担当司祭から:2017年3月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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高山右近の列福式

(「道後教会だより」2017年3月号より)

列福式会場(大阪城ホール) わたしは2月7日に大阪城ホールで行われた高山右近の列福式に参列しました。式が始まるのは昼の12時からでしたが、司祭は10時までに到着すると決まっていたので、前日実家に戻り、実家から列福式の会場に参加しました。9時20分ごろに会場に着きました。その頃、司祭はほとんど来ていませんでしたが、ミサの打ち合わせで神学生や助祭たちが集まっており、その姿を見ると、緊張している様子が伝わってきました。
 ミサの前に司祭団の席が振り分けられました。説明によると、席が振り分けられた基準は70歳より上か下かということでした。その時は、この振り分けの持つ意味が分かりませんでしたが、ホールに入った時に分かりました。それは、70歳以上の神父様たちが祭壇前の席に座り、70歳以下の神父様は祭壇後ろの席に座ることだったのです。わたしが座った席から祭壇はかなり遠かったです。また、祭壇の横に何か吊るされているのは見えましたが、それがスクリーンだと気づくのはだいぶ後になってからでした。
 いよいよ、列福式が始まり、ミサを司式される教皇庁列聖省長官のアンジェロ・アマート枢機卿と司教団が入場されました。日本の全司教と高山右近とゆかりがあるフィリピンの大司教、そして韓国やベトナムなど諸外国の大司教が集まり、ミサを共同司式する光景は滅多に日本で見ることができないものです。
 以前、わたしはローマで勉強していた頃、バチカンで行われた聖人の列聖式に参加したことがあり、また10年近く前に長崎で行われたペトロ岐部と同志殉教者の列福式に参加しました。しかし、その時は神学を勉強する身だったので、共同司式をしているという実感はありませんでした。しかし、今回の列福式は司祭として務めを7年行ってきたので、「共同司式している」という実感を持つことができました。もっとも、ミサを司式するアマート枢機卿と司教団の姿は米粒ほどの大きさにしか見えませんでしたが。
列福式ミサ ミサが始まってすぐ列福の儀が行われました。その時鐘を鳴らしたのは、わたしの出身教会の後輩で今年大阪教区の助祭に叙階される神学生でした。その姿を遠目からしか見ることができなかったのは残念でしたが、彼が列福式で役目を果たしているのを見て嬉しく思いました。
 そして列福の儀が終わり、ミサは進行していきました。説教は教皇代理のイタリア語を翻訳しながら行われたので長かったです。説教だけでなく、様々な言語が列福式のミサでは用いられました。司式者の言葉はラテン語で、信徒は日本語で応答しました。朗読や共同祈願では英語や韓国語、ベトナム語が用いられました。聖歌隊が韓国語やタガログ語やベトナム語の歌を綺麗に歌っていたのが特に印象に残りました。
 主の祈りが終わってから聖体を授けるために祭壇の真裏から真正面まで歩きました。後ろを見た時、初めてスクリーンの存在が分かり、祭壇の映像を見ることができました。聖体拝領は階段席に座っている左右の信者さんに聖体を授けながら席を登っていく形式だったので、下を見ることができませんでした。それは多くの司祭にとっても難しいものであったことは間違いありません。
 聖体拝領の後、司教協議会の議長である長崎教区の高見大司教様と副議長の大阪教区の前田大司教様とイエズス会日本管区長の梶山神父様の挨拶の後、派遣の祝福が行われ、列福式のミサは終わりました。
列福記念メダイ(中央は高山家の家紋 七つ星)  わたしは列福式のミサの様子を遠目からしか見ることができませんでしたが、列福式に参列できたこと自体、大きな喜びでした。それと共に日本というキリスト教が少数派の国で生まれた者として高山右近の姿を信仰の模範として司祭職を歩んでいきたいと思いを新たにしました。

 列福(『ブリタニカ国際大百科事典』より) その信仰と徳により模範生活をおくった人物を、死後特に崇敬の対象として認め、宣言するカトリック教会の公式手続きをいい、列福された人物は福者と称される。