担当司祭から:2019年10月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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祈りについて(2) 口祷

 昨年の12月に「祈りについて」の1回目として「黙想」を取り上げました。それから一年近く経ちましたが、今日は第2回目として「口祷」を取り上げます。
 口祷とは、文字通り「口に出して唱える祈り」であり、わたしたちが日常的に行っている祈りです。ミサに来て「アーメン」と答え、またロザリオや朝晩の祈りを唱えるのが「口祷」の祈りです。けれども、信仰者にとって当たり前と思われる祈りが「難しい」と感じる人が多いこともまた事実です。どうしてなのでしょうか?
 カテキズムは口祷の説明として次のように書いています。「心の祈りを感覚を用いて表現するのは、人間本性の要求にこたえるために必要なことです。からだと精神とを兼ね備えているわたしたちは、思いを外面に表す必要を感じます。わたしたちの願いにできる限りの力を込めるためには、自分のすべてを挙げて祈らなければならないのです」(『カテキズム』2702)。この箇所には口祷の大切さとわたしたちが口祷に集中できない理由が示されています。
 上記の説明によると、口祷は「自分の全てを挙げて祈るもの」です。ところが、わたしたちが日々唱える祈り、あるいはミサで司祭の祈りに「アーメン」と応答するとき ― 特に聖体をいただくとき ― その言葉が自分の心の奥底から出ているとはっきり自信を持って言えるでしょうか? そう言える人は少ないのではないでしょうか?
 そうなる原因は現代人の生活にあると言えるでしょう。現代社会は通信機器が発達し、いつどこでも連絡が取れるようになりました。特に、スマートフォンを多くの人が持つようになるとすべての連絡が入ってきます。それは便利なことではありますが、常に誰かから連絡が来るというのはわたしたちが心を落ち着けて祈ることを妨げていると言えます。
 それと共に、ミサの言葉や祈りの言葉が形式的で自分の生活との接点が見出しにくいということもあるでしょう。ミサや祈りの言葉は外国語からの翻訳であり、どうしてもわたしたちの感性に合わないのは否定できないでしょう。祈る親子
 そこで、わたしはプロテスタントの自由祈祷を見習うべきだと考えます。わたしは数年前から中予地区のキリスト教一致集会のカトリック教会側の担当になり、プロテスタントの方との縁ができたため、年に2,3回ほどプロテスタントが主催する朝祷会でお話をする機会があります。その朝祷会の祈りに参加した人は、最後にそれぞれ自分の言葉で祈りを捧げます。
 最初、この場に参加したとき、わたしは戸惑いました。なぜなら、わたしは両親が長崎の五島列島の出身で、幼児洗礼を受け、カトリック教会の中で育ってきたため、自分の言葉で祈るという習慣が全くありませんでした。けれども、朝祷会に度々参加していくうちに自分の言葉で祈ることが信仰の表現として大切であると思うようになりました。自分の心にある思いを祈りにすることは「口祷」の大切な要素なのです。
 しかしながら、この祈りは、時として自分の思いだけを語るだけになって、神に対する願いや感謝がない単なる「おしゃべり」になる危険があります。そうならないために、自分の思いを言葉にした上で、聖書の言葉を唱えて、神に祈りを捧げることが必要です。わたしたちの思いを聖書の言葉に照らし合わせると、祈りは必ず深まります。そのためには『聖書と典礼』のパンフレットを保管しておき、しばしばそれに目を通して、自分の心に響く箇所を見つけておくといいでしょう。
 祈りは神との対話であると言われます。その対話をするためには自分の思いをしっかりと表現し、神の言葉と照らし合わせる必要があります。聖書は最も大切な導き手なのは言うまでもないことです。もし、聖書の言葉が自分の祈りに響くまでに至らないと思う方には、自分の思いを口にした後「主の祈り」や「アヴェ・マリアの祈り」を唱えることをお勧めします。
 次の機会には「念祷」という祈りの形式について書きます。