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中山道の資料室
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中山道の資料館
中山道に関連するものについて紹介していきます。
一里塚は道路に1里(約4キロ)ごとに設置された目印。現在でも石碑などが残されている場合が多い。
東京~京都の間には112箇所以上も残っています。
■鴨巣一里塚
林の道の中に大きな山になって残っています。現地には石碑が彫られて目印もあります。
■謡坂一里塚
鴨巣一里塚と同様に石碑と山になって残っています。林の中にあるので風流に感じられました。写真もご覧ください。
可児市今渡の神社です。中山道とは関連はありませんが休憩がてら寄ってみるのも良いと思います。写真
木陰も多いため夏には涼んで水分補給でもしましょう。
昔、木曽川を渡るのに船を使っていました。中山道三台難所の一つと呼ばれ川の水かさにより船がストップすることもありました。
その影響で宿屋や茶屋が繁盛しました。明治時代に入っても渡し舟で川を渡っていました。
昭和2年に太田橋が造られ渡し舟は廃止になりました。現在も渡し舟はありませんが付近でライン下りが楽しまれています。
現在、渡し舟の跡地は太田橋のすぐ近くにあります。可児市側に立ち寄り休憩してみました。今渡渡し舟の詳細
太田宿側から見てうとう峠の少し手前にありました。名前のように岩の中にあります。岩の中にあることが特徴的です。岩屋観音堂の詳細
道中の急坂のことです。下りであるあらば、この坂に苦労はしませんでしたが上りはとても大変そうな急坂になっています。
昔、牛を連れていた旅人がこの急坂を上る事を嫌がる牛を無理やり引っ張って上らせようとしました。
牛を引っ張りすぎたため牛の鼻輪が壊れて牛が鼻を怪我をしてしまったそうです。この事から牛の鼻掛け坂と呼ばれるようになりました。
岐阜県の名水と呼ばれた一つです。近くに「馬の水飲香場」と呼ばれる水のみ場と同じような役割を果たしている場所です。
牛の鼻掛け坂で疲れきった牛などが休憩しました。涼しげな雰囲気を漂わせていますが、絶対に水を飲んではいけません。唄清水詳細
坂祝から鵜沼まで行くのであれば、国道21号線で木曽川沿いを通って簡単にいけます。
しかし、昔は現在、国道21号線の通っている辺りは、とても急な傾斜であったため、このうとう峠から山合に入り込んで鵜沼に行きました。
入り口が見つけにくい場所にありますが、線路側にうとう峠の看板が見えたら反対車線の駐車場に入り口があります。うとう峠詳細
馬や牛も人と一緒に旅をします。そして、人と同じ距離を歩きます。
馬用の水のみ場です。現在でも山の中の水が溜まって、唄清水と同様に涼しげな雰囲気を漂わせています。
しかし、飲料用ではありません。絶対に飲まないようにしましょう。水のみ場詳細
鵜沼は江戸時代以前、古代から交通・経済の要衝として栄えた場所です。
その面影として、現在でも古墳や城跡、神社が残っています。江戸時代に入り、慶安4年に宿場町として指定されました。
うとう峠を越えてきた旅人や、加納宿から休憩なしで歩いてきた旅人がくつろぎました。
鵜沼宿は明治時代に濃飛大震災によって壊滅的な打撃を受けたため、残っているものは少なくなっています。鵜沼宿詳細
木曽川沿い付近に広がる大田宿は、現在でも色々と名残が残っている。
美濃加茂市の中心から少し離れた場所にあり、昔の様子を残している。伏見宿のように建物が残っているだけではない。
宿屋や食事所は現在でも営業している。これらの店が大田宿を残していく団体を結成している。身近な宿場町らしい所です。太田宿詳細
大田宿の本陣は現在では門だけになってしまっています。周りが宿場町らしい雰囲気を残しているにも関わらず、本陣だけは普通の門です。写真
国道21号線を御嵩方面に向かい道沿いにあります。これの歴史は鎌倉時代までさかのぼります。
ある男が鬼岩の岩窟に住み、暴れた為、周りの人々はとても迷惑しました。この男を人々は「関の太郎」「鬼の太郎」と呼びました。
人々はこの地の地頭に彼を退治することを求めました。しかし、その時、地頭は不在で簡単にこの地に帰れませんでした。
地頭は退治のために四人の家臣に太郎の退治を命令しました。
退治は難しく、蟹薬師に祈願しました。そこで、太郎が祭札の時、女装するとお告げを聞きました。
その時に太郎を捕らえ、首を切りました。首を検分のため都に運ぼうとしましたが、棺に入れると重くなってしまい、運べなくなってしまいました。
そして首はこの御嵩町に埋められました。鬼の首塚詳細
中山道である国道21号線を少し外れたところにあります。室町時代、応仁の乱が起こり、各地に戦国大名が現れました。
この顔戸にも全国の政権を揺るがすとも言われた武将がいました。名前は斉藤砂椿。彼はここに城を建設し、東美濃の守りの拠点にしました。
南は可児川の自然を守りとしました。現在は城は残っておらず芝生に覆われた山があります。
時代の文久元年(1861年)、14代将軍徳川家茂のもとへと嫁ぐため、皇女が江戸へ向かう途中に通行のため見晴らしの良い休憩所を造ることになりました。
それがこの御殿場です。晴れた日には、辺り一帯の山々を一望できるそうです。(参考:現地の看板)
この御殿場は馬の水飲香場のすぐ隣にあり、馬が休んでいる間に旅人が景色を見て休めたと思います。
僕は景色を見ることは出来ませんでしたが、周りには現在でも多く木に囲まれているためゆっくりと休憩できるでしょう。
江戸~京都間を結ぶ中山道には数多くの宿場町があります。名前のとおり宿がある町のことです。
旅人はここに寄って休憩したり、物資の補給、宿泊などをしました。
全ての宿場町が一斉に建てられた訳ではなく、順々に江戸幕府の指定を受けて建てられていきました。
例えば御嶽宿は中山道完成前から指定を受けていましたが、伏見宿は90年後となっていました。
■宿場町一覧
江戸日本橋~京三条大橋 に行くために以下の道を通ります。宿場町一覧
伏見宿付近にある港。中山道を通ってきた物資がこの新村港から船で輸送されることが多くありました。
そのため伏見宿は大打撃を受けてしまいました。
ポツんとある古い建物です。この薬師堂は天井に様々な絵が彫られています。
とても上手に彫られていました。建物の横には仏像が並べられています。
休憩を兼ねて寄ってみるのも良いでしょう。
このサイトで紹介している中山道は東京(江戸)~京都間を結ぶ道でした。
■東海道の裏道として
中山道のもととなった道は、大昔からありました。西暦697年頃から各国を結ぶ街道として造られ東山道と呼ばれました。
しかし、その後は温暖な東海道が主流となって行きました。
慶弔五年(1600)に関が原の戦いで勝利を収めた徳川家康は日本各地の街道整備を行いました。
慶弔七年(1602)に東海道の裏道として中山道が再び整備されました。
中山道が整備された理由は、日本の中央をとおり、面積も広く、江戸に隣する地帯にあったからです。
また、東海道は川が多く洪水などのために道が通れなくなることも度々ありました。
他にも混雑する東海道の裏道としてや、軍事上や政治上にも東海道の裏道として中山道が整備されました。
■多くの人が利用
宿場伝場の制をつくり、各宿場町には二十五匹、二十五人の伝場や歩行役を課し公用の物資や人を中心に輸送していました。
また、中山道には参勤交代の大行列も通りました。東京日本橋から始まり京三条大橋を結びます
御嵩町の図書館と郷土館です。1階が図書館、2階が郷土館となっています。
名鉄:御嵩駅を降りて願興二の隣に位置しています。中々、良いお手頃な資料が手に入ると思います。
平岩から森の中に入ってすぐにありました。200年前に造られた穴仏が置かれていました。
ここから御嶽宿まで山をいくつも越える必要があったため、旅人はここで安全を祈ったそうです。写真
御嶽宿の隣の宿場町です。伏見宿詳細
少し中山道から外れたところにありました。
江戸時代、キリスト教は禁止されていましたが、一部の地域などで隠れてキリスト教を信仰している人々がいました。
こうした隠れキリシタンは上之郷に存在していました。写真
宿場町のひとつです。名鉄:御嶽駅を降りた周辺に位置しています。御嶽宿の詳細
マリア像付近の中山道に位置しています。全国的にも珍しい耳のご利益があるといわれる神社です。
平癒の願をかけ、お供えしてある錐を一本借りて耳に当てます。
そして、病気が全快したらその人の年の数だけ錐をお供えしました。名古屋からも礼拝があり、広く信仰されていました。
太田宿付近から勝明神社跡付近まで続いている歩行者専用道路です。
木曽川沿い、国道21号線沿いにあるため、中山道を歩くときはこの道がよいでしょう。
木曽川は、景色の良い部分が丁度、この辺りなので景色を眺めながら歩くのも楽しいものです。是非、利用してみてください。
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