担当司祭から:2016年3月

川上栄治神父の写真
川上栄治神父

 2009年10月~2010年3月 協力司祭
 2010年4月~2013年3月、2014年4月~ 道後教会担当司祭

 1975年8月16日生。大阪出身。ドミニコ会司祭。
 2006年9月に司祭叙階。2006年~2009年、ローマで勉強。2009年8月に帰国後、松山へ。
 松山教会に在住。

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日本の信徒発見の聖母

(「道後教会だより」2016年3月号より)

 3月17日は日本信徒発見の聖母をお祝いします。この祝日はまだ馴染みがない方も多いことでしょう。それもそのはずで、この祝日は以前「長崎の信徒発見の日」いう任意の記念日だったのです。
 日本の司教委員会は2015年に日本の信徒発見150年を迎えるにあたり、「長崎の信徒発見の日」を日本固有の祝日として記念することをバチカンに申請しました。それが2013年に認められました。そこで「長崎の信徒発見の日」は「日本信徒発見の聖母」と名が改められ祝日となり、昨年から日本のカトリック教会はこの祝日を祝うようになりました。
 長崎の信徒発見は日本のキリスト教の歴史における重要な出来事でした。先月の教会だよりで書いた日本二十六聖人の殉教はキリスト教迫害の初まりであり、数十年後に日本でキリスト教の宣教師は完全に追放され、キリスト教は表面上完全に姿を消しました。ところが、1853年にアメリカのペリー総督が日本へやってきて、外国との交易が再開したのをきっかけに、宣教師が日本にやってきて宣教を再開しました。最初に日本での宣教に携わったのはパリ外国宣教会であり、彼らは函館、横浜に教会を築き、1865年長崎に教会を建てました。これが有名な大浦天主堂です。
 その1ヶ月後の3月17日に驚くべき出来事が起こりました。その日プティジャン神父は教会の扉の前に立っていた十数名と出会いました。彼らはプティジャン神父の後をついて聖堂に入りました。プティジャン神父は彼らが単なる好奇心で教会にやってきたのではないと感じていました。そうすると、ある一人の女性がプティジャン神父に「わたしたちの心はみな、あなた様の心と同じでございます」と言いました。プティジャン神父は驚いてその人々と話をするうちに、また別の女性が「サンタ・マリアのご像はどこ」と尋ねました。この時、プティジャン神父は彼らがキリスト教の信者であると確信しました。それから彼らは自分たちが受けてきたキリスト教についての教えをプティジャン神父に語り、プティジャン神父は大きな喜びに満たされました。
 江戸時代にキリスト教は社会の表舞台から姿を消しましたが、隠れてキリスト教の信仰を守っていた人々がいました。その人々を「隠れキリシタン」と呼びます。彼らはキリスト教の祈りや祭儀を行っていましたが、時代が進むにつれ、彼ら自身にも意味が分からなくなっていきました。彼らは文書に何も残さず、口伝のみで祈りや祭儀を伝えていたからです。プティジャン神父が日本の信徒発見を知らせる手紙の最後にこう書いています。「彼らは十字架を崇め、聖なるおとめマリアを大切にし、祈りを唱えています。しかし、それがどのような祈りなのか、わたしには分かりません。」「隠れキリシタン」の多くはキリスト教の信仰に戻りましたが、「隠れキリシタン」に留まり続けた人も少数ながらいました。それは現代に至るまで続いています。けれども、現代では彼らの儀式や祈りを継承する者がいなくなったため、「隠れキリシタン」は遠からず消滅するだろうと言われています。
 さて、3月17日の信徒発見の日から150年経った今、日本のキリスト教は難しい状況に置かれています。司祭・修道者・受洗者の高齢化と減少が大きな問題となっています。しかし、日本には宣教師不在で200年以上信仰を守り通したという世界に類を見ない歴史を有しています。わたしがローマで勉強していた頃、わたしが通っていた学校の教授が「200年以上司祭が不在で信仰が伝えられたというのは驚くべきことだ」と言っていたことを思い出します。今日本においてキリスト教を信じているわたしたちには先祖たちが宣教師不在でも信仰を伝えた不屈の精神が宿っているはずです。先人の信仰にならって、わたしたちも困難な現代社会の中でキリスト者として生きることができるように、日本発見の聖母の取り次ぎを願いましょう。