。)
ある範囲の土地の中で生息するもろもろの生物が複雑な相互関係を有しつつ生活していることから、生態学ではこの生物の集まり全体を「コミュニティ(共同体、生物群集)」と呼ぶことがある。山村の人間もこの意味では他の動物や植物とともに「コミュニティ」の一員であると言うことはできる。しかしそれは上野村の人々がひとつの村落共同体としての人間社会を作っているということとは明確に区別されねばならない。
人間社会はコミュニケーションによって成り立ち、またその構成員は平等な基本的人権を有している。カケスやイノシシに畑を荒らしてはならないということを分からせる手段は存在せず、また分からせることができたとしても、畑を荒らす行為は死に値するというような規定を含む法律が制定され、人間にも適用されるということはないだろう。基本的に野生動物は、また愛玩動物も、財産が保護されるように、保護の「対象」ではあっても、人間社会の「構成員」ではない。また、逆に人間はいくら自然に溶け込もうと努力しても、武器や(人間社会の)法による保護などを一切捨てない限り、他の動物と同じ平等の権利を享有あるいは甘受すべき「自然の社会」の一員にはなりえないのである。
いわば極度の動物差別を行う現代の山村社会を、鉄砲を使わずに野生動物と「共存」していた江戸時代の農民社会のケースと比較してみよう。武井弘一『鉄砲を手放さなかった百姓たち−刀狩から幕末まで』(朝日新聞出版、2010)は以下のように書いている。
300年ほど前、江戸の周辺には、広大な森林が広がっており、そこにはたくさんの鹿やイノシシなどが生息していた。一方で幕府の開拓促進政策で田畑が広がり、農民は最前線で野生の動物と対峙し、また戦わなければならなかった。当時の農民の食糧事情は貧しく、肉はほとんど食べられなかった。鹿やイノシシの狩猟は畑の作物を守るために不可欠であり、しかも飛び切りのご馳走が得られるとすれば、農民は張り切って狩猟をおこなったと考えたくなる。ところが幕府は農民の鉄砲の所持、使用をきびしく取り締まった。
こうして、たとえば、大野村(埼玉県ときがわ町)は、ほとんどが傾斜地で、耕作地の98%が畠で、米ではなく麦、稗、芋、粟などを食べていた。農業の合間に男は炭焼きをし、また日雇いで稼ぐ。女は麻、木綿布などをすこしずつ織り、近くの市場で売ってわずかな収入を得ている。藩の御林が14箇所、百姓持山が110箇所あり、ここから得られる木で炭焼きを行っている。(ここまでは内山が述べている「自然資源を活用した労働と生活」が営まれている「かつての農村」の暮らしと大体一致する。)
だが、山村なのでイノシシ、鹿が多く出没して「困窮」している。被害は畠地全体の57%に及んでいる。享保20年(1735年)には、年貢が「取り下げ」、大幅減免になったほど、荒地となった畠もある。
ひとたび獣が出れば、夜間、畠に設けた小屋に泊まり、イノシシ追いをする。鉄砲の数が少ないので、竹やりや棒、落とし穴などの方法で防ぐ。鉄砲を使いこなすには熟練が必要で、生業にしている猟師を雇うことも多かった。費用は村全体で軒割りにして支払った。発砲は4月から7月に限られており、それ以外の時期は落とし穴、竹やり、棒で追い散らした。百姓にとっては「難儀至極」であった。
ここに見る農民たちは、領主によって年貢を搾り取られ、しかも獣に作物を荒らされてひどく困窮している。地縁共同体の中で営まれた「生活と労働が分離していない」とともに「自然と共存」する江戸時代の日本の農民は、睡眠時間を削って獣と戦って作物を守らなければならず、「骨休み」の余裕さえもないひどくきびしい生活を送っていたのである。彼らはまさしく「自然の一員」と呼ぶにふさわしいが、それは内山の言うような「ロマン主義」とは全く無縁のものである。
「狩猟」で調べたWikipediaに掲載されている画像。中世ヨーロッパの絵画では
ないかと思われるが、作者は不詳。兵士らしい人物が槍でイノシシと闘っている。
2012.11.8.愛媛新聞掲載「四季録」で西条自然学校代表・山本貴仁氏は次のように書いている。「江戸時代後期、四国の山間部では焼畑が行なわれていた。文献によると、山を焼いて、蕎麦や雑穀を栽培していたが、夜を徹してイノシシやシカを追い払わなければ収穫どころではなかったらしい」。江戸時代の農民が動物から畠の作物を守るために寝ずの苦労していたのは、関東平野でも四国でも同じだったようだ。
かつて人間は現在よりもはるかに「自然に近い」存在で、動物と同様、鉄砲という文明の利器を持っておらず、自然な腕力しか行使できなかったときには、野生動物が我が物顔で歩き回り、人間は「難儀至極」な生活を強いられた。現代の山村では人間が支配者の地位につき、十分に豊かで経済的余裕があるがゆえに、動物たちの少々の盗みは見逃してやっているが、いつでもその気になれば弾圧し、虐殺もする。つまり、昔も今も、山村の人々は野生動物とロマン主義的な「共存」あるいは共同生活を行ってはいない。
私は人間の本性は労働することだという考えには賛成していない。しかし、労働による「自然の人間化」ということの概念は明瞭で真実である。人間はほとんどの場合自然の事物をそのまま利用するのでなく、何らかのしかたで労働を加え人間の便利のために加工して利用するということである。しかし「人間の自然化」の概念はなんら明らかでない。
内山は上野村での生活、とくに畑を耕し農作物を作った彼の労働を通じ、動物や森林や天候など自然環境に慣れ、また畑の土壌に関する知識など農業の知識が増すなどしたことによって、彼が「自然化」したと感じている。
(トラクターを使う平野の農業と違い)山間地で体を使い鍬で耕す耕作の労働は、都市部のオフィスにおける事務労働や、工場におけるベルトコンベヤーの流れ作業における労働とは違い、確かに「自然的」要素が占める割合が高い。上野村の人々の、また、内山の行った耕作労働は、現代社会におけるほかの労働形態に比べ「自然的」と呼ぶことはできるだろう。そしてその場合、人間は、自然に関する知識を多く有するであろうし、自然的労働形態にふさわしい、体の使い方、技量のようなものも求められるだろう。
他方で、大人の人間は一般に社会化された存在である。また(第2章でふれた)N.エリアスに従えば、人間は自然的感情や衝動に左右されずに、自制によって行動を行う「文明化」された存在である。そして、人間は生まれたときには動物であるが、成長の過程で、次第に、人間らしい振る舞い方を身につけて人間になる。「人間の自然化」とは、これらを否定し、人間が人間らしさを捨てて動物に戻ることを指すのではないと思われるが、内山が言う自然化はこの社会化や文明化のような概念とどのような関係があるのであろうか。
現代日本において、畑を耕し山菜を取って暮らす生活を送ること、あるいは部分的にそのような生活に親しむことは、都市のサラリーマンとは幾分異なる生活を行うことであろうが、しかし、テレビや新聞を通じて同じ文化に触れ、冷蔵庫や車や電気を使う文明生活を行う点では変わりはない。都市で生活をする人々と山村で暮らす人々の間に、都市的「人間」と自然的「人間」というように区別できるような「人間」の違いが存在するのだろうか。都市的人間は、しばらく山村で暮らし畑を耕せば「自然化」して、自然的人間になるのだろうか。
それとも、ともかく自然に関する知識が増し、自然的な環境に「慣れる」ことや、労働の対象と労働が行われる環境に合うように、労働の方法が変化することなどを総括して「人間の自然化」と言う新しい語を用いるよう内山は提案しているのだろうか。だが、それにより労働の概念に新たな内容的な変化が生じるようにも思われない。図式や用語の数は、理解すべき内容に変わりがないならば、できるだけ少ないほうがよい。山村における(遊びを含む)生活と労働は山村の環境と対象に適応したやりかたで行われると言えば十分わかるからである。
近代資本主義・工業社会は、自然の開発・利用(「自然の人間化」)を偏重してきた。内山にはこのことに対する批判がある。しかし、その批判は、自然・環境保護もしくは開発の抑制として打ち出されるべきであり、「人間の自然化」などという内容のはっきりしない仕方で語ることには賛成できない。
以上は『山里の釣りから』のなかで述べられていることの紹介とそれに対する私の批判である。内山はそこで人間と自然との関係および両者を結びつけるものとしての労働に関する哲学的主張を述べている。そして、またそのなかで、都市あるいは文明あるいは「人間」に対置されるべき、アンチテーゼと彼が考える、自然な「山村」の生活/労働と渓流における釣りを描いている。私は彼がそのなかで山林開発やダム建設などによる自然破壊に反対し自然保護の必要性を説くことは支持したが、自然と文明、山村と都会という単純で不適切な二元論は支持しなかった。
内山は日本社会の現状を批判するだけではなく、日本社会が変わっていくべき方向についても語っている。
内山は「都市における労働は僕の眼には実にゆがんだものに見える。それは人間自身が自分の労働を確認し、労働を通して自然に働きかけ、労働の中に生活を作り、そして労働によって人間自身を再生産していくことができないから」である。これに対して、公共的機関での仕事や日雇いの土木工事と商業や観光以外の、山菜取り、シイタケ栽培、畑仕事などの農業と(私有林の)林業など、本来の山村の労働は、生活と一体のものであり、「都市型の労働と生活に対するひとつのアンチテーゼをなしているばかりでなく、その負の部分を克服する何かの示唆を与える」という。
山間のすべての村が自給自足することは無理であり、何らかの「分業」が必要である。しかし「労働の分割自身が、そこで働く人にとっての労働の所在が、個々人にとって、あるいは協業労働者にとって認識しうる形でおこなわれなければならない」。貨幣によらない、直接的な労働と労働の交換であるような「単純な」交換による分業、あるいは「協業」でなければならない、とされる。 この社会では、交換は、たとえば、都市民向けにインターネットを使って地元の産物を販売するというような形では行われ得ない。貨幣を使用する商品の交換は「商品経済自身が労働のうえに自立してしまい」、「労働の所在がわからなくなる」からである。それに都市民との交換は、山村が都市に依存することであり、都市型「分業」を肯定することになる。したがって交換は隣接する村と村の間で、お互いの顔を見ながら、品物をじかにつき合わせながら行われなければならないであろう。
要するに、山村の労働のように直接的に自然に働きかけるような労働だけで生産が行われ、その産物だけで、あるいは顔が分かるような相手との交換で手に入れたものだけを使って、生活が行われるような社会が「ゆがんでいない」正常な社会であり、これが彼の実現したい「あるべき社会」の基本構想である。この社会は、労働者が自己の労働が社会の中で果たしている役割りを確認できるということを第一にして考えられており、その意味で「労働本位」の社会だとも言われる。
この社会には商人は存在しないのだから、私には、歴史的には、基本的に自給自足的な経済が行われていた中世以前の社会しか考えられない。したがって、この基本構想に多少の幅があるにしても、その社会ではテレビ、クルマ、ケイタイなど複雑な機器・機械類を作ることはできないことは確かだろう。トラクターも作れないから、牛や馬に犂を引かせる農業が行われる。電動工具は存在せず、ノミやカンナを使う職人が家具などを手作りするのであろう。
私はクルマは持たず、都市・松山と漁村・愛南町家串イエクシ地区との間をバスで行ったり来たりして、両方で暮らしているが、漁村で暮らしているときには近くの町まで時々友人の車に乗せてもらうか、街の近くの桟橋まで自分の船に自転車を積んでいくかして、買い物に行く。松山では徒歩と自転車とバスで移動する。家串ではテレビはディジタル放送に切り替わってからは受像機がなく見ていない。ケータイは船で釣りにでかけるときに必要である。無線なしに船で沖に出るのは怖い。もしケータイがなかったら中学3年のときにとったハムの免許を引っ張り出し、小型のトランシーバーを使っただろう。ちろん、スマホなど必要なく、ガラケーで十分であり、それさえも松山にいるときには電源を切っていることのほうが多い。多くの人が用いているかなりのものがなくてもがまんできる。
エンジンつきの船がなければ、釣りも歩いていける堤防や小磯からの釣りか川釣りで我慢する。1960年ごろまでの日本社会に戻れと言うなら、私は、絶対に無理だとは思わない。しかし、ほとんどの人は、内山の言うような社会はマルクスの共産主義社会よりも、はるかにユートピア的・空想的で、全く非現実、虚構的と考えるのではないか。そのような「アンチテーゼ」、「本来的社会」の像から出発して現代社会を批判しても「その負の部分を克服する何かの示唆を与える」ことには全くならないと思われる。
だが、かれが山里の生活をモデルにして構想する<あるべき社会>、実現に向けて行う議論をしばらくたどることにしよう。
内山は、1970年代以降の山村では山村本来の労働は実際には減少してしまっているが、その本来的な労働の基盤となる自然資源は残っていると言う。かれは山村本来の労働を維持し拡大することによって、自立した山村経済を確立することが可能であり、彼の説く「労働本位」社会の実現に向うことになると考えている。
すなわち、現実の山村の経済は「第一は役場、農協など広い意味での公共的な機関での仕事、第二は土木工事、第三は農業、林業、商業、観光を含むその他すべての仕事」から成り立っているが、ここには「山村ならではの自立的な経済的基盤がほとんどない」。本当は「山村経済の崩壊をではなく、山村の労働=仕事の崩壊を問題にしなければならな」い。「山村には広大な森林、山、川をはじめとする---自然条件」、経済「基盤」はある。この自然条件を活用する、仕事・労働のしかたが失われたことが問題なのだという。『自然と労働』
彼は地元の漁協によるヤマメの放流に反対している。また観光ホテル建設にも反対する。都市民を呼び込もうとすることに反対で、山里が都市に依存しない自立した経済を作るべきだといっている。簡単にいえば、稼ぎの労働、賃仕事を減らし、山の仕事をすべきだということである。
しかし、次のことが考慮されねばならないはずだ。彼の言葉を使えば「山村の労働は一面では都市の労働よりはるかにきびしいものであるに違いない。ときにそれは命がけであり、また忙しいときには早朝から深夜にまで及ぶ」。だが、そのような厳しい仕事につきたいと考える人は少ないのではないか。人々にそのような仕事につくことを求める社会は望まれないのではないか。だから実際上野村でも、公務員などの「楽な」仕事か、あるいは、日雇い仕事など効率よく「稼げる」労働につき、労働時間を減らそうとする人が多くいるようだが、それは当然なのではないか?
一般に都市の賃金労働の多くは楽しいものではない。しかし、従来、農山村の民が都市の労働力の供給源となってきたということは、農山村の貧しさとともにそこでの労働の厳しさをも示していると思われる。若者の中には自然環境にさらされて行うことの多い農山村の厳しい労働にくらべて人工的な環境の中での「楽な」仕事のほうを好む者も多い。とくに楽しいあるいは有意義に感じられる仕事でなければ厳しい仕事を選ぶ理由がない。
だが山村特有の労働で生活をしている人もある。内山は労働の厳しさには耐えられるし、実際に村人は耐えていると言う。「村人が耐えることができるのは、自然の人間化という自分の労働プロセスを自分自身がはっきり認識し、自分の労働の所在を自分で知っているからである」という。『山里の釣りから』
自分の行なっている仕事の労働プロセスを知らなければ仕事にならず、どのような労働者も多かれ少なかれ自分の労働プロセスを認識しているはずである。私には、自分の仕事の労働プロセスを知っていることと仕事の厳しさに耐えられるということとの間に、特別の関係があるとは思えない。また各人は様々な理由で労働の厳しさに耐えるであろう。たとえば、仕事は厳しいが働かなければ家族は飢えてしまうだろう。大切な家族のために頑張って働くのだ。あるいは、この仕事は一面では確かに厳しいが、とても面白い。こんなに面白い仕事はほかに見つからないから、我慢してでもこの仕事を続けるのだ。あるいは、芸能人やスターになる道はひどく険しく、厳しい。しかし、私はとにかく有名になりたい、等々。しかし、「労働は自然の人間化である」ということを認識していることが、仕事の厳しさに耐える理由になるなどとは信じられない。
だが、内山は「自分の労働の所在を自分で知っている」ことが仕事のきびしさに耐えることを可能にする、とも言っている。労働の所在という語は意味があまりはっきりしないが、所在とは「存在するところ、ありか、すみか」である(『広辞苑』)から、おそらく、労働が社会の中で、また人間存在において占めている位置・役割のことであろう。内山は(自分と自分の家族生活のための)賃金を得るためだけに働くことは労働を無意味だと考えることだと見るから、「自分の労働の所在を知っている」とは、労働者が社会との関係における自分の労働の役割、意義を知っているということであろう。『自然と労働』第5章末尾参照。いいかえれば自分の仕事の社会的重要性を知っており、社会的な責任を意識することである。そのような認識、意識が仕事のきびしさに耐えることを可能にする重要な要素だということは確かだと思われる。
しかし内山が書いている現在上野村で行なわれている山仕事、山菜を採り椎茸を栽培し、畑を耕すことが、特別にそのような社会的な役割や責任についての意識を強めることになるだろうか。むしろ、内山が述べているように、それら山仕事は出荷のためでなく、主に自家消費のために行なわれているという(そこに生産と消費の分離した都市民の生活とのちがいがある、と内山は言っている。)ことからすれば、反対のことが言えるように思われる。山村の農民が自家消費を目的にしてその労働を行うことは、工場労働者が自分のために賃金を稼ぐために労働しているのと、その意識においては同じだろう。山仕事をする上野村の人々も、工場の賃金労働者も、「自己の労働の所在を知り」、社会的使命を果すために、(厳しさに耐えて)労働しているのではないということは同じである。
内山は、上野村の人々は、自家用作物が余ったときには出荷するという。しかしそれは基本的に、臨時に行われることである。消費者と直接的なコミュニケーションを行いながら継続的、計画的に一定量を生産し出荷するというのでなければ、社会との関係は薄く、やはり「労働の所在」を意識し、認識することにはならないだろう。内山の考えるあるべき山村は基本的に自給自足の社会である。部分的には近隣の村と直接的なface-to-faceの交換が行なわれるのかもしれないが、社会の範囲が広がるのにつれて、責任感は薄れる。
だから、「自己の労働の所在」が労働の社会的役割や責任を意味するとしても、山村の労働が自給自足を目指すものであり、自家消費のために行なわれるものであるなら、山村特有の労働の厳しさを支えるものは「労働の所在」ではない。
私は仕事の厳しさに耐えることを可能にするのは、その仕事が好きだということと、仕事のやり方を自分で決めて行えるかどうかということの二つではないかと思う。
民俗学者・宮本常一は『海の民』のなかで、「一本釣りはそれに従うものにとっては生業としての意味を持ったが、反面にはスポーツとしての快感を伴っていた。このことが多くの漁民を貧乏に安んぜしめていたといっていい」と言っている。たぶん一本釣りでなくほかの漁法(網や籠の漁、あるいは延縄)のほうが効率的で経済的には有利であろう。しかし、一本釣りは、他の漁法にはない、一匹一匹魚を掛けて釣り上げるときの「スポーツとしての快感」を味わえる。しかし、他の漁法を行うのとおなじだけの収入を得ようとすれば、悪天候のときにも出漁するなどしてより多くの労働をおこなわねばならない。つまり面白さは労働の厳しさに耐えることを可能にする重要な要因である。ここでは山の仕事の面白さを分析することはできないが、すくなくとも、ベルトコンベヤーに張りついて単調な動作を繰り返す工場労働に比べれば、山の仕事には「面白さ」があると十分に考えられる。
しかし、いかなる仕事を面白いと感じるかは人により、また年齢により異なる。誰もが釣りを面白いと思うわけではない。つまりいかなる仕事が面白いのかは客観的には言えない。好きだという主観的な要素が重要である。好きだとすれば人は喜んでその仕事をし、厳しくても耐えることができるだろう。
また、人はその仕事のやり方を自分で決め、自由におこなうことができるならば、他人の命令に従って行わなければならない場合に比べ、ずっとその仕事が気に入るだろうし、時々は、辛く、厳しい状況が起こるにしてもそれに耐えられるだろう。雇用されて働いており、誰か他人の命令で無理やりその状況を我慢したとすれば、(他の仕事があれば)次回からは他の仕事に移るだろう。
こうして、山の仕事が自由に行うことができ、ある人にとっては楽しいと感られることがあるにしても、誰もが山仕事を楽しいと感じるわけではないし、ときに長時間になったり厳しい労働を含むことがあるとすれば、山の仕事を必ずしも好きではないという人々には山仕事は勧められないということになるはずである。
山村に住む人がどんな仕事に就くか、どんな遊びをするかは各人の好み、選択にゆだねるしかないのではないか。ひとは、個々人では、あるいは村としても、いかんともしがたい全体社会のあり方、資本主義的な経済の仕組み、そして政府が進める経済政策や産業政策、社会政策などによって決まる条件、また自分の家がどの程度畑をもっているか、山林をもっているか、また、彼が成人するまでにどのような文化資本を獲得しているか、などの諸条件を踏まえて、自分の最もやりたい仕事に就こうとする。その結果、山仕事だけで生きていこうとするか、村の外に仕事を求めるか、村役場に勤めることになるか、日雇い仕事しかできないか、等々がきまる。周囲が山であり、森林、川があるからといって、他の人が村民の就くべき仕事を指示することはできない。
内山はふつうの若者がなぜ都会で働きたいかを理解できないだろう。技術を持っているものは技術を発揮できる仕事に就くことができるが、そうでない者は比較的単純な労働に就かざるを得ない。その際、自動車工場のような流れ作業に比べれば、山や海の自然の中で行われる仕事のほうが面白いかもしれないが、物を相手にした筋肉労働は辛いばかりでなく面白みに欠けるという面もあるのである。職場でいじめや嫌がらせがなければ、接客業やサービス業のような人間を相手にした仕事、会話をしながら行う仕事のほうが好まれるのである。性格も関係するだろうが、結婚前の若者の多くは、はじめから、黙々と山で木を切り、畑を耕し、海で網を引くような仕事に就きたいとは思わない。必ずしも高等教育を受けていなくても働くことのできる飲食店やそのほかの商店やオフィスで働くことができればそのほうが好まれる。
また、山村や漁村には遊ぶところがないという言葉を耳にすることがある。中年以上の人間なら山菜取りや茸採り、あるいはバードウォッチングや自然探索、海なら釣りを楽しむことができる。しかし若者は海や山のスポーツを決して嫌いではないが、友達やガールフレンド、ボーイフレンドと一緒にいくことを好む。そして、人が大勢いる街のなかで遊ぶこと好む。そこで、山村、漁村の若者は、車で通える距離にある街で働こうとするか、適当な住居があれば街に住んで街で働こうとする。
したがって、山村、農村、漁村が観光開発に努め、うまくいく見込みがあればホテルを建てて、都会から人々を呼び込み、村の特産物を使った料理を提供したり、お土産を売ったりするビジネスを行うことには十分な意味がある。
村の人口が減り、次第に過疎化するのは若者が街に出て行くからである。いったん街にでたものが中年になってから、それまでの仕事をやめて、村にある仕事に就くために家族と一緒に戻ってくるということは難しいだろう。したがって内山が言うような自然と結びついた労働によって自立した経済をもつ山村が全国に広がり<都市を包囲する>ような方向に社会が変わっていくという展望をもつことは非常に難しいと私には思われる。
続いて「哲学者の目からみた釣り」と言う題でなされた、公開講座での内山の釣り論、つまり「釣りは労働だ」という彼の主張を見、それに反論したい。
内山は渓流釣りと「山里の釣り」とは異なるといって、自分の最初の釣りを題材とした本の書名を『山里の釣りから』とした理由を説明している。「渓流釣りとはただ単にヤマメやイワナを釣るためにのみ山間の川に行って釣りをするという感覚を表現」しているが、彼の釣りは「山村に暮らす人々の釣りに近いもの」だという。「他の村人と同じように、私も昼間は畑仕事をして、夕方に川に降りていき〔釣りをし〕ます。春には山菜採り、秋には茸狩りを村人と一緒にします。村人との付き合いもすこしずつ増えてきました。それは山里に暮らしながらの釣りです。畑と山、森、川が暮らしの中で一体になり、この暮らしの中に釣りもあるのです」と彼は言っている。
「<山里の釣り>とは畑、山、森、川、山村が一体となった世界のなかで釣りをすることで----別の表現をすれば、様々な交通の中に釣りもある、ということ」である。「畑仕事をとおして、村人は自然の世界と交通し、村人同士が---協力し合いながら---山や森で山菜や茸を採ったり、薪を集めたり、ときに林業をしながら、ここでも村人は自然と交通し、村人同士の交通を実現してい」る。「そして釣りもまた竿と糸と鉤(ハリ)を用いた自然との交通であり、釣りに赴く村人同士の交通の場でもある」。このような村人のおこなう「自然との交通」でありかつ「村人同士の交通」であるような<山里の釣り>に彼の釣りは「近い」ものだと内山は言う。
さて、一般に、釣りにおいては、成果を得ようとすれば一定の技術つまり腕が必要であり、また道具も重要で、釣り人は良い道具にこだわる。腕は知識・技術が身体と一体化したものであり、道具がその腕の延長でもある。この点で釣り人は職人と似ており、釣り人の腕は職人の技と似ている。職人はカンナならなんでもよいというわけではなく、<自分のカンナ>で木を削る。職人の仕事には個性がある。釣りは「道具と腕、精神が一体化して成立する」ものであり「それゆえに一人一人の釣りに個性がある」。内山はかつての職人の労働のように腕、道具、精神が一体である労働を、本来の姿の労働だとして「原始的」労働と呼ぶ。こうして、釣りは、道具と腕と精神が結びついている点で、原始的な労働とおなじ構造をもっており、原始的労働に似ている。
アダム・スミス(1723-1790)の肖像画、Wikipediaによる。<>
A.スミスは農業は「すばらしい」と言っているが、釣りは農業にも似ていると内山は言う。スミスは、農業の特長を三つ指摘している。農業においては、労働を重ねることと腕の蓄積が一致する。そして、その腕の向上を作物の出来を通じて自分自身の手で知ることができる。さらに、徒弟期間が必要な職人労働とは違って、農業は1年目の農民でも作物を収穫できると言っている。内山は「釣りで一番重要なことは経験」であるが、それは農業の場合とおなじである。そして釣り人は様々な工夫を行うが、「農民は毎年おなじ農業をしているようで、実際には日々新しい工夫を加えて」いる、等々、農業は釣りと「とてもよく似て」いると言う。
内山はまた農業労働が楽しいものだということを力説する。彼は「山形県の農家林家の栗田さん」から教わったことだがと、「遊び」と「アソビ」の違いを説明する。
都市民は、仕事と遊びは「別のもの」、時には対立するものと考えている。栗田さんは「このような意味で用いられる遊びという言葉は農民のものではない」と言う。農民にとってアソビとはハンドルのアソビとか歯車のアソビというものに近いものである。「すなわち、仕事の外にアソビがあるのではなくて、仕事のなかの間〔ま〕とでも言うような形で、農民のアソビは生まれている」という。これを受けて、内山は、上野村での畑仕事が、いかにアソビに満ちた楽しいものであるかを説明する。
畑の上での働き方は、働いている時間より休んでいる時間のほうが長い。一生懸命働いている日もあるが、それほど働かない日もある。頭の中で今日の仕事の予定を考え、必要な道具を持って畑に行くが、畑に立つと里の景色が目の前に広がっている。ウグイスの鳴き声が聞こえてくる。毎日見ている景色なのに見とれてしまう。仕事を始めても作業をしばしば中断し、通りがかりの村人と話をする。あるいは草花や蝶や虫に見とれているときもある、等々。「それらは間違いなく「楽しさ」であり、仕事の中に現れてくる間(ま)でもある」。この間(ま)の中にアソビがある。昼の畑仕事や山仕事を終えた夕方、川へ降りて釣りをする。「この釣りの時間も山里の一日のなかの間(ま)で」ある。釣りは「山里の仕事の系に包み込まれている」ひとつの間(ま)でありアソビである。
かれは自分の畑作りと村人たちの畑作りを同じと見なし、また村人の「今日」と「昔」の遊び/アソビをない交ぜにしながら、農業の楽しさを描く。「原始的な労働としての釣りという性格は、このような〔農業〕労働の一面を擬似的に体験させてくれるところにもあるような気がします。年数を重ねることによって腕が高まり、その腕と結びついた形で、釣りのなかにアソビの世界が入ってくるのです。釣り人もまた、いろいろと工夫します。---そうやって状況に応じた釣りが出来るようになってくると、釣りの世界もひろがっています」と彼は言う。
山里の生活には生活と労働の分離は無く、労働は「原始的」である。このような生活と労働の体系に包み込まれたものとして行われる釣りが、つまり、労働=生活が労働の間(ま)として産み出す楽しみとして行われる釣りが、彼の言う<山里の釣り>なのである。内山は言う「私が<山里の釣り>と呼ぶものは、このようなアソビの一形態としての釣りのことなのです」。
しかし、この栗田さんという農民は内山の『自由論』(後でふれる)の中にも登場するが、彼の家は代々続く農家林家であるという。つまり山林を所有する農家であり、冷害の年には不作だった米の穴埋めに杉を切って売ることが出来た。彼は自家用消費のための畑と商品作物を生産する田を持っているだけでなく、いざと言うときに材木を切り出すことが出来る山林を所有している。彼は十分に余裕のある農業を営み、その余裕=アソビについて語っているのである。農業労働一般が、内山の畑の耕作のように暇だらけで、アソビをたっぷり持っていると考えることができるわけではないということは心に留めておいてもいいだろう。
内山は、山里の人々が自家用消費のために行っている労働を都市労働者の賃金労働=「狭義の労働」と区別して「広義の労働」と呼ぶ。内山は、現代では賃金労働だけが労働だと考えられているが「労働とはもともとはこういう幅の広いものであったはず」というだけで(『協同社会』)詳しい説明をすることなしに、この「広義の労働」という語を導入し、山里の生活や昔の人々の生活はこのような労働で占められていたと言う。
恐らく次のようなことが理由だと思われる。都市民が買ってきた食材を家で調理して食べるとき、家事労働について考えれば別であるが、たいていは消費生活の活動であると考える。ところが山里の人が自家用消費のために山へ行って茸や山菜を採り、家に持ち帰って(その一部は出荷しても、多くを)調理して食べるとき、山道を降りてくるところまでが労働で家に一歩足を入れたら消費の活動なのかどうか、一方の端に労働があり他方の端に消費があると考えることができるが、どこまでが労働でどこからが消費の活動なのかをはっきり言うことができない。労働と家での消費生活とがはっきり分けることができず、両者は連続したものとしてあらわれる。そこに山村生活の労働・生活と、都市の賃金労働と生活との違いがある。自給自足のために行われる山村の労働も労働であることは明らかであるから新しい名前を導入する必要がないとも思われるが消費活動と連続しており区別できないということを強調しようとして内山は、新しい言葉を用いるのだと思われる。
家事・育児も広義の労働だと彼は言うが、私が読んだ5、6冊の彼の著作の中では、家事労働についてはとくに取り上げて論じていないし分析もしていない。かれは労働と消費生活の連続性、あるいは生活と労働との同一性というところにのみ関心を持っているからだと思われる。
ところが、彼は「たとえば友人関係を作っていくとか---研究会のように集まりの場を作っていくとか」を含めすべての活動が労働であり、「人間の一生そのものが労働の積み重ねの中に実現している」と言う。「人間は眼をさましているかぎり労働を行い続けているように思える。この労働を含めたものが広義の労働である」(『山里の釣りから』「後記」)とも言っている。山村の生活においては、生産労働と消費活動とは連続しており、労働と消費生活を簡単に分けることはできないということは確かである。しかし、彼は一日の生活あるいは一生はすなわち「広義」の労働であると言う。つまりすべての活動が労働と何らかの関係があり、したがって「広義の」労働であると考え、労働と対立する活動(遊び)を含め、労働ではない活動が存在することを否定しようとするのである。
彼は休憩や休息、あるいは骨休めというふつう使われている語を労働の間(ま)とかアソビとか聞きなれない言葉で言い換える。彼の考えでは、まず労働があり、間もアソビも、労働の合間にある、労働により産み出された何かなのであり、労働と別の、労働から独立したものではなく、いわば労働に所属するもの、労働の一部であることを示す語なのである。休憩や休息とは労働をいったん休むこと、あるいは労働していない、脱労働の時間であると普通は考えるのだが、彼はそのことを否定しようとしているのである。休憩や休息は労働があってのものだというわけである。
私は第2章3節でも考察したが、生活は、労働(職業労働と家事・育児労働)と食事や遊びなどの活動と睡眠(休養)などの非活動から成り立っており、その生活時間の多くを労働が占めていると考えるが、彼は、奇妙なことに、生活あるいは生きるということそのものが労働もしくは労働に付随した活動と非活動なのだと言うのである。
一切の活動が労働だとすれば、再び、そのなかに、食べる労働、耕す労働、遊ぶ労働、休憩する労働、等々を考えることで、普通の人の考える生活と違いはないことになると、形式的には、彼のそのような「生活=労働」観の無意味さを指摘することもできるが、彼は、実質的に、昔の人々は一日中仕事をしており、骨休めはおこなったが、余暇や遊びなどは存在しなかった、と主張するのである。
昔は、農閑期に「農民たちは連れ立って湯治に行ったり、村祭りが行われたりするものでした。それは今日的にいえば、遊びに行くということなのですが、実際には仕事の系に組み込まれたアソビの時間として成立していました」。「公開講座」
彼は、生活が実質的に労働/仕事ばかりであるような生き方が有意義な、良い生き方であり、人は労働=生活であるような生活に満足すべきだ、労働/仕事以外のところに生きがいを見いだしたり、余暇の増大を求めるのは間違いなのだ、と説いているのである。
彼はA.スミスが農業労働はすばらしいと言ったことなどを引き合いに出すが、昔の、生活時間のすべてが労働で占められていたような生活の「良さ」を論証しようとはしない。(論証とはたとえば広く正しいと考えられている原則、たとえば人間は幸福になる権利、平等な自由の権利を有するというような原則に基づいて、良い社会、正しい社会のあり方を述べる、というようなことである。)彼は労働本位の社会、生活時間のすべてが労働で占められていたような社会が「良い社会」だというが、彼はそれを「好む」というだけで、論証しない。
『山里の釣りから』「後記」では次のように言っている。「本来人間にとってはすべての行為が労働であった。----ところが近代以降の商品経済の歴史の中では、商品をつくる労働---という狭義の労働だけが労働として承認されるようになった。その傾向は資本制生産様式によって決定的になる。/(改行)そこから労働と生活の分離が生じ、また労働が賃金を得るための労苦になった。こうしてできあがっていくのが現代の市民社会である。/私はこのような社会が好きではない」。
同じ時期に刊行された『労働の哲学』ではもっとはっきりと次のように言う、「誤解を恐れずに言えば、資本制社会を良いとするか悪いとするかは、賃金、貧困、労働の疎外というような個々の問題ではなく、資本制的な人間の存在構造を受け入れるのかそれとも拒否するのかという思想と感性の問題であるという気がする。確かに資本制社会は一定の人間を貧困に陥れる。---しかし国民の多数派は彼らを社会の敗北者とみなして居直ることもできるのである。----さらに労働の疎外もそれは労働者の定められた運命とあきらめることもできるのである。すなわち資本制社会を否定する契機は、乱暴な表現ではあるが、科学的な論理ではないと私は思うのである。今の自分の存在、人間の存在を良いとするか拒否するかという、人間の思想と感性の問題だと考えるのである」。
資本制社会を良いとするか悪いとするかは、資本制の仕組みがもたらす不平等、貧困、労働疎外、あるいは公害、自然破壊、等々の具体的な問題の故にではなく、「資本制的な人間の存在構造」、つまり「労働と生活の分離」を受け入れるかどうかによってきまるのだという。彼はこの社会で生きる人々の幸・不幸、苦しみや喜びに関心があるのではなく(これは「感性」の問題のはずだが)、抽象的な「人間の存在構造」、生活と労働の連続性/不連続性という形式に関心があるのと言うである。たしかに社会の根本構造や生活の基本的形式を、それが産み出すもろもろの現実の問題と切り離して、良し悪しを「論証する」ことはできないから、結局「好き嫌い」の問題にしてしまうことになるのだろう。
内山は『自然と労働』の「哲学の主体性」と題された「終章」で、哲学も学問も危機に面しているのだがそれを直視せず、現実の社会に対する価値判断を放棄しようとする傾向があると言っている。歴史、社会に関する絶対的、客観的真理は存在せず主体的真理があるだけだから、価値判断は不可欠だという。この「哲学の主体性」の必要という主張と、資本制社会を良いとするか否とするかという判断の問題が関係あると考えられそうである。
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しかし、抽象的な社会の構造そのものが好きか嫌いかを言うことと価値判断を行うということが同じであるわけではない。「人間の存在構造」とか、生活と労働の連続性/不連続性など、それ自体を、数学の定理が美しいとかそうでないとかと言うように、良いとか悪いとか価値判断することはできない。価値判断が行われるとすれば、一部の人が差別や抑圧を受け、貧困や公害に苦しむような社会のあり方について、良い(あるいは構わない)か悪いかの価値判断が行われるのであろう。
こうして彼は、現代(日本)社会が抱える、貧困、労働疎外、公害、自然破壊、あるいは官僚独裁、等々の具体的現実的諸問題との関係において、資本制生産様式という根本構造を拒否して、あるべき社会を提案するのでなく、「原始的労働」である職人的、農民的労働が支配的な、生産と消費が連続している、労働ばかりの社会が実現されるべきだと主張するのである。これが彼の言う「広義の労働」社会である。
内山はこのようにして捉えられた、賃金に依拠し、労働とそれ以外の生活とが分かれた現代の都市型生活と、自家用消費のための労働に依拠し、労働と消費が連続しており、しかも実質的に生活時間がほとんど労働で占められているような山村生活との対比を背景にして、彼の釣りを、都市の人が行っている、遊びの渓流釣りではなく、<山里の釣り>、「アソビの一形態である釣り」つまり「労働である釣り」である、あるいはそれに似ていると主張するのである。
内山は、「私の釣りは、山村に暮らす人々の釣りに近いものです」と言う。しかし、彼の釣りを労働と見なすことは難しい。釣りが労働だといえるのは、自給自足的な生活を送っている人が、農業や林業、その他の労働の合間に骨休め、あるいはアソビとして釣りを行うときであるはずである。しかし彼は村人と同じように消費と労働が区別されないような生活、自給自足的生活を送っているのではない。
内山は自分を「通い農民」だといっている。毎月、上野村に通ってきて、村人と一緒に山菜をとったり、借りた畑を耕したりし、仕事を終えた後、夕方、村人と一緒に釣りをしているという。このような釣りは毎週末にやってきて朝暗いうちから竿を出し、なんとか釣果を得ようと一日中粘って釣りをする「都会の人々の釣り」よりも、たしかに山里に暮らす人々の釣りに似てはいる。
しかし、彼はふだん、東京の大学で教え、エッセーを書き、東京で生活している。山里で生活しているのではない。彼は上野村では旅館に逗留して、渓流で釣りを楽しむ釣り客なのである。たしかにかれは畑も耕している。しかし、彼は上野村で「畑を耕す合間に釣りをする」だけではなく、国内の渓流をあちこち訪ねて、文字通りの<渓流釣り>をしている。また、しばしば、海外にも「いつでも釣竿をもって」旅行に行く。(『山里の釣りから』U)。
月に一回旅館に泊まって一週間程度滞在することを普通は生活とは呼ばないはずだ。海外旅行では半年ほど留守をするとも言っている。このとき畑はどうなるのだろうか。私の経験では夏季は週に一回、冬でも月に1回程度の手入れでは畑は草ぼうぼうになってしまう。彼は有機農法をやっているとは言っているが、「自然農法」をやっているとは言っていない。「自然農法」は松山の隣の伊予市出身の故福岡正信が提唱した農法で、耕さず、除草もしないが。『自然農法・わら一本の革命』(春秋社)など参照。
内山の畑作りは、村人が生活の必要から行っている畑作りとは全く違う。彼は、畑でさまざまな作物を試験的に作って、上野村の気候や土に合うものが何であるかを試しているが、村人はこれまでの実績から、確実に収穫が見込まれるものだけを作ると書いている。村人の労働には、生活がかかっており、試してみるだけの余裕がないからである。生活するとはそういうことだろう。
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これに対して、内山は、失敗しても生活の心配はないので、さまざまな作物を試験的に作って農作業を楽しんでいるのである。白菜、レタス、キャベツ、とうもろこし、メロンなどはやってみたがだめだったと書いている。彼は大瓢箪がうまくできて村人に分けてあげ「保存容器として結構便利がられている」などと自画自賛しているが、家の中にぶら下げて飾る、あるいは趣味の道具として用いるというのなら話は別だが、容器としての実用性からいえば、瓢箪を作るというのは彼の畑仕事が遊びだということの明確な証拠であると私には思われる。
彼の本業は大学教師、エッセーイストであり、畑仕事に生活はかかっていない。本業あるいは生業とは別の楽しみで行う活動は、普通、遊びに分類される。彼の上野村での畑作りは遊びであり、都会の人が趣味で郊外の貸し農園で行う畑作りとなんら変わらない。
彼も、上野村の人と同様、耕作を含め複数の「仕事」を行っているが、彼の生活は畑作りと、山菜取りや茸採り、そして渓流での釣りで成り立っているのではない。彼は、農民たちにはない、安定した収入源を別に持っている。彼を「山里の農民」と見なすのは難しい。したがって、彼の釣りを仕事/労働であるとみなすのはもっと難しい。彼の釣りと本業の関係は、第3章で述べた幸田露伴の釣りと小説家としての本業との関係と同じであり、その釣りは仕事とは別次元の活動で、露伴がそう言っているように、遊びである。
私は、内山の上野村での畑の耕作は上野村の人々の労働と異なり、生活の必要から行われるているものでなく、彼は「生活=労働」であるような生活をおくっているのではないこと、したがって彼の釣りは「労働=生活」の一部であるような<山里の釣り>ではない、つまり労働ではないということを明らかにしたが、なぜかれは、自分の畑の耕作が上野村の人々と同じように労働であり、したがってまた自分の釣りが労働だと言いたいのだろうか。彼の釣りは、なぜ、ただの趣味、遊びとしての釣りであってはならないのか。なぜ彼の生活は都市的インテリの生活であってはならず、山村的生活とみなしたいのだろうか。
私には、彼が独自な思想に基づき「好きだ」と思い、好ましいと考える「生産と労働が連続している」「人間の存在在構造」をもつ山村的生活および山村的釣りと、自分の生活および釣りを同一視したいという願望がそのような態度を引き起こしていると考えるしか、理解のしようがないように思われる。
「今日釣りを楽しむ人々の数は増えてきていますが、なぜ釣りがこれほど多くの人々を魅きつけているのかと問われれば、私は釣りの原始的な労働としての性格をあげます。その行為の中に回復された何かを感じるのではないかという気がします。とすると釣りの魅力は、今日では、日々行っている<貧しい労働>の世界が産み出したものだということもできるかもしれません」。「こういう世界に魅かれていくのは、---私たちの現実の労働が失っているものを、釣りを通して擬似的に体験しうるからなのかもしれません」と彼は言っている。「公開講座」
もちろん、この言葉は、直接的に彼自身を指して言っているのではない。また内山は、彼の大学教授かつエッセーイストという労働が貧しく楽しくないなどとはどこでも言っていない。しかしそれが「道具と腕が一体となった」「原始的労働」、職人や農民の労働からは遠く隔たった性格のものであり、後者にあった多くのものは内山の現実の労働には存在しない(「失われている」)ことは確かであろう。彼は上野村における自分の釣りを通して、原始的な労働世界を擬似的に体験しているのではないだろうか。つまり、彼はこういう世界に魅かれ、自分の釣りと畑の耕作をその世界の労働と同一視しているのかもしれない。そう考えると、彼が自分の釣りは労働だと主張することが理解できるように思われる。
しかし、彼が「好む」という「労働社会」がもし万一実現するとすればどうだろうか。内山が提案している労働本位社会では、人間の一日はすべて「原始的労働」を基軸とする「広義の労働」によって占められており、休憩や休息、骨休めなどのアソビは存在するが、脱労働であるような遊びは存在しない。この社会では、レジャー、趣味の活動、スポーツや自由な文学や芸術活動などは存在し得ないはずである。「原始的」労働からは遠く隔たった精神労働に携わり、しばしば釣りを楽しむような生活は、この理想社会の中に位置づけることは難しいように思われる。
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だが、もしかすると、この社会はエリートのために、月に一週間ほど耕作労働を行えば、その骨休め、アソビとしていつでも好きな遊びを行うことができるという抜け道を用意しているのかもしれない。それならば、彼の釣りは、その社会でも実現可能であることになる。そして、この社会では「労働と生活が連続」している「基本構造」だけが重視され、貧困や不平等や官僚独裁等々の具体的な問題は無視される傾向にあるとすれば、エリートがこのような特権を行使することは、問題にならないのかもしれない。
スミスは農業労働が「すばらしい」と言っていた。だがそれはわれわれが釣りを「面白い」と感じることとは全く別のことであろう。スミスが言う「すばらしさ」とは農業労働が、職人労働や他の労働と比べたときに持つ「経済的利点」のことであるように思われるからだ。そして遊びの楽しさは経済的利益とは別物である。
また、「腕、道具、精神の一体性」という「原始的労働」の構造と釣りの構造が似ていることは、農業や職人仕事が与える「楽しさ」と釣りの「楽しさ」が同じであることを意味するものではない。遊びの「構造」は遊びの「楽しさ」を構成する一つの要素であるにしても、それは「楽しさ」そのものではない。釣りが農業と構造が同じだということが釣りの楽しさの説明になると言うのなら、どうして家庭菜園を好む人と釣りを好む人がいるのか説明できないだろう。
公開講座で内山は、釣りの世界に魅かれるのは、工場労働のような「現実の労働が失っているもの」、つまり「原始的な労働」を「釣りを通して擬似的に体験しうるから」だ、とも言っている(後出)。われわれ現代人は、「原始的な」労働あるいは「腕と道具と精神が一体」であるような本来的労働を、擬似的にであれ、体験したいがために、釣りをしようと考えるのだと彼は言っている。本当かどうかは後で確かめるが、内山の言う通りだとしてみよう。
彼は当初、エッセーを書いたり大学で教えたりするなどしており、「原始的」労働を失った状態にあった。そして彼はあるとき渓流釣りを始めた。やがて彼は畑仕事も始めた。これは釣りとはちがって「原始的」労働の疑似体験ではなく、本物の農業労働の体験である。都会の家庭菜園での疑似体験とは違い、彼は山間地の斜面を耕し、ウグイスの鳴き声を聞き、あるいは草花や蝶や虫に見とれ、また通りがかりの村人と話をするなどした。彼は遊びではなく、「アソビ」である骨休め、仕事の合間の休息、「ふと手を休めながら、新しいことを考えているとき、あるいは帰宅途中で道端の草花に目を止めているとき」のような、「自由で創造的で楽しい」時間も享受したはずである。
こうして、本物の山間地の農業=原始的労働をやることができたということで、十分に非都市型の生活を楽しむことができたからには、彼はもう、原始的労働の擬似的体験に過ぎない釣り、あるいは、「余暇」を前提にした「都会の人間のやる渓流釣り」に酷似した、「山里の釣り」を続ける必要はなくなったのではなかろうか。
彼は上野村でだけでなく、車を駆って国内のあちこちで渓流釣りをやり、外国に行ってまで釣りをやったが、これはいかなる種類の活動だったのだろうか。栗田さんは「アソビ」と認めるだろうか。栗田さんも、アソビとは別に普通の遊びもやっていたのだろうか。
遊びは遊びで、畑づくり=農業労働の楽しさとは異なる楽しさがあると考えられる。遊びやスポーツは、非活動としての休息とは違って活動である。アソビでは明日の仕事のことを考えて創造的でろうとするようだが、遊びやスポーツでは何も考えず夢中になって活動していても構わないのである。カイヨワが言っていたように遊びは純粋な消費であり、生産的であってはならない、ということはないかもしれないが、生産的であることは遊びの(不可欠の)要素ではないのである。
自然の中で行われる釣りの楽しさはほかのスポーツとも違っているが、原始的労働が持っている「腕と道具と精神の一体性」という抽象的構造によっては全く説明できない。
釣りにおいて、ある種の危険を冒して行動するという要素、あるいは大型魚を釣ろうとする格闘の要素、また逆に自然の中で悠然と過ごせるという要素に快を感じる人もある。(初心者だけでなく)釣りあげた魚が船の上で飛び跳ねるのを見たりつかんだりすることが非常に楽しいと感じる人もある。詩人の佐藤惣之助は、当たりに合わせて、魚を掛けて寄せるときに、「微妙深甚の感覚」とか「法悦境」を感じると言ったが、ほとんどの釣り人が、魚が掛かったあと、竿から腕に伝わってくる魚の引きに、強い快を感じるのである。私はマキコボシ釣りでかすかな当たりを取って合わせのタイミングを計っているときの集中に釣りの最大の快を感じるが、これもまた「腕と道具と精神の一体性」などという抽象的構造とは全く異なるものだと思う。
内山によれば、上野村の人々はあたかも、昼の仕事を終えてから近くの川におりて、ちょっと竿を出す「アソビ」の釣りが楽しく、他に趣味も娯楽も必要としていないかのようである。上野村の人ばかりでなく、あの「農家林家の栗田さん」のように、仕事がすべてで他のことには一切興味がなく、休日にはのんびりと骨休みをするだけだという人もたまにはいるだろう。前章第四節でチクセントミハイが報告しているように、仕事中毒の外科医のような人もいるだろう。
しかし、「アソビの釣り」を行う人に比べれば圧倒的に多くの人が「遊びの釣り」を行っていることも事実である。そして、雇用されて働く労働者、サラリーマンだけでなく、農家や商店主や医者など自営業者の圧倒的多くも、休日に、脱労働/脱仕事としての遊びを行っている。農民の遊びは遊びではなくアソビであるとか、釣りは労働だという内山の説に納得できる人はほとんどいないであろう。
内山によればかつての社会では、生活と労働は区別されていなかった。生活時間のほとんどすべては生産のためか再生産(日々の生活)のための労働で占められていた。そこでは脱労働の遊びの時間はほとんど存在しなかった。釣りが行われたかもしれないが、釣りも純粋な遊び、脱労働の遊びではなく、労働として行われていた、と内山は言う。また、かつての社会では遊びやレジャーの概念が存在しなかったと内山は言う。
概念とはよく知られている事柄を言い表す言葉のことであろう。中世ヨーロッパ社会において教会の定めた休日や祝日は存在したが、現代的なレジャー・余暇の時間とは考えられておらず、それらは5日ないしは6日の労働のあとでやってくる休息(内山の言う「アソビ」)の日であり、教会にいき僧侶の説教を聴くための日と理解されていた。
遊ぶ者は子どもを含めてほとんどいなかった。中世には子どもは特別扱いされることはなく、彼らは「小さな大人」に過ぎなかった。アラン・コルバンは、18世紀末になっても、農民の子どもはごく幼いときからその身体能力に応じて家畜の世話をおこなうなど大人と同じように仕事をしていたことを報告している(コルバン編『レジャーの誕生』第7章)。遊んでいるものはほとんどいなかった。
遊ぶものがほとんどいなかったか、ごく少なかったときには、遊びの概念、遊びのための休日、あるいは余暇の概念が存在しなくても当然である。しかし、たぶん、農業生産力が向上するのに伴って、人々は次第に時間を見つけ娯楽や遊びを行うようになり、休日は教会に行き説教を聴き休息するだけの日でなく、遊びや娯楽の日になり、教会はおしゃべりと社交の場に変質して行った。しかし、はじめから、労働を好まず、遊びたいと考える者、農業労働の毎日から脱出したいと考える者もいた。
『中世ヨーロッパ生活誌』T.(永野藤夫ほか訳、白水社)のなかで、オットー・ボルストは「賦役、地代、租税、年貢など過酷な負担を強いられて」いた中世の農民が、コルバンの報告する18世紀末の自分の土地を持つ農民と同様、一般に、決して休息することなく、朝早くから夜遅くまで働いていたこと、「非常に勤勉」であったことを報告している。
だが、またボルストは次のような物語が残っていることを紹介している。そこには、「主人」である貴族や教会に対する「奉仕」を正しいことと信じている農夫ヘルムブレヒトと彼に反抗する息子が登場する。農夫は言う「----お前だって善い人間になれるぞ。お前は畑を犂返してさえいればよいのじゃ!そうすれば大勢の人のためになる-----」だが「この農家の貴公子たる息子殿はその気にならない」。息子は「父親を軽くいなして、こんなことを言うのである。「----あんたの穀物袋を担ぐのは二度とごめんだ。あんたのために、肥やしを荷車に積むのも願い下げだ。---」」。彼は貴族になるのだとしゃれた服装をして家を出て行く。息子は結局、出世に失敗し、盗賊団の仲間入りをするが、最後は縛り首になる。
この物語から次のように考えることが出来る。ヘルムブレヒトの息子は労働ばかりの生活から脱け出ようとして家をでた。彼が農業労働を楽しいとは感じなかったということ、労働を好まなかったということは確かである。息子に哀れな末路を用意した、この物語の作者はヘルムブレヒトと(あるいはまた内山とも)同じ考えに立っていたということ、つまり、労働、勤勉が善であり、農民の使命は労働にあると考えていたことも確かである。そして、また、この農夫のように生活とは仕事/労働と同じことであると考える人もいたが、他方で労働は辛く、できれば避けたいと思った人も存在したということも確実である。
ヘルムブレヒトが農業を続けたのは農業にはアソビ(休息)があって、楽しかったからではない。ヨーロッパでは、僧侶が領主や教会に税を納めることは神により命ぜられたことであり、働くことはキリスト教徒のすなわち人間の義務であり、使命であると説いていた。そしてそれに従わないことは破門、追放を意味した。あるいは永遠の地獄に落とされることであった。当時の農民たちのほとんどは教会の教えに従った。農民たちは労働が楽しかったからではなく、教会の教えを信じることで辛い労働に耐えたのである。不信心者は16世紀の宗教改革、宗教戦争と重なって起こった農民反乱に立ち上がるか、一人一人ばらばらに農村から逃亡して、森林地帯に住み「盗賊」になるか、街で乞食をしたり、雇われ仕事についたりした。
ヘルムブレヒトはまじめに働くことしか考えなかったが、息子は家出をする前は、休日がくれば、たぶん、獲物があるなしにかかわらず、近くの森や湖に釣りや弓射にでかけたであろうし、祝日には街にでかけて、遊んだであろうと私は想像する。
ボルストは都市を中心に博打が盛んに行われていたという。ボウリングその他多くの遊びが行われていたことも報告している。そして、農民たちの「<自由時間>は祭りの時間に集中していた」という。農民たちは大道芸を見、酒を飲み、歌をうたい踊りを踊って遊んだ。かつての農村では、現代社会の生活とちがって「生活時間のほとんどすべてが労働で占められており、労働がそのまま生活であった」と言うことができるにしても、当然、合間、合間に休息がとられたであろうし、またたんなる休息ではない「活発な活動」であるような、積極的な娯楽や遊びが含まれていたことも確かである。
P.ブリューゲルのThe Fight between Carnival and Lentと題された絵画。
>謝肉祭から四旬節までの間の街の賑やかさと喧噪を描いている。Wikipediaによる。
ヘルムブレヒトの息子が家を出たあとどこにいたかはわからないが、農村から出て行ったものの多くは都市に流れ込んだ。都市は農村のように「<初めからそこに>存在したのではない」。都市住民を供給したのは農村である。商業であるいは手工業で一旗上げようと考えたか、単に、農業があるいは働くことがいやになっただけか、「主人」である貴族や僧侶に反抗し、自由を求めて農村から逃亡したのか、理由は様々だろうが、都市住民は周辺の農村から流れ込んできた人々によって形成された。
そして都市が大きくなり、市民階級が力をもったことが、封建制度崩壊の一つの要因である。封建領主の没落と都市の発展は、多数の農民が農村から逃亡し流出したことの傍証であり、また農業労働が余裕・アソビの多い、楽しいものではなかったことの一つの傍証である、と考えることができる。
日本ではどうであっただろうか。内山が、農閑期には農民たちが湯治に行ったり、村祭りが行われたりしたが、それは「実際には、仕事の系に組み込まれたアソビの時間」つまり骨休めや休息だった、と述べていることはすでにふれた。なるほど、湯治は「骨休め」とみなすことはできるだろう。だが、祭りは労働の日常に対する非日常的な行事であり、決して単なる骨休めあるいはその類のものとみなすことはできないだろう。神輿のぶつかり合いなどではけが人がでたであろう。英国におけるフットボールではしばしば死人が出た。「スポーツ」は日常生活、労働がほとんどである日々の暮らしから脱出し、暮らしの憂さを忘れるために行われた。日本の祭りもおなじである。昔の日本の農民も、内山の言う、労働に内在する「間(ま)」つまり休息、あるいはアソビの楽しさだけでは満足できなかったはずだ。
「実際には、仕事の系に組み込まれている」というのは遁辞に過ぎない。内山が、農民のアソビと区別する現代の都市サラリーマンの週末の遊び、レジャー活動も、もちろん、立派に、「実際には」月曜日からの仕事に役立っていることは明らかである。しかし、仕事からの脱出を目指しているかぎりそれは遊びである。たぶん、結果的に、遊んだ後では仕事に量(はか)が行くだろう。だからといって遊びはその仕事のために遊ぶのではない。
前章第二節で示したように、30代までは小説家という「精神労働」者であった露伴はまったくの脱労働の釣りを行った。しかし彼はその当時は「仕事が主」で趣味娯楽の釣りは「客」(従)であり、明日の労働/仕事への「創造的」機能をもつべきであることを説いていた。趣味娯楽は単に趣味娯楽のために行われるのではなく、「職業上の腐気を排する」ために行われるべきだと説いていた。当時の露伴の釣りは、仕事の合間の骨休めであるような「アソビ」であった。後にはこの「主客」の区別がなくなる。ただし内山が言うのとは反対に、露伴は長編小説は途中で放棄したし、決められた授業をしなければならない大学の職も辞した。彼は全く自由に本を読み、和漢文学について研究し、随筆や詩文を書き、釣りをし、将棋の研究をした。釣りをしながら詩を詠んだ。彼は59歳の時には「働くために遊ぶ」という考えをはっきりと否定し、「遊ぶために遊びたい」と書いた。
西欧においても、日本においても、昔から、単なる休息と骨休めであるアソビだけでなく積極的な遊びを人々は求めていたし、実際に人々は遊んでいた。恐らく農業の生産力の向上とともに、農民たちのアソビの時間が増えたであろう。そしてそのことはまた遊びに対する欲求を生んだであろう。そして農業の生産力の拡大は都市の発達を促した。こうして社会は自給自足的農業から抜け出し、産業化、資本主義化が進んだのだと思われる。
この公開講座では、ウォルトンの『釣魚大全』は「自分の中の失われた世界」を書いたエッセーだとされる。そして「釣りのエッセーが生まれてくる背景には<何かを失った人々>の登場」がある。「ヘミングウェーはその代表的な一人」で、「両大戦間の喪失感が彼に透明な釣りの世界を描かせ」た、と内山は言う。
その失われたものとは、「生活の系」かもしれないし「労働の系」なのかもしれない。あるいは「人生そのもの」かもしれないが、「哲学的に表現すれば、存在の喪失と言う問題だ」と内山は言う。彼は重々しい哲学的表現が好きらしい。「存在」とはおそらく自分の生なかで「これこそが私だ」と言えるような、その人にとってもっとも重きをなすものを指しているのあろうが、「存在を喪失した人間たちが、釣りの中に、擬似的な存在を確立するとき、随想的な釣りの世界が生まれてくる」という。
最初のほうで<山里の釣り>は「随筆的釣り」と言われていた。随筆的と随想的とは内山ではちがうものなのであろう。かれは「釣りの世界や、川と人間の関係の世界を、いまでも暮らしの系のなかに包み込むようにして生活している山里の人々の釣りは、釣りの世界に自己の失った何かを感情移入しようなどとは考えません」という。この断定的な言い方からすれば、彼は擬似的な山里の人ではなく、本物の山里の人であると考えていることは確かで、釣りの中に擬似的な存在(自己自身)を確立しようなどとはしていないのだと思われる。
さて、「存在」のうちの、労働について言えば、釣りの世界に魅かれるのは「現実の労働が失っているもの」、つまり「原始的な労働」を「釣りを通して擬似的に体験しうるから」だと内山は言う。われわれ現代人は、原始的な労働あるいは本来の労働を、擬似的にであれ、体験したいがために、釣りをしたいと思うのだろうか。
前世期の大戦間、ドイツの労働者は農村から移住して都市で労働者になった。彼らは農村共同体の中に持っていた彼らの根っこを失ったが、都市においてはかつてのギルドのような職人の共同体は解体されており、こうして彼らは浮き草化し、ファシズムの温床になってしまったといわれる。この場合労働者は自分の根である共同体の喪失を実際に体験した。そして、デュマズディエが言及する農村から出てきて工場で働いたフランスの労働者は、実際に、子どものときに手伝いで経験した農業労働にあって工場の労働にないもの(時間に縛られないこと)を釣りの中で求めると考えることもあながち不可能ではない。
しかし、現代日本の自動車工場で働く人々には、喪失体験はないはずである。彼らは別の労働体験なしに、はじめからテーラー・フォード的システム管理のもとで働くのであり、そのことによってかつて持っていた何かを失うことはない。その労働者はかつての職人がもっていた主体性をもっていないが、初めからもっていないのであり、途中で奪われたのではない。奪われたと見るのは、「かつて」と「今」を比べる内山である。 ベルトコンベアーに張り付いて単純作業を行っている労働者は、ベルトコンベアーの速度が速すぎると感じたり、監督の命令の仕方に不満を感じたりすることはあるかもしれないが、しかし、指揮・命令を受けて行う労働のあり方自体に不満を持ち、例えば自主管理方式による「主体的」労働への変更をもとめようとするようなことはほとんどないであろう。
また、現代の労働者は自分の労働に単調さ、「精神の沈滞」(エリアス)などを感じるだろうが、経験したことのない「腕と道具と精神が一体の」「原始的」、「主体的」労働なるものがいかなるものであるかを知らず、その「喪失感」をもつことはなく、それを回復したいと考えることもないはずである。
現代の労働者は自分の現在の労働が楽しくないと感じ、その労働をやめて他の職に就いてみたいと思い、実際にそうすることもあるだろうが、失った何かを求めてそうするのではない。そして、普通の都市労働者は自分の行なっている労働が面白くないと感じたからといって、すぐに他の仕事に移ろうとはしないだろう。楽しい労働が簡単に見つかるわけではないことを知っているだろうし、失業の危険を冒して別の職業を探すという人は多くないからだ。
彼は今の仕事を続けつつ脱労働の欲求を感じるだけだろう。彼は、単調で面白くない仕事/労働と違う、それに「対立する」気晴らし、楽しいこと、何か興奮できることを求めるだろうが、彼は「失ったなにか」をとりもどそうとするのではない。つまり、現代の労働者は休日や余暇に「原始的な労働」を擬似的に体験しようとするのではなく、ただ自分の労働の中にない楽しみを与えてくれる様々なスポーツや遊びをもとめているのである。
だから、技術や腕や道具とは無関係に興奮できる、サッカーの試合を夢中になって応援するスポーツファンになるかもしれず、頭だけを使う囲碁や将棋に傾倒するかもしれず、またもしかしたら釣りをするかもしれない。だが、どんな遊び・スポーツを楽しいと感じるか、好きになるかは、何回か経験してみなければわからない。
もし、機械化された「貧しい」労働を楽しくないと感じている労働者が、主体的な、原始的労働に似たものを求めており、はじめからその欲求を満たすために釣りをやろうとするということがあるとするならば、そのような原始的で、主体的な労働に対する本性的、あるいは生得的な欲求をもっているということになろう。なにか本能に似た欲求が釣りを求めさせるのだということになろう。
人類の歴史を通観して「人間は労働する存在だ」という主張はありうる。これまでの歴史において、労働による物質代謝をしないで存続しえた社会は知られていない。人間は労働することを社会的に学び、継承し、こうして労働は人類の歴史に貫通的に行われてきた。しかし人間は、食べることやセックスすることのように、労働に対する生まれつきの欲求を持っているという主張はできない。古代ギリシャのポリス市民のように奴隷の労働に依拠して生活した人々もあった。また、ほとんどの社会で、労働せずに、社交や遊びを楽しむ集団つまり階級が存在した。
また、労働は、道具が機械に取って代わられるまでは「原始的で」、石斧であれカンナであれなにか道具を使い、自己の腕で、意識を持って対象である自然に働きかける行為であった。
労働過程での実際の「喪失体験」がないにもかかわらず、現代の労働者が主体的に働きたい、あるいは原始的労働をしたいという欲求をもつとするなら、人間は労働することを社会的に学ぶ(あるいは強制される)ことによってではなく、各個体に生得的に、つまり本能的に、労働をしたいという欲求を持っていると考えなければならない。釣りをしたいという欲求を狩猟本能で説明する説の不適切さについてはすでに述べたが、経験したことのない「原始的労働」を欲求すると言う考えは、釣りを狩猟本能で説明するのと基本的にはおなじことである。しかし、「原始的な労働」に対する本能もしくは本能に似た生まれつきの欲求などというものが存在しないことも明らかである。(本能行動は道具や技術を必要としない。)
もしかしたら、「原始的な労働」や「本来の労働」について書かれた本を読み、「かつて」の労働は主体的で楽しかったが、自分の労働は疎外された労働である、と考える人もいるかもしれない。彼はたぶんインテリである。しかし彼が真剣にそう考えたなら、釣りになどいかず、現在の賃上げだけを要求する労働運動を批判し、自主管理闘争あるいは革命的サンディカリズムの運動をはじめるか、その条件がないときには、そして可能なら、農村に行き、農業を行うかするのではないだろうか。しかし、いずれにせよ、今日の工場の労働が面白いものではないと感じられたとしても、だからといって、労働者が自分ひとりで「原始的」、「主体的」労働を行いたいと考え、休日に「擬似的な存在を確立する」ために、釣りをしようと考えることはないだろう。
内山は、釣りを楽しむ人の数が増えているが、それは、釣りが「原始的」労働に似ているからであり、釣り人口の増加は今日の貧しい労働世界の反映だと言っている。デュマズディエは、『余暇文明へ向かって』 の中で、農村から都市に移住して工場労働者となった者の多くが釣りを好んだと言い、それは時間を浪費したいという無意識の衝動の表われ、あるいは「時間の厳密な管理」に対する「復讐」だったという考えを述べている。この解釈は「失われた原始的労働の擬似的確立」という、釣りに対する内山の説明に似ていなくもない。
しかし、フランスの工場労働者が釣りを好んだことについてのデュマズディエの説明は不十分ないし不正確だと私には思われる。そうした無意識の衝動、あるいはルサンチマンから生まれる行動は、たとえば、アルコール依存や、欠勤、賭け事へののめりこみのような、ネガティブで自傷的な生活行動形態となって表れることもありえたであろう。あるいは1930年代のドイツの労働者がやったようにナチスに入って突撃行動を行うという非合理な形で現われることもありえた。
しかし、釣りを選んだ労働者たちは、衝動や無意識によって駆り立てられたのではなく、労働の退屈や苦痛の代償を、意識的に、休日の積極的な活動の楽しい時間を持つことによって得ようとしたのである。彼らは釣りというレジャー行動を彼らの有する状況の中で、言ってみれば、主体的に選択したのである。ではなぜ釣りを選んだのか。それは、工業都市に移ってくる前、彼らが住んでいた農村で子どものころに実際にやって、釣りが楽しいことを知っていたからである。彼らは「原始的労働」を行おうとしたのではない。子どものときと同じように、釣りをして遊び、楽しもうとしたのだ。私はそう考える。
釣りをする人が増えていることは確かであるが、他方で、サーフィンやダイビングや登山やゴルフをする人も急激に増えているであろう。釣り人の数が増えているのは、全般的にレジャー活動が盛んになっていることの反映であろう。サラリーマンの間ではゴルフが釣り人気を上回ったと言われている。
釣りは釣竿やリールを使って魚を捕獲する遊びである。道具を使い、収穫のある行為として労働に似ている。ゴルフはクラブという道具を使って行なうスポーツ/遊びで、道具を使うという点で(他の、道具を使わない、水泳やランニングと比べれば)釣りに似ていると言えるだろう。では、ゴルフも原始的労働に似ている釣りに似ている遊びとして、原始的労働の疑似体験として人々はゴルフを行っているのだろうか。
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そうは言えないだろう。釣竿やリールは、自然に働きかけ収穫ないしは生産物を得るための道具であり、鉋や鍬と同様の労働手段とみることができるが、ゴルフのクラブは生産とは関係がなく労働手段でないことは明白である。ゴルフのように何らかの道具を使って行われるスポーツやレジャー活動について、同じことが言える。道具を使っているからといって、生産労働と関係がなければ、その活動が「原始的労働」の擬似体験として行なわれているとは言えない。水着や運動靴を道具とみなさないことにすれば、水泳やウォーキングやジョギング、あるいはマラソンのように、特別の道具を使わず、したがって「原始的労働の疑似体験」とは全く言えない、スポーツの人口も増えている。
第2章で見たように、スポーツの起源は、英国中世の農民たちが年に数日だけ労働を休むことができた祭日に、脱労働の遊びとして行った「フットボール」にあり、そしてそれは近代になって働く必要のないジェントルマンたちの純粋な遊びとして制度化された。スポーツは労働ではないところに特徴がある。人々は、スポーツが労働に似たものだから行おうとするのでなく、それが労働に似ておらず、労働の否定であり、脱労働の活動であるから行うのである。
内山の「理論」からすれば、労働と消費生活とが分裂している賃労働が支配的である都市の人々は、擬似的な原始的労働を追求するはずである。ところがそうではない。都市的生活を送っている大部分の人(ということは、日本人の大部分)が「原始的労働」とは関係のない、多種多様のスポーツや遊びを楽しんでいるのである。スポーツ・クラブが大繁盛であり、様々な新しいスポーツが作り出されている。そして釣りもまた、さまざまな遊び・スポーツの一つとして、脱労働の余暇活動として求められているということは明らかである。
余暇活動が盛んなのは人々が労働の中に満足を見いだせないからであるが、余暇を楽しむ人の中には、内山があげている農民のような楽しい労働をやっている人もいるだろう。農民だけでなく内山のように大学で教え、著作活動を行う人々の多くも、かれらの仕事が腕や道具とは関係なくても「主体的」に行うことができるかぎり、仕事を楽しく行っているであろう。(内山はなぜかこの分野の仕事の楽しさに全くふれない。)しかしこれらの人々も釣りをするだろうし、他のスポーツもするだろう。
インテリはその仕事における「労働が貧困」だから、労働の充実を求めて、腕と道具が一体の「原始的労働」を行いたいと考えて釣りをするのだろうか。それとも、30代までの露伴のように、しばしば集中して仕事を行い(主体的で、通常、仕事がおもしろいために)仕事をしすぎたとき、自然の中での遊びがそのつかれた神経を休ませてくれ、安らぎを与えてくれるから釣りをするのだろうか。インテリにとって、釣りは「貧困な労働」のゆえに求める「充実した労働」の代用品ではなく、打ち込みすぎる仕事からの時々の脱出、つまり遊びだと考えたほうが理解しやすい。
さきに労働の貧困を感じた労働者が、はじめから、「道具と腕と精神が一体化している」労働の擬似的充足を求めて釣りに向うことはないといった。実際に、どんな遊びもスポーツもやってみて初めて、それが面白いかどうかが分かる。
釣りをするきっかけは、他のスポーツでも同様だが、偶然である。友達に、先輩に誘われて海(船)釣りをやってみる。しかし、船に酔い易い人は2度といかないかもしれない。リールの糸をもつれさせて、あるいはサビキ針の扱いがうまくいかず、嫌いになるかもしれない。あるいはイソメなど生き餌が苦手という人もいるかもしれない。それらのハードルを乗り越えてとにかく、魚が食い、当たりが出て、魚が釣れてはじめて楽しいのである。そして、この魚が掛かったときの、竿を通じて感じる「得も言われぬ」「微妙深甚の感覚」をたいていの人は気に入って、以後病み付きになるのだが、それも人による。
そして、人はさまざまに異なる理由で釣りを好まず、他の遊び・スポーツを好む。ゴルフが好きになるかも知れず、競馬が好きになるかもしれない。サッカーや野球のファンになって応援、サポートを楽しむ人もいる。
内山は「山里の釣り」とは「山里に暮らす者たちが、山里の社会、自然を含めた社会との関係のなかで、川に竿を伸ばす、そんな釣りです。ここには特別な意味はありません」と言う。公開講座の末尾では「意味付与」をしながら行う釣りは「虚しい釣り」だと言っている。
上野村の村人はさまざまな労働を行いながら、「自然の世界と交通し、---村人同士の交通を作り出して」いる。「釣りもまた竿と糸と鉤を用いた自然との交通であり、釣りにおもむく村人同士の交通の場で」もある。そして「そのことに気がついたとき、わたしは、ようやく釣りは自由であることがわかりました。つまり自由に川の自然やそこに暮らす魚たちと交通すればよいのです」と内山は言う。
彼は、上野村で釣りを始めたばかりの頃、釣ることに対する自己嫌悪があった。都市はがん細胞のように自己増殖してきたが、その手段として山村を利用してきた。そう彼は考えてきた。今その都市の人間である自分が再び山村を手段として、遊び場(釣り場)として利用している。東京の都市民はダム建設によって山里の自然を搾取・開発し水を奪ったが、釣りもそれと同じような略奪行為である。
だが、このように自己嫌悪を感じながら釣りを続けることの自己矛盾は、しばらく上野村に通いつづけ、村民の生活に似た生活を送ることによって、解消されたかのように見える。
「山里の生活」においては労働と生活は連続したもので、またその労働=生活は自然が人間化され人間が自然化される、相互的な過程であり、どちらか一方が略奪したり破壊したりする関係ではない。また村人の釣りは生活=労働の合間に行われるもの、その一部であり、「広義の労働」であり、「アソビ」であることを内山は発見した。彼は山里の釣りは決して自然の略奪ではなく、自然との交通であり、共存であることに「気がついた」。
または彼は上野村に通い、そこの人々と交通し、同じように山仕事や野良仕事をやって、村民と同じ生活を送ってきた。彼の生活は村人の生活に似たもの、近いものであり、ほとんど同じである。そこで、彼の釣りも村人の釣りと同様に、自然との交通であって、決して自然を略奪する行為ではない。だから釣りは自由に行なってよいのだ。
他方、〔須藤も含め〕都会の人々は、労働と遊びを区別し対立的にとらえている。そして釣りも労働ではない遊びとみなしている。彼らは釣りは遊びであり、労働からの脱出だと意味附与している。だが山里の釣りでは、そんな意味附与はいらない。上野村の人々の釣りは、労働=生活の合間に、もろもろの生活=労働の活動の一つとして、自然に行われる活動である。意味附与しながら行われる釣りは虚しい釣りである。
内山は「私の求めているものは、意味付与しながら釣りをするという虚しい釣りをしなくてもよい人間の存在をつくりだすこと」にある、と言っている。彼の望む、労働本位の理想社会、正しい社会においては、すべての人が意味附与する必要なしに、自由に釣りを楽しむだろう。
一見、自分を山里の農民とみなす内山は初期のような自己嫌悪にかられることなしに、また思想と行動の間の矛盾を感じることなしに、釣りを行なうことができるようになったようにも見える。
だが、山里の釣りは自然との交通であり、生活であり、「広義の労働」であるとする彼の説明は、彼自身が釣りを行っていることについての弁明であるだけでなく、釣りに対する「意味附与」でもある。また彼は、釣りは一般に、「竿と糸と鉤を用いた自然との交通」であり、職人や農民の労働のような「道具と腕と精神が一体化した」「原始的労働」に似た活動であるという説明もおこなっている。彼はゲームやスポーツなど(遊び)と異なる、アソビとしての釣りの活動に「意味附与」を行っているのである。このように内山は意味付与を行いながら、釣りをしている。だが、これは彼の「意味付与しながら行なう釣りは虚しい」という考えにそぐわない。矛盾があるように感じられる。
しかし、恐らく彼は、少しも矛盾していないと答えるであろう。『山里の釣りから』の「三つのテーマ」を紹介したところでふれたように、彼は初期に自己嫌悪を感じながら釣りをしている際にも、その行動に矛盾があるとは感じていなかったから、釣りを続けたのであろう。その個所で私は多少の皮肉を込めて次のように説明した。「彼は渓流釣りをする一人の都市民の矛盾する自己についての意識を含め、現代日本社会の現実を観察し記述するということに自己の主体性を見いだすことにしたようである」と。
もう少し詳しく言えば、現代労働者が消費・生活と労働との分離を矛盾とは考えず、「当然」のごとく山村の資源を収奪しつつ「遊びの渓流釣」りを行っているのに対して、内山は、自己を題材にして、自己嫌悪を感じながら釣りをする人間が存在するという事実を提示することは、現実社会に矛盾が存在することを明らかにする一つの方法であり、あるべき労働本位の社会の実現に向けての第一歩だと考えるのである。そのように考えれば、自己嫌悪を感じつつ釣りを続けるという彼の行動は、ふつうは矛盾だと見なされるが、矛盾ではなく、未来の社会を目指す長期的な視野に立つ行動なのだと主張することも一応可能であるように思われる。
そして、後になると、彼は、釣りは遊びではなく労働だという意味付与をしながら釣りをすることになるが、やはりそれも虚しいと言う。そして、そのような虚しい釣りを行う人間が存在することも、やはり、現実社会の矛盾を示すことになると思われる。かれが釣りをし、その意味附与をおこない、したがってむなしい釣りを行っているのは、現実社会の矛盾を暴露し、正しい理想社会の存在を示すことが目的なのである。そう考えれば、彼の(始めたばかりの頃には自己嫌悪を感じつつ、後には虚しいと感じつつ行なっている)釣りと、釣りを題材にした著作活動と「労働本位」の「理想社会」を求めることの三つは、辻褄のあうものになる。
しかし、多くの人は、内山のように、自己矛盾した釣り(人)の存在を示してもらわなくても、現代資本主義社会が、人間労働と自然資源を浪費し、環境を破壊して人類の存続そのものに危機をもたらしていることなど、はるかに巨大で深刻な矛盾や問題点を抱えた社会であることを知っている。また、私ばかりでなく、おそらくほとんどの人はユートピアの実現のために釣りをしよう、釣りがユートピアの実現に役立つなどとは考えないだろう。労働/仕事が偏重され、長時間労働を強いられる不自由な現在の社会において、楽しいと感じられるから釣りをしたいと考えるのだろう。
私を含め普通の釣り人は「意味付与しながら」釣りをしてはいない。ただ楽しいから釣りをしているのである。「釣りは遊びだ」は特別な意味付与ではない。労働/仕事を楽しいと感じている人もいるであろう。しかし、私を含む相当多くの人が労働/仕事を楽しいとは感じず、仕事をするときには誠実に行うにせよ、だからといって働かなくても済むならば進んで働きたいとは思わない。できれば労働/仕事をせず、自由に遊びたいと思う。このように、仕事を減らし、遊びたいと考え、遊びとして釣りを行うということに、思想や哲学による意味付与は全く必要がない。
問題は、労働/仕事の時間が長すぎ、自由な時間が少ないこと、そしてその少ない自由時間のすべてを遊びに充てることはできないということである。人は限られた自由時間の中で、家事育児などの仕事や、ボランティアその他の社会活動も行うべきだと感じる。それらは遊びとは異なり、楽しさのゆえに行われる活動ではなく、行うためには克己、努力の必要が感じられる活動である。したがってそれらの活動には何らかの「意味付与」、「理由付け」がなければならない。しかし、遊ぶためには「意味」や「理由」はいらない。楽しいから遊ぶのであり、好きだから釣りをするのである。
上で、露伴がはじめ、釣りという遊びは単なる「遊戯娯楽」ではなく、「職業上の腐気を排する」つまり、仕事のストレスを解消し、本業に打ち込むことに役立つべきだと考えていたことについてふれた。露伴は軍国主義者ではなかったが、殖産興業のスローガンのもと、勤勉・勤労が重視された明治時代に育った人であり、30代までは釣りに一種の意味付与を行いつつ、釣りをしたのである。21世紀の現代にも続いている勤労精神、あるいは勤勉禁欲の倫理に基づけば、人間は本来なら、遊ばずに、すべてを挙げて職業労働にうちこむべきなのである。
釣り名人の一人で、敗戦の翌年・昭和21年つり人社を設立、雑誌「つり人」を創刊した佐藤垢石によれば、戦争中、釣りは「心身の練成であるとか、体位の向上であるとか、健全娯楽であるとか、いろいろの理屈を付け」られ、「遊びではない」とされた。戦争中は、国民は銃後にあっても、国のために一身をささげる覚悟で、仕事にうちこまなければならないと言われたであろう。単に遊んでいてはならない、いや、非常時であるがゆえに、一時も遊んでいてはならない。釣りをするにしても、何か国のために役立たねばならぬ、そのように言われたであろう。
釣りに意味付与をし、理屈付けをしようとするのは、釣りや遊びがただの楽しい活動であることを否定し、社会や国家に有意味な活動である(べきだ)と言おうとするからである。内山の「釣りは労働だ」という主張もそのような基本的考え方から出てくると思われる。しかし、平和時には、通常遊びと考えられている釣りやスポーツは休日などの「自由時間」にしか行うことはできないが、それでもその限られた時間の中では、それが「哲学者」により、あるいは社会により、どのような位置、意味を与えられるかには関わりがなく、好きな人は自由に行うことができる。
彼が余暇について論じているのは『自由論』においてである。この本では、「欧米から提起されてきた」近代的自由に対する再検討、「自由を検証し直す」ことが目指されている。彼は最後の章で次のように言う。「近代社会は、労働や生活のありかたとは関係なく、ときに---市民としての、ときに----国民としての共通の個人を設定し、自由を共通の個人の権利にすえたのである。こうして、自由は個人のものになった」。そしてこのことが、金で自由を手に入れようとする「エゴイスティックな」諸個人からなる退廃した、戦後の日本社会を生み出したのだと内山は言う。
彼が、ここでその現代日本社会に対置するのは、これまで紹介した彼の釣り論で述べていた「労働本位」の社会とおなじものであるが、念のために、引用しておく。「かつて普通の人間たちにとっては、労働とともに作られている関係が何よりも重要であった。たとえば、農民には、農の営みとともに生まれる関係の世界がある。それは農業労働が産み出す自然と人間の関係の世界でもあり、家族を単位として、営まれ、受け継がれていく、家族的な営農の関係の世界でもあり、農民の労働とともにある村落社会が作り出す、関係の世界でもあった」。彼は「あとがき」では「個人の自由を旗印にして社会秩序や世界秩序を構築しようとする世界観から、他者との関係の中に自由や私たちの社会が創造されていく、そんな世界観への転換をはかりたかった」のだと言っている。
このような基調で書かれている『自由論』のなかで彼の余暇論が述べられている。
内山は余暇とは「あやふや」で「不思議な概念だ」という。「漢字で表現すると「余った暇な時間」ということになるだろうが、それは単に労働時間以外の時間ということなのか、生活時間も含むのか。会社勤めの合間に、農業をしたり絵を描いたりして、そこからも収入を得ている人にとっては、農業や絵を描くことは余暇の過ごし方なのであろうか、それもまた労働なのであろうか」などと問う。この「あやふやさ」は、「今日社会的に議論されている余暇とは、拘束されていない時間をさしている。ところが何を拘束と感じるかは一人一人違っていて、けっして一通りではない」ことからくるのだ、とも言う。
まず、内山が問題にする、余暇が生活活動時間を含むかどうかという点について、すでに、自由時間に行なわれている諸活動を慣例化の程度に従ってスペクトル状に配列するという、エリアスの分析(第3章、第3節)のなかでも明らかになっていたことだが、再度、私なりの考えを述べててみよう。
現代日本の労働者の場合、ふつう、労働時間が終わったからといって、各自が自分の思いどおりにできる自由な時間が来るわけではない。職場に拘束されていないだけで、まだ家事や育児などを含めた生活に必要な一切の活動と睡眠や休息がこの残りの時間に行われるのである。彼/彼女は周囲の社会的圧力、常識、「慣例」を考慮しつつ、妻/夫および子どもたちに対する愛情と、自分自身の人生観や倫理などにしたがって、つまり、ある程度自由に、しかし義務意識にもしたがって、家事・育児の労働を行う。
そしてそれらが終わったあとに、義務とは感じない、自分のしたいことをする自由な時間が残る。料理を作ることが好きだという人もあろうが、しかし、自分の好みのものばかりではなく、他の家族の好み、そして子どもがいる場合には栄養なども考慮しつつ、毎日、作る必要があり、楽しいとばかりは言えない。子育ても、赤ん坊のウンチやオシッコの世話を含め、頼まれたときだけでなく、「主たる家事・育児の担い手」として世話をした経験のある人は、誰でも、それが大変な仕事であるということを認めるだろうと思う。
だが、彼/彼女はそれを引き受け、自分の有する時間をそれに当てることを自分で決めるのであり、判断を避け、逃げたり、ごまかしたりせず、あるいはまた、誰か他の人に押し付けたりせず、我慢して、自己の負うべき責任を果すのである。彼/彼女は、自己の置かれた状況の中で、主体的に、十分に人間らしく行動するのであり、有意味な生を生きているのである。義務を果たしつつ生きること自体が倫理的に立派な生き方であるからそうすべきだと言うのではない。その労働/仕事は必ずしも楽しく、充足感が得られるものではないが、それを回避すれば(おもに精神的な)苦痛を蒙ることになり、それら必要事を果たすことで心の安らぎを感じ、精神的な静的快を得られるからそちらを選択するのだと考えることができるのである。そして必要な、やむを得ないさまざまな「拘束」的と感じられる労働/仕事があり、それを行なった残りの時間に楽しい活動をできるだけ多く行なおうと考える。
「何を拘束と感じるか」は人によって異なるが、仕事は拘束を感じさせるものであり、拘束を感じない自由時間、そして余暇が必要であるということについて有意味に語りうる。
内山は労働とは、村などの共同体あるいはかつてのギルドの職人組織のような社会的関係の中で、自然に対して働きかける行為だと言っている。また広義の労働という語を用いて家事・育児のようなすべての生活活動も労働だと言っている。『自然・労働・協同社会の理論―新しい関係論をめざして』
ところが彼は昔の職人、山里の農民、企業のサラリーマン、アルバイト、(主婦の)パートなどの労働、あるいは「家業」の労働など、職業(的)労働とそれが行われる社会的関係について論じているが、家庭内での労働と家族の関係についてはほとんど全く述べていない。かれは山里の生活では生産活動(労働)と再生産活動(消費・生活)とが連続していて生活と労働は一体だというが、畑で耕し山菜を収穫することだけが論じられており、それを調理したり流しを片付けたりする家庭内での労働はふれられない。同書では、内山が「自分で料理を作るのが好きで結構毎日包丁をふるっています」というようなことが「余談」として語られているに過ぎない。上野村の釣り宿の運営と家事には「主人」の妻もくわわっているはずだが、夫の仕事だけが取り上げられている。結局彼が取り上げているのは「経済的価値を生む、お金になる」労働、「狭義の労働」だけである。
彼は同書で、近代社会をシステムに従属した社会として批判しているが、「生活のシステム化」という小見出しをつけて次のように言う。東京郊外の、ニューファミリーと呼ばれる家庭についての調査がある。「女性、特に働きに出ていない女性はかなり自由な時間を持つことができるが、その時間をきちっと管理しようとする人が何人かいた。たとえば家事の時間を一日2時間ときめ、---子どもと遊ぶ時間は一日30分---とか決め」、空いた時間を自分の時間として使う。「生活をも自分自身の手によってシステムにしていく。---家庭自体がシステムになってしまっている。そうするとぼくは一体家庭とはなんだろうという気がしてくる。今の社会が企業も国家もいろいろな形でシステム化されていくなかで最後に残された非システム的社会の一つとして家庭をしっかり残しておくことのほうがよっぽど意義があるはずだという気がぼくにはする」。別のページでは「いまでもあまりシステムに侵食されていないような営まれ方をしている家庭をみていると、そういう家庭の最大の良い点は、人間の関係がまだ近代的な価値意識に支配されていないことだと思う」。
私は彼の言う「近代的な価値意識に支配されていない家庭」とは、共働きではなく、夫は会社に勤めているか自営業を営んでいて、熱心に「金になる労働/仕事」をしている「主人」であり、妻は「家内」、「母親」であり、家事育児をし、従順に夫に仕えているような家庭のことなのではなかろうかと想像する。
かつての職人は自分の腕にたよることのできる、自立した、自由な労働者であった。彼の人生は仕事そのものであった。内山はこのような生は自由であると考えている。しかし、現代において、同じように、能力があり仕事がすべてであるような生き方が可能な人はごく限られているだろう。また、そのような生き方が可能だとしても、私は、そうすべきだとは考えない。
かつての職人=男が自分のやりたいように仕事をし、それ以外のことは一切「家内」、つまり女に押し付けていられたのと違い、現在では、女性もまた同じく自分の腕や才能を発揮し、幸福になる権利を有するのであり、夫=「主人」の召使であるのでも、男を陰で支えることが生まれつきの役割・使命であるような存在なのでもない。
また、現代社会においては、親だからといって、子どもに対して、一方的に命令し、言うことを聞かなければげんこつで殴るなどということはできない。現代社会においては、一生独身で通すというのでなければ、面白いから、好きだからといって、生活時間のほとんどを仕事/労働だけに充てて生きることは不可能ではないだろうか。夫として、あるいは親として、あるいは年老いた親の息子として果たすべき当然の責務を果たすことができなくなる可能性が大きい。内山は「新しい関係論」を目指すというが、彼の言う新しさとは「近代的価値意識に侵食されていない」旧い価値意識を維持することの中にあるようである。
内山は言う「労働のあとでは、一定の長さの回復の時間が必要であろう。しかし、仕事の合間の休息であり自由で創造的で楽しいときは、わずかな時間であっても十分にその役割を満たすこともあるし、仕事の中でも、しばしば現れてくるものであるはずなのである。ふと手を休めながら、新しいことを考えているとき、あるいは帰宅途中で道端の草花に目を止めているとき、そんな不意に現れてくるときもまた、私たちにとっては楽しい満ち足りたときになる。逆にどれほど長い余暇であっても、時間に圧迫されつづけているなら、そこでも私たちは時間の重圧を感じ続けるばかりである」。
私が見るところでは、現代日本の多くの工場労働者やサラリーマンは週末の2日をどのように時間配分しようか考える(注)。たいていは、一日をたっぷり遊び、もう一日はゆったりと休むことに使うだろう。家でのんびり過ごすだけなら、時間を考えたり行動計画を立てたりすることは不必要だろうが、外に出かけて遊ぶ一日については、当然ながら時間を含めた計画が必要である。内山の見方では「時間に圧迫されている」ということになるのだろうが、もっと遊びたいのに、一日の時間の長さがきまっているのだから当然である。あるいはやむを得ないことである。
私は、時間に圧迫されずに、ゆったりした自由なごろ寝を2日間するよりは、一日はのんびり過ごし、もう一日はどこかに出かけ、時間を頭に置きつつ遊ぶという、一般的なサラリーマンの休日の過ごし方に与する。週休が3日あるいは4日であれば、お金の問題はあるが、時間をあまり気にせずに、ゆったりと遊ぶことができるだろうし、また、のんびりと過ごす時間も多くなるだろう。休暇は長いほどよい。私は、毎日が日曜日であるような退職後の生活ができるだけ多くできるように、倹約の生活をして早期に退職した。「どんなに長い余暇でも時間に圧迫されるなら」とは無意味な仮定である。
(注)週休二日制は、日本においては、1988年で、大企業で4割弱、全体では7%強の採用率にすぎない、という。『戦後史大事典』増補新版、三省堂、2005。その後、完全週休2日制が公務員は1992年から、公立学校は2002年から実施された。
---------------------------------週一日しか休日がなかったときには、遊ぶ計画など立てようがなく、ただテレビを見るかごろ寝をして過ごすしかなかったかもしれない。そのときには時間のことなど考えなかっただろう。自動的にただ休息するだけの一日があり、また次の日には出勤しなければならなかったであろう。週休2日と1日の場合とで時間の圧迫はどちらのほうが強いと、内山は考えるのだろうか。
コルバンによれば、フランス革命後の農民たちの生活には余暇は全くなく、彼らは日の出とともに起きて日が暮れるまで働き、時々休息をとり、食べ、そして眠った。彼らは工場労働者のように機械のリズムに従う必要がなく、自然の、生物学的リズムに従った。そうであるがゆえに時間について考える必要がなく、時間に圧迫されることもなかった。アラン・コルバン/渡辺響子訳『レジャーの誕生<新版>』(藤原書店、2010)
このように余暇がなく一日中労働を行い、時間に縛られることがない生活のほうを選ぶか、労働とそれ以外の時間が分かれていて、余暇があってそれをどう使おうか考える必要のある、賃労働が一般的であるような現代生活を選ぶか。私はすでにこの二者択一から自由な年齢になっているが、現役時代を振り返れば、サラリーマンとして、時間に拘束され、圧迫されるのもいやであったが、そうかといって、合間の休憩はあっても、余暇や休日のない労働だけの生活を選ぶことは考えられなかった。私は、毎日同じ労働を行い疲れたら休息するだけという生活よりは、自由時間と余暇があって、労働/仕事以外の好きな活動をすることのできる、現代社会のほうを好む。
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一日中労働し、「時間の圧迫」がなく「生物学的リズム」にだけ従う生活も、もし、労働が楽しいものであり、余暇と遊びは必要ないと感じられるならば、大いに望ましいと思う。しかし、チクセントミハイのようにすべての労働を楽しいものにするというのは空想的であろう。現実の多くの労働は楽しくなく、一定時間がまんして働かざるを得ない。とすれば、脱労働の自由時間と余暇を求めるのは当然であり、また限定されている余暇を計画的に使うのもまた当然であろう。
会社勤めの合間に、畑仕事をしたり絵を描いたりして、そこからも収入を得ることは余暇活動かという問いも、難しい哲学的問題では全くない。内山は、労働とは、貨幣として受け取るかどうかは別として、収入を得るために行う(あるいはより内山の考えに即して言えば、「収入を伴う」楽しい)活動であると考えているように思われる。したがって、「脱労働」の余暇活動は収入と結びつくはずはないと考え、余暇の活動で収入が得られることがあるとすればおかしいのではないか、と疑問を提出するのだろう。だが、余暇活動とそれによる収入の有無とは全く関係がない。
その人が農業を行ったり絵を描いたりすることを、「会社勤め」の薄給を補うためのアルバイトとして、言い換えれば兼業農家、兼業画家の仕事の一部として行っているのではなく、好きで、楽しみのために行っているのであれば、それは余暇活動であり、そこから得られる作物や作品を、すべて自分で食べ、自分の家に飾ることにするか、余分があればそれを売って収入を得るか、あるいはそれを通りがかりの人にまたは知り合いにただで上げるか、それとも、それを(売って売上金を)福祉団体に寄付するか、等々はその活動が余暇活動であることと何の関係もない。
種類によるが、物を作る/生産する活動も、物を売るという活動も、それに生活がかかっているというのでなければ、つまり、場合によってやめることもできる自由な活動であるならば、つまり遊びとして行われるならば、とても楽しい活動である。だから余暇活動として、つまり遊びとして、畑で作物を作り、あるいは絵を描き、あるいは海で魚を釣り、かつその産物を売るということは、余暇であることとなんら矛盾しない。
私の友人に優秀な技術者で一流企業で役職にもつくなど立派に勤めていたが、学生時代に覚えたマージャンがめっぽう強く、余暇にはしばしば雀荘に行き賭けマージャンをしていた人物がいる。彼は小遣いをだいぶ稼いだはずだ。しかし、かれは賭けマージャンが面白いからやっていたのであり、安給料を補うためのアルバイトとしてやっていたのではない。彼が給料だけでは足りず、アルバイトをしたいと思ったら、塾の講師や家庭教師などで得意の数学を教えるなどして、アソビながら(つまり<余裕で>)金を稼ぐこともできた。その場合にはマージャンに負けて損をする危険はないがまた仕事であるがゆえに休むことはできない。遊びと仕事の違いははっきりしている。彼のマージャンが余暇活動である(あった)ことには疑う余地がない。
こんな単純なことを哲学者の内山が問いとして提出するということは、かれが、いかに「労働のススメ」ばかりを考えていて、余暇について考えたことがなかったかを示すよい証拠であろう。
さて、働く者、仕事に就いている者の大部分は、決して百%の満足を感じことはできない労働に就いていて、できれば労働を減らし、余暇を増やしたいと考えていると私は思う。余暇のなかに楽しみを見出す人々は、企業によって、労働によって拘束されていることに不自由を感じる。余暇=自由な時間がなければ、楽しいこと、したいことがあっても、実現できない。だから、自分のしたいことをするための基本的条件として、余暇、自由な時間をまず欲するのである。各人はそのなかで、自分のしたいことをする。仕事から解放されたいと感じているひとは余暇、自由な時間にのんびりするか、遊ぶか、趣味やスポーツや芸術に打ち込むか、あるいは子どもと過ごす時間を増やすか、社会運動に参加する時間を増やすかするだろう。仕事が好きな人は余暇においても仕事をするかもしれない。余暇、自由な時間に何をするかは、各人の考え方、価値観や人生観、好みにゆだねられる。それが自由な時間としての余暇である。
ところが内山は、余暇は自由な時間であり、余暇の拡大は労働者の自由の拡大になるという、この余暇概念を否定する。労働者の自由とは自由な労働を行うことである。「どんな「仕事をするとき」、労働はより自由なものになりうるか」がずっと問題であったのに、「いつの頃からか自由と言う意味の中に、余暇の拡大が加わるようになった」。
しかし、「余暇が拡大すれば、人間は自由になるとは私は思っていない。なぜなら自由とは、時間の配分〔つまり余暇時間の長さ〕の問題ではなく、その内容の問題だからである」。「ところが一歩踏み込んで自由な余暇とは何なのかを考えようとすると、この考え方だけでは答えは見つからない」という。
内山が言う「自由」は通常の場合とは異なる意味で用いられている。一般に、自由の意味に二通りの意味がある。お金が十分にあれば、余暇に、私は自由に買い物ができる。私にフランス語の能力が十分にあればフランス映画を自由に楽しめる。自由な労働とは主体的に自己の技能を発揮できるような労働のことである。様々な条件が整えば私は労働や余暇において自由であり、人間的自由を享受できる。内山が考える自由は、通常はあまり使われない、何かを積極的に行うことができるという、このような意味の自由である。
もう一つの自由は通常の意味での自由であり、行動や思想が何か(人あるいは法律など)により制限、束縛、拘束されないということである。私が何かをする能力があり、それをしようと考えても、その行為が禁じられていれば、私はそれを実現することができず、不自由で不幸であろう。他者に危害を及ぼす行為は防止されねばならないが、それ以外は個々人の自発性を尊重すべきであるという考え方に基づく自由である。何ができるかということについてはその自由は語らない。その意味で消極的自由と呼ぶことができる。たとえば、生活にも困るような経済状態にあれば、行動に制限や拘束を受けていなくても、つまり消極的な意味で「自由な」一日、休日が与えられていても、その人は働かざるをえず、積極的な意味での自由は実現できない。
したがって、消極的自由が認められるだけでなく積極的な自由が実現されるための条件を整えることが必要である。だがまた経済的に豊かで、健康である、等々の条件がそろっていても、戦前のように思想や行動の自由が制限され、生活が官憲によって厳しく監視されるならば、やはり自由ではなく不幸である。こうして消極的自由と積極的自由が区別されるが、自由の実現のためには両方が必要だと言える。
外科医や音楽家(前章第4節参照)、あるいは研究者など一部の人々の仕事を除き、現実の仕事(労働)の多くは楽しいやりがいの感じられるものでない。そこで、働くことの中に満足、幸福を見いだすことができない労働者が多数いて、労働時間の短縮、余暇の拡大を求めている。余暇の拡大は、少なくとも消極的な意味では、労働者の自由の拡大であろう。
内山は余暇においてどんな活動を行えば「自由で満ち足りた余暇」を実現できるかを問う。そして「余暇は自由な時間だ」という考え方の中にはその答えは見つからない、と言う。もちろんである。どのような余暇を過ごすかは各人の自由にゆだねられているからである。各人は余暇において、自分の好む活動を自分のもつ経済的条件と能力に即して行い、様々な程度の充足感を得るだろう。社会が活動の種類ごとに一定のインフラを用意することにより内山の言う「自由」を部分的には補完することは可能であるが、「満ち足りる」かどうかを一般的、客観的に語ることは困難だと思われる。
ところが、彼は余暇において「何をなすべきか」を外部から注入しようとする。彼は「自由で満ち足りた余暇を過ごそうとするなら、余暇とはまず、第一に仕事の合間の休息でなければならないであろう」。「一仕事終えた充実感とともに現れてくる余裕に満ちた時間、余暇はそういうものでなければ、自由なとき〔時間〕にはならない」。「そして第二にその休息は、自由で創造的なときでなければならないだろう。創造的であるがゆえに楽しいときでもある。もちろん創造的であるからと言って、活発に活動しなければならないということもない。「手を休める」とか「骨休め」という言葉が昔からあるように、「手」や「骨」をいたわるように、ぼんやりと時を過ごしながら生命力を高めていくのも、人間にとってはまた創造的な営みである」。
「しかも、自由で創造的な余暇を手にするためには、労働がどんなものであってもよいというわけにはいかない。----おそらく、楽しさや充足感を伴った労働があるとき、その合間に訪れてくる休息もまた、人間的な自由をもたらすのであろう。---必要なことは労働と休息との幸福な連続性であろう。ところが今日語られている余暇とはそういうものではない。今日の余暇は脱労働の時間であり、労働が心身の消耗であるからこそ、余暇が必要だと考えられている」。
労働が「楽しさや充足感を伴った」ものであればその合間の休息もおのずと楽しく幸福なものとなる。どんな余暇を持とうかと考える必要はない。「楽しさや充足感を伴った労働」に就いている人は「活発に活動する」必要のある余暇、つまりレジャーは必要とはせず、ときどき「ぼんやりと時を過ご」し、「骨休め」の休息をとるだけでよい。休息は脱労働の余暇、仕事を忘れ、仕事から解放されるための時間ではなく、「生命力を高める」つまりエネルギーを回復して楽しい労働に再度復帰することを可能にする「創造的な時間」だと言うのである。
また、脱労働の余暇が必要だという人は、「労働は心身の消耗だ」と感じているのだから、労働に問題があるのである。つまり、余暇を求める人は、労働が充実したものでなく満足のできるものでないような仕事に就いている人であり、そのような人の余暇あるいは休息がよいもの、充実したものになるはずがない。
こうして、楽しい自由な労働に就くことのできたものは仕事と休息の両方で、自由で楽しい「連続した」幸福な時間を享受することができ、したがって、脱労働の余暇は必要ない。他方、仕事に満足できず、余暇を必要と感じている人は、楽しい充実した休息=余暇をもつことはできないのだから、余暇を持っても無駄であるということになる。これが彼の余暇論である。いや、余暇無用論である。この余暇無用論に納得するのは、あの栗田さんのような余裕のある経済的基盤を持った農家か、チクセントミハイが報告している外科医や音楽家か、あるいは時々聞くことがある「仕事が趣味」で年がら年中仕事だけしていて幸福であるような、ごく少数の人たちだけであろう。
望ましい余暇のありかたについては大いに議論がなされるべきだと思う。私は第2章では、非慣例化の必要と言う観点から、競技場のような特定の場所に大勢が集まって「楽しい興奮」で盛り上がるよりも、山歩きのようなどちらかといえばのんびりとした余暇の過ごし方のほうが望ましいという意見を述べている。しかし、内山の余暇に関する議論は、労働における充足の必要を語り、休息によって創造性を高めるのが余暇だということにつきている。余暇にどのような活動がなされるのが望ましいのかということについては全く語らない。彼の余暇に関する議論は、労働者あるいはサラリーマンが労働から解放されて自由な活動を楽しむという余暇概念そのものを否定している。
私は、第2章で、狩猟民族においては、狩猟は必要からというより面白いと感じられたから行われたのだという説にふれ、また第3章でホイジンハの、古代社会においては「すべての活動は遊びの雰囲気の中で行われた」という言葉を引用した。しかし、現代社会における職業労働は、古代あるいは原始の社会の人々のように遊び半分ないし面白半分の気持ちでおこなうことはできない。職業上の仕事は「慣例化」された仕方で、つまり、期日や内容に関する約束を違えることなく、効率的に、規則に従って、正確に行われることを求める。このような職業労働の遂行は「遊びの雰囲気」のなかでは不可能である。
仕事/労働の時間は、睡眠時間を除けば1日の大部分を占めるが、仕事にストレスを感じないという人はごく少数である。こうして、現代人は、有意義だと感じられ、充実した職業生活をおくっているにしても、身体的疲労からの回復が必要なだけではなく、日ごろの精神的なストレスからも解放されるということがぜひとも必要である。エリアスが言っているように、余暇におけるスポーツや遊びによって、「精神的な沈滞に陥ってしまうことを防ぎ、精神を活性化する」必要がある。余暇活動の多くは「非余暇的生活における全般的な抑制の重荷を軽減する」ために必要なのだと考えるべきである。
しかし、そのような補償的、あるいは治療的観点からだけでなく、人は、あるいは人によっては、同じ一つのことだけでは満足できず、いろいろなことをやりたいと考える。
エリアスは余暇と非余暇、慣例化と非慣例化のバランスが問題なのだと言い、余暇活動ばかりを行っていたらそこで慣例化が起こるかもしれないとも言っている。しかし、それは杞憂だと私は思う。すべての人が必要な労働を全く行わないで済むような社会は未来永劫にわたり実現することはないだろうと思われるからだ。そして私は、1日に1〜2時間なら、必要な労働をしなければならないにしても、そしてそれは「慣例化された」しかたで行われることが必要で、我慢しながら行わなければならないにしても、それくらいなら、かまわないとも思う。
問題は資源を無駄に浪費し、地球全体を破壊しつつ、生産効率を上げ、生産を増大させ、そして資本の拡大を自己目的としているような金持ちたちを一層富ませるために、精神をすり減らしつつ、労働中心、仕事中心の生活を続けていることにある。仕事ではなく、自由に行えるさまざまな活動を、たまには思い切り興奮したりあるいは全くのんびりしたりしながら、満足するまでやれるようにするべきである。もしかしたら、仕事を面白いと思っているかもしれない。しかし、ほかにもっと楽しいこともあるかもしれない。そして、仕事ばかりでなくいろいろやりたいことをやってみたい人がたくさんいるであろう。人々がもっと自由にさまざまな活動をやれる方向に向うように社会の仕組みを変えるべきである。
スポーツを見たり行ったりすることは促進されているように見えるが、それ以外の趣味、自然研究や社会、歴史探訪や文学の研究やボランティア活動や美術や音楽などの活動を行いやすくするために、図書館や大学や「独立法人」などの研究機関や施設をオープンなものにし、人的にも市民の活動に協力しやすい体制に変えていくことがその一歩になるかもしれない。
余暇活動を楽しむことは、経済的な安定や、よい家族関係や、健康・安全な生活などとともに、快適で幸福な生活を構成すると考えられる。私は、有意義で充実した労働とそれにともなう充実した休息だけが幸福を実現するものだとは考えない。
余暇に相当するギリシャ語はスコレーσχοληである。英語のleisureはspare‐timeと同義で、内山の言うように「余った暇な時間」である。英語圏あるいはキリスト教圏では、一日のうち人間が働くべき時間があり、残りが「余った時間」であると考えられている。しかし、古代ギリシャのポリスでは、経済活動は奴隷制に依拠していた。家事も奴隷が行っていた。それゆえ、市民は一般に、働く必要がなかった。つまり、ポリスの(男性)市民は睡眠時間などを除いて、一日中、「暇」だったのである。 最近の日本の子どもたちは、大人顔負けにさまざまな仕事(塾通い、スポーツクラブでの練習----)をもっており、遊ぶ暇などないようだ。しかし、今から半世紀以上前に子どもであった、私と同世代の人は、学校に行っている時以外、特に夏休みなどには朝から晩まで好きなことをして過ごすことのできる自由な時間、「暇」を持っていた。古代ギリシャのポリスでは大人の市民がそれと同様の暇を持っていたのである。
ギリシャ哲学の書物の邦訳では、スコレーは「余暇」ではなく、「閑暇」と訳されている。古代ギリシャの「暇」は労働した余りの時間ではないからである。ポリスの市民は男だけに限られていたが、この自由な時間を使って、自分のしたいことをした。スコレーはアテーナイで市民全員が参加する直接民主制を可能にした条件の一つであったと考えられる。市民は公的政治的な活動に携わるだけの時間をたっぷりもっていた。祝祭のときに演じられる悲劇の制作を競ったり、ソークラテースのように、町なかで他の人々と盛んに対話をしたり、あるいは親しい友人と集まって饗宴を開いて哲学的議論をした人もあった。中には職人的な仕事、あるいは商業を営む者もあった。
しかし、自由なポリス市民の多くは、職人的仕事を含め、労働により稼ぐことをせずに、自由な政治論議を行ったり、饗宴で知的な会話を楽しんだり、学問研究をおこなったり、あるいは祭典で競い合うスポーツや音楽や劇などの芸術を楽しむことの方を選んだ。
奴隷制の社会でなくても、大部分の社会は、生産力の向上によって労働力に余裕が生じると、戦士の階級、聖職者・学者や役人たちの階級のような、生産労働以外の仕事に携わる階級を生み出してきた。もし、だれもが労働が楽しいと感じたら、このような階級は生まれなかったであろう。過去のすべての社会において、力の強いもの、特別の能力を持った者だけが、力ずくで人を支配するか、労苦の少ない仕事につくという特権を手に入れようとしたが、それは、労働が一般につらい、苦しいものであったからだと考えられる。
内山は人間の本質は労働にあると考えているが、(他の人間を犠牲にせずに)労働がしなくて済むなら、あるいは、少ない時間で済ませることができるなら----そしてこのことは、すでにいやおうなしに発達してしまっている機械やオートメーションを考慮すれば、「仮定」ではなく現実である-----他の活動に充てたいと考えるのはきわめて自然である。
内山が紹介している多角経営を楽しむ農業者も耕運機を使って、労働時間を減らしている。この農業者は余暇を持つことができる。彼は農作業労働だけに充実を感じ、他には何の趣味ももたないのだろうか。農業における満足とはまた別に、彼が趣味を持つことはありうるのではないか。人間は純粋なホモ・ファーベルなのではなく、どんな趣味かはともかくとして、農業がすべてであり、趣味など全くもたないという人よりも、余暇の時間を作り、趣味もたしなむ人のほうが「人間らしい」のではないか。
内山は、日本の労働者は「労働に疲れているのではなく、企業のもとでサラリーマンをしていることに疲れている」のであり、「日本の労働者は労働からの余暇を求めているというよりは、企業のサラリーマンであることからの余暇を求めている」という。彼の言う「日本的疲労」は確かにあると私も思う。しかし、「実際、できることなら企業を辞めたいと思っている者はたくさんいるけれど、といって彼らが労働嫌いなわけでも、労働をしたくないと思っているわけでもない。むしろ----もっと有意義に労働をしたいと感じているだけである」(『自由論』)とまでいわれると反論しないではいられない。
「できることなら企業を辞めたいと思っている」日本の労働者が「もっと有意義に労働したいと感じているだけ」かどうかは、働いて稼がずに、音楽をやったり、好きなスポーツに打ち込んだり、好きなことをして暮らせるとしても、やはり働きたいかと尋ねて見なければわからないはずだ。私の予想では、そのように問われれば、多くの人はとくに働きたいわけではないと答えるだろう。
雇われて働く人のほとんどは、他人の指示や指揮、あるいは命令に従って働く。これに対して、医者や弁護士、あるいは農業者は、自分のやりたいように、自分のやりたいことをやれる。このような限られた少数の職業では、働くことのマイナス要因が少ない。研究者の場合にも、サラリーマンとしての拘束があり、また他の研究者との厳しい競争を強いられているが、仕事の内容は自分で考え自分で決める自由がある。しかし、雇われて行なう一般的な仕事ではこうした自由が極めて少ない。内山があげている楽しい仕事は農業など自営業だけである。
だが、自営業は、雇用されて働く労働者に比べて自由の度合いは大きいが、必要な稼ぎを得るという点では不安がある。医者や弁護士などを除けば、天候など自然の影響を強く受けたり、あるいは経済の波を受けやすい自営業は、安定しているとはいえないのではないか。そうだとすれば、労働の中で自分の知恵や工夫を生かせることは労働を楽しくするだろうが、他面、安定した生活をもとめるなら、必ずしも、自営業に転職するという選択がよいとは言えないと考えられる。自営業への転職を考える人が最近増えているとも言われるが、労働の第一の目的が「楽しみ」を得ることにあるのでなく、「生活の手段」を得ることにあるならば、自営業を選ぶ人よりも、雇用されておこなう労働を選ぶ人のほうが多いのは当然である。
現代の企業労働者の中にも、技術者などのように、自分の仕事にやりがい、生きがいと満足を見出している人もいるだろう。しかし、自分の仕事を「生活の手段」だと考えている人のほうがずっと多いはずだ。
ところが、内山によれば、そのようにしか感じられないとすれば労働は無意味なものだと言うのと同じことになる。だから「資本制社会のもとで労働は人間にとって屈辱以外の何ものでもないだろう。労働自体に何の意味もなく、その結果得られるお金だけに意味があるとしたら、私たちがそのために人生の大半を拘束されることは苦痛である。もしそうなら労働者はとっくに革命の道を選び取っていただろう」と内山はいう。だが現実には日本においては革命は起こらなかった。その理由は労働者が「稼ぐための労働に別の意味を付与させながら」、「稼ぐための労働を仕事としての労働に転じながら」生きているためだと内山は言う(『自然と労働』)。
つまり大多数の、革命行動に立ち上がらない労働者は自分の仕事に満足を見いだそうとし、自分の能力を生かせていること、またその結果が社会に役立っていことを確かめたいと考えながら仕事を行っている、という。ところが、「何が社会的な有用性をもっているかなどということは、そもそも労働にたずさわる者の理解を超えるのである」。「労働者には自分の労働が企業にとっては有益であることはわかっても、社会にとって有用であるかどうかわからない」。そこで労働者は「社会にとって有用な人間であろうとすればするほど、企業の中でのモーレツサラリーマンになっていった」。これが高度成長期の日本の労働者の現実であったと内山は言う。
前に内山の議論は、都市と山村、文明と自然、等々、物事を単純化し、二元的対立のなかでとらえる傾向が強いことを指摘しておいたが、ここでも同じことがいえる。人間は労働を疎外、非人間的で無意味な活動、屈辱と感じ、革命行動に決起するか、そうでなければ仕事に自己実現、社会への貢献など、主体的(主観的)意味を付与し、実際には社会に貢献する替わりに企業に貢献する、モーレツ・サラリーマンになっていく、そのどちらかだとされる。彼には、きわめて「主体的な」生き方しか見えない。革命行動に決起しようとはしなかったが、また「労働によって社会のために役立とう」とは必ずしも考えず、自分と家族の「生きるための手段」として仕事を受け入れるとともに、会社人間、モーレツ・サラリーマンにはならず、普通に、誠実に仕事を行うことを「屈辱」とはみなさない生き方をしている多くの労働者の存在は目に入らないのである。彼には、仕方なく我慢する(といっても、住民運動や、市民運動に加わり、デモや集会には参加するかもしれない)という生き方は見えない。だが、私を含め、この平凡で、「非主体的」な人々は労働の中に満足と幸福を見いだそうとは考えず、余暇を必要だと考える。
私は、仕事・労働はやむを得ない「生活の手段」という見方も、それはそれで「労働の意味」であると考える。われわれは生きるために、また家族のために、なるべく自分の能力を生かせるとともに、なるべく労働条件のよい仕事をみつけ、多少の余暇を楽しみながら、我慢して働く。これが労働の意味である。
これは労働/仕事こそが生きることであり、人生の意味はそこにしかないという考えとは異なる。しかし人間はまず生きたいと思う。なるべく良く、あるいは善く生きたいと思う。そして、生きるためには、少なくとも現実の社会においては、特別の資産家の家にでも生まれたのでなければ、働く必要がある。誰か好きな人と一緒に暮らしたいとも考える。そして子どもができることもある。そこで私はこの一緒に暮らす家族のためにも(一人でとは限らないが)働く必要がある。私は働きながら、その余暇に、家族とともにあるいは時々は自分だけのために、スポーツやそのほかの好きな活動を楽しみたいと考えるし、健康で安全な生活を阻害する社会的条件と闘い、またこの社会の中で苦しんでいる他の人々のために役立つ活動も行いたいと考える。私は労働を生きる手段と考え、余暇にさまざまな良い、あるいは善い生き方を実現するための活動を行いたい。これが私を含む多くの人にとっての人間にとっての労働/仕事の意味である、と私は思う。
最初は内山の「釣りは労働だ」という「釣り哲学」に反論しようと書き始めたが、議論が広がってしまった。長くなったが内山への反論はこれで終わりにし、「様々な釣り」についての章を終えることにしたい。 次の章では、釣りが後で思い出してもそれを行ったときと同じくらい楽しいということを書く。
緒方昇『つりの道』<釣魚名著シリーズ>(二見書房、昭和51年初版)という本がある。1907年頃の生まれの緒方は毎日新聞の記者で、戦後、外地から引き上げてきて東京に住み、釣りを再開した。
随筆の中に散文詩と、他の人の作った短歌や詩(もちろんすべて釣り、あるいは海や川についてのもの)が挿入された、しゃれた随筆集である。
「つり人の四季」という随筆の中には、彼の以前の作「人生至楽」と題する詩が入っている。
「 老人は竿を担いで/ 過去を釣り/魚楽を観る
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壮者はリールを操って/現在を釣り/漁獲を誇る
青年はリュックを肩に/未来を釣り/理想を夢みる
河海湖沼/さては渓流に/男女老若の/楽しみきわまりなし」
緒方は言う
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「平生忙しいサラリーマンは定年を迎えた後で釣りでも始めようかと考えているだろうが、それではすでに遅すぎる。----若いときにぜひ釣りを覚えておきなさい。それも一種類に限らず、できるときにさまざまの釣りを覚えておくことだ。年を取ってからでは、体の方が参ってしまう。
ルアー結構、トローリングオーケー、投げ釣りよろしい、何でもやれるときにやり、いろいろの釣りをおぼえておき、できるだけたくさんの釣りを習得しておきなさい。---ひとくちに釣りといっても、多額の費用のかかる釣りもあれば、金のかからぬ釣りもある。そしてお金をかけなくても、----工夫次第で同じような、あるいはそれ以上の楽しみを味わうことができるのだ。魚を相手に大自然のふところに没入していれば、たとえ、寸にも足らぬタナゴ一匹、釣り上げたとしても、その釣り味は18キロのカンダイをかけたときの感動と少しも変わらない。---
少年は青年となり、青年は壮年となり、壮年は必ず老年となる。だから、若い内に老後の釣りを用意しておかねばならない」。
上の緒方の詩は、開高に倣って私がこの『エッセー』の最初に掲げた中国の古諺で言われていた「永遠に幸せになりたかったら、釣りを覚えなさい」と同じことを言っている。釣りは老年になるまで楽しむことができる、持続可能な遊びである。
緒方の老人は「竿を担いで、過去を釣り、魚楽を観る」というから、もう釣りをしていないのかもしれない。部屋の中で竿を出し、釣りの思い出に浸っているだけなのかもしれない。防波堤から実際に竿を出してはいるが釣ることに集中しているというより、過去の大漁のあるいは大型魚を釣った時の思い出に浸っているのかもしれない。私は次ぎの章では、全く釣りができなくなってしまってからでも、過去の釣りを楽しむことができるということを書こうと思う。