三田用水の物語
(新編)
Story of
the Mita Irrigation Water

     
   
plalaからbiglobeに引っ越しました。
これからもよろしくお願いします。
  





三田用水が流れていた鎗ヶ崎の高架鉄樋
(出典:目黒区ホームページ・無断転載禁)

   
講演録(高輪女性防火の会):三田上水と三田用水の話(上・下)-New! 

玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム(1、2)-New!
 <2023>
 
8月5日 講演録(高輪女性防火の会)三田上水と三田用水の話(上)川のルートと流れの仕組み-New! 
 8月28日 同講演録(下)川の流れと人々の暮らし-New!  
 7月23日 [講演と展示]玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム(1)報告-New!
 7月25日 同[講演と展示] (2)展示パネル-New!
 <2022> (b4)
12月31日 三田用水の駒場分水は今も現役だった。
 <2021> (b3) 
 3月21日 <三田用水の4つの遺構>についてのシンポジウム報告-「我が町の玉川上水関連遺構100選から」-
<2017> (b2)
 
11月21日 三田上水の地下ルートを「貞享上水図」でたどる (前編) -白金猿町から二本榎、伊皿子、そして聖坂へ-
 
 11月21日 同「貞享上水図」でたどる(後編)-三田町、松本町、西應寺町、そして品川の八つ山下へ-
 4月1日 TUC講演録「三田上水と三田用水」-渋谷、目黒、白金の丘を流れた川-
 2月4日 東京都庁「三田上水と三田用水」展示パネル紹介
<2016> (b1)
 10月15日 三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く-猿町から北品川宿を通って目黒川へ-
著者へのコメントはこちらにどうぞ。
briverebisu10@gmail.com
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三田用水は玉川上水の分水で、下北沢村(北沢5丁目)の取水口に発し、白金猿町(高輪台)を経て目黒川に注いでいました。その歴史は古く、寛文4年(1664)に幕府が開削した「三田上水」に始まります。この上水は享保9年(1724)に農民に払い下げられて名前も「三田用水」に改称し、江戸・東京南部の発展に様々な形で貢献した後、昭和50年に311年の歴史を閉じました。平成28年(2016)に「玉川上水・分水網の保全活用プロジェクト」が日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産2016」へ登録されたのを機会に、三田用水が農業の発展のみならず近代産業の成立や人々の暮らしに与えた影響を調べてみたいと思い、このサイトを設けました。「あるく渋谷川入門」と並んでご覧下さい。



2023.08.05 ・講演録



高輪消防署から三田用水の話をしてほしいというご依頼があり、港区ゆかしの杜の会議室で「三田上水と三田用水の話」という題で一時間ほど講演をしました。主催は「高輪女性防火の会」(会長伊関則子様)と高輪消防署です。高輪はそもそも三田用水の前身である細川上水や三田上水が生まれた地ですので、当日は私の話だけでなく、来場された方からも何かお話が聞けるのではないかと期待して出かけました。



   
 講演の風景。高輪消防署撮影。    港区ゆかしの杜(港区ホームページより)


講演が始まる前に「皆さんの中で三田用水の流れをご覧になった方はいらっしゃいますか」と尋ねたところ、会場の後ろにおられた男性が「見たことありますよ。小学校の頃、白金台3丁目の港区の看板近くでよく遊び、三田用水の水の中にも入りました」と答えて下さいました。この場所には三田用水の有名な「遺構」があるのですが、この場所の流れを見た方の証言はなく、後に電話で貴重なお話を伺いましたので、原稿の最後にご紹介します。以下は講演の内容ですが、長いので「上」と「下」に分けました。当日は時間の関係で省いた話を加筆したところもあります。まずは目次です。

(上編)

はじめに-江戸の上水道

1.   玉川上水の開削 

2.   三田上水・三田用水310年の歴史

3.   三田用水の水路と流れの仕組み

(下編)

4.   三田上水・三田用水の社会的な役割

おわりに-築樋遺構の保存について

後日談:三田上水を実際に見た方の貴重な証言


はじめに-江戸の上水道

三田用水を研究している梶山です。このような場を設けていただき関係者の方々に厚くお礼申し上げます。本日は三田用水と共に、その先駆けとなった細川上水や三田上水のことも交えて、300年以上にわたる用水の歴史についてお話しをします。

江戸幕府が開かれて約50年が経つと、江戸の人口もどんどん増えて、人々が暮らしに必要な飲水や生活用水が不足してきました。このため4代将軍家綱の時代の承応3年(1654)に、多摩川の羽村から新宿の四谷大木戸に向けて玉川上水が開削され、その水番屋から地中の水道を通して江戸城や江戸市中に水が配られるようになりました。

それまで神田上水や溜池の水を使っていましたが、これらの水道は自然の川や池など低い土地から水を引いていたため、高台にある江戸城「本丸」に水を流すことができませんでした。また水の量も少なく、配られる地域も限られていました。そこで玉川上水が開削されることになったのです。



 
 「正徳の上水図」「東京市史稿 上水編」附図。年代は正徳末(17145年)。図の右下が、水が不足していた江戸の南部に引かれた細川上水と三田上水。二つは並んで流れていた。

ここで「正徳の上水図」をご覧下さい。この絵は正徳年間に江戸を流れていた上水の全てを、一枚にコンパクトに詰め込んだものです。どこか「魚の干物」に似ていますね。絵師のアイデアなのでしょう。絵の左側を縦に走るのが多摩川、右側が江戸城とその周りの市中で、お城まで左から右に一直線に伸びている背骨のような流れが玉川上水です。

玉川上水より前に作られた外濠の溜池や、上の方に赤色で描かれている神田上水は、江戸の南側の土地まで水を届けていません。南側は玉川上水ができる前は飲み水に関しては空白の土地でした。渋谷川はありましたが飲み水では無いので、この土地の人々は雨水を溜めたり質の良くない井戸水を飲んでおり、ここに多くの人が住むことはできませんでした。

玉川上水が完成すると、江戸城本丸にも大河の清らかな水が届きました。そして水が不足していた江戸南部の近郊にも大量の水が運ばれました。三田用水の前身である細川上水と三田上水が南部の中心に作られたからです。最初に引かれたのが細川上水です。この上水ができたため、伊皿子の細川家に泉水を備えた邸宅が完成し、高輪に寺社が立ち並び、多くの町人たちが住めるようになりました。当時は地中の深い岩盤層から真水を汲み出す技術がないため、細川上水や三田上水によって高輪、三田、芝に住む人々に飲み水や泉水が配られました。そして、大名屋敷の残水などが渋谷や目黒の農家に届き、田んぼの灌漑に使われました。この地域が発展する大きなきっかけは、細川上水と三田上水だったのです。

 
 

1.    玉川上水の開削

1.1 羽村の取水堰(しゅすいせき)から四谷大木戸へ


   
幕末の羽村取水堰。多摩川にかかる取水堰(投渡堰で水かさを上げて、左下の玉川上水(細い流れ)に流し込んだ。「調布玉川惣画図」部分。多摩市教育委員会所蔵。  

写真の左上は多摩川に架かる現在の羽村取水堰。右側は玉川上水の取水口。取水堰は今も昔と同じ方式が使われている。東京都水道歴史館『玉川上水』(平成13年度)より。

 

初めに細川上水や三田上水の水源である玉川上水について説明します。玉川上水は多摩川にかけられた羽村取水堰から始まります。羽村取水堰は標高136mで、海に近い江戸市中とは大きな高度差があり、高い所から低い所に水を流す自然流下の方式で市中まで水を流しました。



 
 小平市を流れる玉川上水。玉川上水は羽村から終点の四谷大木戸まで地上を流れた。    江戸の市中では地中を流れ、水道管として「木樋」が使われていた。(東京都水道歴史館HPより。)


羽村取水堰から出た玉川上水は地上を流れて四谷大木戸に行き、そこから地中に入って市中に流れました。地中には木樋や石樋(木や石の管)が通っており、武家屋敷や長屋などの一角に作られた「上水井戸」から水を汲み上げて使いました。木樋には水に強い松や檜が用いられました。


1.2.四谷大木戸と三田用水の取水口


 
右手から流れてきた玉川上水は、この「水番屋」から市中へ入る。右に見えるのは、水を浄化した「芥留め」と、余水を渋谷川に流した「吐水門」。2つの水槽を経て水門へ。水門には水量を調べる「歩み板」が付いていた。「羽村臨視日記(国立公文書館)


四谷大木戸の「水番屋」では、「芥留め」でゴミ浚いをし、「歩み板」で水量をチェックしました。水量が足りない時は直ぐに役所に連絡し、玉川上水の途中に作られた分水の量を減らしました。水が多すぎると吐水門から渋谷川へ流し込みましたが、これが渋谷川の水量を増やし、季節的にも流れを安定させ、流域の田んぼの灌漑や水車の動力として使われました。



 
 羽村から三田用水取水口北沢5まで(取水口は四谷大木戸の約5.4km手前)    北沢5丁目(京王線・笹塚駅南)に残る取水口の跡(右側の階段の場所)。左側は玉川上水暗渠の入口。


三田上水と三田用水は、終点の四谷大木戸よりも5.4km手前の下北沢村、今の北沢5丁目から分水されていました。同じ所からです。右の写真は現在の取水口の様子で、京王線・笹塚駅の南側にあります。水が溜まった大きな溝が玉川上水の旧水路で、今でもカルガモが遊んだりしています。右にある小さな階段の部分が三田用水の取水口があった場所で、今は残念ながら塞がれています。この三田用水には多くの分水があり、各分水口から渋谷川や目黒川に水が流され、谷の斜面や河岸にあった田んぼを潤し、また水車を回していました。

 

2.三田上水・三田用水310年の歴史                           

2.1三田上水と三田用水の始まり

ここで、三田用水が誕生するまでの歴史を振り返ります。次の表は細川上水、三田上水、そして三田用水の「年表」です。明暦3年(1657)に先ず「細川上水」が作られました。熊本藩主の細川越中守綱利が伊皿子の私邸に引いた専用の水道で、庭に泉水を作るために引いたと伝わっています。取水口はその7年後に作られた三田上水のごく近くだったようです。寛文4年(1664)に、細川上水とほぼ並行して、幕府によって「三田上水」が作られました。取水口は下北沢村で、高輪や三田、芝の武士や寺社、町人に水が配るのが主な目的でした。その残水が、多くは屋敷の堀や庭園の泉水と思われますが、農民により田んぼの灌漑に使われました。





三田上水が作られて約60年後の享保7年(1722)、これらの上水は幕府の命令で突然廃止になりました。 当時は井戸掘りの技術が普及していましたので、武士や町民たちは、さほど困らなかったと思いますが、耕地に大量の水を必要とする農民たちはさぞ驚いたことでしょう。直ちに代官の伊那半左衛門に訴えて、2年後の享保9年に三田上水が細川上水と共に灌漑用水として無償で払下げられ、名前も「三田用水」に変わりました。そして、流域14ヶ村が組合を作って自分たちの手で水路を管理するようになりました。 

話は「めでたし、めでたし」ですが、同じ頃に吉宗が「享保の改革」を行っており、三田上水が廃止された年には日本橋に米の増産政策の高札を出しています。ですから、農民に新田開発をさせることと引き換えに上水を払下げるようなシナリオがあったことも大いにありそうです。なお、三田用水の通水が終了するのは昭和49年(1974)で、三田上水が開かれて310年後、農民に払い下げられて250年後のことです。


2.2.「貞享上水図」に描かれた三田上水



江戸時代・貞享の頃(1685-1688)の上水ルートを描いた図の三田上水の部分。細川上水と三田上水が並行して流れている。活字は筆者。国立国会図書館所蔵。



上の図は有名な「貞享上水図」で、先の「正徳の図」より少し前の時代に作られました。下北沢村から白金猿町(今の高輪台駅)を通って芝の入間川までの三田上水の水路を詳細に描いた唯一の図です。後で説明しますが、この図には、川の水路だけでなく、水の流れを変えたり泥やゴミを浚う「桝」についても細かく描き込んでおり、当時の水道技術を知る上でとても参考になります。この図に、大名の下屋敷の名前や地名を少し書き込んでみました。これらの名前を上流から順に見ていくと、細川上水や三田上水が大名屋敷のある所を通り抜けており、武家屋敷が上水道と共にあったことが分かります。


ここで細川上水と三田上水の関係を見ますと、2.1でお話ししたように、二つの上水は玉川上水の取水口から仲良く並んで流れ出ています。白金猿町までに二回流れを交差させていますが、なぜ交差したのかは分かりません。おそらく土木工事の事情でしょう。その後、細川上水は伊皿子の細川邸で止まり、三田上水はさらに北の三田、芝へと流れました。後に高輪から南の品川の八山下へも流れました。二つの上水ルートは細川邸まで言わばセットでしたから、特に記録はありませんが、幕府が細川上水の技術や経験に学んだことは想像できます。なお三田上水が農民に払下げられて三田用水になってからは、その水路は下北沢村から白金猿町を経由して目黒川までとなりました。

 

2.3 「江戸大絵図」で見る三田上水の地中の水路

三田上水は白金猿町から地中に入って芝へと流れました。この地中の水路が話題になることはあまりありませんが、これなくして江戸初期60年間の高輪、三田、芝の人々の暮らしは成り立たなかったと思います。言わば江戸南部のライフラインでした。ここで、ここで三田上水開削15年後の延宝7年(1679)に描かれた「江戸大絵図」に「貞享上水図」にある三田上水のルートを描き入れ(赤い線)、幕府が編纂した『御府内備考』なども参考にしながら、当時の三田上水の流れをたどってみましょう。


 延宝7年(1679)の「江戸大絵図」に「貞享上水図」にある三田上水の地中ルート‘赤い線)を描き込んでみた。


絵図にある赤い線は三田上水の地中のルートです。図の左下が高輪、真ん中を斜めに上に走る道が「二本榎通り」、右上が三田と芝です。三田上水はこの道に沿って上(北)に流れ、聖坂を通って三田の屋敷町に入り、大名屋敷の塀を巡って西應寺で入間川に注いでいました。入間川は今はありませんが、河口は国道130号の芝4丁目交差点の辺りです。三田上水の流れを追って高輪台駅から芝浦1丁目の重箱堀までを何回か歩きましたが、港区には江戸の道筋がそのまま残っている所が多く、歴史の重みを感じました。



そうした中でも特に覚えている道があります。三田用水の水路に沿って聖坂を下り、突き当りの道(今の三田通り)を左に曲がって少し進むと、松平右京太夫の屋敷の先に右に曲がる小道があり、そこに入ると「桝」が二つ並んだクランクの形の道が続いています。今は芝税務署に行く道で、皆さんもご存じとは思いますが、現在も絵図と全く同じクランクの形をしているのには驚きました。350年前と同じとは。


ところで、赤い線を良く見ると、所々に小さな四角形が描いてあります。これは上水の「桝」です。「桝」とは道の曲がり角や屋敷の引き込み口に設けられている水道の中継点です。四角い木製の大きな桶のような形をしていて、その上部が地上に出ており、ここで上水の方向を変えたり、ゴミを浚ったりしていました。こうした水道ネットワークが広い市中に張り巡らされていたとは、江戸時代の水道技術は本当に凄いと思います。


2.4 白金猿町は三田上水の結節点


 
 三田上水は白金猿町から地中に入って三田や品川に流れた(茶色の線)。三田用水の時代になっても、白金猿町でいったん町の地中を通ってから地表に流れ出た(水色の線)。茶色と水色の線は筆者。図は「御府内場末往還其外沿革図書・弘化3年の図」『港区沿革図集』より。

白金猿町は、三田上水の時代も三田用水になってからも水路の結節点でした。ここは下北沢村からの「地上」の流れが「地中」に入る重要なポイントなのです。上の図は、弘化3年(1846)の地図に三田上水と三田用水の流れを描き入れたものです。三田上水の時代は白金猿町の入口で地中に入り、木樋を流れて北の三田や南の八山下に向かいました。地中に流れ込んだ地点は、図の有馬孝五郎の下屋鋪の辺りと考えられます。昔はこの近くに水番屋の用地があり、水のゴミを浚ったり水量を調節していたはずです。ただ流し込んでいたら、過大な水量やゴミで木樋が壊れてしまうからです。水番屋の場所は今の「白金児童遊園」の北側辺りと思っていますが、もし何か発掘されれば素晴らしいですね。

三田用水の時代になると、白金猿町から芝や八山下に向かう地中のルートは廃止され、目黒川に余水を流すルートだけが残りました。もはや余水ルートではなく水路の立派な一部です。幕府が町の名主に提出させた「地誌」によると、当時の白金猿町は89軒の町屋が道の両側に軒を連ね、その下を長さ39間(70m)、幅1尺(30㎝)の「埋め樋」が通っていたとあります。三田用水は町の下を斜めに横切り、その反対側の中程から下水を流れ、その後は大崎村の斜面を下って目黒川に注ぎました。そのルートは後にご説明します。

 

2.5 江戸後期の三田用水の流れ


 「目黒筋御場絵図」文化2年(1806)。「国立公文書館デジタルアーカイブ」より。三田用水は幕府・お鷹場駒場野の北東部を流れており、そのルートは詳細に記録されていた。地名、その他は筆者。


この節の最後に、江戸時代後期の三田用水の流れを概観します。上の地図は幕府が編纂した文化2年(1805)の「目黒筋御場絵図」です。この図にある馬込・世田谷・麻布・品川一帯は通称「目黒筋」と呼ばれ、これらの地に将軍の御鷹場が置かれていました。当時の鷹狩りは将軍の道楽などではなく、多くの武士が参加する平時の軍事訓練のようなものでした。

三田用水の流れを見ると、下北沢村(左上端)から出た流れは、駒場野のお鷹場(左上の緑の地域)の北側を弧を描いて進み、その後は渋谷川と目黑川の間にある高台の上を南に流れました(中央の赤い斜線に沿っている)。目黒で左(東)に方向を大きく変え、さらに右に迂回しながら白金猿町の方に向かいました。白金猿町から目黒川に下る流れは、理由は分かりませんが描いていません。猿町より少し手前の久留島分水から目黒川に下るルートはあります。いずれにしても、将軍の御鷹場を示す地図に幅1.52.0メートルの小さな三田用水があるということは、この川が幕府行政や人々の生活にとって重要だったからでしょう。



3.三田上水・三田用水の水路と分水、流れの仕組み

3.1. 現代地図で見る三田上水と三田用水



 
 Google mapに川のルートを描き入れた。三田上水の地中ルートは点線。  並木橋児童遊園地近くの三田用水鉢山分水の暗渠の道。こんな道も残っています。

この節では、三田上水と三田用水のルートを現代地図の中でもう一度確かめます。また、下北沢村の取水口から目黒川の流末までの間、地形の凸凹した所をどのようにして乗り越えたのかを考えます。凸の所は迂回して斜面を進めば良いのですが、凹の所は土地を平らにしないと水が流せないからです。

上の図は、Google mapに三田上水と三田用水の流れのルート、そして渋谷川と目黑川を描き入れたものです。「三田用水」は先ほど見た江戸幕府の「目黒筋御場絵図」と同じルートで、長さは高輪台駅まで約8.5km、その後は目黒川まで約1.5kmです。高輪台駅までは三田用水の前身である「三田上水」も同じです。高輪台駅から北の芝・西応寺や南の品川・八山下に伸びている黒い点線は、「三田上水」の地中のルートで、「三田用水」の時代になると廃止されました。地図に113の番号と名前がありますが、これは私が所属する「渋谷川・水と緑の会」が推薦した「三田用水の見どころ13選」の場所で、後に幾つかご紹介します。(詳しくは<2021>3月21日「三田用水の4つの遺構・)「三田用水の見どころ13選」の紹介)を参照ください。

 

3.2 基盤地図で見る三田上水と三田用水



 
 「国土地理院・基盤地図情報(数値地形モデル)5mメッシュ(標高)」。地図が色分けされているため、玉川上水や三田用水など「人工の流れ」が高台を通り、渋谷川や目黒川の「自然の流れ」が低地を通っていることが分かる。

ここで、東京南部の川が流れた土地の地形が一目で分かる地図をご紹介します。上の図は土地の高低差が色分けしてある国土地理院「基盤地図」です。そこに玉川上水や三田用水など人工の流れと、渋谷川や目黒川など自然の流れを描き入れてみました。地図の左上から右下へと流れる黒い線が三田上水と三田用水の「地上」の流れで、高輪台駅から先の点線が三田上水の「地中」の流れです。高度の目安ですが、茶色が山地で標高3040m前後、黄色が2030m前後、緑色が川筋と低地で1020mかそれ以下で色分けされています。

この地図を見ると、玉川上水や三田用水が高台の尾根を伝って流れ、その分水が、低地を流れる渋谷川や目黒川に注いでいることが分かります。三田用水の記録によると、寛政9年(1797)には17の分水口があり、河原や斜面の土地の田んぼを灌漑したり、水車を回したりしていました。


3.3 明治初期の玉川上水と三田用水の取水口



   

明治13年の古地図で見る玉川上水の三田用水取水口(当時の下北沢村)。『東京都市地図23』の「世田谷」と「中野」を連結して作成。柏書房、1996年。


次に、三田用水の出発点である玉川上水の下北沢村・取水口の地形をやや詳しく見ます。これは明治13年頃の地図ですが、取水口の辺りの玉川上水の水路を見ると、北(左上端)を通っている甲州街道の道筋とは全く違い、Vの字に大きく南に迂回しています。これは玉川上水が北から迫る谷間を避けて尾根の上を流れているためです。街道ならば坂道にすれば良いのですが、自然流下の水路は低地を避ける以外に方法はありません。  

さて、下北沢村で分水された三田用水は三角橋へと一直線に流れていますが、等高線をよく見ると両脇が崖になっており、これも高台の上を巧みに拾いながら流れていたことが分かります。このように上水や用水は自然の川とは対照的に高い所を流れており、例えば渋谷川の支流が始まる谷頭の横を通過する時は、そこに分水口を設けて水を流し込んでいたのです。講演の帰りに玄関でお会いした方から、「等高線のある地図を見て、三田用水が尾根を流れていたことがよく分かりました」と述べておられて嬉しくなりました。普通の地図で説明を聞いても、川が流れている土地の地形までは実感できないからです。

 

3.4 三田用水の流末(余水)の流れ:文政と明治を比べてみよう



 
 左は文政年間(1830年頃)の流末の流れ。「文政十一年品川図」『品川町史』下編付図)。右の水色ルートは明治40年の流れ。「郵便地図」の 「品川町・大崎町全図」「芝区全図」より。図中の紺色と水色は筆者。   

次に高輪台から始まる流末のルートを見ます。取り上げられることがほとんどないので少し詳しく見ます。左上の図は「文政十一年品川図」(1828)に描かれた江戸・文政期の三田用水の流末です。2.4でも見たように、有馬氏の下屋敷の隅から地中に入り、道の反対側で地表に出て、その後は道場谷を通って小関畑に下り、最後は目黒川に注ぎました。これを現代で説明すると、高輪台駅の「白洋舎」の辺りで地中に入り、国道1号線を斜めに潜って南側に出て、「パークタワー高輪台」の脇の坂道を降りる感じです。地形から考えて、放置すれば道場谷まで滝のように流れたと思います。

しかし大切な用水ですから、そのまま流すことはしませんでした。途中で今の清泉女子大の方に大きく迂回させ、辺りの田畑を灌漑し、その後に水車も回して低地に向かいました。都道317号の辺りで河原に出た後は、ゆっくりと南に流れて田畑を潤し、今の小関橋の信号辺りで消えていました。最後の一滴まで水を使い切った感じがします。『新編武蔵風土記稿』には昔ここに小さな関所があったと書いてありますから、かつては川より一段高い土地だったようです。

右上の図は、三田用水の文政期のルート(紺色の線)と明治末のルート(水色の線)を比べたものです。明治末のルートは、前半は文政期と似ていますが、平地に出ると東に振れ、御殿山の崖下を流れて目黑川に向かいました。明治11年の三田用水組合の書類に「品川口」という新しい分水名が出て来ますが、この分水の給水先は北品川宿・下大崎村とありますから、おそらくこのルートかそれに近い流れでしょう。


.5  三田用水と三田上水の「流路の勾配図」 


 
 縦軸は標高(m)、横軸は1km間隔。地名の数字は丁目。北沢5丁目(取水口)-高輪台駅 の勾配は13.4cm/100m。流末の高輪台駅-目黒川は176.0cm/100m

三田用水は高い所から低い所に水を流す自然流下の方式で作られました。このため、東大裏、白金台3丁目などの窪地を流れる時は、土地の嵩上げした「築樋」で高さを保って乗り越えました。鑓ヶ崎、茶屋坂、目黒駅などでは、道路拡張や駅の建設で水路の下が削られたため、その上に長い「水路橋」を架けて乗り越えました。今はその一部が残っているか、あるいは案内板だけですが、それでもその場所に出かけて当時の姿をイメージするには楽しいです。

取水口から高輪台(白金猿町)までの傾斜を計算すると、100m当たり13.4cmという緩やかな傾きです(玉川上水は100m当り約21.6cm)。しかし、高輪台駅から目黒川までは100m当たり176.0cmと桁違いの急勾配です。高輪台までは微妙に高度差を付けた人工の流れを作り、流末は傾斜を緩めるために巧みに迂回させ、言わばそっと低地に降ろしたという感じです。三田上水の地中部分の傾斜も併せて描き入れました。聖坂から芝3丁目(三田通り)までは急な傾斜ですが、これはそのまま道に沿って下ってきますから、地中の木樋の消耗はかなり激しく、何回も改修工事を重ねたことでしょう。


3.6 窪地を乗り超えた土木技術


     

写真の右側にあるコンクリートで作られた長方形の構造物が駒場東大裏の「築樋遺構」。「置き樋」とも呼ばれた。

  北沢5丁目から「築樋遺構」のある駒場4丁目に抜ける三田用水暗渠の道。  


左上は東大裏の「築樋遺構」です。写真を見ると、右端に長方形のコンクリート製の構造物があります。これは窪地の区間の水路を嵩上げした遺構で、大きさを測ったところ、高さ6690cm、長さは約40mありました。道路脇に置いてあるため「置き樋」とも呼ばれており、中には水を流すヒューム管(丸い頑丈な鉄の管)が入っていました。東大裏と少し先の青葉台4丁目の間には1m前後の長い窪んだ区間があるため、「置き樋」で高さを調整したのです。明治以降は近代的なヒューム管でしたが、その前は大きな木樋を使って窪みに対応したのでしょう。右の写真は東大裏に至る三田用水の暗渠の道で、今も残っています。

     

駒沢通り・鎗ヶ崎の水路橋。道路が拡張されて広くなり、上に架かる水路橋も長くなった。写真は渡部一二氏(平成11年当時)

 

茶屋坂にあった水路橋。今はこの場所に看板と写真がある。(平成11年当時・ ブラタモリより)。

左上の写真は駒沢通りの鑓ヶ崎に架かっていた水路橋です。明治時代は小道の上に架かる短い橋でしたが、駒沢通りが道幅を拡張したため、水路の橋もこんなに長くなりました。右は、目黒の茶屋坂の水路橋です。NHK「ブラタモリ」の写真ですが、プロジューサーの許可は取っています(笑)。目黒区によると、「新茶屋坂を作るために地面を掘り下げた時に、三田用水の高度がずれてしまったので、この水路橋を作った」そうですが、今はありません。この2つの例は、道路整備が創り出した「人工の窪み」の対策です。初めにお話が出た白金台3丁目の遺構については後にご説明します。

                                                                                     (<上編>終

8月28日・講演録


  4.三田上水・三田用水の社会的な役割

4.1 武士と町民の飲用水



   
桶を重ねて作った上水井戸。左が上部で右が下部。一番下の桶には底がある。水道の樋から「呼び樋」で水を引き、井戸に溜める仕組み。守貞漫稿。国立国会図書館。  

屋外の上水井戸からせっせと水を汲む女性。水くみは当時は女性の仕事だった。東京都水道歴史館。 

 

三田上水と三田用水は時代によってその役割が変わりました。まず三田上水の60年間で、上水が主に武士と町民の飲み水だった時代です。三田上水は高輪から地中に入り、市中の木樋(木の管)中を流れ、所々に作られた井戸から汲み上げられました。右上の絵を見て下さい。井戸の水を汲むのは炊事をする女性の仕事だったようで、上水井戸から「たすき掛け」で水を汲んでいます。竹竿で汲んでいたとのことですが、力仕事ですね。この絵は町人が暮らした長屋ですが、武家の屋敷や寺社には専用の井戸がありました。

井戸の構造ですが、左側の2枚の図をご覧下さい。「上水井戸」は底がない桶(おけ)を幾つか重ねて作ったものです。絵の左は井戸の上部です。細い横線が地面で、その下は地中に潜っています。右はその「地中」に潜っている部分で、上水が流れる四角い「木樋(管)」が井戸の脇を通っていて、そこから「呼び樋」という丸い細い管(くだ)を繋げて水を「上水井戸」に導いています。水を文字通り呼び込んでいます。井戸の一番下の桶には底があるので、水を溜めることができます。このような木樋の水システムが町の地中に張り巡らされていたとは、凄い技術ですね。大きな地震が来たら補修工事も大変だったと思います。


4.2 武家屋敷の庭園用水



 
西郷従道邸の庭。青丸が滝の部分。


現・目黒区菅刈公園
目黒・松平主殿頭の庭園用水。歌川広重「目黒千代が池」『名所江戸百景』。三田用水を使った何段もの滝が池に落ちていた。国立国会図書館「錦絵で楽しむ江戸の名所」より。   岡藩中川邸を継いだ西郷従道邸の庭園(現・目黒区菅刈公園)では、三田用水を使って滝が作られた。  


三田上水は武家屋敷の庭園の泉水にも使われました。『上水記』によると、三田上水の7年前に作られた細川上水の目的は、池の水を引くためであったと記されています。左上の絵は、江戸後期目黒・松平主殿頭の庭園を描いた歌川広重「目黒千代が池」で、これは三田用水になってからですが、上水の頃もここに屋敷がありました。屋敷は「貞享上水図」にも描かれており、当時は上水の滝、そして後世は用水が作る何段もの滝が池に落ちていて、この絵が描かれた頃は「絶景観」と讃えられました。逆さ富士ならぬ逆さ桜が美しいですね。ここでは、明治初期の地図(『東京時層地図』)を見ると池付近から用水が田んぼに入っています。右の図は岡藩中川邸の有名な庭園を模して作った西郷従道の庭園で、滝は三田用水の水を引いていました。今は目黒区菅刈公園として公開されています。

武家屋敷の泉水は「贅沢」に思えますが、水理学者によると、上水網の維持に必要な存在だそうです。高い所から低い所に水が流れる自然流下方式の下では、どこかに水抜きができる場がないと、夜中など水を使わない時に水が木樋を破って溢れ出すおそれがあるからです。先ほどの三田の聖坂の下にあった武家屋敷の堀には、大雨の日は大量の水が流れ込んでいたのでしょう。当時の農民たちは泉水の残り水を灌漑に使っていましたが、田んぼは低い土地にありますから、マクロな視点で水の氾濫を防ぐ役割を担っていたのでしょう。

 

4.3 田んぼの灌漑用水 

三田上水は高輪や三田、芝に住む武士や町人、寺社に玉川上水の水を配っていました。しかし、江戸幕府の「享保の改革」によって上水が突然廃止され、その後は農民に払い下げられ、名前も「三田用水」に改められました。これを機会に、三田用水を給水する目的が、飲水や泉水から田んぼの灌漑へと大きく変わりました。江戸南部に作られた水システムの大転換です。



   

別所坂の上を流れる三田用水。歌川広重『名所江戸百景』江戸東京博物館デジタルミュージアムより。

 

三田用水の「別所上口分水」が、新富士の横から大きな滝となって中目黒の田んぼに落ちている。歌川國長1790-1829) 「鑓崎富士山眺望之図」。東京大学史料編纂所所蔵(重要文化財)



上の絵は、当時の三田用水の様子を伝える作品です。左の絵は歌川広重の「目黒新富士」で、三田用水が別所坂上を流れています。絵の右下を見ると桜の木の脇が崖になっており、また景色も下の方に遠く広がっており、この用水が高台を流れていることが分かります。右の絵は歌川国長の「鑓崎富士山眺望之図」で、「別所上口分水」が目黒新富士の横から大きな滝となって中目黒の田んぼに落ちています。三田用水の水が農村に豊かに届いており、三田用水が農民のものになったことを強く感じさせます。余談ですが、これらの絵に人造の目黒富士と本物の富士の2つがありますが、目黒の学芸員の方によると、この方角では本物の富士は見えないそうで、絵師の大サービスです()

 

4.4 精米・製粉水車の動力源



   

鍋島松濤公園の水車モデル。三田用水の神山口分水を利用した水車がこの付近にあった。



ここで水車の話をします。三田用水は高台を流れていたため、その分水は渋谷川や目黒川の川岸に向かって勢いよく流れました。江戸時代の末期からこの流れを使って精米・製粉業を営む水車が次々と現れました。当時の水車の写真は残っていないのですが、上の写真は渋谷の鍋島松濤公園に復元された水車のモデルです。江戸時代、この土地の高台には三田用水の神山口分水があり、今の渋谷駅西側の一帯に田んぼが広がっていました。明治になると、この地の一角にあった紀州徳川家の屋敷を佐賀藩の鍋島家が購入し、松濤園という茶園を起こしました。そのブランドが「松濤茶」で、今も松濤の町名として残っています。鍋島家は西欧に倣った近代的な農場経営を行いましたが、やがて大正期には宅地の開発をして、農場は松濤の町に変わりました。



   

三田用水の水を引き込んだ池泉回遊式庭園。旧朝倉家住宅の西側の斜面。

 

旧朝倉家住宅(国の重要文化財)。(渋谷区代官山)


上の写真は朝倉家の屋敷と庭園です。朝倉家は明治7年から精米の水車業を営んで財をなし、明治21年には杵40本という大きな水車場になりました。2代目虎次郎は政治家になり、大正8年(1919)に目黑川を望む眺望の良い土地に屋敷を構え、三田用水を引いて回遊式の庭園を作りました。写真の石の道は三田用水を流した庭園の水路で、最近、実験で流したこともあるそうです。屋敷は平成16年に国の重要文化財に指定されており、私も何度か見学しました。

           

4.5 三田用水と明治の産業



 

角谷製綿工場では、動力に三田用水の「角谷の水車」と蒸気機関を併用して綿打ち業を行った。渋谷区教育委員会所蔵。

   現在の恵比寿ガーデンプレイス内にあった日本麦酒目黒工場の「第二貯水池」。『目黒区史』より。昭和になると専用のヒューム管樋を敷設して三田用水を送水した。

江戸時代の水車は精米・製粉業が中心でしたが、明治になると火薬やビール、綿糸、インク、鉛筆など様々な製品を作る動力源になり、この役割は電力が普及する大正末まで続きました。三田用水組合『江戸の上水と三田用水』には、明治末には三田用水に49の水車が稼働していたとあります。

左の絵は三田用水・鉢山口分水のすぐ東にあった「角谷の製綿工場」です。明治の初めは米搗きをしていましたが、やがて綿打ち業に変わり、工場の動力に水車と蒸気機関を併用しました。右の写真は、恵比寿の日本麦酒の「第二貯水池」で、大きさは縦横100メートル、深さ9メートルありました。明治20年、日本麦酒は現在の恵比寿ガーデンプレイス内に工場を建て、三田用水の水を使って欧米式のビール製造を始めました。製造やビンの洗浄に清浄な水を使うため、昭和に入ると笹塚の取水口から目黒まで直径120センチの専用ヒューム管を敷設して地中を流しました。ブランド名のエビスが今の地名や駅名になりました。




   

小林清親「目黒いゑんひう蔵(目黒焔硝蔵)」の部分。目黒区めぐろ歴史資料館所蔵。図の右下の煙突と赤煉瓦の建物群が目黒火薬製造所。明治18年に工事が完成し、三田用水の水車で火薬製造が始まった。



上の絵の右下には、明治18年に完成した目黒火薬製造所の赤煉瓦の建物が描かれています。目黒の三田村には江戸末期から目黒火薬庫がありました。その背景には、嘉永6年(1853)のペリーの浦賀来航をきっかけとした国防政策の強化があります。この地が火薬の製造に選ばれた理由は、江戸の郊外で人家が少なかったことと、焔硝製造用の水車を動かす川(三田用水)と排水に使う川(目黒川)が工場のすぐ近くを流れていたことです。この工場が明治政府に引き継がれ、ドイツの技術を導入して蒸気機関も使用する近代工場へと変わりました。周りに民家や工場が増えたため、昭和3年に群馬に移転しました。

 

4.6 消防用水に使われた三田用水



   

江戸時代の消火活動。明暦の大火(1657)後の享保6年(1721)に町火消しの制度が整備された。享保年間に入ると、「竜吐水」という手押しの放水ポンプができて、消火活動に革新をもたらしたという。イラストは「お江戸の科学gakken.co.jpより


上の絵は江戸時代の消火活動の様子を描いたイラストです。消火ポンプの「竜吐水」や玄蕃桶が活躍していますね。明暦3年(1657)に江戸の大火があって幕府は防火対策に力を入れましたが、効果が上がりませんでした。享保年間になると、町奉行・大岡越前守の下で防火対策を施した町作りが進められ、火消し組の制度が整えられ、防火用水の常備が図られました。三田用水も地域の消火活動に貢献したことでしょう。江戸時代は大火が100回余りあり、23年に1回は起きていましたから、消火の仕事も大変でした。

 


 

高輪消防署が三田用水路の部分使用を申入れた場所:港区芝白金今里町121番地の先(青丸) 『東京時層地図』(1945-62

 

申入れ地点の近くに残る三田用水の欄干。その奥は水路敷跡に建つ家。(白金台3丁目



時代は下りますが、昭和になって三田用水が消火に使われたことを示す資料がありました(『江戸の上水と三田用水』三田用水普通水利組合、p75-77)。昭和30年のことですが、目黒と高輪の消防署が三田用水組合に用水の使用を申し入れました。一つは目黒消防署が組合に出したもので、マンホールの設置や使用を願い出ています。もう一つは高輪消防署長が組合に出したもので、港区芝白金今里町121番地近くにある水路を、水深約0.5 M の高さまで堰き止めて、消防用水に使いたいという内容です。左の図は堰き止めた場所の地図で、現在の白金3丁目1の辺りでしょうか。右の写真は、その近くに今も残っている三田用水の「欄干」です。奥の水路敷の土地は今は住宅になっています。

以前に目黒区青葉台の三田用水の水路跡を歩いていた時に、地元のおばさまから面白い話を聞きました。三田用水の消火の実例の話です。昭和の半ば、彼女がまだ小学生の頃ですが、近くに火事があった時、消防士の方が消火ホースを三田用水の水路に差し込んで放水していたそうです。辺りは暗がりだったので、火事を見にきた人が何人も川に落っこちたとか、色々な話をされていました。ここでは当時水がまだ膝ぐらいまであったそうです。実はこのおばさま、NHKの「ブラタモリ」が三田用水を取上げた時に、偶然自宅の前でタモリとばったり会って、彼が三田用水のことを聞いてきたので話していたら、そのままテレビに出てしまって、あちこちから電話は来るし、現場を訪れる人などもいて、しばらくは有名人だったそうです()

 

4.7 三田用水で科学の実験


 
艦船の試験の様子。NHKブラタモリ、2016.12.17放映。

防衛装備庁艦艇装備研究所の実験用貯水池(緑色の長い建物)。旧海軍技術研究所。

 

駒場のケルネル田圃(たんぼ)。三田用水を使って農事実験が行われた。



次は三田用水が科学実験に使われた例です。左上の写真は目黒の防衛装備庁の研究所で、緑の長い屋根の建物が実験用の貯水池です。全長が200mあり、水を一定の性質に保つために日差しを遮断しており、窓が全くありません。艦船の精密模型を作って動かして船体の形やエンジンの機能を調べており、戦前は旧海軍技術研究所で戦艦や潜水艦の実験に使われたそうです。右上の写真は、NHKタモリの番組で紹介していた艦船実験の様子です。昔は三田用水の水を使っており、今もその時の水が3分の1ぐらい残っているとか。

その下の写真は目黒区の駒場野公園にある「ケルネル田圃」です。この田んぼは、明治11年に設立した駒場農学校の「実験用の田圃」を伝えるために保存したものです。ドイツ人教師オスカル・ケルネルは、水質と土壌と肥料の関係を調べるための実験水として三田用水を使いました。在来農法ではリン酸が極度に不足していることなどを突き止めて、日本農業の近代化に貢献したそうです。三田用水は都心の近くを流れていたため、農業用水であった他に、特に明治以降は水車の動力、工業用水、実験用水、あるいは消火用水など様々な目的で使われて、地元の人々の暮らしや産業の発達を支えました。

 

おわりに-三田用水の遺跡の保存-


 

「品川」『一万分の一地形図 東京近傍 明治42年測図』

 

水路の断面がコンクリートで固められた築樋(ちくひ)遺構。白金台の窪地を「堤」で乗り越えて白金猿町へ水を流した。赤煉瓦の道は水路直下の道。


さて、おわりに「三田用水の遺跡の保存」の話です。玉川上水・下北沢村から流れ出た三田用水は、駒場、青葉台、目黒と流れ、JR目黑駅前で東にほぼ直角に曲がり、白金の尾根を弧を描いて白金台3丁目へと来ました。ここには、ご存じの方も多いと思いますが、三田用水の「築樋(ちくひ)遺構」があります。左上の地図と右上の写真がそれで、場所は先ほどの話で高輪消防署が使用を申し出た場所の少し南側、白金幼稚園の先にあるハイクレスト白金台というマンション前です。

この辺りの地形を見ると、遺構の場所とその先の今里地蔵がある角との間の土地が、数十メートルに渡って4mぐらい窪んでいます。このため、その間に大谷石で「堤」を築き、その上に水路を設けて水を流しました。「築樋遺構」は、宅地開発した際に「堤」の一部をコンクリートで固めて保存したものです。


ところで、この遺構がある辺りは「環状4号線」が予定されている工事区間であるため、三田用水の研究者やファンの間では、遺構がどうなるのか心配しています。私が所属している市民団体・玉川上水ネットから港区の教育委員会に対して、保存の「要望書」を提出したこともあります。各地にあった三田用水の木樋などは、開発優先で処分されてほとんど残っていません。先ほど述べた東大裏の「置樋(おきひ)」ですが、関係者の話によると、工事の人がある日現場に来られて建設機械で一部をバリバリと壊してしまったそうです。遺構の文化的な価値については教育委員会がよくご存じなので、こんなことはないと信じていますが、とにかく無事に保全していただきたいと願っています。


実は、この遺跡の保存形態については研究者の間でも分からないことがあり、区役所に問い合わせたのですが詳しい調査は行われていないそうです。さらに、この辺りの住宅や道路の下にはまだ三田用水の水路が眠っている可能性があり、どんな「お宝」が出てくるか分かりません。先ほどお話しした三田上水の水番屋も気になります。正直な気持ちとして、工事の成り行きを心配しながらも、何が出てくるのかとちょっとワクワクしながら見守っているところです。本日は「三田上水と三田用水の話」を最後までご清聴いただきありがとうございました。(読者の方には、後日談がありますのでもう少しお読み下さい)

 

後日談:三田上水を実際に見た方の貴重な証言 

講演の初めに「三田用水の流れをご覧になった方はいらっしゃいますか?」と質問した時に、「見たことがありますよ」と答えて下さった男性について、後に貴重な証言をいただきましたのでご紹介します。この方は白金台で生まれ育った三好様(70代)です。講演後に高輪消防署の方が連絡された時に、「(流れを見た)場所は、まさに写真の所(築樋遺構の看板の所)で、小学生の頃なので60年ぐらい前かな、水深はひざ下くらいなので、30センチ程度だったと思う、よくザリガニやカエルを取ったりして遊んでいた。」と述べられたそうです。その後、私も電話でお話しする機会を得ました。


昭和26年生まれの三好様が小学生の頃(昭和34年頃)のお話です。

「(築樋遺構の)看板の近くは、昔は柳が生えていて大きいお屋敷があり、夜は怖くて行かなかった。階段より少し目黒寄りの所でよく遊んでいた。水路は一筋だった。階段より少し五反田寄りの場所で用水が滝の様に流れ落ちていて(同年頃)、五反田の田んぼに行っていた。昭和40年ぐらいか、だんだん水がなくなっていった。町会に88才の人がいるが、水は腰まであって泳いだという」。88歳というご年齢から考えて、その方が三田用水で泳いだのが小学生の頃とすると、1940年(昭和15年)前後でしょうか。

三田用水の水路は一筋だったという証言は重要でした。というのも、ご存じの方もおられると思いますが、「築樋遺構」は大きさの違う二個のU字溝のような構造物が横に並んでいるのですが、何故二個並んでいるのかが分からないのです。三好様は一筋とおっしゃっていましたから、そうならば一つは水路脇の通路か補強材の可能性があります。三好様には貴重な情報をありがとうございました。電話で「講演は大変楽しかった」とおっしゃって下さって、何より嬉しかったです。


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2023.7.23(講演と展示)


<報告に先立って>

20221119日、玉川上水・分水網に関する新宿および関連地区の講演会と展示会が新宿区四谷区民センターで開かれました。主催は「玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会」です。この会は、玉川上水を世界遺産にすることや、玉川上水に水を流して東京の防災に役立てることなどを目標に掲げており、素晴らしいと思います。今回のイベントには「玉川上水ネット」を初めとする多くの団体が参加し、東京都教育委員会も後援しました。幸運なことに、この会で報告と展示をする機会をいただきました。

事務局長の辻野五郎丸先生からのお話は、渋谷川と玉川上水・三田用水がどのように「協働」して水系を作ってきたのかという問題でした。私はこれまで「自然の川」である渋谷川と「人工の川」である玉川上水や三田用水の結び付き(ハイブリッドな水システム)を調べてきましたが、広く武蔵野台地の川を研究されている辻野先生は、これを地域モデルの一つと見られたようです。専門の研究者の方々と一緒に報告するのは心細かったですが、何とかがんばってまとめ、また展示物も作りました。以下はそのご紹介です。



新宿区四谷地域センター12階多目的ホールで「玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム」を報告する筆者。(冨安様撮影)

今回の報告と展示に際しては、辻野五郎丸先生と鈴木利博先生(玉川上水ネット)に大変お世話になりました。この場を借りて厚くお礼申し上げます。また会場の受付や撮影でお手伝いいただいた「渋谷川・水と緑の会」のメンバーの方々に感謝します。それでは、講演会での報告に入ります。

<報告:玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドの水システム>

「渋谷川・水と緑の会」の梶山です。初めに、このようなお話の機会をいただきましたことを、関係者の方々にお礼申し上げます。今日は地元(新宿および関連地区…筆者)の話題提供ということで、「玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム」というタイトルでお話しをさせていただきます。パワーポイントの画面に目次がありますが、この順に沿って話を進めます。


 



このタイトルと目次をご覧になって、今日は玉川上水の話と思っていたが、なぜそこに渋谷川が出てくるのだろう、あるいはハイブリッドな水システムという言葉はあまり聞かないが何のことだろう、と感じた方もおられると思います。今日はその辺りが話の中心になります。

 

1.「人工の川」と「自然の川」


 (図1)江戸・東京南部の市中では、「人工の川」である玉川上水や三田用水が、「自然の川」の渋谷川支流と結びついて水システムを形成していた。玉川上水から2本(三田用水と原宿村分水であるが、他に屋敷用2本)、三田用水から6本の分水が渋谷川の谷間に流し込まれていた

図1は、「江戸・東京南部の市中」における玉川上水と渋谷川、三田用水の関係を示した「概念図」です。ご覧のように、これらの三つの川は「逆三角形」のような関係にあります。


まず「上の辺」が承応4年(1654)に完成した「玉川上水」で、ご存じの通り、羽村で取水し、小平、三鷹を通って四谷大木戸まで流れています。


次に「左の辺」が、玉川上水の分水の三田用水です。この三田用水は、元々は「三田上水」として始まりました。「三田上水」は寛文(かんぶん)4年(1664)に開かれ、下北沢村(今の北沢5丁目)で取水し、駒場、目黒を通って、白金猿町(高輪台駅)までは地表を流れました。そして、ここから地下に設けられた石樋や木樋に入り、北の三田、芝、あるいは南の八山下、北品川へと流れ、武家や寺社、町民に飲み水や庭園の泉水を届けていました。それが享保7年(1722)に幕府の命で突然廃止となり、享保9年に田んぼの灌漑用として農民に払い下げられ、名前も「三田用水」になりました。三田上水の開削から60年後のことです。流れは短縮されて下北沢村から白金猿町までとなり、流末は大崎村、北品川村を通って目黒川の小関橋辺りに注ぎました。


次に「右の辺」が渋谷川です。天現寺橋からは古川と名前が変わります。この川はおそらく10万年以上前に生まれた「自然の川」で、湧水と雨水を集めて流れていまた(注)。玉川上水が完成した後は、渋谷川の「上流部」では四谷大木戸の余水と原宿村分水から、「中流部」では三田用水から分水を受けて、水量が豊かで安定した川に変わりました。他にも、内藤家下屋敷(今の新宿御苑)の玉藻池など、幾つかの武家屋敷の庭園の泉水からの流れを受けていました。


この水システムの特徴は、玉川上水や三田用水のような「人工の川」と、渋谷川という「自然の川」との「ハイブリッド(異種の組合せ)」にあります。高台を流れる「人工の川」の分水口から低地を流れる「自然の川」に水を流すことによって、田んぼを広く灌漑しました。図の赤丸が分水口で、玉川上水から主に2本、三田用水から6本の流れが渋谷川に注いでいました。この二つの異種の川が「協働」することにより、広い地域に効果的に灌漑を行いました。

 

2.淀橋台の地形と川の流れ

こうしたハイブリッドな水システムが生まれる上では、「江戸・東京南部」の地形の特性が影響しています。この地域は、武蔵野台地の東端にある「淀橋台」に位置しています。淀橋台は、約12万年前に地球規模の寒冷化で海面が後退することに伴って、関東地方を覆っていた古東京湾の海底から姿を現しました。歴史的には関東地方の多くの地域で海面が退いたのですが、この時に陸化した大きな平らな土地を「下末吉面(S面)」と呼び、淀橋台はその一部です。その上に富士山などの火山灰(関東ローム層)が約10m降り積もり、さらに土地の隆起も加わって今日の台地になりました。




 
(図2)真ん中の谷が渋谷川。水色(筆者)は玉川上水と三田用水。渋谷川は古多摩川の影響を受けない自生の川で、台地の地質が柔らかく傾斜が緩いため、谷幅が狭く、支谷が多く、川筋は樹枝状に伸びていた。その谷間に尾根を流れる玉川上水や三田用水から分水が流された。図は「武蔵野台地東南部の谷の縦断形による分類」久保純子「相模野台地・武蔵野台地を刻む谷の地形」『地理学評論611988より。黒丸は中流部。


  ここで図2をご覧いただくと、渋谷川が木の枝のような形をしていることが分かります。学者はこれを「樹枝状」とか「鹿の角状」と呼んでいます。淀橋台は海成の土地で、地質が柔らかく、元々ほとんど傾斜がなかったため、湧水の流れが木の枝の形をした細い谷間を作りました。この形がしっかり刻まれたのは、約2万年前の「ヴュルム氷期」と呼ばれる最も寒い時代です。

今の東京湾の土地が全て陸化して、その中心を巨大な古東京川が流れ、関東地方のほとんどの川が古東京川の支流となりました。古東京川の河口部は三浦半島の先まで及び、谷間は約120mと深くなりました。こうした古東京川の影響で渋谷川も急流になって勢いを増し、特に「ヴュルム氷期」に谷が最も深く刻まれました。それと共に樹枝状の支流も深く刻まれたことでしょう。今の渋谷川の原形はこの時代に完成したものと思われます。それが江戸時代になって、淀橋台の高地を流れる玉川上水や三田用水から低地を流れる渋谷川に分水が注がれ、効果的な水のネットワークが生まれました。もし人工の用水だけで広い土地に水を行き渡らせようとしたら、さぞ資金と労力がかかったことでしょう。


3.水システムの全体像

(図3.1)江戸・東京東南部の江戸明治からの主な川の流れを、言わば「地籍図」として「国土地理院・基盤地図情報(数値地形モデル)5mメッシュ(標高)」に描き入れ、「ハイブリッド」な水システムの全体像を示した。高度の色の目安は、茶色が標高30-40m前後の高台、黄色は20-30m前後の丘、緑色が渋谷川の河岸や東京低地。地図の左下は三田用水の分水口の一覧。

3.1は、江戸・東京南部の主な川の流れを、高低差が分かる国土地理院の基盤地図に描き入れて、「ハイブリッドな」水システムの様子を具体的に示したものです。言わば過去から現在にかけての「川の地籍図」です。色の目安ですが、茶色が高台、黄色は丘や斜面、緑色が渋谷川の河岸や沖積層(川や海が運んだ土砂)に覆われた東京低地です。北の茶色の尾根を東西に走るのが、先に「逆三角形」の「上の辺」と述べた「玉川上水」で、図の上の真ん中に玉川上水の「終点」の四谷大木戸が見えます。玉川上水はここから地下に入り、江戸城を始めとする市中を流れます。

次に、図の左上の笹塚駅近くから斜め下に降りている黒い線が「三田用水」です。渋谷の西に位置する高台の峠を伝わって笹塚から東南の方向に流れ、図の右下にある高輪台駅で目黒川に下っています。

最後に、図の中央を木の枝のような形で流れている「渋谷川」は、渋谷で新宿や千駄ヶ谷からの穏田川の流れと代々木や西原、上原からの宇田川の流れを併せ、さらにいもり川や笄川の流れも受けて東京湾に向かっています。その途中で、先程述べたように、玉川上水と三田用水から多くの分水を受けていました。

渋谷川は「自然の川」ですので湧水を水源としていますが、これまで述べた3つの大きな「人工の水源」からも大量の水を受けていました。これらが無かったら、近代の渋谷川の姿は全く違う物になったでしょう。次ぎにそれら3つの水源の特徴を述べます。

先ず、第1の人工の水源は玉川上水の終点「四谷大木戸」の余水です。昔はここに「水番屋」があり、そこで水のゴミをさらい、水量を調節して江戸城と市中に水を供給しました。その余り水を「渋谷川」に流し、この余水が渋谷川の最大の水源になったのです。ここから神宮前3丁目の原宿橋辺りまでを地元の人は「余水川」とも呼びました。なお「水番屋」の場所はこの会場の土地です。

2の人工の水源である玉川上水の「原宿村分水」は新宿の副都心の南側(代々木3丁目)にあり、ちょうど三田上水が払い下げられた時期に幕府が灌漑用に作った分水です。この地を流れていた小川(地元では芝川や代々木川と呼んでいます)に水を流し込んでおり、原宿橋まで複線の水路が続いて田んぼを灌漑していました。なお、玉川上水が完成する12年前の寛永19年(1642)年に作られた「寛永江戸全図」では、この小川の起点(現在の明治神宮「北の池」の北側の低い土地)が渋谷川の唯一の水源として描かれております。



   

(図3.2)「穏田の水車」。葛飾北斎70歳頃の作品、天保元年~3年(1830-32)頃。伝統的な精米水車を描いた。穏田川には、四谷大木戸からの余水川と原宿村分水からの芝川が合流しており、幾つもの水車を回していた。この絵のモデルは穏田川の「村越の水車」と言われるが、確定していない。絵は神宮前交番の標識より。


以上の余水川と芝川が合流する原宿橋の辺りは、昔は川あり池ありで、水がたいへん豊かな土地でした。この原宿橋辺りから渋谷駅までの流れを「穏田川」と呼びましたが、この川筋の上に作られた暗渠の道が今のキャットストリートです。図3.2はこの穏田川に架かっていた「穏田の水車」で、北斎の「富嶽三十六景」にある有名な絵です。水輪が2丈2尺(6m以上)という大型の水車で、ここを豊かな水が流れていたからこそ回すことが出来た訳で、玉川上水からの余水や分水の大きさが偲ばれます。


ここで、図3.1を再び見ていただき、渋谷川の第3の水源である三田用水について説明します。ここには全部で6つの分水がありました。これらの分水のルートですが、元々渋谷川の支流が作った谷であったと考えられます。そのため、分水を流すために開削した区間は、尾根にある分水口から渋谷川支流の谷頭までのごく短い区間で、後は自然の川の水路を使って渋谷川の河岸まで水を届けていました。⑫銭噛窪口分水(かつての白金口)など、分水口のある尾根から滝のように渋谷川支流に水を落としていた分水もあります。以上の説明で、玉川上水、三田用水と渋谷川の繋がりがご理解いただけたと思います。


4.時代で変わる用水の役割

初めに述べましたが、三田上水の60年間は高輪や三田、芝の武家や寺社、町人に飲み水や泉水を配り、泉水などの「残り水」を農民が灌漑に充てていました。三田上水の7年前に伊皿子の下屋敷に引かれた「細川上水」ですが、「細川家記(けき)」には、明暦3年「池を穿ちて玉川上水を注ぐ」とあります。この話が史実ならば、屋敷の池を作るためだけに玉川上水の水を引いたことになります。小話としては面白いですが、実際には江戸南部に武家屋敷や寺社、町屋を作るために必要な水道であったと思われます。

徳川吉宗の「享保の改革」が始まり、幕府は新田開発を促す政策を積極的に進めました。このため享保7年(1722)になると、三田上水など幾つかの上水を廃止し、水道を主に飲用と泉水用に用いていた時代が終わりを告げました。この背景には江戸市中での井戸の普及があったと言われています。このため三田上水は田んぼの灌漑用水として農民に無償で払下げられ、名前も三田用水に変わりました。武蔵野の新田開発もこの頃に進み、淀橋台を含む武蔵野台地全体がどんどん耕地に作り変えられていきました。原宿村分水も作られました。図4.1は三田用水の「別所上口分水」を描いた國長の「鑓崎(やりがさき)富士山眺望之図」ですが、分水が数段の大きな滝となって田んぼに降り注いでいます。三田用水の利用が武士から農民の手に移ったことを強く感じさせます。

   

(図4.1)三田用水の「別所上口分水」が、目黒新富士の脇からの大きな滝となって中目黒の田んぼに落ちている。歌川國長(1790-1829) 「鑓崎富士山眺望之図」。東京大学史料編纂所所蔵(重要文化財)。

歴史的に見ると、江戸時代の「享保の改革」こそが、江戸・東京南部の地にハイブリッドな水システムを作り出した原動力でした。流域の14カ村の農民は、三田用水に17の分水口を設け(明治時代には19に増えます)、組合を作って自分たちの手で管理しました。そして分水を渋谷川の多くの谷間に流し込み、その先々で水路を「延長」し、「迂回」させ、あるいは「複線化」して、田畑の面積を増やしました。これが食料の増産となって、人口増加を続ける江戸・東京の街の発展を支えたのです。

江戸後期になると、水システムの役割がさらに多様化します。先ず地主や商人が分水の水路に多くの水車を設けて、精米や製粉業を営むようになりました。明治になると、精米業の他にも、火薬や繊維、金属などの近代的な産業の動力に水車を使うようになりました。



   

(図4.2)三田用水・鉢山口分水の分水口の東側にあった「角谷の水車」は近代産業を牽引した。渋谷区教育委員会所蔵。明治初めは水車を使って「米搗き」をしていたが、やがて「綿打ち業」を始めた。水車の方式は上掛けで(絵の左下に水車用水)、工場では蒸気機関を併用した。

4.2はその一例で、三田用水・鉢山口分水にあった「角谷の水車」です。初めは米搗きでしたが、やがて綿打ち業に変わりました。上図は水車と蒸気を利用するダイナミックな工場の絵です。また玉川上水・余水川での話ですが、日本で初めて鉛筆を考案した眞崎仁六(まざき・にろく)は、明治20年に今の内藤町に水車を借りて鉛筆製造を始めています(後の三菱鉛筆です)。明治の後半には、三田用水に49(本流と分水、目黑川に向かう分水の物も含む)、渋谷川の本流に11台の水車が回っていました。


   

(図4.3)三田用水を工業用水として用いた日本麦酒の第二貯水池。『目黒区史』より。今の恵比寿ガーデンプレイス内の旧「三越」付近にあった巨大な水槽(一辺100m×深さ9m)で、ビールの製造とビンの洗浄に使われた。他に工場西側に第一貯水池があった。 

 


三田用水の用途はさらに広がりました。図4.3は、恵比寿の日本麦酒がビール製造や洗浄に使った巨大な貯水池です。明治42年に作られた「2号貯水池」で、縦横100m、深さは9mありました。また次の図4.4は、同じく工業用水に用いていた目黒の火薬製造所で、絵の右側の建物群です。他にも、海軍研究所が艦船実験用のプールに、目黒や高輪消防署が消防用水に、さらに大型庭園の泉水などに用いられました。その頃になると三田用水の周りは住宅地となり、農地はほとんど無くなりました。

   

4.4小林清親「目黒いゑんひう蔵(目黒焔硝蔵)」部分。目黒区めぐろ歴史資料館所蔵。図の右側の煙突と赤煉瓦の建物群が目黒火薬製造所。明治18年に工事が完成し、三田用水の水車で火薬製造が始まった。その後蒸気機関も使用。

 

 


三田用水は、昭和49年(1974)の通水停止まで250年の間(三田上水を含めると310年間)、田んぼの灌漑の他にも様々な形で、産業の発展や人々の暮らしを支えました。 

最後に本日の話をまとめますと、まず、この地域の水システムが「人工の川」である玉川上水・三田用水と、「自然の川」である渋谷川の「ハイブリッド」によって成り立っていたこと。次に、こうした水システムの実現には、渋谷川の地理的な条件と樹枝状の谷間が巧みに使われていたこと。そして、江戸の「享保の改革」が、この地にハイブリッドな水システムを作り出す歴史的な転換点になったことを述べました。また明治以降、こうした水システムが、田んぼの灌漑以外にも、、繊維、化学、金属、火薬製造用の水車の動力や工業用水などによって近代化に貢献した姿も併せてご説明しました。以上で話を終わらせていただきます。本日はご清聴をありがとうございました。

 

(注)渋谷川がいつ淀橋台に誕生したかについて、地理学者の貝塚爽平は「淀橋台や荏原台では、海底から海岸平野に移り変わると共に、そこに降った雨が新しく流路を作ることになった。今の渋谷川〜古川、溜池の川とそれらの支流の前身が、このとき現れたのである。」(『新修港区史』p20)と述べています。                    

 





(参考資料)講演会のプログラムと内容/講演資料より

 玉川上水・分水網関連遺構100選 上下流連携(羽村~日本橋)地区別展示と講演

5回 新宿および関連地区の展示と講演


●展示

 日時:20221117日()から1120()

 場所:新宿区四谷区民センター1階プラザ

●講演

日時:20221119(() 13301530

場所:新宿区四谷地域センター12階多目的ホール

【プログラム】  

 司会:寺井しおり(中央大学研究開発機構専任研究員)

     早澤華怜 (中央大学大学院理工学研究科都市人間環境学専攻修士2)

講演

1.江戸御府内と玉川上水                        

    真下 祥幸 (江戸東京博物館学芸員)

2.水循環と防災の視点から見た外濠 

    細見 寛(中央大学研究開発機構客員教授) 

3.玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム              

梶山 公子(渋谷川・水と緑の会代表) 

4.玉川上水関連遺構100選地区別展示と講演 第15              

    辻野 五郎丸(玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会事務局長)

講評 山田 正(中央大学研究開発機構教授) 

 

                玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会

 

(当日会場配布「講演資料」より掲載。展示の日時場所を加筆。)

                                                  (1)は終

 
 


2023.7.25(講演と展示)



今回のイベントでは講演会の報告の他にパネル展示のお話もいただきました。会場の四谷区民センターは玉川上水の「水番屋」があった歴史的なスポットですから、パネルの作成にも力が入ります。会場の関係でパネルはA1サイズ2枚と決まっていたため、全ての情報を詰め込むのが大変でした。後になって見ると、ご覧の通り中味がぎっしり詰まっていて、説明文も漢字だらけでした。


 


以下は本編の目次です。スペースの関係でパネルに入れることができなかった「筆者のコメント」も加えました。ゆったりと会場を訪れた気持ちで順にご覧ください。

 

<玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム(展示パネル)>

1.   水システムの社会的な役割

2.   江戸・東京南部を流れた玉川上水とその分水網

3.   国土地理院・基盤地図情報(数値地形モデル)5mメッシュ(標高)

4.   三田上水・三田用水の流路の勾配図

5.   玉川上水・三田用水と渋谷川の記録

6.   玉川上水と三田用水、渋谷川の年表

7.   参考文献・資料

8.   パネル展示を見学された方の感想


1.  水システムの社会的な役割

江戸・東京南部の水システムは、「人工の川」である玉川上水・三田用水と「自然の川」である渋谷川のハイブリッドな組み合わせから成り立っていた。それは淀橋台の尾根を通る玉川上水の余水や三田用水の分水を、渋谷川支流の谷間に流し込んで、河岸や斜面の土地に水を行き渡らせる仕組みである。こうした方法には、渋谷川が淀橋台に刻んだ多くの樹枝状の谷間が巧みに生かされた。この地域の上水の役割は、時代と共に変化した。三田上水の時代は主に武家や寺社の泉水や町人の飲水に使われた。享保9年(1724)に農民に払い下げられ、名前が三田用水になり、用途も田んぼの灌漑に変わった。流域の村々は分水口を設けて水を渋谷川支流の谷間に流し、水路を延長し、複線化し、迂回させて田畑を拡げ、米の収穫を増やした。こうしてハイブリッドな水システムが完成した。やがて水路に精米・製粉の水車が掛かり、その数も増えた。明治以降は繊維や化学、金属など近代産業の動力源にもなった。用途は工業用水や科学の実験水、消防に広がり、人々の暮らしと産業の発展を支えた。

 

2. 江戸・東京南部を流れた玉川上水とその分水網

 1.玉川上水 承応2年(1653)に多摩川の羽村から四谷大木戸まで、翌年は江戸城まで開削された。完成後は江戸南部に向けて青山上水、細川上水、三田上水の支流が作られ、武家や寺社、町民に飲水や泉水を届けた。この三上水は享保7年(1722)に幕府の命で廃止された。

2.青山上水 万治3年(1660)に開削された。四谷大木戸で分水され、今の外苑東通りに沿って南東に進み、青山・赤坂・麻布や芝の武家屋敷や寺社、町人に給水した。明治14年から18年まで「麻布水道」として一部復活した。

3.細川上水 明暦3年(1657)に開削された細川越中守の上水。現在の北沢5丁目(下北沢村)で分水され、駒場から目黒、高輪台を通って伊皿子の私邸まで流れた。

4.三田上水 寛文4年(1664)に細川上水と並行して作られ、細川邸の先は二本榎通り、聖坂を流れ、三田・芝を巡って入間川に注いだ。高輪台からは地中に入って木樋で流れた。後に八山下、品川宿への水路も作られた。

5.三田用水 享保9年(1724)に三田上水が農民の請願で払い下げられ、三田用水と改名され、農民が灌漑用水として自主的に管理した。下北沢村で取水され、目黒、高輪台を経て目黒川に流れた。その間、17の分水が渋谷川や目黒川に注いだ。昭和49年(1974)の通水停止まで250年、三田上水を加えると310年間流れた。

6.原宿村分水 三田用水が農民に払い下げられたのと同時期に開削された。玉川上水の千駄ヶ谷村(代々木2丁目)で分水され、渋谷川上流の芝川に入り、原宿橋で穏田川に合流した。

7.渋谷川 淀橋台の中央を流れる自然の川で、水源は新宿、代々木、西原など多数。玉川上水の完成後、四谷大木戸と原宿村分水、三田用水から分水を受けて水量が増加し、季節的にも安定した。現在は渋谷駅南口から東京湾・浜崎橋まで。渋谷より上流と支流は全て暗渠化されている。

 


3. 国土地理院・基盤地図情報 (数値地形モデル)5mメッシュ(標高)


(筆者コメント)下の図は『国土地理院・基盤地図情報(数値地形モデル)5mメッシュ(標高)』に玉川上水、三田用水とその分水、渋谷川の本流と支流、他に青山上水などの流れを描き込んだもので、言わば江戸・東京南部の川の「地籍図」です。この図は緑色、黄色、茶色のグラデーションによって地形の「高低差」を示しています。標高の目安は茶色が標高30-40mの高台、黄色が20-30mの丘と斜面、緑色が河岸と海岸部の低地です。この図の緑や黄色の土地は、渋谷川が、何万年もかけて淀橋台の地面を削り取った谷間や平地です。「自然の川」である渋谷川が削り残した高台を、玉川上水や三田用水などの「人工の川」が僅かな勾配を付けて流れています。後に「勾配図」で示しますが、流れを遮る谷間には堤を築いて通していました。このように、江戸・東京南部の川の仕組みは、渋谷川と玉川上水のハイブリッドです。





4.三田上水・三田用水の流路の勾配図

(筆者コメント)下の図は玉川上水の北沢村で分水された三田用水が、高輪台を経由して目黒川に注ぐまでの流れの勾配図です。三田用水の元である「三田上水」の時代は、高輪台から地中に入り、三田、芝を通って入間川へ注いでいましたので、このルート(茶色の線)も描き入れました(少し遅れて品川の八山下へも流れましたが、下図には入っていません)。勾配図を見ると、高台の峠を流れる三田用水が、東大裏、鎗ケ崎、目黒、白金台などの谷間を通る際に、堤を築いて土地を嵩上げして勾配を保っていたことが分かります。目黒駅は山手線を通すときに恵比寿、五反田の両隣の駅と高さをそろえるために窪地になりました(その時の様子は 2017.2.4「おわりに」 を参照してください)。なお勾配図の上にある数字とアルファベットは、「基盤地図」にある窪地のおおよその場所です。




5.玉川上水・三田用水と渋谷川の記憶

(筆者コメント)次は渋谷川や三田用水にちなんだ遺構の写真や地図など7点です。前の基盤地図のアルファベット文字の場所を示すと、A.余水川跡(新宿内藤町)、B.原宿村分水・取水口(南新宿)、C.三田用水・取水口(世田谷区北沢)、D.三田用水・別所上口(中目黒)、E.旧海軍技術研究所(中目黒)、F.千代が池(目黒駅近く)G.三田用水・築樋遺構(白金台)です。もっと紹介したかったのですが、スペースの関係もあって厳選しました。



 
 A.四谷大木戸・水番屋(現水道局)の余水が流れていた渋谷川(余水川)水路跡。右側の塀は新宿御苑。  


 
 B. 原宿村分水の取水口付近。大正10年頃。電線会社の水車を2台回した後に芝川へ注いだ。水色の縦の点線は筆者。



 

 C. 北沢5丁目の三田用水の取水口。左側の川の流れは玉川上水、右側の水門が三田用水。昭和28年。渋谷区郷土博物館・文学館所蔵。


 
 D.三田用水別所上口分水の滝(中目黒)。歌川國長「鑓崎(やりがさき)富士山眺望之図」東京大学史料編纂所所蔵。重要文化財。


 

 E.三田用水を用いた旧海軍技術研究所・実験用貯水池(屋根が緑色の建物)防衛装備庁艦艇装備研究所。


 

 F. 歌川広重「目黒千代が池」『名所江戸百景』国会図書館。三田用水を屋敷の泉水に利用。


 

 G.三田用水の白金台3丁目「築樋遺構」。堤を通る水路の断面をコンクリートで固定して保存。




6.玉川上水と三田用水、渋谷川の年表

(筆者コメント)これまで三田用水の年表は作ったことがありますが、渋谷川を入れるのは初めてでした。渋谷川は12万年の歴史があり、どこから入れたらよいか迷いましたが、玉川上水との結びつきを考えて、渋谷川が日本で最初に描かれた「寛永江戸全図」の時代(1642)から始めました。

<玉川上水と三田用水、渋谷川等の年表>

寛永19

1642

最初の江戸全図「寛永江戸全図」が作られ、渋谷川(水源は代々木)全景が描かれる。

承応2

1653

玉川上水(多摩川羽村-四谷大木戸)が開削。翌年に江戸城までが完成。

承応2

1653

玉川上水「水番屋」の吐水門から渋谷川に余水が流し込まれる。

明暦3

1657

細川上水(下北沢村-高輪伊皿子)が細川越中守私邸の庭園・飲用水として開削。

万治3

1660

青山上水(四谷大木戸-赤坂・芝)が完成。明治14年に麻布水道として一時復活した。

寛文4

1664

三田上水(下北沢村-三田・芝・金杉)が細川上水の隣接地に並行して開削。

元禄11

1698

白金の麻布御殿(将軍綱吉別邸)造営のため三田村から分水(白金上水・渋谷川へ)。

享保7

1722

「享保の改革」の最中、三田上水など江戸四上水が廃止、細川上水も閉鎖。

享保7

1722

幕府が「新田開発奨励の高札」を江戸日本橋に立てる。併せて灌漑整備を推進。

享保9

1724

三田上水を農民に払下げて「三田用水」と改称。渋谷川へ灌漑用の分水が活発化。

享保9

1724

玉川上水に原宿村分水(南新宿―原宿村、穏田村)が開かれ、渋谷川(芝川)に分水。

享保9

1724

三田用水(下北沢村-白金猿町ー北品川宿)の管理のため十四カ村が水利組合結成。

享保18

1733

渋谷川の水車がこの頃から始まる(元禄年間の説も)。人力に代わり精米・製粉を行う。

安政4

1875

幕府が目黒の三田村に火薬庫と火薬製造水車を建造して三田用水を用いる。

明治3

1870

玉川上水の分水口が改正され、分水口の統合と元樋口の基準化が図られる。

明治11

1878

三田用水の各村の分水口が改正され、水路管理や経費賦課等が決まる。

明治13

1880

目黒火薬製造所が設置され18年から操業。道城口、田道口から取水する。

明治16

1883

三田用水の実態調査『三田用水取調表』が出る。歳入の7割を水車が占める。

明治21

1888

日本麦酒醸造が田道口から取水して製造開始。33年に銭噛窪口とも契約。

明治23

1890

「水利組合条例」が施行され水利組合が公法人の三田用水普通水利組合に。

明治35

1902

日本麦酒が7万石の第1貯水池を竣工。また42年に30万石の第2貯水池完成。

明治40

1907

三田用水の水車設置数が49ケ所とピークに。大正時代になると電力化で水車数が急減。

明治41

1908

「水利組合法」が制定され水利組合の管理体制や財政基盤が強化される。

昭和2

1927

笹塚取水口が鉄製の枠組・扉に改修され、三田用水口と火薬製造所分水口が並立に。

昭和4

1929

日本麦酒が笹塚取水口と目黒間にヒューム管を敷設。完成は昭和1314年。

昭和5

1930

目黒火薬製造所跡に海軍技術研究所が創設。巨大な実験用貯水池を建設。

昭和5

1930

都道19号線新茶屋坂に三田用水を渡す隧道が建設される。平成15年撤去。

昭和21

1946

海軍技術研究所の敷地が占領軍に接収される。返還後は防衛庁技術研究所。

昭和27

1952

「土地改良法」制定(24年)に基づき三田用水普通水利組合が法的解散へ。

昭和36

1961

東京オリンピック(1964)開催決定により渋谷駅以北の渋谷川と全支流の暗渠化(下水道化)が決定。

昭和44

1969

水利権・土地所有権を巡る水利組合と国・東京都の係争で最高裁が上告棄却。

昭和49

1974

東京都水道局が三田用水の元樋口を閉鎖して通水を停止する。

昭和50

1975

防衛庁技術研究所が三田用水を水道局に切り替える。

昭和57

1982

三田用水の旧今里口の近く(港区白金台3丁目)に「築樋遺構」が保存される。

昭和59

1984

三田用水普通水利組合が土地売却などの清算事務を結了して消滅。

平成8

1996

銭噛窪分水口の近く(目黒区三田1丁目)に「三田用水跡」の碑が設置される。

平成27

2015

港区白金台3丁目-港南1丁目の新道路計画で「築樋遺構」等の保存が課題に。

平成30

2018

渋谷駅南口に渋谷ストリームが開業し、再生水による「壁泉の滝」と遊歩道が誕生。



7.参考文献・資料

 (筆者コメント)パネルの地図や年表を作る上で多くの文献や資料を参考にさせていただきました。本の著者や資料を作成された方々に感謝いたします。皆素晴らしい文献や資料です。

<参考文献・資料>三田用水普通水利組合『江戸の上水と三田用水』岩波ブックセンター信山社 昭和59年、堀越正雄『日本の上水』新人物往来社 昭和45年、伊藤好一『江戸上水道の歴史』吉川弘文館 平成8年、渡部一二『武蔵野の水路-玉川上水とその分水路の造形を明かす』東海大学出版会 2004年、小坂克信「近代化を支えた多摩川の水」とうきゅう環境財団 2012、木村孝「三田用水研究」(WEB)、渋谷区立白根記念郷土文化館『渋谷の水車業史』1986年、田原光泰『「春の小川」はなぜ消えたのか-渋谷川にみる都市河川の歴史』之潮 2011年、貝塚爽平『東京の自然史』講談社 2011年、久保純子「相模野台地・武蔵野台地を刻む谷の地形」『地理学評論61 1988、『東京市史稿』上水篇第1・第2 東京市役所 大正812年、東京都水道局『上水記』 昭和40年、間宮士信他編『新編武蔵風土記稿・東京都区部編』第3巻 千秋社 昭和57年、蘆田伊人編集校訂『御府内備考』第45巻 大日本地誌体系4・5 雄山閣 昭和45年、『品川町史』上・中・下巻 品川町役場 昭和7年、『新修渋谷区史』上・中・下巻 東京都渋谷区 昭和41年、『目黒区史』『同資料編』東京都目黒区 昭和36年、『麻布区史』東京市麻布区役所 昭和16年、「貞享上水図」国立国会図書館所蔵、「文政十一年品川図」前掲『品川町史』上巻、『一万分の一地形図 東京近傍 明治42年測図 大正5年修正』 陸地測量部、近藤源一『東京市近傍部町村番地界入-明治44年』 東京逓信管理局 人文社版 昭和61年、近藤源一『東京市十五区番地界入地図-明治40年』人文社版 昭和61年、『東京都市地図23』柏書房 1996年、『東京五千分一実測図 明治20年測図』内務省地理局、大日本測量、『東京時層地図』他。

 

  8.パネル展示を見学された方の感想

パネルの展示会場では、来場者に感想をお聞きしてメモに残しました。子供の頃に三田用水で遊んだことを話される方もおられて、とても楽しく、また大変勉強になりました。以下にご紹介します。

  会場風景:代田橋・笹塚の開渠遺構のパネルを見学する。

   沼田さん:小さい頃白金台3丁目の遺構の所で遊んでいました。1967年から1968年の頃のことですが、白金台の道の脇に高い土手があった。泥の土手で不思議な地形だった。小学校から塾に行く前にそこで滑って遊んでドロドロになり、塾の先生に「こんな泥だらけの子どもは入れてあげない」とよくいわれた。何故こんな所に土手があるかと思ったが、今日展示を見てよく分った。三田用水を流した堤だったのだ。当時上の三田用水の溝にはもう水は流れていませんでした/男性、1956年生まれ、三鷹市。

 

   野口さん:小学3年、8才の頃おじいちゃんに連れて行ってもらい、羽村から新宿まで歩いた。お姉さんと家族で歩いた。マイマイズ井戸の写真など撮って夏休みの学校の宿題にした。もう20年前になるが、玉川上水の展示をやっていて懐かしくなって寄りました/女性、1994年生まれ、新宿区。

 

   田保さん。玉川上水の現代図があると良かった。現代地図で特に新宿御苑の所など玉川上水の場所を特定出来ると良い。他の地域の写真もあった方が良かった/男性、新宿区。

 

   (若い男性)国分寺分水、恋ヶ淵分水の傍に実家がある。家に帰るとその辺りで良くランニングする。津田塾近くで林がきれいな所。「小さな傾斜で自然に流すことで東京までたどり着けたのはすごい技術力なので感心する。」(会議の時間直前までパネルを一生懸命見てくれた。はっと時間に気づいて帰られた。

 

   (大学の先生)江戸の水利技術はすごかったと思う。どこと比べてもひけは取りません/女性、世田谷区。

       ご感想をいただき、ありがとうございました。                                    

(<その2>終)

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