担当司祭から:2017年2月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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律法

(「道後教会だより」2017年2月号より)

聖書  福音書を読んでいると、「律法」という言葉がしばしば登場するのに気づかれることでしょう。特に律法学者という言葉は頻繁に登場します。律法学者とはイエスの反対者として登場し、イエスを批判しているので、ともすればわたしたちは「律法」というものを否定的に考えてしまいます。
 しかし、律法とは旧約聖書の創世記から申命記までの五つの書に対する呼称であり、別名モーセ五書とも言われます。この箇所は創世記の天地創造物語から申命記の最後、すなわちモーセが約束の地を目の前にして亡くなる場面が描かれている旧約聖書の中で最も重要な部分です。
 ただ、「律法」の中には「法律」と言えない物語が数多く含まれています。これは現代のわたしたちには理解しがたいことです。しかし、その「律法」の中に現代のキリスト教信者の生活の土台となっている掟があります。それは「十戒」です。「十戒」はモーセがイスラエルの民をエジプトから導き出した後、神から呼ばれてシナイ山に登って授かったものです(出エジプト記19章〜20章参照)。十戒の最初の掟は「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」という言葉で始まります。これがイスラエルの人々の法律に対する根本的な考えなのです。すなわち、「父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の物を欲するな」という掟は「神を中心にせよ」という第一戒に背くから禁じられる、ということなのです。
 この考えはキリスト教にもしっかりと受け継がれました。『カトリック教会のカテキズム』はキリスト教の教義を「信仰宣言・キリストの神秘を祝うこと・キリストと一致して生きること・祈り」という四つの部分から説明していますが、三つ目の「キリストと一致して生きること」は十戒の説明です。つまり、十戒はキリスト教信者にとって信仰を生きる上で大切な掟です。そこで、福音書でイエスが律法学者や律法のあり方を批判しているからと言って、現代のキリスト教信者が律法を批判することはできないということがわかっていただけると思います。
 イエスが当時の律法のあり方を批判した理由は、十戒の第一戒の「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」という根本をないがしろにした律法解釈が一般的になっていたからです。その典型的な箇所がマルコ福音書7章1節〜13節です。ここには当時の歪んだ律法解釈の二つの例が挙げられています。一つは手を洗わない者を「汚れた者」として裁くことであり、もう一つは父母に捧げるべきものを「神への供え物にする」という誓いをすれば、父母に捧げものをしなくてよいという慣習でした。イエスはこの二つの慣習を批判した最後に次のように言います。「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」(7章13節)。イエスが批判したのは、神から授けられた律法を本来の意図を無視して解釈したことであり、決して律法そのものの存在を批判したのではありません。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5章17節)とイエスが福音で言っていることから分かります。
 簡単ですが、「律法」とは何かということと、福音書に記されている「律法理解」の誤りについて述べてきました。繰り返しますが、イエスが批判したのはイエスが生きていた時代の律法理解の歪みであって、律法そのものではありませんでした。イエスは十字架の死と復活によって律法を完成されました。しかし、それは律法が必要ないということを意味しません。律法の中にある細かい掟ーたとえば動物を捧げる規定などーを行なう必要はないけれども、十戒はキリスト教信者の生活を規定する掟であり続けます。このことを皆さんにはしっかり心に留めていただきたいと思います。