担当司祭から:2016年4月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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空の墓

(「道後教会だより」2016年4月号より)

 皆さんがこの教会だよりを手にする時、教会はまさしく復活を祝う時を迎えています。けれども、復活徹夜祭と復活の主日で朗読される福音書がイエスの墓が「空」であったと記していることにわたしたちはどれほど注意を払っているでしょうか? 
 『カトリック教会のカテキズム』は空の墓の出来事を「それ自体復活の証拠ではない」が、「イエスのからだがないのは、人間の仕業ではないこと、またイエスはラザロの場合(ヨハネ福音書11章44節)のように、この世の生活に戻ったにすぎないのではないことを確認したのです」(640項参照)と記しています。これは神学的な説明として正しいものです。しかし、この説明を何の疑問もなく受け入れるのが信仰ではありません。
 時として、わたしたちは「聖書の記述に疑問を持つことや自分の思いを挟んではいけない」と思いがちです。けれども、聖書の記述や神学的な説明を鵜呑みにすることは、聖書をわたしたちの生活と全く関係のない「特別な書物」として祭り上げてしまうことになります。もちろん、自分の思いだけで聖書を読むのは避けなければいけません。教会は聖書に関する解釈を長い歴史の中で育んできたからです。その解釈に従いながら、わたしたちは自分が聖書を読んで感じた疑問を大切にしながら、聖書を読むことが必要です。言い換えると、教会の「客観的」な聖書の解釈に従いながら、自分の「主観」である思いを投影しながら聖書を読むというバランスが大切なのです。
 それを「空の墓」の物語に当てはめてみましょう。『カテキズム』が記しているように「空の墓」を見た女性たちと弟子たちは「イエスのからだがないのは、人間の仕業ではない」と瞬時に思ったでしょうか? そうではないでしょう。イエスは自らの死と復活を繰り返し弟子たちに告げたにもかかわらず、弟子たちは理解できませんでした。弟子たちはイエスが復活などあり得ないと思っていたのです。だから、イエスの墓に行った弟子たちや婦人たちはイエスを埋葬しようと思っていました。そこで、墓が空であった時、弟子たちは驚き、戸惑い、涙したのです。そこには「あるはずものがなかった」という失望があるのです。
 わたしたちは日々の生活の中で思いがけない出来事に遭遇します。その時、わたしたちは喪失、挫折、怒り、悲しみといった感情を抱くことでしょう。そこを通り抜け何らかの「気づき」に至った時、わたしたちは復活したイエスと出会った弟子たちと同じ体験をしたと言えるのです。聖書で描かれる弟子たちの姿に共感し、戸惑いながら、聖書を読むとき、わたしたちはイエスとの出会いへと導かれていくのです。
 イエスの復活は弟子たちの悲しみ、失望、戸惑いが喜びに変わったときです。イエスの復活を祝うこのとき、わたしたちはその喜びを共有します。しかし、そのためには、わたしたち一人ひとりが「イエスの死と復活はわたしにとってどんな意味を持つのか」を追い求め続けることが大切です。パウロの手紙はイエスの死と復活を「わたしたちの死を打ち砕いた出来事」と記されていますが、それを身をもって実感する道のりをわたしたちは歩んでいくのです。
 「空の墓」を見た弟子たちの喪失、挫折、悲しみがイエスとの出会いによる喜びへと変えられたように、わたしたちが時として経験する苦しみや挫折がイエスへの出会いへと導かれるのです。わたしたち一人ひとりがそれぞれの生活の中で復活したイエスとの出会いへ導かれるように、祈り求めましょう。