担当司祭から:2021年9月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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叙階から15年 ― これまでの歩みとこれから ―

道後教会(聖堂)のロザリオ 今から15年前の9月30日、わたしは東京の渋谷教会で司祭に叙階されました。叙階の15年は、特別なお祝いはありませんが、司祭叙階25年は銀祝というお祝いがあり、さらに叙階50年は金祝というお祝いがあります(ちなみに叙階60年にはダイヤモンド祝があります)。銀祝と金祝のお祝いは高松教区において聖香油のミサで行われます。このお祝いの時に神父様方の挨拶があり、その神父様方の挨拶を聖香油のミサの時に聞いてきました。その挨拶の中で「叙階されてから今まであっという間でした」と言われる方は結構多いと記憶しています。しかし、わたしは叙階されてから今までの15年は大変長かったと思います。もっとも、あと10年経って銀祝を迎える時は違う思いを抱いているかもしれません。
 今までの歩みを振り返ってみると、叙階式のことはほとんど覚えていません。叙階式後すぐにローマに留学することが決まっていたので、慌ただしかったからです。覚えているのは、前もって大司教様から渡されていた叙階式の式文と当日の式文が違っていたことです。叙階の時に司教様から尋ねられた言葉が事前に渡されていたものと違っていたので内心焦りましたが、「はい」と答えればいいだろうと腹をくくって答えてことなきを得ました。けれども、それ以外のこと、すなわち叙階式に参列してくれた人々と交わした言葉や叙階式後のパーティーでの挨拶は全く覚えていません。しかし、母から「あなたは『ローマで勉強して人々のために働く司祭となって日本に帰ってきます』と言ったのよ」と言われて、初めて思い出しました。
 叙階式の数日後、わたしはローマに行き、3年間神学の修士課程を勉強しました。率直に言って、その時のことは思い出したくありません。勉強するだけで教会での仕事をする機会はほぼ与えられませんでした。ローマにいた他の日本人司祭は学校の夏休み期間中に教会の仕事を手伝っていたので、日本人の神父様たちの話に加われずに疎外感を味わうことも度々ありました。もちろん、ローマで大切な出会いや思い出深いこともありましたが、それをじっくり振り返るのはまだ後になりそうです。
 2009年夏に日本に帰ってきて、翌年から道後教会の担当司祭となり、今12年目を迎えます。本来一つの教会を担当する期間はあまり長くならない方がいいのですが、わたしの場合は、住んでいる松山教会の司牧や愛光学園の授業などがあり、道後教会の司牧にじっくり取り組んだのは担当司祭になった最初の2年ぐらいでした。色々なことをやっていて、教会の信徒のために司牧を十分にできていないと絶えず不安なまま過ごしてきました。その上、2018年から松山教会の担当司祭を兼任することになり、ますます道後教会の司牧に割く時間が減りました。おまけに修道会の役員や学校の理事にもなり、会議などの事務的な仕事に割く時間が増えました。叙階15年を迎えた今はそんな状況です。
 率直なところ、今わたしが担当している仕事の量は多いです。今は先輩の神父様方の協力を仰ぎながら、なんとかやりくりしている状況です。体の調子を崩すことも度々あり、その都度スケジュールの変更をして、多くの方にご迷惑をかけています。わたしのように体調を度々崩すことはなくとも、叙階して間もなくの司祭、あるいは若くして叙階した多くの司祭が仕事をたくさん抱えている状況です。日本で働く司祭が少ないし、これから司祭が増えることも考えづらいので、状況が劇的に変わる可能性は非常に低いと思っています。
 けれども、わたしは司祭として働くことに誇りを持っています。性格的にたくさんの弱さを抱えるわたしが曲がりなりにも人前で働けるのは、司祭でなくては不可能でした。もちろん、様々な困難に直面する時、生活が辛いと思うこともありますが、「司祭を辞めたい」と思うことはあまりありません。理由は神を信じるのが自分にとって良いことであり、その信念を生きるために司祭職を選んだからです。
 まだまだこれからの司祭としての道のりは長いでしょう。その道のりの中で困難に直面する時も、絶えず神に信頼しながら、司祭職を歩み続けていきたいと思っています。このホームページをお読みの皆さん、わたしだけでなく日本中、そして全世界で働いている司祭、特に若い司祭のためにお祈りください。どうか、よろしくお願いいたします。