担当司祭から:2020年9月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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祈りについて(3)念祷

 かなり飛び飛びになりましたが、祈りについて今まで2回書きました。最初が2018年12月に取り上げた「黙想」で、次は2019年10月に取り上げた「口祷」でした。今回は「念祷」について取り上げます。おそらく、大半の信者はこの祈りに馴染みがないでしょうが、教会の伝統の中で ― 特に聖人たちによって ― 大切にされてきました。アビラの聖テレジア(ルーベンス、1615年)
 念祷を大切にした聖人としては、アビラの聖テレジアが有名です。彼女は病気に罹り、また当時の修道生活を刷新しようとする動きに反対する人々によって大きな苦しみを受けましたが、祈り、特に念祷によって神との親しい交わりを築いたことによって、これらの困難を乗り越えることができたのです。
 アビラの聖テレジアは念祷について次のように述べています。「念祷とは、わたしの考えでは、わたしを愛しておられる神としばしば語り合う、友愛の親密な交わりです。わたしたちはその神から愛されていることを知っているのです。」(『カトリック教会のカテキズム』2709参照、以下『カテキズム』と略)
 神との親密な交わりと聞くと、「神様、助けてください」「神様、感謝します」と唱えながら生活するようなこと、あるいは絶えず祈り続けること、と想像するでしょう。確かにそれは正しいのですが、念祷はその次元に留まらないものです。『カテキズム』は念祷を次のように説明しています。「暇があるときに念祷をするのではなく、たとえ主との出会いを妨げるようなことがあったり、心が無味乾燥した状態にあったとしても、念祷中に主から一刻も気をそらさないという固い決意が要ります。」(『カテキズム』2710)。
 このような覚悟を持って祈ることは大変難しいことです。わたしたちの生活は日々起こる様々な出来事によって、心が散らされることがよくあります。だから、念祷は「祈りの絶頂」(『カテキズム』2714)なのです。
 念祷を説明する他の『カテキズム』の言葉を見てみましょう。念祷は「神の子供の祈り」(『カテキズム』2712)、「祈りの神秘のもっとも単純な現れ」(『カテキズム』2713)、「イエスへと注ぐ信仰のまなざし」(『カテキズム』2715)、「神のことばに耳を傾けること」(『カテキズム』2716)、「キリストの祈りと一つになること」(『カテキズム』2718)。
 これらの言葉に共通する要素は「一致、単純さ」です。つまり、念祷は神と一つになり、神を「単純に」信頼する祈りです。様々なことを要求される現代社会において、念祷はその対極に位置する祈りだと言えます。なぜなら、現代人は「単純さ」を失っているからです。
 現代は情報化社会であり、情報を得ることによって、物事を判断します。ご存知の通り、現代にはたくさんの情報が溢れています。その中で、必要な情報とそうでない情報を振り分ける習慣がわたしたちには自然と身についています。そのため現代人には「単純さ」を保つことができません。だから念祷は現代人にとって難しい祈りなのです。
 ところが『カテキズム』において念祷は2709~2719までの11項目にわたって説明されています。口祷が5項目、黙想が4項目の説明であるのと比べると、教会の歴史の中で「念祷」が大切にされてきたことが分かっていただけると思います。
 だから、わたしたちも念祷をする機会を少しでももうけてみることをお勧めします。けれども、念祷はしばしば「神との親密な交わり」を求めるあまり、独りよがりになることがあるからです。先ほど引用した『カテキズム』において、念祷が「神のことばに耳を傾けること」であると説明されていました。
 それと同時に、自分の弱さを認め、その弱さを受け入れてくださる神に感謝し、その神を「愛したい」という気持ちも大切です。念祷は「神の言葉を聴きたい」という思いと「神を愛したい」という思いが両方あってこそ成り立つ祈りなのです。
『祈りの友』表紙 参考として、カルメル会が発行している祈祷書『祈りの友』に念祷をする具体的な方法が数ページに渡って説明されていますので、実際に念祷をされたい方は是非お読みください。