担当司祭から:2018年10月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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アシジの聖フランシスコ

(「道後教会だより」2018年10月号より)

 来る10月4日はアシジの聖フランシスコの祝日です。アシジの聖フランシスコは自然を愛する「太陽の賛歌」はよく知られている聖人であり、わたしの属するドミニコ会の創立者聖ドミニコとほぼ同時代に生きた聖人です。
 聖フランシスコが創立したフランシスコ会はドミニコ会とも関係が深く、聖ドミニコの祭日をフランシスコ会の司祭が司式し、聖フランシスコの祭日をドミニコ会の司祭が司式する習慣があります。残念ながら、日本で今はこの習慣は行われていませんが、わたしがローマに滞在していたとき、この習慣が行われていたことを思い出します。そこで今月はフランシスコの生涯について書いてみたいと思います。
 フランシスコは1181年頃イタリア中部のアシジの町に生まれました。裕福な家に育ち、若いころは散財をする享楽的な生活を送っていました。その一方、彼は兵士として戦争に参加し、騎士になることを志していました。けれども、戦争で捕虜になり、大病を患った後、それまでの生活に虚しさを覚え、ときおり洞窟にこもって祈るようになりました。そして、アシジのサン・ダミアーノ聖堂で祈っていた時、磔のキリスト像から「フランシスコよ。行って、私の教会を立て直しなさい」という声を聞き、各地の聖堂を立て直す活動を始めました。このとき、父の金を無断で人々に施したのをきっかけに父と絶縁したのですが、父の前ですべての衣服を脱いで裸となったという逸話が伝えられています。
 フランシスコはハンセン氏病の人々の奉仕と聖堂の修復を本格的に開始しました。その活動に共感した人々はフランシスコと生活を共にするようになりました。フランシスコは共に活動をする者を「兄弟」と呼び、自分たちの集団を「小さき兄弟会」と名乗りました。これがフランシスコ会の正式名称です。
 フランシスコは報酬を受け取ることなく働き、生活のためのお金は寄付で賄う「托鉢」という生活を始めました。同時代を生きた聖ドミニコも同じ生活をしていたので、聖フランシスコと聖ドミニコによって創設された修道会 はどちらも「托鉢修道会」と呼ばれました。
 そののち、1210年当時の教皇インノケンティウス3世から「小さき兄弟団」の活動の許可を口頭で受け、活動を本格的に開始します。それまでのハンセン氏病の患者への奉仕、 説教、労働に加えて、海外への宣教を開始しました。こうして、フランシスコ会は発展し、1219年に行われた修道会の総会には3,000人あるいは5,000人が集まったとされます。
 ところが、その時すでにフランシスコ会の中で分裂が起こりました。それは、フランシスコの精神に従って清貧に生きることを中心にする派とフランシスコの精神を緩和して、学問の研究を行う派が対立したことです。フランシスコはもともと学問の研究に否定的でしたので、学問を研究する派を認めることを躊躇いました。結果的にフランシスコは学問の研究する派を認めたものの、その対立に疲れたフランシスコは1220年に修道会の総長を辞して、祈りの生活に入りました。それから、彼は1226年に亡くなるまで祈りの生活を行いながら宣教を続けました。
聖痕を受けるフランシスコ(ジョット・ディ・ボンドーネ) フランシスコはこの時期に聖痕を受けたことは有名です。聖痕とは、十字架刑に処せられたキリストの5か所の傷(両手、両足と脇腹)と同じものが身体に現れたものを言います。フランシスコはこの傷を1224年頃受けたと伝えられています。また、全世界のカトリック教会で待降節に作られる馬小屋も聖フランシスコが最初に作ったとされています。
 このような聖フランシスコが過ごしたドラマティックな生涯は多くの人に感銘を与え続けています。現教皇が「フランシスコ」の名前を選んだことは教会に驚きをもって迎えられました。それは聖フランシスコの精神が現代に必要であることを示しているのではないでしょうか。