担当司祭から:2020年8月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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マキシミリアノ・マリア・コルベ ― アウシュヴィッツの聖者

(「道後教会だより」2020年8月号より)

 聖母被昇天の前日8月14日に教会はマキシミリアノ・マリア・コルベ司祭を記念します。「コルベ神父」というと、アウシュヴィッツで他人の身代わりになって亡くなった人物として有名ですし、あるいは宣教師として日本に来て、今もある『聖母の騎士』を創刊したことでも知られています。コルベ神父の写真(1939年)
 コルベ神父は1894年にポーランドで織物職人の子どもとして生まれました。ポーランドという国は現在でも大半の人たちがカトリック信者であり、かつ強い聖母マリアへの崇敬を抱いていました。幼い頃に聖母マリアを幻で見たという話もあります。
 やがて、彼は13歳でコンベンツァル聖フランシスコ修道会の神学校に入学し、25歳で司祭に叙階されましたが、度々結核のため療養を余儀なくされます。それにもかかわらず、28歳の時『無原罪の聖母の騎士』を発行しました。最初の頃はこの雑誌の執筆はコルベ神父一人で、出版費は信者の寄付で賄われていたそうです。現代では考えられない話です。やがて、彼の行動に共鳴した人々が集まり、雑誌の発行は順調に進んでいきました。その後、コルベ神父は東方への宣教を志して、36歳の時に長崎の地へ来て、修道院を創設し、『聖母の騎士』の日本語版を発行しました。彼はのべ6年間日本に滞在して、布教に務めました。
 その後彼はポーランドに帰国し、布教活動を行いましたが、第二次世界大戦が勃発してから、その活動は縮小せざるを得ませんでした。1941年2月コルベ神父はナチスによって逮捕され、アウシュヴィッツ収容所に送られました。その5ヶ月後に脱走事件の疑いをかけられた軍曹の身代わりとしてガス室に入り、2週間後の8月14日に毒物を注射されて殺されました。コルベ神父は1982年同じポーランド人の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。
 このコルベ神父の生涯は多くの人の心をとらえます。それは、アウシュビッツでの出来事があったからです。彼の身代わりの死は日本の高校の歴史教科書に載っているくらい有名な話です。
 けれども、コルベ神父は古代・中世の聖人に見られるような「聖性に満ちた」人物ではありませんでした。彼が日本に滞在していた時、多くの兄弟を日本に呼びましたが、日本の生活に馴染めず帰国を余儀なくされる兄弟がいただけでなく、彼のやり方に反対して去っていった兄弟もいました。その苦悩を彼は率直に記しています。それと共に彼は自然に対してあまり関心を示さなかったと伝記に記されています。
 古代・中世時代の聖性に溢れた聖人たちも魅力的ですが、その聖人たちの本を読むと、現代のわたしたちには理解できない記述が見られます。わたしは神学生時代に日本での宣教で殉教したスペイン人のドミニコ会士の聖人伝を読んだ時に感じました。なぜなら、そこには「小さい頃から聖性に優れていた」とか「イエスのようであった」という記述がたくさんあったからです。わたしはその記述を否定しませんが、そのような伝記で描かれる人物と「自分自身」との接点を見いだせないので、とても違和感を覚えました。けれども、コルベ神父の生涯は人間らしい面が多々あるので、身近に感じることができます。
 現代社会の中で、わたしたちには多くの困難があります。コルベ神父の「身代わりの死」は確かに素晴らしいことですが、それだけでなく、多くの苦悩を抱えながら生きていた彼の姿は、コルベ神父とそれほど時間の隔たりない時を生きているわたしたちに確かな助けとなるでしょう。コルベ神父のとりなしを願いながら、日々信仰の歩みを続けられますように。