担当司祭から:2016年9月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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十字架称賛

(「道後教会だより」2016年9月号より)

十字架 来る9月15日に教会は十字架称賛をお祝いします。この日はキリストの聖体や主の変容と同じ「主の祝祭日」になりますので、日曜日に重なってもお祝いします。十字架称賛とは読んで字のごとく十字架を称え賛美することです。これは、常識的に考えて理解できませんが、毎週日曜日のミサに参加しているわたしたちにとってイエスの十字架の死は救いの根幹であり、わたしたちが称えるに値する出来事なのです。そこで今月の教会だよりは、十字架称賛の日に読まれる聖書の朗読箇所を味わい、イエスの十字架の死の意味を改めて考えてみることにします。
 十字架称賛の日に読まれる福音はヨハネ3章13~17節です。この個所の前半部分でイエスはこのように言います。「(そして、)モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。」ここに登場する「人の子」とはイエスのことであり、「上げる」とは十字架の死を意味します。これは福音書に見られる独特の言葉遣いです。
 そのうえで「モーセが荒れ野で蛇を上げる」という言葉に注目しましょう。この言葉はこの日の第一朗読で読まれる民数記21章4~9節とつながりがあります。この箇所で描かれるのはイスラエルの民がモーセに逆らったため、神が蛇を送ってイスラエルの民に災いをもたらしたという出来事です。自らの過ちを認めた民はモーセを通して神にゆるしを求めました。神はそれに応えて、モーセに青銅の蛇を作らせ、それを旗竿の先にかかげたところ、青銅の蛇を仰いだ人は命が助かったのです。
 この出来事をキリスト教では次のように解釈します。それは、モーセが掲げた青銅の蛇はイエスの十字架の先取りです。ここにキリスト信者が旧約聖書を読む意味があります。すなわち、旧約聖書の出来事はイエス・キリストの出来事を前もって表すとわたしたちは理解するのです。
 しかし、十字架称賛の意味はそれだけにとどまりません。青銅の蛇がイエスの十字架の先取りであるのは、イエスの十字架の意義の中心ではありません。中心は別のところにあります。つまり、青銅の蛇を仰ぎ見たイスラエルの人々はこの世で生きる命を得ただけですが、イエスの十字架の死を信じる者はこの世の命にとどまらない「永遠の命」を受けることができます。「(それは)、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」 この言葉こそ、イエスがわたしたちに与えてくださった大きな恵みです。すなわち、信仰はわたしたちに人生の困難を乗り越える力を与えるだけではなく、人生が終わってからも神のもとで生き続けることができるという希望を与えてくれるのです。これが、十字架称賛をお祝いする理由です。
 けれども、イエスの十字架を記念する意味はそれだけにとどまりません。なぜなら、福音朗読の後半部分に次の言葉があるからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 この言葉はイエスの十字架が「神の愛の表れ」であることを示しています。わたしたちが「永遠の命」を得るのは、わたしたちが良い行いをしている報いではなく、神がわたしたちを滅びの状態にしておくことを望まれない神からの恵みです。神の愛がわたしたちの行いに先立っていることをわたしたちはイエスの十字架を通して知るのです。これが十字架称賛の祝日を記念する意味なのです。
 わたしたちがキリストの十字架によって示された神の愛をしっかりと受けとめ、永遠の命への希望を絶えず持ちながら、キリストの姿を人々に伝えることができますように。