担当司祭から:2018年1月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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神の母聖マリア

(「道後教会だより」2018年1月号より)

 新年明けましておめでとうございます。皆さんにとって2017年はどのような年だったでしょうか。わたしは昨年春に愛媛県中予地区のモデラトールに任命を受け、今までとは状況が一変し、仕事量が増えました。そのために周りの方々に負担をかけることが多々ありました。今は生活に慣れてきて、これからの歩みを続けていく決意を新たにしています。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
幼子イエスを抱いた聖母マリア像 新年最初の日、教会は「神の母聖マリア」の祭日を祝います。この日はカトリック教会において復活祭や降誕祭と同じく「守るべき祝日」とされています。カトリック教会の典礼暦には聖マリアを祝う日がたくさんあります。それはカトリック教会が聖母マリアへの崇敬を大事にしていることの表れです。
 しかし、この聖母マリアへの崇敬がプロテスタント諸教派から「カトリック教会はマリアを崇拝している」と批判されることがあります。実際カトリック教会の歴史においてマリアに対する極端な信心があったことは事実ですし、今もその名残があります。けれども、マリアへの信心はキリスト教の信仰の本質ではありません。なぜなら、カトリック教会はマリアを「崇敬」しますが、「崇拝」しないからです。「崇敬」と「崇拝」の違いは、「崇敬」は対象となる人物を尊敬することですが、「崇拝」は対象となる人物を拝むことです。カトリック教会において、「崇拝」されるのは完全な神でありかつ完全な人間であったイエス・キリストただお一人です。だからマリアは「崇敬」される方であって「崇拝」される方ではないのです。まず、このことを理解しておく必要があります。
 そこから「神の母聖マリア」の祭日の意味が理解できます。「神の母聖マリア」の祭日はマリアを「崇拝」するのではありません。「神の母聖マリア」の祭日の意味は、この日に読まれる福音を読めば分かります。そこではイエスの誕生を伝えられた羊飼いたちが聖家族のもとを訪れる箇所です(ルカ福音書2章12〜16節)。ヨセフとマリアにとって、自分の全く見ず知らずの人々が自分たちの子供を探し当てたことは驚きでした。けれども、マリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らした」のです。
 「思い巡らしていた」という言葉は福音書でイエスの誕生から成長に至るまでに何回か登場します。それはイエスにまつわる理解しがたい出来事に直面した時にマリアが取った姿勢を表しています。普通なら「なぜ」と言いたくなることでも、マリアは神の意志を見出すために言葉を発しませんでした。それは、マリアがイエスの誕生を天使から告げられた時、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と答えたことで神の意志に従って生きることを決めたからです。仮に、マリアが天使の呼びかけを受け入れなかったならば、マリアは「神の母」と呼ばれることはなかったでしょう。
 マリアが登場するのは主にイエスの誕生からイエスが公生活に出る時までですが、それ以外にも福音書にはマリアに言及しています。ヨハネ福音書はマリアがイエスの十字架のそばに立っていた(19章25〜27節)と記していますし、使徒言行録はイエスが天に昇ったあと、弟子たちと共に祈っていた(1章14節)と記しています。ですから、マリアが「神の母」と呼ばれるのは、マリアが神の意志に従ってイエスを生み、イエスと共に生涯を歩んだことによるものであり、決してマリア自身の偉大さに由来するのではないのです。
 2018年を迎えるにあたり、わたしたちは聖母マリアの取り次ぎによってキリスト者としての歩みを続けていくように思いを新たにしましょう。そして、2018年がこの文章を読まれる皆様にとって実り豊かな年となるよう担当司祭としてお祈り申し上げます。