担当司祭から:2016年12月
待降節
(「道後教会だより」2016年12月号より)
11月の最後の日曜日から、カトリック教会は待降節が始まりました。この待降節からカトリック教会は新しい年度が始まります。それは会社や学校が4月に新年度が始まるのと同じようなものです。
では、教会が新しい年度になると、何が変わるのでしょうか? それは聖書の朗読箇所です。カトリック教会のミサでは毎週『聖書と典礼』のパンフレットが配布されます。そのパンフレットの表紙にはA・B・Cという3つのアルファベットが記されています。これは聖書の朗読箇所を指します。それは、聖書の朗読がA年B年C年という3年周期で行われているということです。A年はマタイ福音書、B年はマルコ福音書、C年はルカ福音書が読まれるのが大きな特徴です。今年はA年になります。
待降節とはイエス・キリストの誕生を準備する期間です。しかし、イエス・キリストは2000年ほど前にただ1度この世に生まれた「神の子」でした。その誕生を毎年記念することにどんな意味があるのか、を今1度考えてみましょう。
イエス・キリストは2000年ほど前にイスラエルという地に生まれた方でした。その事実だけを取り上げるなら、今わたしたちがイエスを記念するのは単なる「お祭り」にすぎないということになります。
しかし、そうではありません。まず大切なのはイエスが「神の子」であったことです。それに、イエスの誕生を準備する期間を「待降節」と呼ぶことです。待降節という字は「降」るのを「待」つと書きます。イエスは死んで復活し天に昇った後、イエスの姿を見ていた弟子たちに天使が現れ、こう告げました。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1章11節)。この言葉から分かるのは、イエスは再び来られるということです。これこそ、わたしたちがイエスの誕生を毎年お祝いする理由なのです。
それと共に、福音書はイエスが来られる前にある出来事が必ず起こると語ります。それは「世の終わり」です。待降節第1主日の朗読のテーマは「世の終わり」になっています。今年A年の朗読では世の終わりが「ノアの洪水」にたとえられます。「ノアの洪水」は創世記の7〜8章に記されている出来事です。神がこの世界を造ったことを後悔し、世界を滅ぼし尽くそうとして40日40夜の大洪水を起こしました。しかし、神はノアを救い出し、世界を2度と滅ぼそうとはしないと誓いました(創世記8・22参照)。けれども、世の終わりの時にはノアの洪水のような出来事が起こるとイエスは語ります。
マタイ福音書24章全体は世の終わりについて語っていますが、その中でイエスははっきりと語っています。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(マタイ24章36節)。わたしたちはイエスの言葉を信じて、イエスが再び来られる時までイエスを宣べ伝え続けるのです。それはミサの奉献文で司祭がパンとぶどう酒を聖別した後に「信仰の神秘」と唱えた時に信徒が答える祈りの言葉を生きることです。「主の死を思い、復活をたたえよう。主が来られるまで。」
ですから、待降節はこの世界にイエスが来られたことをお祝いするだけでなく、やがてイエスが来られるのを「待ち望む」という意味があるのです。そして、教会は待降節の間にゆるしの秘跡を受けることを勧めています。それは、わたしたちがイエスの誕生をふさわしく祝い、イエスが再び来られる時まで力強く信仰の道のりを歩むためです。イエスが再び来られるという希望を持ち続けることが、現代世界に起こる多くの悲惨な出来事に失望せずにこの世界を生きていく力となるのです。