担当司祭から:2020年10月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

区切り線

幼いイエスの聖テレジア

(「道後教会だより」2020年10月号より)

幼いイエスの聖テレジア 来たる10月1日に教会は幼いイエスの聖テレジアを記念します。日本において人気のある聖人の一人であり、この聖人を洗礼名に選ぶ方も多いです。彼女はフランス語表記で「テレーズ」と呼ばれることが多いのですが、ここでは「テレジア」で統一します。また、幼いイエスの聖テレジアは「小テレジア」と呼ばれることもありますが、これは同じ月の15日にアビラの聖テレジアを「大テレジア」と区別するためです。
 幼きイエスのテレジアは1873年にフランス北部のアランソンで9人兄弟の末っ子として生まれました。しかし、結核などの病気で4人が夭逝し、5人の娘が成長しました。ちなみに、テレジアの姉たちものちに修道院に入り、5人姉妹は全て修道女になりました。テレジアが4歳の頃母親が亡くなり、その時、父は子どもたちを引き連れてリジューの地に移り住みました。彼女は幼い時から姉の世話を受けていましたが、その姉がカルメル会の修道女になったので、テレジアは修道女になることを強く希望し、14歳の頃カルメル会への入会を希望しました。しかし、余りにも若すぎたので断られ続け、彼女がカルメル会に入会したのはその2年後のことでした。
 テレジアはインドシナへの宣教を志していたと言われますが、幼い頃から体が弱かったので、その希望は叶いませんでした。修道院の副修練長として姉妹たちの指導に当たっていましたが、結核のため1897年9月30日に24歳の若さで亡くなりました。この生涯の略歴だけを見ると、テレジアの生涯に特筆すべきことはありません。
 テレジアが教会でこれほど有名な聖人となったのは、ひとえに彼女の人柄と彼女が書き残した書物のためです。テレジアは病弱であったにもかかわらず、友人たちに快活な文章を書き続けました。それを読んで彼女が元気であると思って、彼女に会いに行った人がひどく衰弱していた彼女の姿を見て驚いたというエピソードがあるくらいです。
 それにもまして、彼女の「自叙伝」は大きな影響を与えました。「自叙伝」は彼女自身の単純で飾らない文体で書かれた祈りや信仰に関する文章が集められたもので、それが出版されるとたちまちヨーロッパで彼女は有名になり、それと共に彼女の取りなしで病気が治ったという奇跡も多く報告されました。そのため、彼女は死後28年の1925年に教皇ピウス11世によって列聖されました。これは当時の教会で通常死後50年は列聖されないという常識を覆す異例のことでした。
 テレジアが書き残した思想の中心を占めるのは「愛」でした。テレジアは自らが病弱であったためか、自分が教会の中で果たせる役割が何かを思い悩んでいました。その時、テレジアはパウロが書いたコリントの信徒への第一の手紙の12章と13章に目を留めました。12章は教会がいろいろな部分から成り立っていることが記されている箇所であり、13章は「愛がなければ無に等しい」という言葉でよく知られ、「愛の賛歌」としてカトリック教会の中で伝統的に歌われています。
 テレジアはこの二つの箇所から、自分が教会の心臓の中で愛となるという思想を導き出しました。そこでテレジアは他人への赦し、誤解や批判を甘んじて受けとめること、苦手な人のためにも祈り善行をなすことが「完徳」への道のりであると書いたのです。
 信仰は時として「義務」的な祈りに陥りやすいものですが、テレジアは日常生活の中での行いが信仰にとって大切であると説いています。このテレジアの思想はわたしたちにとってなじみやすいものです。興味を持たれた方はテレジアの「書簡」や「自叙伝」を読んでみてはいかがでしょうか。