担当司祭から:2017年12月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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フランシスコ・ザビエル

(「道後教会だより」2017年12月号より)

 今年3月の教会だよりで、わたしが2月の高山右近の列福式に参加した時のことを書きました。この高山右近を初めとして戦国時代末期から江戸時代初期にかけてかなりの日本人がキリスト教を信じていました。その時代には30〜40万人のキリスト教信者といたとされています。人数としては今の時代とほぼ同じですが、当時の人口が2000万人を少し下回るぐらいであると推測されますので、四百数十年前のキリスト教信者の占める割合は今の時代よりはるかに高かったことが分かります。
 そのキリスト教信仰の礎を築いたのが、12月3日に記念するフランシスコ・ザビエルです。今年は12月3日が待降節第一主日に当たるので、フランシスコ・ザビエルのお祝いはしませんが、今月の教会だよりはフランシスコ・ザビエルを取り上げます。  フランシスコ・ザビエルは1506年スペインのバスク地方の貴族の家に生まれ、19歳で当時の名門パリ大学に入学し、その時にイエズス会の創立者となるイグナチオ・デ・ロヨラと出会いました。1534年にイグナチオ・デ・ロヨラを中心にしてフランシスコ・ザビエル他6人がモンマルトルの聖堂に集まって神に生涯を捧げる誓いを立てました。この出来事がイエズス会の創立とされています。
 それから、ザビエルはポルトガル国王による依頼を受けたイエズス会の意向により、インドのゴアに派遣されました。彼はそこでインド各地に布教した後、東南アジアに渡り、1549年に日本へやってきました。最初に着いたのは鹿児島であり、そこから長崎、京都、山口、大分で宣教を行いました。その後、1551年に一旦インドへ戻り、中国での宣教を志しましたが、翌年中国の上川島で病に倒れ、46歳でその生涯を閉じました。
 ザビエル上陸記念碑(鹿児島)フランシスコ・ザビエルが日本で活動した期間はわずか2年でした。しかし、その短い期間で彼は多くの日本人にキリスト教を伝え、改宗に導きました。今のように言葉を学ぶ環境がなかった時代において、彼の働きは大変なものでした。これは有名な話ですが、最初ザビエルはキリスト教の神を「大日」として語っていましたが、それが仏教の「大日如来」と誤解される原因になったと気づき、「デウス」というラテン語をそのまま用いました。このような努力をして宣教をしたフランシスコ・ザビエルは偉大な宣教師であったことは疑いないところです。
 けれども、戦国時代末期から江戸時代にかけてのキリスト教の宣教には当時のスペイン・ポルトガルの世界進出の一端を担っていたという見方があり、世界の歴史を見た上でそれを全く否定することはできません。政治的な利益を得るために活動をしていた宣教師がいたことも事実です。しかし、ザビエルが残した手紙には彼の宣教に対する強い思いが伝わってきます。ここでその一部を紹介します。
 「キリスト教の信仰を受け入れてもう8年になる信者の村に来ました。ここはひどい不毛の地なので、ポルトガル人はだれも住んでいません。…わたしはここに来て、村々をひとつ一つ訪ね、まだ洗礼を受けていない子どもたちに、まず洗礼を授けに回りました。…子どもたちは『祈りを教えてください』と熱心に求めるので、わたしは聖務日課の務めを果たすことも、食事をすることも、休みをとることもできなくなるほどです。」(『毎日の読書』「教会の祈り 第二朗読」聖フランシスコ・ザビエル司祭の聖イグナチオへの手紙より)
 この言葉からフランシスコ・ザビエルが純粋な熱意を持って宣教をしていたことをわたしたちは十分知ることができます。その熱意をわたしたちキリスト者が少しでも受け取って現代社会の中で信仰を証ししていく力をフランシスコ・ザビエルの取り次ぎによって願いましょう。