担当司祭から:2021年7月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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聖ビルジッタ ― 祖母の思い出 ―

スエーデンの聖ビルジッタ  7月23日は聖ビルジッタの記念日ですが、この聖人は日本でほとんど知られていないでしょう。わたしがこの聖人を知っている理由は、父方の祖母の洗礼名がこの聖女だったからです。おそらく日本ではこの洗礼名をもっている人は稀だと思います。少なくとも、わたしは祖母以外にこの洗礼名を持っている人を知りません。今日はその洗礼名を持つ祖母の思い出を書きたいと思いますが、その前に聖ビルジッタの生涯について簡潔に記します。
 聖ビルジッタは1303年にスウェーデンに生まれ、8人の子どもを産み育てました。夫の仕事にフランシスコ会の在俗会員となり、禁欲的な生活を始めました。その後、シトー会に入って本格的に修道生活を始め、やがて修道会を創設して、苦行や神秘体験を通して、信仰を深め、様々な著作を記したとされています。スウェーデンの保護聖人、未亡人の保護聖人とされています。
 わたしは大阪の生まれ育ちですが、両親は長崎の五島列島の出身なので、わたしの両親もわたしも幼児洗礼です。ところが、この洗礼名をいただく父方の祖母は、父と結婚して信者となりました。祖父母が結婚したのは太平洋戦争の前だったので、これは極めて珍しいことでした。そのことを不思議に思った父は、祖父に祖母と結婚した経緯を聞いたけれども、祖父から何も答えが返ってこなかったそうです。
 わたしは小学生の頃、毎年五島列島に里帰りしていました。その時、必ず両親の実家に滞在していました。わたしは母方の祖母の家に行くのは好きでしたが、父方の家に行くのは嫌でした。理由は退屈だったからです。母方の家は親戚が多くて話し相手が多く、色々な食事を楽しめたのですが、父方の家は親戚が少なく、他の親戚は誰もおらず、わたしたち家族だけが滞在していました。祖父は寡黙な人で、祖母は無愛想な人だったので、ほとんど会話がありませんでした。その上、夜7時半になったら「もう寝なさい」と祖母は家の電気を無理やり消しました。いくら子どもでも、さすがにその時間に寝ることができず、布団に横たわって何をすることがない退屈な時間を過ごしました。さらに父方の祖母は食事が上手でなかったので、料理は数えるほどしかなく、同じものを繰り返し食べていました。このような環境は子どもにとってかなり辛いものでした。
 ただ、父方の実家からタクシーに乗って空港に行く時、祖母は必ず後ろからわたしたちの乗ったタクシーを寂しそうな顔をしながら追いかけてきました。そのことを思い出すと今でも心が痛みますが、なにぶん小学生だったわたしに祖母と上手に接することは無理だったでしょう。ちなみにわたしの母も「あの人とうまく接するのは無理だった」とわたしに言いました。
 わたしが中学生の時、祖母が病気になって生活が難しくなったため、祖父とともに五島列島の実家から大阪に引っ越してきました。祖父はわたしたちの実家のすぐそばに住み、祖母は入院しました。ある日、中学校の遠足の解散場所が祖母の入院していた病院の近くだったので、「祖母のお見舞いに行こう」と思い立ち、一緒に帰る予定だった友達に「用事がある」と断り、祖母のお見舞いに行きました。祖母の病室に入ったら、祖母は大変喜んでくれました。そのことは今でもよく覚えています。今思えば、祖母は不器用な人で、自分の思っていたことを素直に表現できない人だったのです。そんな祖母をわたしは怖いと思っていましたが、その祖母のことをよく覚えているのはとても不思議だと思います。
 祖母は「働き者」であったと、祖母を知る人は祖母をそう評しています。わたしは黙々と働く祖母の姿に尊敬の念を抱いていました。今思えば、わたしは祖母の姿を通して、信仰を生きる人の姿を見たと言うことができます。わたしは司祭として秘跡を執り行い、説教を通して、神の言葉を解き明かすという大変な使命を行なっています。あるいは学校の授業や幼稚園のチャプレンという仕事があるため、わたしの生活はどうしても言葉を語ることに偏りがちです。
 けれども、祖母のような寡黙で働き者の人と接することによって、わたしは司祭職における行いの大切さを絶えず心に留めています。わたしの心に残っている祖母の姿は行いを通して、司祭職を生きるようにわたしを促しています。その心を持ち続けながら、これからも司祭職を歩み続けたいと今思っています。