哲学・思想の歴史 | 探究テーマ史 #13 |
哲学史、もしくは哲学の範囲、定義は難しい。ギリシアに始まった西洋哲学こそが「哲学」であり、東洋のそれ、中国、インド、もしくは日本のものは「哲学」とは言わない、という説もある。では、哲学とは何なのか?となる。ここでは「哲学・思想史」とした。「世界哲学」という概念もあるが、西洋哲学と時代的に比較するために、東洋思想を対比として置き、時代背景とともに概観する。 |
時代 | 欧 州 | 日本・アジア |
BC15世紀 | インド哲学(第一期 ヴェーダの時代) | |
春秋時代(BC771~453) | ||
BC7世紀 | タレス(BC624~546) | 老子(生没年不詳);道家 |
アナクシメネス(ca.BC587~527) | インド哲学(第二期 ブラーフマナの時代) | |
BC6世紀 | ピタゴラス(BC582~496);ピュタゴラス派の共同生活を行い、後にプラトンの学園の参考となる。哲学としてもプラトン主義に影響を与える。 | ブッダ(BC566~486) |
ヘラクレイトス(ca.BC535~475) | インド哲学(第三期 ヴェーダ以後の時代) | |
パルメニデス(BC520~450) | マハーヴィーラ(BC549~477) | |
アナクサゴラス(ca.BC500~428) | 孔子(BC552~479);儒家 | |
エンペドクレス(ca.BC495~435) | 孫氏(孫武 BC535~没年不詳);兵家 | |
レウキッポス(BC400年代) | ||
ペリクレス(BC495~429) | ||
ペルシア戦争(BC492~480) | ||
BC5世紀 | デモクリトス(BC460~370) | 墨子(BC470~390) |
ソクラテス(BC469~399);自身は著作を残していないが、弟子プラトンに多大な影響を与える。 | 戦国時代(BC453~221) | |
ペロポネソス戦争(BC431~404) | ||
プラトン(BC427~347);西洋哲学はほぼすべてプラトンの註解と言われる。アカデメイアを開設し教育を行う。学園は900年存続。 | ||
BC4世紀 | アリストテレス(BC384~322);リュケイオンを開設し、教育を行う。 | 商鞅(BC390~338);法家 |
フィリッポス2世(BC359~336) | ||
エピクロス(BC341~270);ケーポスで教育を行う。 | 孟子(BC372~289);儒家/性善説/易姓革命 | |
アレクサンドロス大王(BC336~323) | 荘子(BC369~286);道家 | |
荀子(BC313~238);儒家/性悪説 | ||
鄒衍(BC305~240);陰陽家 | ||
BC3世紀 | プトレマイオス朝の首都アレクサンドリアが文化都市として発展。 | 韓非(BC280~233) |
秦の始皇帝(BC259~210) ;氏族制を解体し、韓非ら法家思想により中国を統一 |
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前漢(BC202~AD8) ;中国国家観の形成/華夷思想 |
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BC2世紀 | BC155年、政治交渉のため、ローマにギリシアからカルネアデス、クリトラオス、ディオゲネスら当代きっての哲学者が派遣され、ローマに哲学が広まる。 | ミリンダ王の問い(メナンドロス1世)(在位;BC155~130年頃) |
ローマの大カトーは、哲学およびギリシア文化の追放を訴える。 | 漢の高祖劉邦、子の文帝、孫の景帝の頃は、黄老思想。武帝の頃から儒教が台頭。董仲舒「により深化。公孫弘(BC200~121)が支配理念に利用。 | |
キケロ(BC106~43);ラテン語で哲学書を多数著わす。哲学と弁論術を統合しようとしたが、プラトン以来の西洋哲学はそれらを非哲学として排除することで自らの定義を確保してきた。*3 | ||
ローマのルクレティウス『事物の本性について』(エピクロス派哲学をラテン語韻文で伝える) | ||
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新の王莽(AD8~25)は帝位簒奪を正統化するため儒教を利用。 | ||
1世紀 | セネカ(BC4/AD1~65年);ローマのストア派哲学者『自然論集』『倫理書簡集』など著書多数。エピクロスの快楽主義に理解を示しつつも批判。正統な理由による自殺を容認。 | 後漢(AD25~220) ;儒教の国教化 |
エピクテトス(55~135年);ローマのストア派哲学者。弟子による『語録』が伝わる。 | 後漢の光武帝も讖緯思想を利用し、後漢の正統性のため儒教を郷挙里選(官僚登用制度)にも採用し、国教化を図った。 | |
仏教の中国伝来 | ||
2世紀 | ローマ皇帝マルクス・アウレリウス(121~180年);ストア派哲学者として、『自省録』を著わす。 | 鄭玄(127~200)は、皇帝権力の正統性を維持するための儀礼祭典を整え、前近代中国国家に継承された。 |
ギリシア哲学の影響を受けたグノーシス(覚知)主義は、イエスの受難などに懐疑的な立場をとり、排斥される。*5 | 166年党錮の禁 ;宦官と士大夫(豪族)との勢力争い。 169年にも発生。後漢衰退の原因となる。 |
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グノーシス主義と似ているマルキオン派は旧約聖書を否定し、自派の聖書として新約聖書を編纂した。キリスト教正統派は対抗上、新約聖書を編纂し、これが新約聖書の形成につながった。*5 | ||
護教家たちがキリスト教を擁護する際に議論の相手方として念頭に置いていた人々が、当時の知識人、つまりギリシア文化に通じた人々だったため、キリスト教にギリシア文化が入ってきた。*5 | ||
3世紀 | オリゲネス(185~254年)『諸原理について』で「神は何らかの物体であるとか、物体の内に存在すると考えてはならず、純一な知的存在であり、自らの存在にいかなる添加をも許さない。神はことごとく一(モナス)であり、単一性(ヘナス)であり、精神であり、あらゆる知的存在即ち精神の始原である。神が複合体と考えてならない。」など哲学の影響を受けており、三位一体論などが生まれた。 | 魏の王弼(220~265)は老荘思想・道教系の玄学で「無」の形而上学(無が究極の本である)を確立した。 |
黄老思想の系譜を引く太平道により黄巾の乱により、後漢は弱体化し、三国時代へ。 | ||
仏図澄(232~348)が後趙の始祖 石勒(274~333)に仕える。神異を起こす。漢民族でない国家として儒教より仏教を利用。 | ||
郭象(252~312);玄学が世界を支えるが、形而上的な無はなく、すべては自然から生まれるとし、後のスピノザに通じる思想。 | ||
仏図澄に師事した道安は道教・道家により仏教を理解しようとした。 | ||
4世紀 | アレクサンドリア司教アリウス(?~336)はキリストを被造物とし、それに対してイエスは神と一体であるとしたアタナシウス(296~373年)が対抗した。 | 鳩摩羅什(344~413)が招聘に応えて、401年長安に到着。仏典の漢訳を行う。(玄奘(602~664)の新訳に対し、旧訳と呼ばれる。鳩摩羅什以前を古訳とよぶ。 |
ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(?~337年)が、325年ニカイア公会議を開催し、アリウス派を異端とした。 | 道安が前秦の符堅(338~385)に連れ去られると、弟子の慧遠(334~416)は廬山に入り、弥勒信仰を継承した。また、魂が不滅であると説いた。 | |
ローマ皇帝テオドシウス1世(347~395年)がコンスタンティノープル公会議を開催。キリストは被造物ではなく、父なる神から生まれたとされ、その神性が明確化された。 | ||
5世紀 | 476年西ローマ帝国はオドアケルにより滅亡 | 范縝(450~510,はんしん)は、形が亡べば神(魂)も滅びる「神滅論」を主張。利(鋭さ)と刀の関係のように同じことの別の呼び方であり、刀なくして利はない。これに対して仏教、道教、儒教の立場から論争があった。 |
7世紀 | アレクサンドリアなどがイスラムの支配下に入り、ギリシア、ヘレニズム文化とイスラム文化が融合。 | 唐 玄宗(685~762年)の時代に「書院」(西洋の大学に相当)が成立。 |
11世紀 | 1096年、第一回十字軍;十字軍とレコンキスタにより、ギリシア・ヘレニズム文化が、イスラム世界を経由し、再びヨーロッパへ伝播、後にルネサンスへと発展する。 | 北宋の時代に「書院」が本格化。 北宋の程こう(1032~1085)が「天理」(天とは理である。宇宙を秩序づける可知的な合理性を持つ概念)を広がり、近世中国へ。 |
12世紀 | ボローニャ、パリなどで大学が誕生。 | |
13世紀 | トマス・アクィナス(1225~1274) | |
15世紀 | ダンテ『神曲』、ボッカッチョ『デカメロン』 | 1453年 ビザンツ帝国滅亡 |
レコンキスタ完了 | ||
大航海時代 | ||
16世紀 | 宗教改革 | |
フランシス・ベーコン(1561~1626) | ||
トマス・ホッブス(1588~1679)『リヴァイアサン』 | ||
ルネ・デカルト(1596~1650)『方法序説』 | ||
1532年 マキャベリ『君主論』刊行(カトリック教会から禁書とされる) | ||
17世紀 | 1649年 ピューリタン革命 | |
1688年 名誉革命 | ||
スピノザ(1632- 1677年);汎神論により、後の合理主義哲学に影響を与える。キリスト教から無神論者と批判された。 | ||
ジョン・ロック(1632~1704)『統治二論』 | ||
アイザック・ニュートン(1642~1727) | ||
シャルル・ド・モンテスキュー(1689~1755) | ||
18世紀 | 1701年スペイン継承戦争(~1714) | |
1740年 オーストリア継承戦争(~1748) | ||
1756年 七年戦争(~1763年) | ||
デイビッド・ヒューム(1711~1776) | ||
トマス・ペイン(1737~1809) | ||
ジャン=ジャック・ルソー(1712~1778)『社会契約論』 | ||
1775年 アメリカ独立宣言 | ||
1789年フランス革命 | ||
カント(1724~1804) | ||
ヘーゲル(1770~1831) | ヘーゲルは中国を持続の帝国と捉え、中国史の特徴を“停滞”にみた。 | |
ショーペンハウアー(1788~1860) | ||
19世紀 | 1813年 ナポレオン失脚 | 孫文(1866~1925);天を祀らない支配者となり、近代中国へ。 |
1814年 ウィーン会議(ウィーン体制) | ||
1848年 パリ二月革命 | ||
キルケゴール(1813~1855) | ||
マルクス(1818~1883)『資本論』『共産党宣言』 | ||
チャールズ・ダーウィン『種の起源』1859年刊 | ||
ニーチェ(1844~1900) | ||
フロイト(1856~1939) | ||
20世紀 | 1914年 第一次世界大戦 | |
1938年 第二次世界大戦 | ||
ウィトゲンシュタイン(1889~1951) | ||
サルトル(1905~1980) | ||
レヴィ=ストロース(1908~2009) | 金観濤;中国封建社会は「宗法一体化構造」を持つことで、停滞性の中に王朝の周期的崩壊を繰り返した。 | |
ジャック・デリダ(1930~2004年);仏、エクリチュール(書かれたもの)の特質、差異に着目し、脱構築、散種、差延等の概念などで知られる。エトムント・フッサールの現象学に関する研究から出発し、フリードリヒ・ニーチェやマルティン・ハイデッガーの哲学を批判的に継承し発展させた。 |
資料 | 『世界史大年表』(山川出版社、石橋秀雄 他) *1 |
『哲学と宗教 全史』 出口治明 著 *2 | |
『世界哲学史 1』 浦和也 他 著 *3 | |
『教養としてのギリシア・ローマ』(東洋経済新報社、中村聡一著) *4 | |
『世界哲学史 2』 戸田聡 他 著 *5 |
インド哲学 | 哲学・思想史TOP | |
期間 | BC1,500~BC500年 | 古代インド |
時代背景 | BC1,500年頃、すでに衰退しつつあったインダス文明が、新たに西北部インドに侵入してきたアーリア人によって滅亡へとむかわされた時期である。その後アーリア人は、インダス川上流から徐々にガンジス川流域を東へと移動し定住していったが、彼らが保持した聖典がヴェーダであった。 ヴェーダと呼ばれる聖典群は、『リグ・ヴェーダ』などの主要部分と、付属文献としてのブラーフマナ、アーラニヤカ、そしてウパニシャッドから成り立っている。『リグ・ヴェーダ』は、もっぱら神々に対する賛歌の集成であるが、その末期に成立してきた第10巻には、「哲学的」と言ってもよいような思考がみられる。ドイッセンはそれを以て「インド哲学の第一期」とした。 |
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BC700年~BC500年頃、ブラーフマナの時代を迎える。ヴェーダ祭式の世界観を土台にした独特の思考法の展開が見られる。その思考法が「梵我一如」という最高原理をめぐる哲学として語られたのが、ウパニシャッドである。最古のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』や『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』が生み出されたのが、「インド哲学の第二期」である。 | ||
BC500年頃が、都市の成立、貨幣経済の発達、王権伸張、富裕層の力が大きくなる、などを背景として、ヴェーダ祭式の執行権を独占していたバラモン(祭官)階級の地位が相対的に弱まることとなった。この大変革期を経て、ヴェーダの勢力圏外に新たな思想家や宗教家が生まれることとなった。仏教のガウタマ・ブッダやジャイナ教のマハーヴィーラなどである。これらが「インド哲学の第三期」である。 | ||
著作物 | 『リグ・ヴェーダ』、『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』 | |
参考文献・関連リンク | 『世界哲学史』 松浦和也 著 (P137) |
タレス | 哲学・思想史TOP | |
生没年 | BC624~546 | 古代ギリシア |
時代背景 | タレスは、ソクラテス以前の哲学者の一人で、西洋哲学において、古代ギリシアの記録に残る最古の(自然)哲学者であり、イオニアに発したミレトス学派の始祖である。また、ギリシャ七賢人の一人とされる。 | |
実績 | ソクラテス以前の哲学者の全てがそうであるように、タレス自身が直接書いた著作・記録は残っておらず、アリストテレスが「原理」をキーワードとして、これまでの哲学者たちを整理しており、タレスの記述を見出すことができる。初期の哲学者たちの多くはすべてのものの「原理(アルケー)」を求めたが、その探究はタレスであるとされている。タレスの主張は、世の中のさまざまなものがあるが、それらはすべて究極的には水からできているということである。 ホメロスやヘシオドスのように詩も哲学の要素を持っているものの、それらと哲学(者)を隔てているものは何か?ギリシア哲学は「詩から哲学へ」、あるいは「物語(ミュートス)から論理(ロゴス)へ」、つまり物語や神話的な世界観から論理的で科学的な世界観への脱却として語られることがある。 |
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著作物 | 伝えられていない。 | |
参考文献・関連リンク | 『世界哲学史』 松浦和也 著 タレス[Wikipedia] |
ピタゴラス | 哲学・思想史TOP | |
生没年 | BC582~496年 | 古代ギリシア |
時代背景 | ピタゴラスが「哲学(フィロソフィア)」という言葉を作った、という説がある。この報告は、ポントス出身でアカデメイアの成員であったヘラクレイデス(ca.BC390~310)であるが、ピタゴラスの時代から二世紀近くの月日が経過しており、信頼性は高くない。しかし、彼以前にこのような逸話を報告している文章はない。伝統的には哲学の始祖はピタゴラスではなく、タレスとみなされており、アリストテレスの『形而上学』にもそのような記述が残っている。 | |
実績 | 南イタリアでピタゴラス派を形成し、数学探究を行い、数を世界の秩序の原理とした。ピタゴラスが組織した教団は秘密主義で、内部情報を外部に漏らすことを厳しく禁じ、違反者は船から海に突き落として死刑にした。そのため教団内部の研究記録や、ピタゴラス本人の著作物は後世に一点も伝わっていない。そこでピタゴラス個人の言行や人物像は、教団壊滅後に各地に離散した弟子の著作や、後世の伝記、数学に関する本の注釈といった間接的な情報でできあがっている。彼の肖像や彫像類も、すべて後世の伝聞や想像で作られたイメージであり、実際にどういう風貌をした人物だったかも不明である。 | |
著作物 | 伝えられていない。 | |
参考文献・関連リンク | 『世界哲学史』 松浦和也 著 ピタゴラス[Wikipedia] |
<ギリシア哲学の特徴> ギリシア哲学者の主張が多様であるのはなぜか。それはそもそも疑ってはならなかった特定の教説がギリシアにはなかったことを意味する。師の教えを貫き、保持しようとした人はいる。しかし、ホメロスやヘシオドスもたしかにギリシア人が共有する文化的基盤であるが、『ヴェーダ』や『聖書』のように“聖典”として扱われてはいない。むしろ、それらの批判者として知られているクセノファネス(ca.BC570~470)やヘラクレイトスなどもいる。 |
孔子 | 哲学・思想史TOP | |
生没年 | BC582~496年 | 中国 春秋時代 |
時代背景 | 中国春秋時代の魯の国に生まれる。当時の大国斉の隣国であった。魯は周の建国者であった武王の弟の周公旦の子孫が封建された国であった。周公旦は周の統治機構が安定するよう、周王朝の儀礼や作法を重んじ、その形式を定めた。周公旦から約500年後に孔子は生まれた。政情が乱れた春秋時代に生まれた孔子、周公旦の時代にあった礼の精神が現在の世にも必要だと考えて魯に仕官した。 | |
実績 | 魯に仕官は実現したが、自分の理想を実現できるような国政の仕事には就けなかった。そのうち魯の派閥闘争に巻き込まれ、亡命同然に魯を出国。弟子入りする若者もいたが、「礼」や「仁」の精神を取り入れる諸侯は当時はあまりいなかった。孔子は十数年の諸国遍歴の後、魯に戻り、弟子たちを教えることや古書の整理を続けることで生涯を終えた。 孔子は理想主義的な観念論という点でプラトンと似ており、多くの弟子に教えたことも共通点だが、プラトンの子孫は不明だが、孔子の子孫は数十万にもなり、孔子の墓のある場所は紫禁城に次ぐ大きな木造建築物になっている。 |
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著作物 | 孔子の言葉をまとめた『論語』 | |
参考文献・関連リンク | 『哲学と宗教 全史』 出口治明 著 孔子[Wikipedia] |
ヘラクレイトス | 哲学・思想史TOP | |
生没年 | ca.BC535~475年 | 古代ギリシア |
時代背景 | ||
実績 | 万物流転説の提唱者として知られ、原理を火とした。 | |
著作物 | ||
参考文献・関連リンク |
<世界哲学の不思議> 古代中国の孔子の「これを知るをこれ知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり」という言葉は対象についての知と不知ではなく、自分が知っているか否かをはっきり弁別できる、自分についての知を主題化している。 古代インドのガウタマ・ブッダは、世界の心理(縁起の法)について私たちが不知(無明)であるがゆえに、悩み苦しんでいる点を指摘し、この不知に気づき、縁起の法を正しく知ることで、悟りの境地に達することができると説いた。世界に関する不知を克服する契機として、自己への眼差しを重んじる考えである。 また、古代ギリシアでは、ヘラクレイトスが世界―「万有(ト・パン)」―を美しい秩序と調和を保つコスモスと捉える一方で、ミクロコスモスとしての「自分自身を探究した」。そして、自己を「魂」として捉え返し、「君は魂の最果てを発見することはできないだろう、あらゆる道に沿って旅したとしても。魂はそれほどに深い理(ロゴス)を持っているのだ」と語って、自己と魂のあり方については、平板な世界把握とは違う、深みのディメンジョンを有する立体的な知の形態を示唆している。 古代の先哲たちの関心がほぼ同時期に、世界から自己・魂へと向かったことは「世界哲学史」の不思議の一つである。それぞれの地域の思想の背景となっている風土や社会体制の違いを認めた上で、異なる環境世界でなぜ類似した動きが生じえたのか、分析する必要がある。 |
パルメニデス | 哲学・思想史TOP | |
生没年 | BC520~450年 | 古代ギリシア |
時代背景 | 南イタリアのエレアにおいて、パルメニデスやエレア派のゼノンが運動否定論を唱え、これまでの自然哲学に対するアンチテーゼを唱えた。 | |
実績 | 「あらぬ」や「無」があることは不可能であり、不生不滅で単一の「ある」のみがあると主張した。 | |
著作物 | 『自然について』;クセノパネス等にならって、教訓詩の形で哲学を説いている。(断片として現存) | |
参考文献・関連リンク | 『世界哲学史』 松浦和也 著 パルメニデス[Wikipedia] |
アナクサゴラス | 哲学・思想史TOP | |
生没年 | ca.BC500~428年 | 古代ギリシア |
時代背景 | ||
実績 | ものの原理の数を無数としつつも、生成変化を引き起こす原理を知性(ヌース)に据えた。 | |
著作物 | ||
参考文献・関連リンク |
エンペドクレス | 哲学・思想史TOP | |
生没年 | ca.BC495~435年 | 古代ギリシア |
時代背景 | ||
実績 | 火・空気・水・土の四元素を原理としながら、生成変化を引き起こす原理として「愛・憎しみ」を付け加えた。原理に関するタレスやエンペドクレスの主張を見ると、哲学者ではないように感じられるかもしれない。「ものは究極的に何からできているか」という問いは現代であれば物理学者が扱う領域である。アリストテレスは彼らを哲学者とは呼ばず「自然を語る者」「自然に関わる人々」などと呼んだ。現代でも自然哲学者と呼ぶことがある。 | |
著作物 | ||
参考文献・関連リンク |
墨子 | 哲学・思想史TOP | |
生没年 | BC470~390年 | 中国 春秋・戦国時代 |
時代背景 | 孔子が亡くなってしばらくしてから魯の国に生まれた。墨は入れ墨のことで、犯罪者などが顔などに入れ墨をされたが、墨子や彼の弟子がまるで徒刑囚のように不自由な暮らしをしていた、とも言われていた。 | |
実績 | 孔子の仁は身分制社会の存在を前提にしており、祖先、親、家族を大切にすることを第一に挙げているが、他者への愛はどうしても二の次になる。墨子はそこを指摘した。人はみな等しく尊重されるべき、という「兼愛」の思想を広めようとした。また、戦争にも反対し、「非攻」を主張した。しかし、攻められたら徹底的に守り抜くことを主張。築城術や防衛戦術を研究し、技術者集団にもなっていった。 また、祖先を敬うことを重視した孔子は3年の服喪など厚葬久喪を重んじていたが、墨子は節葬を主張するなど現代にも通じる合理的な精神といえる。春秋戦国の乱世において、孔子は現世肯定の立場でしたが、墨子は反体制的な考え方だった。結果として、諸侯から墨子は受け入れられることはなかった。 |
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著作物 | 『墨子』 | |
参考文献・関連リンク | 『哲学と宗教 全史』 出口治明 著 墨子[Wikipedia] |
ソクラテス | 哲学・思想史TOP | |
生没年 | BC469~399年 | 古代ギリシア(アテネ) |
時代背景 | アテネはペリクレスの時代。弁論術や修辞法が盛んだった。ソクラテスは石工である父と助産師である母との間に生まれ、若いころから雄弁だった。 | |
実績 | ソクラテスの弁論術は、対話を重視し、相手を論破しながら事物の核心に迫るもの。彼が対話術を通して教えようとした命題は「不知の自覚」であった。彼は粗末な衣服を身に着け、裸足でアテネの街へでかけ、広場や神殿など人の集まる場所へ行き、誰彼となくつかまえて問答を仕掛けたという。自ら不知に気づかない相手を論破することで気づきを与えるというもの。しかし、相手によっては感情的になったり、足蹴にしたりする人もいたという。ソクラテスに憎悪を抱いた人に告訴され、公開裁判で死刑となる。死刑を逃れる機会もあったが、法の裁きを遵守し、毒ニンジンの杯をあおり刑死したという。 哲学の歴史は、ソクラテスの前と後では区別される、とも言われる。 |
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著作物 | 『ソクラテスの弁明』(対話を重視していたソクラテスに著作物はないが、最晩年の弟子の一人であるプラトンによって残されている) | |
参考文献・関連リンク | 『哲学と宗教 全史』 出口治明 著 ソクラテス[Wikipedia] |
プラトン | 哲学・思想史TOP | |
生没年 | BC427~347年 | 古代ギリシア(アテネ) |
時代背景 | プラトンはアテネがペロポネソス戦争に苦戦し、シチリア遠征に敗れるという波乱の時代に多感な青春時代を過ごす。アテネが繁栄の時代から坂道を転げ落ちていく時代に生きた哲学者。28歳のときに師であるソクラテスが刑死している。アテネの名門の生まれで、レスリングの先生から、体格も立派で肩幅も広かったので「プラトン(広い)」と呼ばれ、そのあだ名が通称になったという説もある。ギリシアの上流社会では、文武両道に秀でていることが重んじられ、プラトンはレスリングの大会で優勝した記録も残している。 | |
実績 | プラトンの哲学の本質は「イデア論」であり、二元論が基本になっている。精神と肉体(物質)など。ピタゴラス教団の影響とも言われる。プラトンはピタゴラス教団の哲学を学ぶために、BC388年にイタリアを訪れている。ピタゴラスの死後100年くらい経過しているが。ピタゴラスは「アルケー(万物の根源)は数である」と説いたことから数学・幾何学や輪廻転生の影響を受けたのではないかと思われる。1年後イタリアからもどったプラトンはアテネ郊外に自分の学園をつくった。イデア論は、真実の光に対して、人はその光が壁に映す影の形をみている、というもの。『国家』では、まず支配者が一人である政治形態を、王政と僭主政に分ける。王政は誰かを君主としたら、その者の血を引く者が後継者となる。すなわち血統という法制度(ルール)に則って支配する。僭主政とは、王家の血を引かない者(僭主)が実力だけで政治を取り仕切る場合を指す。この場合、法制度は無視される。次に支配者が少数の場合、貴族政と寡頭政に分類される。誰でも貴族にはなれないので、貴族政は法制度に準じている。寡頭政は限られた少数の集団が政治権力を握っている状態。ペロポネソス戦争に敗れた後のアテネではスパルタが選んだ代弁者たちが一方的にアテネを支配した。ここにはルールがなかった。 ペロポネソス戦争で大敗したアテネが軍事強国を目指して再建を進める中で、全体主義的な主張も展開している。*2 彼が理想とする哲人政治を実践する機会を2度、シチリアで得たが、いずれもシチリアの政争に巻き込まれて、中途半端に終わった。ほんの短期間だけシチリアの政治指導者を指導しただけだった。それでも、同じ哲学者であり、自ら理想とする政治を具体的に実践したいと念じていた孔子が、結局実践の機会がないまま中国各地を遍歴したことに比べれた幸運であってかもしれない。 シチリアから戻ったプラトンは著述とアカデメイアにおける教育に専念しBC347年に80歳で没した。 |
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著作物 | プラトンの著作は、『国家』『ソクラテスの弁明』をはじめ、ほとんどすべて今日まで残っている。それは、プラトンはアカデメイアという大学を創設(BC387)し、それが約900年も続いたため(529年東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が非キリスト教的学校の閉鎖を宣言するまで)。作品は35篇以上、中には10巻の大作もある。テーマは多岐にわたり、イデア論、政治学、法学、問答法、数学・幾何学、天文学・自然科学、神学、倫理学、魂について、など。英国アルフレッド・ノース・ホワイト(1861~1947)「西洋のすべての哲学は、プラトンの脚注にすぎない」という言葉もある。 | |
参考文献・関連リンク | 『哲学と宗教 全史』 出口治明 著 *1 『教養としてのギリシア・ローマ』(東洋経済新報社、中村聡一著) *2 プラトン[Wikipedia] |
アリストテレス | 哲学・思想史TOP | ||
生没年 | BC384~322年 | 古代ギリシア(マケドニア) | |
時代背景 | バルカン半島トラキア地方のマケドニア王国支配下のスタゲイロスという小都市で、医者の息子として生まれる。ギリシア諸都市は争乱が絶えず、ペルシアの介入もあって衰退期に向かっていた。アリストテレスが生まれた2年後にフィリッポス2世が生まれる。フィリッポス2世は成長してマケドニアを強国とし、やがてギリシアの都市国家を制圧することになる。 アリストテレスは幼くして両親と死別し、義理の兄を後見人として少年期を過ごすが、17~18歳の頃にプラトン主宰のアカデメイアに入学する。プラトンからも高く評価される。しかし、20年近く学んだ後、アカデメイアを去る。理由の一つはアカデメイアの教授陣の最高位にプラトンの甥が選ばれたこと、もう一つは、当時のアテネが強国マケドニアが侵略してくることを警戒しており、マケドニア出身のアリストテレスは居心地が悪くなったのでは、という説がある。 |
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実績 | アリストテレスはBC342年、42歳の頃、マケドニア王フィリッポス2世(BC359~336)に招かれて、首都ペラに行き、王太子アレクサンドロスの家庭教師につく。王はアリストテレスに王太子一人ではなく、将来彼のブレーンとなる優秀な貴族の子弟をも合わせて教育するよう依頼した。アリストテレスは、アレクサンドロスが13歳の頃から教え始めた。そして、6年後(BC336)にアレクサンドロスは王位に就いた。翌年、大任を終えた49歳のアリストテレスはアテネに戻った。彼は東の郊外リュケイオスにアレクサンドロスの資金援助を得て、自らの学園を創設した。(現代フランスの高等学院リセの語源) BC323アレクサンドロス大王が没するとアテネでも反マケドニア運動が激化し、アリストテレスもアテネを追われるように去り、BC322年、母方の故郷エウボイア島のカルキスで62歳で没した。 アリストテレスの著作はもともと550巻ほど存在した、といわれているが、1/3前後が現存している。、「万学の祖」と言われたように多岐にわたっており、論理学、倫理学、形而上学、政治学など哲学に関連する分野だけでなく、物理学、天文学、気象学、生物学などの自然科学なども網羅している。プラトンのイデア論と比べて、経験の分析と理論化に特徴がある。 プラトンと同様、職業的知識人・教師であったソフィストは、しばしば詭弁を弄し、社会を堕落させる者として批判した。 また、プラトンと同じく、ペロポネソス戦争後、衆愚政治に陥っていたアテネの政治状況を背景に、民主制が必ずしも理想であるとはしていない。 |
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著作物 | 『形而上学』『ニコマコス倫理学』『政治学』 | ||
参考文献・関連リンク | 『哲学と宗教 全史』 出口治明 著 アリストテレス[Wikipedia] |
<ミリンダ王の問い> ミリンダ王は、アレクサンドロス東征以降にインド北西部にできた「インド・グリーク朝」の一つの系統の国の王、メナンドロス1世(在位;BC155年 - 紀元前130年頃)。『ミリンダ王の問い』は、仏僧ナーガセーナとの問答を記録したもの、と言われている。メナンドロス1世が仏教に帰依した、との記録もあるが、真偽は定かではない。 “尊者ナーガセーナよ、「人格的主体・ブッガラ」は存在しない、ならば、誰が戒律を護るのか?誰が修行に専心するのか?誰が修行の結果である涅槃を悟るのか?(中略)ならばそれ故、善なる行為は存在せず、不善なる行為も存在せず、様々な善や不善なる行為の行為主体も存在せず、或いはそれらの行為をなさせしめる主体も存在せず、諸々の善くなされた、或いは悪くなされた行為の結果としての報いも存在しないのです。” これに対し、ナーガセーナは「車の比喩」によって自らの立場を説明する。 「車」とは何か、それを構成する様々な部分に「縁って」成立した名称であるに過ぎず、その名称を担う「車」という構成要素は「車」の中には認められない、と。この説明を王が受け入れるとナーガセーナはこう述べる。 “王よ、あなたは適切に車というものを理解しました。王よ、まさに同じことは私にも当てはまり、頭髪に縁って、体毛に縁って、身体の形に縁って、快と苦の感受作用に縁って、表象作用に縁って、行為を行う意思の形成作用に縁って、識別認識作業に縁って、「ナーガセーナ」という呼称、通称、仮の名、慣用名、単なる名が起こるのです。けれども本来の意味においては、「人格的主体・ブッガラ」は存在しないのです。” 構成要素は「五蘊」と伝統的に訳されてきた。名称を持ち存在する全ては、要素が縁り合うことで出来ているのであって、何らか一つの本質によって成立していはいない。人間の名前とは、それを構成する要素の集合体につけれられているに過ぎず、諸要素の中には、個人を個人として唯一の実体は存在しないというナーガセーナの説明は、20世紀の分析哲学者ギルバート・ライルによる魂をめぐる考察を彷彿とさせ、興味深い。 『世界哲学史1』‐「第10章 ギリシアとインドの出会いと交流」 金澤修 著 |
<史観;ローマ哲学がギリシア哲学に劣るという評価の原因> 1)内面に引きこもることによる心の平静の希求。 2)実践の偏重と理論の欠如 3)独創性を欠いた折衷主義 近年、ローマ哲学の再評価が進んでいるが、(中略)こうした研究成果から見えてくるのは、哲学と政治との間、学問と実践との間の緊張関係を意識しつつ、ギリシア由来の哲学を我が物にしようとしたローマの人々の苦心の跡である。 『世界哲学史2』P38「第2章 ローマに入った哲学」 近藤智彦 著 |
<史観;キリスト教は哲学か> 古代ギリシアに淵源し、神或いは超越者を極力引き合いに出さずに窮理を目指す知的営み(自然哲学)として始まった哲学の由来からすれば、哲学と宗教の間には画然たる一線が引かれべきと思う。 『世界哲学史2』P63「第3章 キリスト教の成立」 戸田聡 著 |
<史観; イエス・キリストが話したのは、アラム語、またはへブル語であり、哲学を生み出してきたギリシア語ではないが、『新約聖書』やそれにつながる福音書はすべてギリシア語で書かれている。 『世界哲学史2』P64「第3章 キリスト教の成立」 戸田聡 著 |
資料 | *1 『世界史大年表』(山川出版社、石橋秀雄 他)。 |
*2 『哲学と宗教 全史』 出口治明 著 | |
*3 『世界哲学史1』 浦和也 他 著 | |
*4 『世界哲学史2』 納富信留 他 著 | |
『教養としてのギリシア・ローマ』(東洋経済新報社、中村聡一著) |