担当司祭から:2018年11月
王であるキリスト
(「道後教会だより」2018年11月号より)
カトリック教会の典礼が待降節から始まると以前の教会だよりで書いたことがあります(2016年12月の「教会だより」参照)。その前の週に毎年祝われるのが「王であるキリスト」の祭日です。この「王であるキリスト」の祭日の意義について、今月は書いてみたいと思います。
この祝日は1925年のピオ12世の回勅によって定められました。1925年といえば、第一次世界大戦後に社会が不安定化し、ドイツのヒトラーなどの独裁者が誕生しようとしていた時代でした。その時代に教皇様はキリストが王であると記念することによって、キリスト教の持つ真の価値を人々に訴えかけたのです。そこで、現代を生きるキリスト信者にとってキリストが王であるというのはどういう意味を持つかを考えてみましょう。
「王」というのは、古代から中世を経て近代に至るまで、大勢の家来を従えて国を支配していた政治的な権力者でした。その王のもとには大勢の民からお金や食料が集まったので、王は富を有する存在でした。今もヨーロッパではその王たちが建てた豪華な城が残されています。
ところが、イエスはそのような王ではありませんでした。イエスがなぜ「王」といわれるのか、については福音書にあるペトロの信仰告白を思い出していただきたいのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ福音書16章16節)とペトロは言いました。このメシアというのは「救い主」という意味ですが、この言葉は「イスラエルをローマ帝国から解放する者」という意味を持っていました。
だから、イエスはこの言葉を自分について使うことを厳しく禁じました(マタイ福音書16章20節参照)。また、ヨハネ福音書ではイエスが五千人にパンを与える奇跡を行ったのち、満腹した人々がイエスを王にしようとしたので、イエスは山に退かれたとヨハネ福音書6章15節に記されています。それはイエスが政治的な意味でのメシアではなかったからです。
では、イエスはどのような意味でメシアだったのでしょうか? その意味をまとめているのが「叙唱」という祈りです。「叙唱」とはミサの中で奉献文が始まる箇所で特別な日のミサには、そのミサの意義がまとめられています。「王であるキリスト」の祭日の叙唱には次の言葉があります。「あなたはひとり子であるイエス・キリストに喜びの油を注ぎ、永遠の祭司、宇宙の王となさいました。キリストは十字架の祭壇でご自分を汚れない和解のいけにえとしてささげ、人類あがないの神秘を成し遂げられ、宇宙万物を支配し、その王国を限りない栄光に輝くあなたにおささげになりました。」つまり、キリストが王であるというのは、その十字架の死と復活によって、人類の罪をゆるし、すべての人々を神のもとへと導くという意味で王なのです。
だから、王であるキリストの祭日を祝うのは、キリストの十字架の死と復活のわざを記念することなのです。それは普段の主日と変わらないですが、最初に書いた通り、「王であるキリスト」の祭日は待降節の前、すなわち年間最終の主日に祝われます。待降節はキリストの到来を待ち望む期間ですから、その前の週に王であるキリストの祭日を祝うのは、宇宙万物の王であるキリストが再び来られるのを待ち望むという意味があるのです。キリストの再臨はいつの時代のキリスト信者にとっても待ち望まれる大切な希望です。その希望は「キリストが宇宙万物の王として、この世界を治めておられる」という信仰に基づくのです。このことを心に留めて、王であるキリストの祭日を祝いましょう。