担当司祭から:2024年8月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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ホビノ・サンミゲル神父様を偲んで

(「道後教会だより」2024年8月号より)

 先月はわたしの恩師ヴィセンテ・アリバス神父様を偲んだ文章を書きましたが、今月の教会だよりはホビノ・サンミゲル神父様を偲んだ文章を書きたいと思います。白バラの花束
 カタリナ大学の名誉学長ホビノ・サンミゲル神父様は7月3日夜半に修道者・司祭としての82年の生涯を全うして、神のもとに召されました。通夜・葬儀とも大勢の方が参列され、ホビノ神父様がどれほどの働きをされたかを改めて実感しました。
 わたしがホビノ神父様と最初に出会ったのは、アリバス神父様と同じく、英知大学でした。ただ、アリバス神父様とは違い、わたしはホビノ神父様と大学時代にそれほど関わりを持ったことがありませんでした。けれども、わたしの同級生の数人がホビノ神父様に卒業論文の指導を依頼したので、ホビノ神父様について聞く機会がありました。
 その中で一つ、今も忘れられない話があります。わたしの同級生の一人が卒業論文の締め切り直前まで全く論文を書いていなかったのです。普通の指導教官なら「もう間に合わないから来年また頑張りなさい」と言うでしょう。けれども、ホビノ神父様は彼を電話で呼び、ごく限られた時間で彼の論文のテーマを決めて懇切丁寧に指導したおかげで、その同級生は無事に卒業することができました。この話を聞いて、わたしはホビノ神父様の教育に対する情熱、生徒に対する思いやりを知りました。
 やがて、わたしはドミニコ会に入り、ホビノ神父様と話をする機会も増えました。その時、わたしのホビノ神父様に対する印象は「情熱に溢れた方」でした。わたしがアリバス神父様を訪ねて西宮の修道院に滞在していた時、ホビノ神父様は教育や司祭としての使命を熱く語られたのを思い出します。わたしは議論が苦手なので、ほとんどホビノ神父様の話を聞くだけでしたが、しばしば他の神父様たちと激しい議論になったのを見ました。
 ただ、わたしとホビノ神父様との関わりはホビノ神父様の生涯の最後の時期に凝縮されていました。ホビノ神父様は7年ほど前からガンを患い、長い間闘病されてきました。そして、今年の4月末カタリナ大学の修道院のシスターのミサをすることができずに自室で茫然自失の状態になっていたのをシスターが見つけ、松山市内の病院に搬送されました。
 わたしはその話を北条修道院のシスターから聞き、ホビノ神父様の主治医と共に話をするために一緒に病院に来てほしいとシスターから依頼されました。そして、5月初めにシスターと共に病院に行き、主治医の先生と話をしました。最初に先生から「肺がほとんど真っ白になっていて、長くは生きられないでしょう」と話されました。しかし、シスターと主治医の先生が、今後のホビノ神父様の治療方針についてなかなか合意できなかったので、わたしがホビノ神父様の病室に行き、神父様の意思を確認するために二人きりで話をしました。
 ホビノ神父様は「自分はもう長くは生きられない」と自らの病状をはっきり理解しておられ、自分はホスピスに入って余生を過ごすとはっきり言われました。その話が終わった後で、わたしの手を握って「わたしが学校でやっていた宗教行事をあなたにやってほしい」とわたしを見つめてはっきりと言われました。教会だよりで度々書いている通り、わたしも様々な使徒職をしている身でこれ以上の仕事をするのは難しいと思っていましたが、ホビノ神父様の遺言とも言える言葉を聞いては、NOと言えませんでした。
 その2ヶ月後にホビノ神父様は亡くなりました。長い間学校の教育者として働かれ、またその忙しさの中にあっても、学校の関係者に要理を教え、洗礼に導き続けたホビノ神父様は、聖職者と教育者の使命を両立させた稀有な方だったと思います。ホビノ神父様の永遠の安息を願い、祈りを捧げたいと思います。