なぜ樹木なのか

 日本の国土面積に占める森林面積は約66%(森林率約7割)で、先進国の中では有数の森林大国である。日本は木の国であり、昔から大きな木には神が宿るとして、多くの信仰を集めてきたし、何より人々は古くから木とともに暮らしてきた。木のある風景は日本人の原風景である。今回、なぜ木でなくてはならないか。名前を知るなら草花でもいいはずである。
 ところで、樹木の名前には変な名前がいくつかある。葉が天狗の隠れ蓑のようだから「カクレミノ」、何の木か分からないから「ナンジャモンジャノキ」、幹が博打で負けて身包みはがされたようだから「バクチノキ」、結構いい加減なような、それでいて生活の匂いがする。また、木は自然の中で育つ。植物は自分の意思で動くことはできないので、与えられた環境に適した生き方を選ぶ。こうした環境によって木にはそれぞれ癖、あるいは性質がある。そして、人はその癖を活かして木とともに暮らしてきた。
 単に美しいからとではなく、実に木には人間のいろいろな生活の場面で共生してきた。そんなことを思い木を観て回ると、実に木が身近に感じられ、楽しくなるのである。どうして今までそこにある木に気がつかなかったか不思議なくらいである。そして名前が分かると一層わくわくするのである。どうやらこうした趣味の方々も多いようで、インターネットで結構樹木図鑑をみることができる。個人的なこだわりだが、こうした環境の中で私は私のやり方で樹木を観て行きたいと思う。

08.11.09川越木の教えを振り返ること、それはそのまま人としての生き方を見直すことであり、未来を見る大事な視点でもあるのです』(「木の教え」塩野米松著)と言う。なぜ木かと言われれば、木に対して次のような思いがある。この年になって今更ながら木の名前を知ろうとするのが理屈抜きに楽しいのである。
(1)木は人や人の生活とのかかわりが深い。
(2)古木のように、人間以上の長い時間を持っている。
(3)観たいとき行けばそこにある、木は動かない。
(4)木には四季がある、変化がある。
(5)街中は街中の木が、公園・庭園は公園・庭園の木が、野山には野山の木が、それぞれその環境に適した木がある。

何故街路樹から始めたか

08.10.21品川木の名前を覚えるのは正直なところ存外難しい。そこで目をつけたのが街路樹である。街路樹は何でもいいのではなく街路樹に適した木がある。種類はそれほど多くない。そこでまず街路樹から覚えようと思った。街路樹を見るだけならそんなものだが、そこで寄り道心を起こすと、結構いろいろな木に出会える。分からない木もあるが、これが新たな発見であり、楽しみが増えるのである。

同じ木でも観葉植物では何故まずいか

08.11.09職場のパキラ葉植物も木には違いないが、多くは室内の鉢植えで写真を集めるのは難しい、歩いて見て回るものではない、観葉植物であるので普通常緑樹であり四季の変化が乏しいという理由から今回観察の対象外とした。ただし、観葉植物としては、大崎善生の「アジアンタム・ブルー」にあるアジアンタムはどんな木か一度ゆっくり見てみたいが

草花ではまずいのか


「高山植物ならほとんど名前が分かる」という人もいる。野の草花を驚くほど良く知っている人もいる。大学の教職員課程の教育実習で小学校に行ったときの課外授業で、野に咲く花を見に行ったとき、「先生この花な~に」といちいち聞く子に答えてやると、その子は尊敬したようなまなざしで自分を見ていたと語った友人がいた。しかし、今回これらの草花も次の理由で対象外とした。
(1)草花は観る時期が短く、特定されてしまう。
(2)ほとんど1年草で枯れてしまう。
(3)バラのようにカタカナ語の外来品種が多く覚えきれない。
(4)歩いてみて回るには適さない。いつもあるところに必ずしもあるとは限らない。