担当司祭から:2021年6月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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パドバの聖アントニオと神学生時代の思い出

幼いキリストを抱くパドバの聖アントニオ(フランシスコ・デ・スルバラン画) 6月13日はパドバの聖アントニオの記念日にあたります。フランシスコ会の聖人であり、13世紀に活動した聖人でフランシスコ会の司祭です。フランシスコ会の創立者聖フランシスコや聖アントニオの少し後に活動したフランシスコ会の聖人である聖ボナヴェントゥラに比べるとあまり有名ではないですが、わたしにとっては思い出深い聖人です。なぜなら、わたしはこの聖人の名前を持つフランシスコ会の神学院に通って、司祭になるための勉強をしたからです。今日はその思い出話を書きたいのですが、その前に聖アントニオの生涯について簡単に書きたいと思います。
 パドバの聖アントニオは12世紀末にポルトガルのリスボンに生まれました。アウグスチノ会で司祭に叙階されましたが、アフリカでの宣教活動を志してフランシスコ会に移りました。けれども、アフリカに長く留まることはできず、フランスとイタリアで説教活動に従事し多くの人に影響を与えました。彼の説教は雄弁で多くの異端者を正統信仰に戻す力がありました。同時に優れた学識を持っていたため、フランシスコ会で神学を修道者に教える最初の教師となりました。けれども、パドヴァ(パドバ)近郊で1231年に30代半ばで亡くなりました。長く生きていたならば、多くの説教や著作が残っていたことでしょう。
 ところで、パドバの聖アントニオは無くし物の聖人としてヨーロッパで大変有名です。わたしは物を無くすことが多いのですが、神学校に入った時に当時いた修道院の神父様から「パドバの聖アントニオにお祈りすれば、見つかるよ」と聞いて初めて知りました。
 さて、わたしは聖アントニオ神学院で学んのですが、わたしが卒業する前から学生はかなり減っていたので、かなり厳しい状況だろうと思います。わたしが在籍した頃には10数名の学生が神学を学んでいました。教授たちから色々学んだことを今懐かしく思い出します。わたしたちが教授の質問に答えられないと「あなたたちは勉強が足りないね」と言われたことも度々ありました。また、司祭になった後に経験するであろうことをご自分の体験をもとに話してくださいました。学生時代は「そんなことがあるのか」と懐疑的に聞いていましたが、実際体験してみると「なるほど、こういうことなのか」と思いました。
 学生時代の学びの中で一番貴重だったのは荘厳ミサの侍者をしたことでした。荘厳ミサとは香炉を使って行うミサのことであり、神学院では聖アントニオの祝日や特別のお祝いの時に荘厳ミサを行っていました。わたしが当時住んでいた修道院では荘厳ミサを行う機会がほとんどなかったので、そのミサの侍者に選ばれると大変緊張しました。わたしは機敏な動作ができないで、神学校の教授から叱責を受けることも度々ありました。当時はすごく辛かったですが、今にして思えば、あの経験があったからこそ、今わたしが司祭として曲がりなりにも司牧を行うことができていることに感謝しています。もっとも今も香炉を使うのはあまり上手でないので、わたしが葬儀ミサをしている姿を教授が見たらおそらく色々指摘されるだろうと思いますが。
 今司祭になる人が減少しているので、司祭になるための基準を緩やかにする傾向があると聞きます。けれども、わたしはそれに反対です。なぜなら、司祭として教会で働くためにはしっかりとした学びと司祭として生きる使命感が必要だと思うからです。説教やミサの所作の上手下手は別として、司祭として歩み続けるためには、司祭を志す人がしっかりとした意向を持っているかを慎重に識別しなければならないとわたしは感じています。
 パドバの聖アントニオの話からだいぶ逸れましたが、今回の教会だよりではわたし自身の経験を書かせていただきました。少ないながらも司祭を志している人、そして若くて司祭になり多くの困難を経験している司祭たちのために、どうかこのホームページをお読みの皆さんのお祈りと支えをお願いしたいと思います。