イェルサレム支配の近現代史 | 探究テーマ史 #104 |
紀元前1250年頃、イスラエル人はモーゼに率いられてエジプトを脱出した。以降、ダビデ、ソロンなどの王のときに最盛期を迎えるが、その後も分裂や周辺の大国の支配を受けてきた。紀元前6世紀には、バビロン捕囚により住民の多くがその地から連れ去られた。 また、ローマとペルシア両帝国の争奪の地でもあった。 ユダヤ人は、各国の経済活動で重要な地位を占める。ロス=チャイルド家がその象徴である。ナチス=ドイツ帝国によるホロコーストを経て、イスラエルの地に国家建設が認められた。しかし、大国の思惑により、その地での係争が残されたまま、現代に影響を及ぼしている。互いに排他的な一神教が民族主義と結びつき、解決の糸口を見いだせていない。 |
イスラエル(ユダヤ) | 年代 | アラブ |
1915.10 | フサイン=マクマホン協定;イギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンが、アラブ人の領袖であるメッカ太守フサイン・イブン・アリーと結んだ。この協定でイギリス政府は、オスマン帝国との戦争(第一次世界大戦)に協力することを条件に、オスマン帝国の配下にあったアラブ人の独立を承認すると表明していた。フサインは、このイギリス政府の支援約束を受けて、ヒジャーズ王国を建国した。 | |
1916.05 | サイクス=ピコ協定;第一次世界大戦中にイギリス・フランス・ロシアの三国で結ばれたオスマン帝国領の分割をとりきめた密約。大戦後のオスマン帝国のアラブ人地域について、 イギリスはイラク(バグダードを含む)とシリア南部(ハイファとアッカの二港) フランスはシリア北部とキリキア(小アジア東南部) ロシアはカフカースに接する小アジア東部 というように分割して領有し、パレスチナ(イェルサレム周辺地域)は国際管理地域とするという秘密協定を作成した。 |
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第一次世界大戦中の1917年11月に、イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアが、イギリスのユダヤ系貴族院議員である第2代ロスチャイルド男爵ライオネル・ウォルター・ロスチャイルドに対して送った書簡で表明された、イギリス政府のシオニズム支持表明。しかし、これは1915年のフサイン=マクマホン協定、1916年のサイクス=ピコ協定と矛盾するという見方もある。 | 1917.11 | |
イスラエル、テル=アヴィブで独立宣言 | 1948.05.14 | |
第一次中東戦争(~1949.07.20) | 1948.05.15 | |
アラブ・イスラエル、国連の停戦命令を受諾 | 1948.06.11 | アラブ・イスラエル、国連の停戦命令を受諾 |
アメリカ、イスラエルを承認 | 1948.06.16 | |
アラブ・イスラエル戦争再開 | 1948.07.09 | アラブ・イスラエル戦争再開 |
アラブ・イスラエル休戦 | 1948.07.18 | アラブ・イスラエル休戦 |
1948.09.20 | パレスティナ=アラブ臨時政府、ガザに樹立 | |
国連、パレスティア調停委員会を設立 | 1948.12.11 | |
エジプト・イスラエル、ロードスで休戦協定。エジプト、ガザと南パレスティナの一部保有を認められる。 | 1949.02.24 | |
イスラエル・レバノン、休戦協定に調印 | 1949.03.23 | |
1949.03.27 | トルコ、イスラエルを承認 | |
1949.04.04 | 国連の仲介により、イスラエルとエジプト・レバノン・トランスヨルダン・シリア間で休戦協定 | |
イスラエル、国連に加盟 | 1949.05.11 | |
07.20 | シリア、イスラエルと休戦協定 | |
国連、イェルサレムの国際管理化を採択 | 12.09 | |
イスラエル、国連決議に反し、首都をテル=アヴィブからイェルサレムに移転 | 12.14 | |
1951.10.08 | エジプト議会、1936年の英・エジプト条約を破棄。英軍スエズ運河の防衛強化。 | |
ワイツマン、イスラエル大統領に再選。 | 1951.11.09 | |
1952.01.04 | 英軍、スエズ運河封鎖。英・エジプト軍衝突。 | |
ギリシア・トルコ、NATOに加盟 | 1952.0215 | |
1952.02.26 | 英チャーチル首相、原爆製造を発表。 | |
1952.01.26 | エジプトでムスリム同胞団による反英運動広がり、ワフド内閣辞職 | |
1952.07.23 | エジプトでナギーブ・ナセルらの自由将校団によるクーデター成功。ヒラリー内閣辞任、マーヘル内閣成立。ファルーク国王追放される。 | |
1952.09.07 | エジプト ナギーブ内閣成立。 | |
イスラエル、西独との賠償協定に調印(国交は樹立せず) | 1952.09.10 | |
1952.10.22 | イラン、石油国有化問題で対英断交。 | |
1953.08.15 | イラン、国王派軍部のクーデター失敗。国王夫妻、バクダードへ亡命。08.19ザヘディ将軍のクーデター成功し、首相に就任。米国、イランへの緊急経済援助は発表。 | |
第三次中東戦争;イスラエルがヨルダンからヨルダン川西岸地区と東エルサレムを、エジプトからガザ地区とシナイ半島を、シリアからゴラン高原を奪う。 | 1967. | 敗北の記憶と屈辱がアラブ民族主義を形成し、パレスティナ支援がアラブ諸国の外交政策の基本となる。 |
パレスティナの人々は難民キャンプで暮らし、イスラエル軍の監視下に置かれ、移動や経済活動を制限された。それが武装抵抗を呼び、パレスティナ解放戦線(PLO)が台頭する。 | ||
キャンプ・デービッド合意;米ジミー・カーター大統領が仲介し、イスラエルとエジプトで長期的な平和が確認された。 | 1978 | イスラエルが占領していたシナイ半島がエジプトに返還された。 |
イスラエル ベギン首相とエジプト サダト大統領が、ノーベル平和賞受賞。 | ||
エジプトはソビエトの勢力圏からさらに遠ざかり、イスラエルとエジプトは米国の安全保障上の決定的に重要なパートナーに。 | ||
オスロ合意;米クリントン大統領の仲介により、イスラエル ラビン首相とPLO アラファト議長;PLOはイスラエルの生存権を認め、イスラエルはPLOがパレスティナ人の正統な代表であることを認めて、パレスティナ暫定自治政府設立に同意。パレスティア自治政府はガザ地区で支配権を得る。 | 1993 | ヨルダンもイスラエルと和平協定を締結。 |
ラビン首相が極右過激派に暗殺される。 | 1995 | |
シモン・ぺレス(ラビンの後を継いだリベラル派)首相は7か月後の総選挙で、右派政党リクードのネタニヤフに敗北。リクードはパレスティナ人居住地区の完全な併合を掲げていた。 | オスロ合意に不満を抱く「ハマス」や「イスラム聖戦」などの強硬派組織が、アラファトと彼の政党「ファタハ」と対立へ。 | |
ネタニヤフが選挙で敗れ、リベラルなバラク首相となり、二国家解決案を提示。 | 1999 | アラファトはバラクの提案に対し、さらなる譲歩を要求し、話し合いは非難の応酬となり決裂。 |
9月リクード党首アリエル・シャロンがイェルサレムの神殿の丘で挑発行為。 | 2000 | シャロンの挑発行為に対して、アラブが反発。 |
1月シャロンが首相となる。 | 2001 | 第二次インティファーダ(パレスティナ人の抵抗活動)以後4年つづく。 |
イスラエル軍によるガザ地区攻撃による応酬 | 自爆テロ、ハマスによるロケット砲攻撃 | |
イスラエルの経済大国化、米国から支援、圧倒的な武装により、イスラエルにとって和平がそれほど重要でなくなってきており、和平交渉が進まない。 | 2019? | アラブ人はイスラエルによるパレティナ占領に対して怒りを燃やしていて、イスラム世界全体で、それを援護している米国に対して反米感情を抱いている。 |
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