担当司祭から:2022年10月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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聖書を読むことについて

(「道後教会だより」2022年10月号より)

 8月の教会だよりに書きましたとおり、わたしは今『こじか』の子ども向けの福音解説を書いています。今この原稿を書いている現在(9月14日)、11月号の著者校正が終わったところです。しかしながら、あと10日もすれば12月号の原稿の締め切りです。わたしはもともと原稿を書く量が多いのですが、『こじか』を執筆する今年一年は今までで経験したことのない量の原稿を書いています。そして、わたしの書いた文章が全国のカトリック教会に置かれる冊子に掲載されることに、ものすごいプレッシャーを感じています。
 元来説教に自信がなかったわたしは最初毎週日曜日の説教の原稿を準備するだけでも大変で、何時間も費やしました。今はだいぶ説教の準備に慣れてきたのですが、『こじか』の原稿の執筆は、それとは違う大変さがあります。『こじか』で書く文章が3ヶ月早いこともあり、教会の暦の感覚を実感できないまま文章を書くことになります。これは難しいものです。
 余談ですが、司祭になってから、子どもの頃に趣味だった読書は今は趣味と言えなくなりました。説教の準備で聖書を読むとあまり他の本を読む気持ちにならないのです。そのため、空き時間に読書することが以前よりもかなり少なくなりました。聖書
 『こじか』はあくまでも福音の解説なので、福音を読んで「どういう文章を書けば良いのだろう」と悩むことが少なくありません。例えば、「復活」や「地獄」といったテーマを子どもたちに解説するのは単に文章を易しくするだけでなく、内容をちゃんと汲み取った上で文章を易しくしなければならず、これは相当頭を悩ませました。わたしの意図がちゃんと伝わっているかどうかは、文章を読んでくださった方に委ねるしかありません。
 教会の説教では「復活」や「地獄」などの難しいテーマは他の二つの朗読との関連でかなり説明できます。それでも、イエスの語るたとえ話が難しい場合などは苦労します。その典型的な例が9月18日の主日の福音です。この福音のたとえ話は聖書の見出しで「不正な管理人のたとえ」と書かれているように、イエスのたとえ話の中でも相当異質なものです。このたとえ話は主人の財産を無駄遣いしている管理人が、主人に借りを返しにくる人の借りを減らすことによって、主人から褒められるという内容です。このたとえ話をどのように受けとめるのかは重大な問題です。「イエスはずるいやり方を認めるなんて受け入れられない」と思われる方もいるでしょうが、それは知らず知らずのうちに「福音書はこうあるべき」という考えを自分の中で作り上げてしまっているのです。
 イエスのたとえ話は「放蕩息子」や「善きサマリア人」など神のゆるしをテーマにしたものが多く、信者にとっては受け入れやすいですが、だからと言って「不正な管理人」のたとえ話がそれらに劣るということはあり得ません。聖書を書いた福音記者はちゃんとした意図があって、そのたとえ話を福音として書いたわけですから、わたしたちは「不正な管理人」のたとえ話を読み、そこに含まれているメッセージを自分なりに汲み取る努力をするべきでしょう。
 かつて東京教区の補佐司教を務められた森司教様は説教集の中で「『不正な管理人』のたとえ話に関する納得できる解説にいまだ出会ったことがない」と書いておられます。森司教様ほどの方であっても、不正な管理人のたとえ話は難しいと感じるならば、わたしたちが不正な管理人のたとえ話を難しいと感じるのは当たり前です。だからこそ、その難しいたとえ話を自分なりにどうやって受けとめていくかは大切になります。色々考えた挙句「イエスが語られることは難しい」と結論づけるのも構わないと思います。あるいは聖書の註解などを読んで自分なりに意味を理解するのもいいでしょう。一番やってはいけないのは「イエスがこんなたとえ話を語るはずがない」と結論づけることです。これをやると聖書を自分の都合で解釈して、教会の教えから離れてしまいかねません。常に聖書と真摯に向き合うことを心がけていきたいものです。