担当司祭から:2019年9月
聖ヨハネ・クリゾストモ ― 正統信仰の擁護者 ―
(「道後教会だより」2019年9月号より)
来る9月13日にカトリック教会は聖ヨハネ・クリゾストモをお祝いします。この聖人は東方教会で特に崇敬されている聖人です。東方教会において聖ヨハネ・クリゾストモが崇敬を受けているのは、彼が東方教会の中心であったコンスタンチノープルの主教であったからです。そこで今月の教会だよりは聖ヨハネ・クリゾストモについて書き、皆さんに聖ヨハネ・クリゾストモについて知っていただきたいと思います。
聖ヨハネ・クリゾストモは350年ごろアンティオキアで生まれ、幼少期に父が亡くなったので信仰深い母によって育てられました。クリゾストモは哲学・修辞学を学んだ後、アンティオキアの郊外で数年間修道生活を送り、381年に助祭に叙階され、386年に司祭に叙階されました。それから雄弁な説教と異端を論駁する文書を多く記し、クリゾストモの名前は東方教会において広く知られるようになりました。ちなみにクリゾストモという名前は彼の本名ではなく、ギリシャ語で「黄金の口」を意味する言葉です。いかに彼の説教が優れていたかを示しています。
やがて、クリゾストモは397年にコンスタンチノープルの主教に任命されました。コンスタンチノープルは当時東ローマ帝国の首都であったので、東方教会において最も重要な位置を占めていました。それは政治権力に迎合する司祭が貧しい人々を搾取するという状況を生んでいました。その主教になったクリゾストモはその状況を改革することに乗り出しました。自分の住む司教公邸を簡素にし、民衆を搾取する司祭たちを弾劾して、人々に信仰への忠実さに立ち帰るように訴えました。このようなクリゾストモの行動は多くの民衆に支持されましたが、権力者寄りの司祭の反対を受けることになりました。それだけでなく、当時の東ローマ皇帝の皇后エウドクシアや権力者たちとの対立を生みました。
その結果、クリゾストモは主教の座をはく奪されて追放され、407年にアルメニアに追放される途中のポントスのコマナという町で亡くなりました。このように聖ヨハネ・クリゾストモは不遇な生涯の終りを迎えたのです。
クリゾストモは主教として、初代教会の模範(使徒言行録4・32~37節)を社会生活の模範としてかかげました。それは単なる貧しい人に対する施しではなく、社会構造そのものにならなくてはならないと考えました。この彼の考え方は奴隷制度が根付いていた当時の社会に大きな影響を与えました。それは個人が国家に従属すると考えられていたのと違い、すべての人が平等な権利を有するという近代国家の概念を先取りするものだったのです。
聖ヨハネ・クリゾストモは生涯の最後に「あらゆることにおいて、神に栄光が帰されますように」という言葉を残しました。この言葉は現代のわたしたちにとって大切な言葉です。わたしたちはキリスト者として日々神の栄光を表すように努めているでしょうか? 現代人は多くのことに時間を割き、ゆとりのない生活を送っています。けれども、それはコンスタンチノープルの主教であったクリゾストモも同じでした。その中で彼は自らの生涯において言葉と行いを神の栄光を表すためにささげたのです。わたしたちも自らの生活を神の栄光を表すために歩むことができるよう、聖ヨハネ・クリゾストモの取り次ぎを求めましょう。