担当司祭から:2024年6月
聖ペトロと聖パウロ
(「道後教会だより」2024年6月号より)
来る6月29日に聖ペトロと聖パウロの祭日をお祝いします。聖ペトロと聖パウロについては5年前の教会だよりにも書いていますが、今回は違う視点から書いてみたいと思います。それはわたしの洗礼名が聖ペトロであることです。だから、本来はこの日を自分の保護者を祝う日と思うのが普通ですが、わたしは今までこの日に強い思い入れを持っていませんでした。その理由は二つあります。
一つは、聖ペトロはイエスの一番弟子とされ、カトリック教会の初代教皇とされるのに、聖ペトロだけを祝う日がないことです。同じ日に祝う聖パウロは1月25日に回心の祝日があるのに対して、聖ペトロだけを祝う日がないのです。2月22日は聖ペトロの使徒座の祝日ですが、これは聖ペトロが初代教皇となり、その使徒座が受け継がれていることを記念するものであり、聖ペトロ自身のお祝いとは言い難いものです。
そして、もう一つの理由は新約聖書において聖パウロが手紙の中で聖ペトロを批判していることです。その経緯はガラテヤの信徒への手紙2章11〜14節に書かれています。ここでペトロがパウロのいるアンティオキアに来た時、それまで異邦人と一緒に食事をしていたのに、使徒ヤコブの元から人が来たときに異邦人と食事をしなくなったと書かれています。使徒ヤコブは、割礼を受けていない異邦人のキリスト者と一緒に食事をすることは律法に反すると考えていたから、ペトロはその考えに従って態度を変えたとパウロは考え、ペトロを次のように批判しています。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか(ガラテヤの信徒への手紙2章14節)。
わたしはこの箇所を読むと、ペトロの人間的な弱さに共感し、パウロの厳しさに共感できませんでした。もちろん、パウロが言うことは全くの正論ですが、ペトロのように振る舞うこともあるのが人間の弱さだとわたしは思います。ペトロが書いたとされる手紙もペトロ自身のものではないというのが聖書学者の見解なので、ペトロの個人的な考えを知る機会はもはやありません。だから、わたしはペトロとパウロを一緒に祝うことに対して、納得できないものを感じてきました。
けれども、聖パウロに共感できなかったわたしも、司祭となって時がたち、聖パウロの手紙を説教の準備で読むと、聖パウロの抱えていた苦しみや悩みなどが分かり、それに共感できるようになっていきました。だから、今ではカトリック教会の初代教皇とされる聖ペトロと異邦人へ福音を伝えた聖パウロが同じ日に祝われることに納得しています。
聖ペトロと聖パウロは言うまでもなく、カトリック教会の発展に大きく貢献した2人の聖人です。この2人がいなければ今のカトリック教会はなかったかもしれません。この2人の聖人の保護のもとに、教会がこれからも歩みを続けていけるように、聖ペトロと聖パウロの取り次ぎを願いましょう。