担当司祭から:2023年3月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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四旬節 ― 主の死を記念する期間 ―

(「道後教会だより」2023年3月号より)

 わたしは愛光学園の宗教の授業で、教会の一年の暦について大まかに説明しています。中学生には難しいと承知の上で「キリスト教がどのように一年を過ごしているか」を知ってもらうことは大切だと思って、毎年説明しています。
 この文章のタイトルはわたしが授業で四旬節を説明するために使っている言葉です。おそらくカトリック信者の方は読んでも違和感がないでしょう。しかし、最近「死をお祝いするのは不謹慎ではないですか?」と言う生徒がいました。話を聞くと、その生徒は「記念」=「祝い」と考えているそうです。これは重要なテーマだと思ったので、今回の教会だよりは「イエスの死を記念することの意味」について書くことにします。十字架につけられたキリスト
 記念という言葉は辞書において、二つの意味が挙げられています。一つは後の思い出として残しておくことであり、もう一つは過去への出来事への思いを新たにし、何かをすることです。わたしたちがイエスの死を記念するという場合は後者の意味が近いでしょう。この意味が一般的に浸透しているならば、イエスの死を記念するという言葉に違和感を持つはずがありません。そうすると、その生徒の言葉を「理に適っていない」と退けることはできます。
 けれども、わたしはそうしません。なぜなら、人と違う意見や自分に思いがけない意見を言う生徒は、物事を別の角度から見ていると思うからです。以前教会だよりで書いたことがあると思いますが、わたしは少年時代、なかなか学校に馴染むことができませんでした。その理由の一つは学校で少数派の生徒の意見はほとんど耳を傾けられることなく、多数派の生徒の意見で色々なことが決まっていたのが納得できませんでした。そのため、わたしは疎外感を味わうことも多く、学校が好きになれませんでした。そんなわたしが今、学校の教員をやっているのは不思議だと思っています。
 それはさておき、「記念」を「祝い」と理解する生徒の発言は、現代社会の風潮を表しているとわたしは思います。その良い例が団体や組織などが行う「?周年」記念式典です。今は新型コロナウイルスの感染の影響で大規模な式典を行うことはできませんが、コロナ以前はどれだけ多くの来賓を招き、式典後のパーティーをどのように行うかが、重要な要素でした。そういった風潮はその団体や教育機関が今まで歩んできた道のりを思い起こすことをあまり重視していないとわたしはずっと感じていました。たとえ、来賓の方がそのようなメッセージを語ったとしても、記念式典を行う主催者にそのような思いがなければ、記念式典は単なるセレモニーでしかないのです。
 当然ですが、キリスト教でイエスの死を記念するという場合、記念式典のようなセレモニーとは全く違います。キリスト教において、イエスの死を記念するとは、神の子イエスが死を通して、わたしたちの罪を赦してくださったという出来事をミサにおいて「現在化」することです。「現在化」という言葉を平たく説明すれば、「イエスの死が今を生きるわたしのために起こった出来事である」と受けとめることです。これこそ、わたしたちがミサを行う最大の理由です。
 この3年間、新型コロナウイルスの感染の影響で主日ミサが非公開になったことが度々ありました。特に感染が拡大していた2020年は聖週間の祭儀が非公開という今までなかった異例のことがありました。
 新型コロナウイルスの感染がいつまで続くか分かりません。それでも、カトリック教会はこれからはできる限り主日ミサを続ける意向です。それは教会のさまざまな活動ができなくても、わたしたちのために死んでくださったイエスの死を記念するミサは教会の根幹であり、わたしたちの信仰の柱だからです。そのミサに参加するたびに、「イエスがわたしたちのために死んでくださった」という思いを新たにし、日々歩んでいくのです。