担当司祭から:2017年7月
使徒トマス
(「道後教会だより」2017年7月号より)
来たる7月3日はカトリック教会において、イエスの十二弟子の一人使徒トマスの祝日にあたります。マタイ・マルコ・ルカ福音書には名前が記されているだけですが、ヨハネ福音書にはしばしば登場します。
その中で有名な箇所は、ヨハネ福音書におけるイエスの告別説教の最初に「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうしてその道を知ることができるでしょうか」(14章5節)と問いかけている場面です。この時にイエスが答えた「わたしは道であり、真理であり、命である」(14章6節)という言葉は福音書の中で最も有名なものの一つです。
しかし、使徒トマスが登場する箇所で最も有名なものは、ヨハネ福音書20章24〜29節の場面です。この箇所によると、復活したイエスが弟子たちのもとに現れた時、トマスはその場に居合わせませんでした。その後、他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っても、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手を脇腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と答えました。この場面は「不信仰のトマス」と表現されることがしばしばあります。
ただ、この表現はこの場面が持つ深い意味を単純化しすぎているとわたしは考えます。なぜかといえば、イエスの弟子たちがイエスの逮捕の時、どのように振る舞ったかを思い出せば十分です。マタイ・マルコ・ルカ福音書はイエスが逮捕された時、弟子たちはイエスを見捨てて逃げてしまったと記しています(マタイ福音書27章56節と並行箇所参照)。また、四つの福音書は全てペトロがイエスを知らないと三度言ったことを記しています(マタイ福音書27章75節と並行箇所参照)。さらにはイエスの墓が空になっていたのを見てもイエスが生前自らが復活すると言っていたことを信じられませんでした(ヨハネ福音書20章9節)。
以上のことから、他の弟子たちは復活したイエスと一度出会ったから信じたので、トマスはたまたまその場に居合わせなかっただけだったのです。他の弟子たちとトマスが違ったのは、イエスを直接自分の手で触れたいとトマスが言ったことでした。これは不信仰ではなく、復活したイエスと出会うことが自分の人生に関わる大切なことだという強い思いの表れだとわたしは考えます。
このトマスの姿は、わたしたちの信仰の模範になります。なぜなら、キリストを信じるわたしたちもイエスとの出会いを絶えず追い求めているからです。わたしたちは毎週日曜日毎に行われるミサの時、神の言葉を聞き、聖体を受けています。聖体はイエス自身が現存しているとカトリック教会は信じます。ですから、日曜日のミサ毎にわたしたちはキリストに触れ、キリストをいただいています。これは大きな恵みですが、その恵みが日常生活の中で感じられなくなることが誰しもあります。神の言葉を聞いても自分の心に響かず、聖体にキリストの現存を感じられない時があるかもしれません。これはカトリック教会で「聖人」として崇敬されている人でも経験する苦しみです。
理由は分かりませんが、復活したイエスに弟子の中で一人出会えなかったトマスは率直にその苦しみを表現し、イエスと出会って「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白したのです。これは深い信仰の表れ以外の何物でもありません。
トマスの信仰告白に応えて、イエスはトマスに「見ないのに信じる人は幸いである」と言いました。この信仰をわたしたちは生きています。しかし、その困難さの中で信仰に迷うことが度々あります。その時、わたしたちは聖トマスのように復活したイエスの姿を真摯に追い求めることができますように。