担当司祭から:2021年1月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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2020年の振り返りとヨセフ年

(「道後教会だより」2021年1月号より)

 2020年が間もなく終わろうとしています。今年はコロナウイルスを抜きにしては語れない年でした。2月頃から感染者が増加し、4月中旬から5月上旬まで緊急事態宣言が発令されるという例を見ない状況に至りました。その結果、予定されていたオリンピックは来年に延期となりました。緊急事態宣言が解除され、一旦は感染者の数は落ち着いたものの、11月になって感染者が全国で急増し、感染者の増加は高止まりの状況です。この状況で不安を抱えながら、新しい年を迎えることになりました。
 今年は教会もコロナウイルスによって大きな影響を受けました。四国では3月の初めから5月下旬まで公のミサや祭儀が一切停止されました。6月にミサは再開したものの ― 地域によって違いますが ― 聖歌を歌わず、間隔を取って信者が座る状況が続いています。さらにミサの参加者には名前と連絡先を必ず書いていただき、万が一の際に連絡を取れるようにしています。大阪などでは年末年始にミサを中止する教会もあり、一層の警戒が求められています。幼いイエスを抱く聖ヨセフ(グイド・レーニ画)
 そんな中、ローマ教皇フランシスコが2020年12月8日に「ヨセフ年」の公布を宣言しました。期間は公布した日から来年の12月8日までの1年間です。
 教皇は同日、使徒的書簡「パトリス・コルデ」(父親の心で)を発表し、イエスの養父としての聖ヨセフの優しさやあふれる愛、神からの召命への従順さ、父親としてあらゆることを受容し、創造性をもって行動した勇気、質素な労働者としての姿、目立つことがなかった生き方に触れています。聖ヨセフは「執り成しの人、苦難の時に支え、導いてくれる人」だと教皇は記しています。教皇フランシスコは、使徒的書簡で新型コロナウイルスのパンデミックが続く中、聖ヨセフが示してくれているのは、日々の困難を耐え忍び、希望を示しているが、決して目立つことのない「普通の人々」の大切さだと強調しています(この段落は中央協議会のWEBページから引用)。
 コロナウイルスが広がり始めてから、「コロナに打ち勝つ」という言葉がしばしばメディアで聞かれるようになりました。最近では菅総理大臣が「コロナに打ち勝った証として来年の東京オリンピックを開催したい」と報じられましたが、わたしは違和感を抱きました。なぜなら、その言葉に「人間の強さ」を誇示する姿勢を感じたからです。東日本大震災を始め歴史の中で多くの災害を経験している日本人は、自然と共生する大切さを知っているのに、それを無視しているのではないかとわたしは感じました。もちろん、コロナウイルスのワクチンが開発され、感染が収束することを誰もが願っています。けれども、コロナウイルスのような世界を脅かすような病が再び起こる可能性はあるでしょう。
 そこで、先ほど引用した教皇フランシスコは注目すべきです。聖ヨセフの姿が示すのは、日々の困難を耐え忍び、希望を示しているのが、決して目立つことのない「普通の人々」の大切さです。コロナウイルスが感染してから医療従事者の働きがクローズアップされますが、わたしたち一人ひとりが慎みある行動をし、最大限コロナウイルスにかからないように努力すべきです。
 偶然わたしはNHKニュースで、あるコロナウイルスに感染した方のインタビューを見ました。そのインタビューでその方は「コロナウイルスに罹らないことが医療従事者を助ける最も良い方法だ」と言われていました。この言葉は教皇フランシスコの「一人ひとりが困難を背負う」ことにつながるのではないでしょうか? 不自由だけども、自分の生活を慎むことが今のわたしたちにできることなのです。コロナウイルスが流行する前と同じように生活をして遊び回った挙句に感染するとすれば、それは軽率ですし、ましてや「コロナにかかっても軽症なら大丈夫」という考えは論外です。
 来る2021年がコロナウイルスの感染が収まり、以前に近い生活ができるという希望を持って迎えたいものです。2021年が皆さんにとって良い年となることを心から願ってこの文章を閉じることにします。