担当司祭から:2017年8月
マキシミリアノ・マリア・コルベ ― アウシュヴィッツの聖者 ―
(「道後教会だより」2017年8月号より)
来る8月14日に教会はマキシミリアノ・マリア・コルベ司祭を記念します。聖母被昇天の前日にあたります。コルベ神父は、アウシュヴィッツで他人の身代わりになって亡くなったことで有名ですし、また宣教師として来日し『聖母の騎士』を創刊したことで、日本には馴染みがある聖人です。
コルベ神父は1894年にポーランドで織物職人の子どもとして生まれました。ポーランドという国は現在でも大半の人たちがカトリック信者であり、かつ強い聖母マリアへの崇敬を持っています。コルベ神父は幼い頃に聖母マリアを幻で見たと伝わっています。
そして、彼は13歳でコンベンツァル聖フランシスコ修道会の神学校に入学し、25歳で司祭に叙階されましたが、度々結核のため療養を余儀なくされます。それでも、28歳の時、『無原罪の聖母の騎士』を発行しました。最初の頃はこの雑誌の執筆はコルベ神父一人で、出版費は信者の寄付で賄われていたそうです。現代では考えられない話です。やがて、彼の意志に共鳴した人々が集まり、雑誌の発行は順調に進んでいきました。
そして、コルベ神父は東方への宣教を志し、36歳の時に長崎の地へやって来ました。そこで、彼は修道院を創設し、『聖母の騎士』の日本語版を発行しました。彼はのべ6年間日本に滞在して、布教に務めました。その後彼は帰国し、積極的な布教活動を行いましたが、第二次世界大戦が勃発してから、その活動を縮小せざるを得ませんでした。そして、その2年後の1941年2月コルベ神父はナチスによって逮捕されアウシュヴィッツ収容所に送られました。その5ヶ月後に脱走事件の疑いをかけられた軍曹の身代わりとしてガス室に入り、2週間後の8月14日に毒物を注射されて殺されました。コルベ神父は1982年同じポーランド人の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖されました。
悪名高きアウシュヴィッツの収容所で見ず知らずの人の身代わりになったことがコルベ神父は現代において最も有名な聖人の一人となったことは紛れもないことです。コルベ神父の生涯は日本の高校の歴史教科書に取り上げられているのは、その証しです。
けれども、コルベ神父の伝記をひもとくと、彼は古代・中世の聖人に見られるような「聖性に満ちた」人物ではなかったことが記されています。コルベ神父は日本に滞在中に多くの兄弟を日本に呼びましたが、コルベ神父のやり方に反対して去っていった兄弟もいました。その苦悩を彼は手紙で率直に記しています。それと共に、彼は自然に対してあまり関心を示さなかったと記されています。
このようなコルベ神父の姿は現代のわたしたちにとって身近に感じられることでしょう。確かに古代・中世時代の聖性に溢れた聖人たちも魅力的ですが、その聖人たちの本を読むと、現代のわたしたちには違和感がある記述がしばしば見られます。わたしは司祭になる前に日本に宣教のために殉教したスペイン人のドミニコ会士の生涯を綴った伝記を度々読みましたが、違和感を覚えてました。なぜなら、そこには「小さい頃から聖性に優れていた」とか「イエスのようであった」という記述があったからです。そういった記述に「自分自身の信仰」との接点をわたしは見いだせませんでした。けれども、コルベ神父の物語はとても人間味があり、かつ身近に感じることができました。
それは現代の多くの人にも同じことが言えるでしょう。この記事を読んでコルベ神父に興味を持たれた方は是非とも彼の生涯の伝記を読んでください。そして、機会があれば彼が日本で滞在した地である長崎を訪ねてください。