担当司祭から:2020年11月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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ラテラン教会の献堂

(「道後教会だより」2020年11月号より)

 来る11月9日に教会はラテラン教会の献堂をお祝いします。ラテラン教会の献堂は、教会の暦では「祝日」です。日曜日は教会の暦では「主日」、すなわちイエス・キリストの復活を記念する日なので、原則として聖人や他のお祝いをしません。ところが例外があり、「祭日」と言われる大きなお祝いが日曜日に重なった場合はその「祭日」が優先されます。「祭日」とは神の母聖マリア、聖ヨセフ、洗礼者ヨハネの誕生、聖ペトロ・聖パウロ、そして11月1日の諸聖人です。
 ところが、ラテラン教会の献堂は教会の暦では祝日ですが、日曜日に重なってもラテラン教会の献堂はお祝いされます。数年前ラテラン教会の献堂が日曜日にお祝いされた時がありましたが、おそらくあまりピンと来なかったと思います。それは、ラテラン教会が歴史的にどのような位置を占めているかがよく知られていないのが原因だと思います。そこで、今回の教会だよりでは「ラテラン教会」の歴史的な位置づけについて書きます。
 ラテラン教会は西暦324年頃に献堂されました。この時代は、初代教会の時代からローマ帝国によって受けた迫害が終わり、キリスト教が認められたすぐ後です。ラテラン教会はキリスト教徒に信教の自由を与えたコンスタンティヌス大帝から土地を与えられて建設され、最初からローマ司教が住む司教座聖堂でした。「司教座聖堂」とは司教が住まわれる教会のことであり、高松教区であれば桜町教会がそれにあたります。現在サンピエトロ大聖堂が司教座聖堂ですが、それは14世紀の末でした。
 ですから、「ラテラン教会の献堂」は本来ローマの教会だけのお祝いでした。しかし、それが全世界の教会の祝日となったのは、ローマ教皇が全世界のカトリック教会の長になったからです。これは昨年2月の教会だよりで書いたことですが、ローマ教皇の本来の役目はローマ司教です。これは今でも変わりません。ところが、西暦4世紀の後半にローマ帝国が東西に分裂した頃からローマ帝国の力が弱まりました。東ローマ帝国はビザンツ帝国という形で15世紀まで存続しましたが、西ローマ帝国は西暦476年には滅亡します。
 それ以前から、異民族が頻繁にローマに進攻してきましたが、西ローマ帝国が滅亡した時から、ローマ教皇がその異民族の進攻に対応することになったのです。それで有名なのは、ラテラン教会献堂の翌日に記念するレオ1世でした。彼はローマに侵攻してきた異民族の長とたびたび会談して、ローマへの進攻をやめさせることに成功しました。それで有名なのはフン族の長アッティラと直接会談したことです。それによって、レオ1世はローマ・カトリック教会の権威をヨーロッパ社会に広く知らしめることになりました。それによって、レオ1世は「大教皇」と呼ばれます。
 この時代以降、ローマ教会は全世界の教会を導く立場を獲得し、ローマ司教が「教皇」と呼ばれるようになったのです。そこで、教皇の住まいであるラテラン教会の献堂を祝う習慣が11世紀ごろから始まり、16世紀の中ごろには全世界のカトリック教会でお祝いするようになりました。
 だから、ラテラン教会は「ローマと全教会の頭または母」と呼ばれます。「ラテラン教会の献堂」を祝うのは、ローマ教会への崇敬と愛を表すことになり、それは、ローマ・カトリック教会の長である教皇に従うことを意味します。
 昨年11月にローマ教皇が来日された時、多くの人々が喜び迎えました。けれども、その後、世界中に流行している新型コロナウイルスによって、多くの日本人はその喜びを忘れつつあります。けれども、ローマ教皇は日本で確かなメッセージを残された事実に変わりはありません。そのメッセージをわたしたちは今改めて心に刻み、ローマ・カトリック教会で培われた伝統に則って、この時代にあっても、信仰に生き続ける大切さを改めて確認しましょう。ラテラン教会の献堂の祝日はローマ教皇の権威をわたしたちに思い起こさせる日なのです。