担当司祭から:2022年4月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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ゆるしの難しさ

(「道後教会だより」2022年4月号より)

 コロナウイルス感染症によるミサの休止が長引き、YouTubeで主日ミサの配信を見ている方も多いでしょう。このホームページを読んでおられる方の中にはそういう方もいることでしょう。ただ、ご高齢の方やインターネットを使える環境にない人は長らく主日ミサに参加する機会がないのは心苦しいです。そして、そういう方はこのホームページを読むのも難しいと思います。本来はそういった方にこそ、この文章を読んでいただきたいのですが、そうはいかないことにジレンマを感じています。
 こんな状況ではありますが、今年わたしが別に担当している松山教会で結婚式が少なくとも3組予定されています。わたしはミサや葬儀や結婚式の説教をパソコンに保管しているので、その原稿を過去に遡って調べてみると、最後の結婚式は4年前でした。いま教会は高齢の方が多く、若い方が少ない状況にあって、若い夫婦が多く誕生するのは喜ばしいことです。
 カトリック教会では結婚式をするにあたり、結婚講座を行いますが、わたしはその際必ず、マタイ18章22節~35節の「仲間を赦さない家来」のたとえを読んでもらい、それに基づいて話をします。このたとえ話を簡単にまとめますと、1万タラントン借金している家来が主人からその借金を帳消しにしてもらったにもかかわらず、100デナリオンの借金をしている友人をゆるすことができなくて、主人から借金の全額を返済することを命じられたという話です。
 このたとえ話を理解する上で重要なのは家来が主人にしていた借金と友人に貸していた借金の額の違いです。1万タラントンとは日本円にすると数千億円であり、一人で借金するには途方もない額です。それに対して、100デナリオンとは100万円であり、わたしたちの生活でありえるぐらいの金額です。この対比は、わたしたちが神に対してゆるしてもらっていることの大きさと、わたしたちが周りの人に対してゆるせることの小ささを意味しています。つまり、わたしたちは神にゆるされているのに、ほんの少しのことでも隣人をゆるせないというのがこのたとえ話の持つ意味です。
 ただ、この話をしながら、わたしは「果たして自分は他人をゆるせているだろうか」と考えると「できない」と正直に言わざるを得ません。それはわたし自身が過去に経験した辛い出来事をいまだにゆるせていないからです。以前書いたかもしれませんが、学生時代に経験した嫌なことやローマに留学したときのことは今でもゆるすことができません。そんなわたしが果たして司祭としてゆるしを与えられるのかと思うことが度々あります。
 ただ、今年結婚講座を何回もやるにあたって、もう一度わたしが参照にした結婚講座の本を読み直すと大きな気づきがありました。それは「神に対する祈り」がゆるしを与える力になることです。「当たり前のことを今さら」と思われる方もいるでしょうが、実は現代において司祭・修道者が祈ることが難しい状況です。わたしは教会に常駐しており、何かあればすぐに対応しなければなりません。その対応も多岐にわたる悩みごとの相談、不治の病の方への励ましと祈りなど、神経を遣うものばかりです。元来人づきあいが苦手なわたしは司祭になったから人と接することを仕事としているので、人と接した後に人一倍疲れを感じます。それとともに、わたしは司祭としてミサの説教の原稿を準備し、この教会だよりをはじめ、様々な文章を執筆しています。両手を合わせて祈る
 そういったものも非常に神経を遣うので、どうしても空き時間は好きなことをして過ごしがちです。そうすると、司祭が「祈る」時間を持てないという実に奇妙な現象が生まれるのです。わたしもさすがにこれはいけないと思い、最近は一日を振り返って、主の祈りと栄唱を唱えて寝るようにしています。あまりにも疲れ切って、一日の振り返りだけで終わることもありますが、多少なりとも「祈り」の心を呼び起こすことができます。ほんの少しのことですが、こういったことを心がけていると「神のゆるし」に少しずつ気づくことができるようになり、司祭としてゆるしを与える力が生まれてくるだろうと思っています。