担当司祭から:2016年1月
新年のあいさつと「主の洗礼」の祭日
(「道後教会だより」2016年1月号より)
皆さん、新年あけましておめでとうございます。昨年度は復活祭に1人、降誕祭に4人の洗礼を受けました。一昨年に続き、当教会に新しい仲間が加わった喜ばしい年であった半面、司教書簡を受けて、高齢者の介護問題が提起された一年でもありました。教会に限らず、社会全般に高齢化の波は押し寄せ、様々な問題に直面していますが、道後教会としては、「身の丈にあった」ことをしていくという方針のもと、この2016年も過ごしていきたいと思います。
さて、一月の第二日曜日にはたいてい「主の洗礼」の祭日を祝います。この日をもって、降誕節は終わります。わたしは以前、典礼暦について講話をした時にこの話をしたので、覚えていらっしゃる方もいるでしょう。ただ、主の降誕から神の母聖マリア、主の公現と続く祭日はイエスが幼子であるのに対し、主の洗礼はイエスが大人として現れるというのが、唐突な感じが持つ方もいるでしょう。
それに「なぜ、イエスが洗礼を受けたのか」と疑問を抱く方もいるでしょう。あるテレビ番組では「イエスが洗礼を受けることによって、神の子となった」と紹介されていました。これが日本社会で一般的なイエスに対する理解でしょう。けれども、それはイエスが「神の子であった」イエスが人間として生まれたと信じるわたしたちには受け入れられない解釈です。
イエスが洗礼を受けた理由を考える時に、まず前提として知っておかなければならないのは、わたしたちが今受けている洗礼とイエスが洗礼者ヨハネから受けた洗礼は異なるということです。わたしたちが受ける洗礼は「父と子と聖霊のみ名」によって受けたものです。ところが、洗礼者ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(ルカ3章4節)と記されています。イエスが神の子であったなら、「罪の赦し」を受ける必要はなかったはずですが、イエスは洗礼を受けたのです。イエスが洗礼を受けた時の興味深いやりとりがマタイ福音書に記されています(マタイ3章13~17節参照)。
洗礼者ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
しかし、イエスは言われた。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
この「我々にふさわしいこと」という言葉に注目しましょう。この聖書の言葉には様々な解釈がありますが、その一つとして「イエスは洗礼を受けることによって、神の望みに従って生きていく一人の信仰者となった」という解釈があります。言い換えると、神はイエスに「人間として」、つまり当時の社会で生きている人々と同じ歩みで生きることを望まれたということです。「み言葉は人となってわたしたちのうちに宿られた」(ヨハネ1章14節)という言葉は人間イエスが周りの人々と同じように、ヨハネの洗礼を受けることによって初めて明らかにされたのです。これがイエスの洗礼を理解するにはもっとも分かりやすい考えではないでしょうか?
以上を踏まえると、「主の洗礼」の祝日はそれまでの幼子のイエスの記念から大人となり、「神の子」として宣教を開始したイエスを記念する日だと言えます。この意味で主の洗礼の祭日が降誕節の最後に位置付けられるのはふさわしいのです。
2016年も道後教会に集うわたしたち一同が「み言葉は人となってわたしたちのうちに宿られた」イエス・キリストの神秘を生き、キリスト者としての信仰を深めることができるように、この一年の始まりにあたって祈り求めましょう。わたしも担当司祭として皆さんの信仰を深めるためにできる限りの努力をする決意を表明します。