担当司祭から:2023年5月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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「ご復活おめでとうございます」

(「道後教会だより」2023年5月号より)

 この言葉は復活徹夜祭や復活の主日であいさつとして、普通に用いられています。わたしも信者の皆さんから「ご復活おめでとうございます」と言われたら、同じ言葉を返します。また、「ご復活おめでとうございます」とミサであいさつされる司祭もおられます。イースターエッグ
 けれども、わたしはミサの中で「ご復活おめでとうございます」と言うことはほとんどありません。そして、教会だよりで「ご復活おめでとうございます」と書いた記憶もほとんどありません。わたしはイエスの復活をお祝いする気持ちがあっても、それをミサの中で「おめでとうございます」と言えません。ややこしいことを言って申し訳ありませんが、それがわたしの率直な気持ちです。
 その一方、「主のご降誕おめでとうございます」と言うのはあまり困難を感じません。それは「イエス・キリストという神であられた方が人間となってこの世界に来られた」という出来事は、神が人間を本当に愛しておられたから実現したと信じているからです。創世記の天地創造物語でこの世界の創造を終えた時に、神が「見よ、それは極めて良かった」と言われる箇所を、わたしはしばしば説教で引用します。それはどんなにこの世界が悪であっても、神はこの世界を良いものと確信しておられる言葉だと信じているからです。この世界を救うために、イエス・キリストがこの世に人間として来られたことをわたしは信じます。だから「ご降誕おめでとうございます」と言うのにそれほど困難を感じません。
 では、どうして、「ご復活おめでとうございます」とミサで言うのに困難を感じるのかと思われるでしょう。それは、わたし自身がイエスの復活という出来事を未だに自分自身の復活と罪の赦しに結びつけられないからです。考えすぎかもしれませんが、イエス・キリストという2000年前に死んで復活された方の出来事をわたし自身の復活と罪のゆるしに結びつけることがいまだ十分にできないのです。
 その点で、わたしはヨハネ福音書で復活したイエスに会った時、その場に居なかったトマスの言葉にすごく惹かれます。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」この言葉によって、「トマスの不信仰」と言われることもありますが、それはとんでもないとわたしは思います。なぜなら、仮にわたしたちがトマスと同じ状況にあったなら、トマスと同じことを言うでしょう。
 弟子たちはイエスが自らの死の前にご自身の復活を弟子たちに語られても信じられなかったと福音書は記しています。弟子たちは復活したイエスに会ったから信じたのであって、その場に居合わせなかったトマスがイエスの復活をすぐに信じられなかったのは当然だと思います。
 イエスは再び弟子たちに会った時、トマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言いました。この言葉が現代のキリスト信者に当てはまると言えるかもしれませんが、わたしは安易にそう言えないと思っています。なぜなら、ミサに参加しても、祈っても、イエスの姿が見えなくなる時がわたしにはあるからです。多くの人がそうだと思います。
 ただ、イエスがまさにミサにおいてわたしたちにご自分の体を与えてくださることは変わらない真実です。そのミサは「イエスの復活」において実現しました。わたしはこの点でイエスの復活を信じています。しかし、まだそれを「自分の救い」に結びつけられていないのです。イエスの復活がわたし自身の信仰の道のりに結びつけられるまでには、生涯かかることでしょう。
 自分の迷いや困難に率直に向き合いながら、いつか「ご復活おめでとうございます」とミサの中で心から言える日が来ると信じながら、司祭職の道のりを歩み続けたいです。