担当司祭から:2018年12月
祈りについて(1) 黙想
今年、教会は12月最初の日曜日から待降節に入ります。待降節期間中に行われる主の降誕への準備として、共同回心式と黙想会が挙げられます。共同回心式についてはいずれ書くことにしますが、今回は黙想会について書きます。
教会で一般的に行われる黙想会は、誰か一人司祭が話をして、それを信徒が沈黙のうちに黙想する、あるいは分かち合いをするという形式を取ります。そのため「司祭の話を聞くのが黙想」と思っている方もいるかもしれません。
ところで、黙想とは祈りの形式の一つです。『カトリック教会のカテキズム』には祈りの形式として口祷、黙想、念祷の3つが挙げられています。このうち、口祷とは祈りを口に出してする祈りのことで、普段わたしたちがミサの中で行っている祈り方です。念祷とはアビラの聖テレジアによると「わたしを愛しておられる神としばしば語り合う」ことです(『カトリック教会のカテキズム』2709、以下『カテキズム』と略)。これは一般の信徒にはあまりなじみがないかもしれませんが、優れた修道者の多くは、この祈りによって神との交わりを築きました。この二つの祈りについては、いずれ取り上げることにします。
では、黙想についてカテキズムはどのように説明しているでしょうか? カテキズムでは「黙想とは何よりも一つの探求」(『カテキズム』2705)であり、それは「キリスト教的生活の理由とあり方を探し求める」ことだと説明しています(『カテキズム』2705)。その探求は書物によって行われます。しかし、それは単に書物を読むだけでなく、「読んでいる内容を黙想して、これを自分自身に当てはめながら自分のものにしていく」(『カテキズム』2707)ことが求められるのです。その最終的な目標は「主イエスについての愛に満ちた探求、主との一致」です(『カテキズム』2708)。このように黙想とは大変な道のりであり、単に司祭の話を聞けばいいものではないことがお分かりいただけるでしょう。司祭修道者は生活の中で行うものですが、一般信者の方々には難しいでしょう。
そこで、皆さんには少しだけ黙想することをお勧めします。現代のわたしたちは人との関わりのみならず、インターネットやSNSによって大変多くの人と関わっています。このような生活によって、わたしたちの心はゆとりを失います。それを黙想によって、教会に来てミサに参加するときだけでなく、日常生活の中で信仰を育むことができるのです。
先ほど書きましたように、黙想は書物を読むことによって行います。その材料としてカテキズムは「聖書、特に福音書、聖画像や当日ないし季節の典礼文、霊性に造詣の深い教父たちの著作、霊的生活に関する著作、神の「今日」が書き記されている被造界や歴史という偉大な書」(『カテキズム』2705)を黙想の材料として勧めています。この中でわたしたちにとってなじみが深いのは聖書や聖画像ですから、この2つを用いて黙想するのがよいでしょう。
それを毎日寝る前の短い時間に聖書をペラペラッとめくって目に留まった箇所を読むとか、またはイエスやマリアやヨセフの像の前に座ってそれを眺めて聖家族の生涯を黙想するとかで十分です。長い時間するのではなく、少しずつ黙想することによって、わたしたちの信仰は育まれていきます。わたし自身のことを言えば、寝る前に十字架のイエス像を眺めて、その生涯を黙想し、その生涯と自分がキリストの代理者である司祭として歩むことに対する不安や苦しみを思い起こします。いつもではありませんが、落ち着かずに慌ただしい心が静まって、心が穏やかになって眠りにつくこともあります。
毎週日曜日に教会に行くことはキリスト信者の根幹ですが、教会に来ることのない平日でも黙想によって信仰を深めることは大切なことです。寝る前の短い黙想、皆さんも始められたらどうでしょうか。