担当司祭から:2022年5月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

区切り線

永遠の命

 5月に入って、有名人が自ら命を絶ったというニュースが報じられました。思えば、コロナの感染が始まった直後に有名人の自殺が続きましたが、その後は目立って報じられていませんでした。それが最近になって起こったのは、やはりコロナウイルスの感染の長期化が要因だと言えます。今は感染者が多くても、極端な制限をやめ、コロナをある程度受け入れながら生活していくという方向で社会は動いています。それはカトリック教会も例外ではなく、ミサを行い、教会活動も少しずつ行うという方針です。ただ、これはあくまでも制限付きなので、わたしたちの心には不安が燻ったままです。それで「これからの自分はどうなっていくのか」という漠然とした不安を持つ人が、なんらかの拍子に自らの命を絶ってしまうことはあり得ます。
 実は、わたしの知り合いが4月末に30歳という若さで自ら命を断ちました。その人とは最近直接関わっていませんでしたが、わたしが神学生時代から知っていて、今も頻繁にやりとりしている友人の幼なじみでした。わたしは友人が彼の死を悲しみ、「辛い」「苦しい」とメッセージを送り続けてくるのを「そうだね」と受けとめることしかできませんでした。
 カトリック教会で自殺は「大罪」とされていますが、それを四角四面に当てはめると、自ら命を絶った人の家族やその友人たちを苦しめることになります。もちろん、自らの命を絶つのはゆるされないことですが、その人が神の憐れみによって永遠の安息を得るように願うのは、カトリック信者として必要ではないかとわたしは彼の死を知って以降強く思うようになりました。
 そこで、カトリック教会が教える「永遠の命」は大切な意味を持っていると思います。教会は長い歴史の中で現世を蔑視して「永遠の命」を待ち望むという姿勢が強かった反動で、現代の信者は「永遠の命」にあまり肯定的な印象を持っていないと思います。しかし、自分の生活が順調ならば「永遠の命」に思いを抱くことはないかもしれませんが、歳を重ねて病気をした時や生活に閉塞感を抱く時にわたしたちは「永遠の命」に思いを馳せることがあるでしょう。
 わたしは幼い頃から死を恐れていました。自分がこの世からいなくなることが怖くて、夜眠れないこともありました。わたしは学生時代ずっとこの思いを抱いていました。そのため、周りの人が彼女と付き合っていることやギャンブルでお金を稼いだことを自慢しても「死んだら意味がない」と思って、全く羨ましいと思いませんでした。そのため、わたしは幼少期から金持ちになるとか出世したいという思いを全く抱いたことがありません。そんなわたしが司祭への憧れを抱いたのはある意味当然だったかもしれません。
 ただ、司祭になってからも死への恐れはあまり変わることがありませんでした。転機となったのはローマで修士課程を勉強していたときに論文のテーマとして書いたベネディクト16世の回勅『希望による救い』を繰り返し読んだことでした。『希望による救い』は決して易しい文書ではありませんが、この回勅を読むことでわたしは人生の中で怖がり続けた死について、納得できる解答を得ることができました。
 『希望による救い』の中から一つの箇所を引用します。「神の愛だけが、わたしたちに、たえず希望に促されながら、世において日々を落ち着いて耐え忍ぶ力を与えます。世は本質的に不完全なものだからです。同時に神の愛は、わたしたちがぼんやりとしか感じることができないものの、心の奥底で待ち望んでいるものが存在することを、わたしたちに保証します。それが、『まことの』いのちとしてのいのちです」(『希望による救い』31項)。こういった文章を繰り返し読むことによって、いつしかわたしの死に対する恐怖心は薄れ、永遠の命への希望を強く抱くようになりました。それがわたしに司祭職を続ける原動力となっています。多くの人に永遠の命への希望を抱きながら、この世の苦しみを乗り越えて欲しいと願い、その希望を与えるために、司祭としての道を歩み続けたいとわたしは今思っています。