担当司祭から:2021年2月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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福者 ユスト高山右近殉教者

(「道後教会だより」2021年2月号より)

高山右近像 今月の教会だよりは福者ユスト高山右近殉教者を取り上げます。4年前に大阪で列福されたのは記憶に新しいところです。わたしも列福式に参加したのを昨日のように懐かしく思い出します。高山右近は有能な戦国武将として織田信長・豊臣秀吉に仕えました。今月の教会だよりは彼の生涯の細かい点には触れず、彼の生涯におけるいくつかの際立った点について書きます。
 まずは彼が大名として活躍しながら、キリスト教への信仰に熱心であった点です。これは他のキリシタン大名にも見られたましたが、右近が際立っていた点は織田信長が作った安土のセミナリヨ(現在の神学校)を信長の死後、自分が治めていた高槻城に受け入れ、それを私財で支えていたことです。多くのキリシタン大名は宣教師を受け入れていたのは、信仰を広めることがもちろん主な目的でしたが、それとともに当時スペインやポルトガルからやってくる商人との貿易が目当てでもありました。けれども、司祭になる前の神学校を受け入れて、それを私財で支えたのはわたしの知る限り右近だけだと思います。これは当時のキリシタン大名において右近が抜きん出ていた点だと言えます。
 二つ目は1587年に豊臣秀吉の禁教令の後のことです。この時、右近は禁教令に従わずに自分の治めていた土地を没収されたことは良く知られていますが、実はこの後彼は秀吉に再び召し出され、前田利長に仕えて小田原の北条家との戦いに参戦しています。それは禁教令が実効性に乏しいものであったにせよ、秀吉が右近を「有能で信頼に値する武将」だと認めたことを意味します。それには信仰に裏打ちされた右近の人柄が優れていたことも大きく影響していたでしょう。その状況において右近はキリスト教の宣教を続けていました。自身が大名の時ほど裕福でなかったにせよ、右近は前田利長が治めていた金沢でイエズス会の修道院を建て、司祭たちの生活を援助していました。先ほど述べたように、貿易の利益を得る目的でキリシタン大名になった者もいた中で、司祭・神学生の生活の援助を行っていた点で右近は特筆すべき人物だと言えます。
 そして、三つ目は徳川家康によって、マニラに追放されたことです。これはよく知られています。右近はこの時すでに60歳を超えていました。普通なら全く違う国に行くことを躊躇い、拒むことでしょう。秀吉の時と違い、家康は徹底してキリスト教を弾圧したので、キリスト教の信仰を捨てずに家康の元で仕えることは不可能でした。実際それまでいたキリシタン大名の多くは棄教しました。しかし、右近は信仰を捨てず、フィリピンのマニラに追放されることを受け入れました。右近は1614年にマニラに到着しますが、現地に到着して40日後に病を得て、翌年2月5日(または3日)に死亡しました。このような高山右近の生涯は、戦国時代の激動の中で信仰に生きた大名として称えられ、2017年に列福されました。
 右近は「殉教者」として列福されたことは皆さんご存知だと思います。右近は厳密な意味での殉教の死を遂げたとは言えませんが、徳川家康によって追放された時、自らの教えに殉じて日本から追放されたという意味で殉教であったと解釈して、カトリック教会は高山右近を列福しました。
 しかし、同時にわたしはそれとともに上に述べたように戦国武将として有能でありながら、司祭や神学生を保護したことにもっと目を向けるべきでしょう。それを戦国武将という立場にありながら行ったことで、右近は特筆すべき人物だと言えます。わたしたちはその右近の姿に自分の生きた社会の中で信仰を証する模範を見出すことができるでしょう。