担当司祭から:2016年7月
本の紹介 ― 『キリスト教とは何か』粕谷甲一 著
(「道後教会だより」2016年7月号より)
この本は現在5巻まで刊行されている〈注〉シリーズであり、今秋に6巻が刊行される予定です。この本は昨年の夏前にあるシスターからいただきましたが、いただいてからすぐ読みませんでした。ところが昨年秋頃、わたし自身予期しなかったことが次々に起こって悩み、「何か助けにほしい」と思って読んだところ、様々な気づきを得ることができました。そこで、この本のシリーズを紹介することにしました。当然ながら、この限られた文面でこの本のシリーズを説明することは不可能なので、本の粕谷神父様が強調されるテーマを取り上げてみたいと思います。
粕谷神父様は異色の経歴の持ち主です。オーストリアのインスブルックというヨーロッパで非常に有名な神学校を卒業した後、アリの街の司牧(詳しくは本をお読みください)や青年海外協力隊での活動をされました。青年海外協力隊でシンガポールにいた時、マザー・テレサと出会い、大きな影響を受けました。この経歴は、粕谷神父様が信仰の知的探求と現代社会での信仰のあり方を両立させた稀有な方であることを示しています。『キリスト教とは何か』においても、日常生活の問題から信仰の核心を語るという観点が貫かれています。
粕谷神父様は本の中で現代社会において信仰を生きる難しさに度々言及されます。女子高生の援助交際や外国人労働者の問題、さらには富の「南北格差」の問題などから日本社会の抱える病巣を鋭く指摘されます。そして、神を伝えるはずの宗教も「現世御利益」的な新興宗教が力を持っていることも指摘されます。
その時代にあって、粕谷神父様はキリスト教の信仰の価値を力強く語ります。それを端的に語ったのは「信仰は生き方にある」という言葉です。つまり、信仰は自分の日々の生活の中にある義務を疎かにすることなく、その中で生きていくことにあるということです。さらには、絶望的な状況においてこそ「イエスと共に生きている」という信仰が試される時であると繰り返し語っておられます。
その例を一つだけ挙げますと、粕谷神父様が青年海外協力隊で訓練所長として働いていた時代、訓練生が女性の英語の先生を暴行するという問題が発生しました。粕谷神父様は先生の家族のところに詫びに行ったら門前払いを食らい、失望のどん底にあったとき、心に突然全く違った心が生まれてきたのです。その日はちょうどクリスマス・イブの晩でした。粕谷神父様の文章を引用します。「『いや、今日は素晴らしいクリスマスなのだ。イエスが生まれられたのは、真っ暗な晩だった。誰も迎えに来なかったのだ。そして宿屋には場所がなくて馬小屋で誕生された。そういうキリストの誕生を祝うのがクリスマス・イブだから、今日は実に神父としてふさわしいクリスマスを迎えたのだ。暗くて、沈黙の夜こそは、キリストの聖なる夜につながっているのだ。』、そういうふうに気がついたら急に身も心も軽くなったのです」(『キリスト教とは何か』③どこでトランペットは鳴ったか 99ページ)。こういったメッセージが粕谷神父様の本全編を貫いています。
粕谷神父様はイエスの誕生から死、復活、昇天、聖霊降臨までの聖書の記述を引用しながら、イエスのメッセージが「わたしにとってどのような意味を持つか」をわたしたちに問いかけるのです。その問いに対する答えは「苦しみに留まり続ける」ことによって見いだせるのだ、と粕谷神父様は繰り返し述べておられます。このメッセージは現代社会で信仰のあり方に悩む人々に大きな示唆を与えてくれるとわたしは思っています。興味を持たれた方は、まずは1巻だけでもお読みになってはいかがでしょうか。
〈注〉『キリスト教とは何か』①復活の秘儀をめぐって ②救われるのは誰か ③どこでトランペットは鳴ったか ④神よ あなたも苦しまれるか ⑤ゆれ動く日本人の心