年 |
主なできごと |
周辺地域のできごと |
BC1世紀 |
BC63年、ローマのポンペイウスがイェルサレムを占領。カナンをローマの属州とする。ハスモン朝は廃され、ローマの傀儡としてのヘロデ王(在位BC37~4年)が即位し、ヘロデ朝創設。 |
|
BC4年、ベツレヘムにイエス=キリスト誕生。 |
|
AD6年頃、イェルサレム周辺は、アウグストゥス(在位BC27~AD14)のとき、ローマ帝国の「ユダヤ属州」となる。 |
|
1世紀 |
ユダヤ教;律法を重視するファリサイ(パリサイ)派、イェルサレム神殿での祭儀を重視するサドカイ派、荒野で禁欲的に集団生活を送るエッセネ派、ユダヤ人独立を目指すゼロテ派(熱心党)などのグループが存在。
エッセネ派のヨハネから、イエスは洗礼を受ける(洗礼者ヨハネ)。 |
AD14年 ローマ皇帝ティベリウス(在位AD14~37年)。 |
ファリサイ派は律法に通じる時間的余裕のある裕福な人々が中心であり、選民思想にもつながっていたが、イエスは神を信じればよい、という開放的な教えを唱え、対立した。 |
|
ユダヤ人は苦難の歴史の中で、この時、さらにローマに司法権、行政権を奪われ、重税が課せられ、さらにユダヤ属州総督ポンテオ・ピラト(在任26~36)の厳しい統治の中で、救世主(メシア、ギリシア語でキリスト)待望論が高まっていた。*1 |
|
ヨハネ(イエスの洗礼後は離れていた)は、支配者ヘロデ・アンティパスの結婚(兄弟の妻との結婚)を違法と告発して逮捕され、31年に処刑。ユダヤの体制が「救世主狩り」に力を入れた時期。 |
|
奇蹟を起すなどして信者を増やしていたイエスに対し、体制側の祭司長やファリサイ派の人々は危機感をもった。救世主とみなされたイエスがローマ支配に対する反体制運動の指導者となって、ローマい反旗を翻せば、その下で権力を振るっている体制側の自分たちの立場が危うくなる、としてイエスをローマ属州総督ピラトに告訴しようと決議。 |
|
32年、イエスの12使徒の一人ユダを買収し内通させ、ローマに逮捕させ、処刑した。 |
|
12使徒~ペテロ、アンデレ、大ヤコブ、ヨハネ(ヤコブの弟)、小ヤコブ(イエスの弟)などが伝道を行い、キリスト教となっていった。12使徒は「イェルサレム教会」を中心に主にユダヤ教の枠内で活動、カナンから離散したユダヤ人たちが「アンティオキア教会」を建てて活動。 |
|
34年、パウロは元ファリサイ派であったが、旅の途中イエスからの啓示を受け回心。アンティオキア教会に参加し、伝道を行う。第一回伝道(46~48);サラミス、パフォス、アンティオキア(シリア)、イコニア、デルベ。第二回伝道(48~51);イェルサレム、アンティオキア、フィリピ、テサロニケ、アテネ、コリント、エフェソス。第三回伝道(53~55);イェルサレム、アンティオキア、エフェソス、コリント、マケドニア。各地でユダヤ人以外にも伝道し、広がった。(選民思想のユダヤ教から、世界宗教のキリスト教の成立) |
|
38年 属州コンマゲネでアンティオコス4世、トラキアをでロエメタルケスを、ユダヤでアグリッパを、アルメニアでコチェスを、ポントスでポレモン2世を属王の統治に戻す |
37年 ティベリウス、ミセヌムで没(14~)、カリグラ(ガイウス)即位(~41、第三代皇帝)。カリグラ、コンスル就任。 |
40年、ユダヤ人使節、ユダヤ人迫害の訴え;アレクサンドリアのフィロン、ローマに来る |
41年、カリグラ、親衛隊将校により暗殺される。(37~)。クラウディウス即位(~54、第四代皇帝)。 |
41年、ヘロデス=アグリッパ1世、属州ユダヤを与えられ、全ユダヤの王となる(~44)、ユダヤ人、イェルサレムの新城壁を建設(~44) |
|
50年ca.(1C半ば)『マルコ福音書』成立 |
54年、クラウディウス、皇妃小アグリッピナに暗殺される。ネロ帝即位(~68)。 |
57年、パウロ、イェルサレムで逮捕され、カエサレアで監禁される、次いでローマに護送、航行途上難破に遭う。 |
|
60年ca.フェストゥス、フェリクスの後を継ぎユダヤ総督となる |
|
61年、パウロ、ローマに至り伝道を行う(~61)。 |
|
64年、ローマ、9日間の大火。ゲッシウス=フロルス、ユダヤ総督に就任(~66)。ネロのキリスト教徒迫害始まる(~67);使徒ペテロ・パウロ殉教 |
65年、哲学者セネカ(BC4~)と詩人ルカヌス(39~)、ピソの陰謀に連座し、ネロの命により自殺 |
66年、第一ユダヤ戦争勃発(~70);ローマの守備隊、反乱軍に各地で敗走。 |
|
67年、将軍ウェスパシアヌス、ユダヤに派遣され、ヨタパタを落とし、反乱の首魁ヨセフォスを降す;イェルサレム以外のガリラヤ・ユダヤの地を征服。 |
68年、ネロ自殺。ユリウス=クラウディウス朝終焉。以後、軍が武力を背景に皇帝を擁立するようになり、ローマ内戦に突入することとなる。 |
70年、ティトス、イェルサレムを占領・破壊し、属州ユダヤとする。;第一ユダヤ戦争終わる。 |
69年、ウェスパシアヌス、元老院の承認を得て単独支配者となる(~79);フラウィス朝創始。 |
74年、死海西岸の最後の拠点マサダの堅塁を占領;ユダヤ反乱軍の残党自害。 |
79年、ウェスヴィウス火山の噴火 |
75年、ユダヤのアグリッパ2世とベレニケ、ローマを訪問。ユダヤ人歴史家ヨセフォス(ca.37~ca.100)の『ユダヤ戦記』成立(~79)。 |
80年、ローマ大火(3日間).コロッセウム完成。ティトスの浴場完成。 |
|
81年、ティトス病死、弟ドミティアヌス即位(~96) |
90年、属州ユダヤのヤブネにおいて、ユダヤ教正典結集会議開催。 |
86年、ドミティアヌス、「主にして神」と称し、専制君主化。 |
|
96年、ドミティアヌス、皇妃ドミティアに暗殺される。元老院議員ネルヴァ、皇帝に即位(~98);五賢帝時代始まる(~180) |
|
: |
|
4世紀 |
303年、ローマ帝国四分割統治を行ったディオクレティアヌス帝(在位284~305年)は、「専制君主制」への移行を図り、皇帝崇拝を強制したが、従わないキリスト教徒への迫害を行った。 |
|
313年、次のコンスタンティヌス帝(在位306~337年)のミラノ勅令によりキリスト教がローマ帝国領内で公認された。急に公認したのは、コンスタンティヌス帝はローマ帝国の再統一を目指していたが、一神教が一元的な支配原理と合致したことによる。*1 |
|
教義の解釈により、アタナシウス派、ネストリウス派、アリウス派などに分かれた。キリスト教(国教)の分派は、ローマ帝国の統一にとっても都合が悪いので、コンスタンティヌス帝は、325年ニケーア公会議を開催し、アタナシウス派を正統とし、他を異端とした。 |
|
326年、コンスタンティヌス帝の母ヘレナは熱心なキリスト教徒で、イェルサレムを訪れ、イエスが磔刑にされた十字架を発見し、ゴルゴダの丘を特定し、礼拝堂を建てたが、後にそれが聖墳墓教会となり、キリスト教の聖地となる。 |
|
次のユリアヌス帝(在位361~363年)はキリスト教の公認を取り消し、ローマ本来の多神教に戻そうとした(背教者ユリアヌス)。 |
|
380年、テオドシウス帝(在位379~395年)、キリスト教を国教化。分割統治されていたローマ帝国を再統一した。 |
|
395年、テオドシウス帝は自らの死にあたって、息子二人に帝国を分割して、継承させた。東西ローマ帝国の分裂。 |
|
4世紀後半、アンティオキア、アレクサンドリア、ローマの三大総司教区に、コンスタンティノポリスが加わる。 |
|
5世紀半ば、イェルサレムが加わり、五大総司教区となる。(ローマ以外はすべて東ローマ帝国領内)。 |
|
5世紀 |
476年、傭兵隊長オドアケルにより、西ローマ帝国が滅亡。西ローマ帝国が滅亡しても、東方教会と西方教会は合流せず分離したまま。*1 |
|
人間中心のキリスト教は、人(民族)に合わせ、多神教の神を、守護天使、守護聖人として取り込んでいった。それはギリシアやローマの神々だけでなく、ゲルマン民族の土着宗教をも取り込んでいく。 |
|
フランク王国はアタナシウス派キリスト教を国教とし、ローマ・カトリック教会の聖職者などの知識層を取り込み、統治体制を強化し、アリウス派を信仰するゲルマン民族などを圧倒していった。結果として西ヨーロッパにおいて、ローマ・カトリック教会が広く強く浸透した。*1 |
|
8世紀 |
726年、東ローマ皇帝レオン3世(在位717~741年)による「聖像崇拝禁止令」により、東西教会の分離と対立が決定的となる。*1 |
|
732年トゥール・ポワチエの戦い;西ヨーロッパに侵入したイスラム軍をフランク王国のカール・マルテル(686~741年)が破った。 |
|
800年、東ローマ皇帝に対抗するために、フランク王カール1世(在位;768~814年)が戴冠し、西ローマ皇帝並びにローマ・カトリック教会が、東ローマ皇帝並びにギリシア正教会と対立する構図となる。*1 |
|
西方教会は「ローマ・カトリック教会」として、ローマ教皇を頂点に枢機卿、大司教、司祭、助祭と序列を整え、ピラミッド型の組織をつくった。一方、東方教会、ギリシア正教会は、厳格なピラミッド組織は作らず、地域ごとに分かれている。*1 |
|
10世紀 |
初代神聖ローマ帝国皇帝オットー1世(在位;962~973年)司教など高位聖職者の任命権を握ろうとする。[叙任権闘争] |
|
11世紀 |
1070年、セルジューク朝はファーティマ朝からシリアを奪い、アナトリア(小アジア)に侵攻し、ビザンティン帝国と衝突。 |
|
1071年、マラズギルトの戦い;セルジューク朝がビザンティン軍に大勝。 |
|
1077年 カノッサの屈辱;教皇グレゴリウス7世(在位;1073~1085年)が、神聖ローマ帝国皇帝ハインリッヒ4世を破門にし、皇帝が破門を解いてもらうために詫びた。 |
|
1095年、ビザンティン帝国アレクシオス1世(在位;1081~1118年)が、ローマ・カトリック教会会議が開かれていたイタリアのピアツェンツァに使節を送り、ローマ教皇ウルバヌス2世(在位;1088~1099年)に救援を訴える。 |
|
ウルバヌス2世、フランスのクレルモンでの教会会議で「十字軍勧説」を行う。
しかし、ビザンティン帝国とセルジューク朝との領土争いにすぎなかったことが、熱狂的な「十字軍」へと発展した。ギリシア正教会に対して優位に立とうとしたこと、世俗領主の争いを「神の平和」と称して、抑えていたことのはけ口として認めた可能性、そして1033年以降拡大していたペストへの社会不安も背景か。*1 |
|
1096年、フランスの「隠者ピエール」が民衆十字軍を結成し、遠征へ。 |
|
1097年、第一回十字軍派遣(約200年続く)。教皇権の強大化から、王権の強大化へ。中世から近代へ。 |
|
1098年、十字軍、トルコ南東部エデッサに「エデッサ伯国」を建設。また、「アンティオキア侯国」を建国。 |
|
1099年、イェルサレムを攻略した十字軍は「イェルサレム王国」を建国(1099~1291年)。 |
|
12世紀 |
1184年、教皇ルキウス3世(在位;1181~1185年)、ヴェローナ公会議で異端審問を制度化。異端審問所が各地に設置された。 |
|
教皇インノケンティウス3世(在位;1198~1216年);「教皇は太陽、皇帝は月」教皇権の最盛期。第4回十字軍(1202~1204年)を呼びかけ、ヴェネツィア商人とビザンティンの亡命皇帝の王子アレクシウスの依頼を受け、十字軍はイェルサレムからコンスタンティノポリスを目標を変更。1204年、コンスタンティノポリスを占領し、ラテン帝国(~1261年)を建国。 |
|
インノケンティウス3世、カタリ派、アルビジョア派を掃討するため、アルビジョア十字軍を組織する。キリスト教の異端審問にも向けられる。 |
|
アッシジのフランチェスコ(1181~1226)が、フランチェスコ会を始める。清貧に徹した無所有を主張、托鉢運動を始める。 |
|
スペインのドミンゴ・デ・グスマン(1170~1221)がドミニコ会を始める。これらは農村の修道院ではなく、都市型の修道会であった。 |
|
教皇グレゴリウス9世(1227~1241年)は、これらを異端とせず、フランチェスコ会、ドミニコ会に異端審問裁判所を委ねる。 |
|
13世紀 |
1212年、少年十字軍結成され、派遣されるが、成果得られず。 |
|
1258年、教皇アレクサンデル4世(在位;1254~1261年)、魔女狩りを抑制するよう呼びかけ。 |
|
15世紀 |
ドミニコ会修道会士による魔女狩りが盛んに。ジャンヌ・ダルク(1412~1431年)が英仏百年戦争(1339~1453年)の時代に、英軍に捕らえられ、火刑に。ジャンヌ・ダルクが神の声を聞いた、ことが異端審問に。(1909年ジャンヌは福者に列せられ、1920年に聖人に列せられ、復権した) |
|
世俗の政治権力を持つローマ・カトリック教会は、自ずと俗化した。改革運動が起こるが、ローマ・カトリック教会は、それらを異端として根絶しようとした。 |
|
ビザンツ帝国は滅亡し、コンスタンティノポリスにあった総大司教座はモスクワに遷された。*1 |
|
16世紀 |
1517年、マルティン・ルター「95ヶ条の提題」をヴィッテンベルク城の教会の扉に貼り出す。サンピエトロ大聖堂建設資金のための贖宥状(免罪符)発効に疑問を呈する。1521年教皇レオ10世、ルターを破門。 |
|
プロテスタントは(カノッサの屈辱のようには)屈せず、宗教改革へ繋がる。俗語文学・聖書の俗語訳により、聖書教えと教会の活動が必ずしも一致しないことに疑問を持ち始めた。中間知識層が経済力を持ち始めていた、などの理由により、プロテスタントが力を持った。 |
|
ジャン・カルバン(1509~1564年)、カルバン派を創設。ローマ・カトリック教会から異端とされる。 |
|
パリ大学に在学していたイグナティウス・デ・ロヨラ(1491~1556年)とフランシスコ・ザビエル(1506~1552年)が、イエズス会を創設。ローマ・カトリック教会はイエズス会を異端とはせず、取り込みを図り、プロテスタントに対抗する。 |
|
1534年、英イングランド王ヘンリー8世(在位;1509~1547年)が首長令(国王至上法)を制定し、ローマ・カトリック教会から独立。愛人アン・ブーリンと結婚し、そのため王妃キャサリンとの離婚をローマ教皇クレメンス7世(在位;1523~1534年)に拒否され、破門されたため。設立された英国国教会は教義はカトリック教会に近い。 |
|
17世紀 |
大陸からイングランドへ避難してきたカルヴァン派はピューリタン(清教徒)と呼ばれたが、イングランド王はこれを弾圧。1620年ピルグリム・ファーザーズ(巡礼始祖)がメイフラワー号で米新大陸へ上陸。 |
|
|
1632年、ガリレオ(1564~1642年)の異端裁判。地動説を唱えたガリレオを異端とした。 |
|
|
1648年ウェストファリア条約;ドイツでの三十年戦争(1618~1648年)の結果、カトリックとプロテスタントの棲み分けを決めた。 |
|
18世紀 |
1730年代、マサチューセッツの牧師ジョナサン・エドワーズ(1703~1758年)によるプロテスタント「第一次大覚醒運動」(信仰復興運動、カトリックでもおよそ200年周期で浄化作用が発生)。一方、ヨーロッパの啓蒙主義がキリスト教と対抗。 |
|
|
キリスト教における政教分離最初は「叙任権闘争」、二番目は「宗教改革」、三番目が「フランス革命」。
①フランスの教会はローマ・カトリック教会に属しているものの、一定の自立性を有する「ガリカニスム」(ガリア=フランスの自立性)という概念。ローマ教皇がアルプス山脈を越えて支配力を持つという「ウルトラモンタニズム」(モンタ=山)が対立。16世紀のフランソワ1世の頃からローマ教皇に一定額を納めることで、フランス王が司教を任命できるようなった。 |
②フランスで王と教会が国家を営んで行こうとしていた16世紀に「宗教改革」がはじまり、ユグノー戦争(1589~1610年)が発生。アンリ4世(在位;1589~1610年)が、1598年ナントの勅令を発令し、信仰の自由を認める。アンリ4世はプロテスタントだったが、即位後カトリックに改宗。しかし、狂信的なカトリック教徒に暗殺される。息子のルイ13世(在位;1610~1643年を補佐したリシュリュー、マザランは枢機卿で、カトリックの聖職者だったが、フランス王家ブルボン朝は、カトリックのハプスブルク家のオーストリアとスペインと対立していたため、プロテスタントを支援した。政教分離的な政策をとった。 |
③次のルイ14世(在位;1643~1715年)がナントの勅令を廃止。プロテスタント、スイスなど国外へ亡命。スイスで金融業、時計製造業が栄える。ルイ15世(在位;1715~1774年)の時代にディドロ、ダランベール、ルソーなどの啓蒙主義者がカトリックを攻撃。政教分離の大きな波、フランス革命は目前に迫っていた。 |
|
|
1789年、フランス革命。革命政府は、第一身分のカトリック聖職者を弾圧。 |
|
|
1801年、皇帝ナポレオンは、ローマ教皇ピウス7世(在位;1800~1823年)と政教協約を締結し、カトリックを国家の宗教として公認。1804年、国教に定める。 |
|
|
1830年、七月革命でオルレアン家ルイ・フィリップを立てた立憲王政でもカトリックは国教とされた。 |
|
|
ナポレオン3世の第二帝政でもカトリックの位置づけは変わらず。 |
|
|
普仏戦争(1870~1871年)の敗戦によって第二帝政が瓦解し、第三共和政(1870~1940年)となって政教分離が本格化。 |
|
|
弾圧から逃れて建国されたアメリカ合衆国では、宗教弾圧は発生せず、分派も含めてすべて認めるという形での政教分離が進んだ。 |
|