担当司祭から:2022年9月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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「分かち合い」について

(「道後教会だより」2022年9月号より)

 新型コロナウイルスの感染が拡大して以来、社会では「三密」を避けることを勧めています。カトリック教会もその社会の状況に倣って「三密」を避けるように努めています。その状況で、分かち合いを行うのは難しいでしょう。丸く椅子を並べて話し合う人たち
 教会で行われる分かち合いを厳密に定義することは難しいですが、「あるテーマに基づいて話し合い、何らかの同意や意見を出すこと」と大まかに定義できるでしょう。分かち合いという言葉を辞書で引いてみると、「分け合うこと」「互いに共有すること」と出てきます。これだと言葉を言い換えただけですが、その後に非常に興味深い言葉があります。「主に痛みや苦しみなどについて用いる表現」。おそらく、この言葉は教会の中で行われる分かち合いに必要だと思いますが、実際に教会で行われる分かち合いではこのようなことはあまり語られないと感じる人は少なくないでしょう。わたしもその一人です。
 わたしは、今司祭として説教し、色々な場所で話をしますが、元来は人前で話をするのが好きではありません。司祭になっていなければ、人前で話をする仕事には決して就かなかったと今でも思っています。ですから、分かち合いも苦手です。だいたい分かち合いではなるべく簡潔に自分の考えを言うようにしていますが、分かち合いはしばしば話の長い人、自分の意見を強く主張する人の独壇場になってしまうことがあり、その場に居合わせると複雑な気持ちになります。
 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマの信徒への手紙10章17節)。これはパウロの手紙の中で有名な箇所ですが、分かち合いの原則ではないかとわたしは思っています。こう言うと「わたしたちは日曜日のミサで聖書の言葉を聞いているだろう」と思われる方がいるかもしれません。確かにその通りですが、教会で聞く聖書の言葉は司祭の説教を通して受け身の形で理解され、自分の気づきに結びつきにくいとわたしは感じています。
 そこで大事なのが、聖書の言葉をどのように生きているかを語り合い、そこで感じる難しさや喜びを語り合うことです。そして、その語り合いはできれば信者同士、司祭同士など、立場が同じ者であるのが望ましいと思います。なぜなら、司祭が信者の分かち合いで話をすると「神父様がこう言っておられる」とその分かち合いの方向性を決めてしまうことが往々にしてあるからです。この経験をわたしは何回かしたことがあります。
 そこで思い出すのは、わたしが出身教会の主任司祭と毎年の休暇で帰省するたびに食事に招待された時に話したことです。その主任司祭は数年前までわたしの出身教会の主任司祭をされていました。その神父様は宣教師として長年活動され、わたしよりもずっと年上でしたが、食事の時に宣教師として長年働いた自分が体験した喜び、悲しみ、苦しみを率直に話してくださいました。そこで、わたしも司祭として働く上での喜び、悲しみ、苦しみをその神父様に話すことができました。それを神父様は真剣に聞いてくださり、貴重な助言をたくさんいただきました。聖書の言葉に関する気づきもたくさんその神父様にいただきました。今思えば、それが分かち合いでした。
 だから、わたしは本来分かち合いは少人数で時間をかけてゆっくり行うべきものだと思っています。相手の意見を否定せず、そのまま受け入れながら、神に導かれて生きることの大切さや自分たちの弱さを認めることが大事です。けれども、新型コロナの感染が拡大する前に教会で行われていた分かち合いは自己主張だけで終わるケースが少なくなかったと思います。
 今はまだ新型コロナ感染者数が高止まりしている現状で、なかなか分かち合いをすることはできませんが、状況が落ち着けば何らかの形で分かち合いを再開したいと思います。新型コロナウイルス感染症は、わたしたちの生活を大きく変え、多くの人が今までにない苦しみを味わうことになりました。その経験を分かち合い、聖書の言葉に気づきを得ながら日々歩むのがこれからの教会に大切なことではないでしょうか。