担当司祭から:2024年12月
「今を生きること」と「この世の完成を待ち望むこと」
(「道後教会だより」2024年12月号より)
今回の教会だよりは、わたしが司祭になってから主に考えているテーマについて取り上げたいと思います。タイトルを見ても、今一つピンと来ない方もいると思いますが、あえてこのテーマで文章を書かせていただきたいと思います。
教会はまもなく、待降節に入ります。待降節というのは、2000年前に生まれたイエス・キリストの誕生を祝うと同時に「キリストの再臨」を待ち望むという意義もあります。「キリストの再臨」=「からだの復活」=「世の終わり」=「この世の完成」というこの一連の流れは、カトリック教会が今に至るまでずっと保ち続けている希望です。
ところが、ご承知の通り、イエス・キリストは2000年経っても、再び来ることはなく、今に至っています。これについてはすでに1世紀終わりごろから常に問題とされてきました。そこで、教会には二つの考え方が生まれてきました。それは「イエスはすでにやってきたから、もうやってこない」と再臨を否定する考え方です。これは、イエスの再臨など起こらないから、今を生きることに専念しようという考えへと至ります。しかし、この考えは教会の流れの中で主流とはならず、「最後の審判」の教えが強調されることになりました。
「最後の審判」の教えはカトリック教会に大きな影響を及ぼしました。最も大きいのは「この世で正しく生きないと最後の審判で地獄に堕ちることになる」という思想を植え付けたことです。それに伴い、いくらこの世で富や名声を得ても、神の前で裁かれたら意味がないという極度の「現世蔑視」の思想も生まれました。
第二バチカン公会議以降、「最後の審判」の教えは影響力が薄れていきました。そして、この世を良く生きることが大切だと考えるのが近年の教会では重視されるようになりました。その流れに影響を受けた司祭たちの中には説教で「永遠の命」や「キリストの再臨」についてあまり触れることなく、現代を生きるための道徳的な指針を語る説教を中心にする方もいるようです(わたしはほとんど共同司式をしないので、他の司祭の説教を聞くことは少ないですが、そういう話を聞きました)。
確かに「道徳的なことがら」を宗教は教える必要があります。けれども、それだけでは信仰として不十分です。なぜなら、わたしたちの信仰の土台はあくまでも聖書、特にイエスの言葉と行いが記されている福音書だからです。イエスは神の教えを語り、病人を癒し、社会で差別されている人と共に食事をしました。
けれども、イエスが行ったことの中で最も長く書き記されているのは、「十字架の死と復活」であることをわたしたちは心に留める必要があります。イエスの十字架の死はわたしたちの罪をゆるし、イエスの復活はわたしたちの死が終わりではなく、新たな命への始まりであることを教えてくれるのです。そして、罪のゆるしとはアダムとエバによって始まった「死」という人間に課された大きな重荷を取り除くことです。
もちろん、キリストの十字架の死はわたしたちが限りある命を生きているという事実を変えることはできませんが、キリストの復活によって、わたしたちの命はこの世の死で終わることがなく、永遠に続くという希望が生まれました。そして、キリストが再臨された時、わたしたちは復活し、この世の終わりがやってきて、「神がすべてにおいてすべてとなる」(Ⅰコリント15・28)時が来るのです。この希望はどんなに時代が変わろうとも変わることがありません。
ただ、この考えは極端になれば、現世を蔑むという第二バチカン公会議以前の考えに戻りかねません。だから、わたしは「今を生きること」の大切さと「この世の完成」を待ち望むことの両方をどうやってバランスよく説教できるかを日々模索しています。わたしの意図を、この教会だよりの文章で感じ取っていただければ幸いです。