<玉川上水と三田用水、渋谷川等の年表>
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寛永19
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1642
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最初の江戸全図「寛永江戸全図」が作られ、渋谷川(水源は代々木)全景が描かれる。
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承応2
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1653
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玉川上水(多摩川羽村-四谷大木戸)が開削。翌年に江戸城までが完成。
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承応2
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1653
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玉川上水「水番屋」の吐水門から渋谷川に余水が流し込まれる。
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明暦3
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1657
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細川上水(下北沢村-高輪伊皿子)が細川越中守私邸の庭園・飲用水として開削。
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万治3
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1660
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青山上水(四谷大木戸-赤坂・芝)が完成。明治14年に麻布水道として一時復活した。
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寛文4
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1664
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三田上水(下北沢村-三田・芝・金杉)が細川上水の隣接地に並行して開削。
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元禄11
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1698
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白金の麻布御殿(将軍綱吉別邸)造営のため三田村から分水(白金上水・渋谷川へ)。
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享保7
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1722
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「享保の改革」の最中、三田上水など江戸四上水が廃止、細川上水も閉鎖。
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享保7
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1722
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幕府が「新田開発奨励の高札」を江戸日本橋に立てる。併せて灌漑整備を推進。
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享保9
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1724
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三田上水を農民に払下げて「三田用水」と改称。渋谷川へ灌漑用の分水が活発化。
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享保9
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1724
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玉川上水に原宿村分水(南新宿―原宿村、穏田村)が開かれ、渋谷川(芝川)に分水。
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享保9
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1724
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三田用水(下北沢村-白金猿町ー北品川宿)の管理のため十四カ村が水利組合結成。
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享保18
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1733
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渋谷川の水車がこの頃から始まる(元禄年間の説も)。人力に代わり精米・製粉を行う。
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安政4
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1875
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幕府が目黒の三田村に火薬庫と火薬製造水車を建造して三田用水を用いる。
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明治3
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1870
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玉川上水の分水口が改正され、分水口の統合と元樋口の基準化が図られる。
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明治11
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1878
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三田用水の各村の分水口が改正され、水路管理や経費賦課等が決まる。
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明治13
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1880
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目黒火薬製造所が設置され18年から操業。道城口、田道口から取水する。
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明治16
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1883
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三田用水の実態調査『三田用水取調表』が出る。歳入の7割を水車が占める。
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明治21
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1888
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日本麦酒醸造が田道口から取水して製造開始。33年に銭噛窪口とも契約。
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明治23
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1890
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「水利組合条例」が施行され水利組合が公法人の三田用水普通水利組合に。
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明治35
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1902
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日本麦酒が7万石の第1貯水池を竣工。また42年に30万石の第2貯水池完成。
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明治40
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1907
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三田用水の水車設置数が49ケ所とピークに。大正時代になると電力化で水車数が急減。
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明治41
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1908
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「水利組合法」が制定され水利組合の管理体制や財政基盤が強化される。
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昭和2
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1927
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笹塚取水口が鉄製の枠組・扉に改修され、三田用水口と火薬製造所分水口が並立に。
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昭和4
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1929
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日本麦酒が笹塚取水口と目黒間にヒューム管を敷設。完成は昭和13~14年。
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昭和5
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1930
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目黒火薬製造所跡に海軍技術研究所が創設。巨大な実験用貯水池を建設。
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昭和5
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1930
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都道19号線新茶屋坂に三田用水を渡す隧道が建設される。平成15年撤去。
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昭和21
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1946
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海軍技術研究所の敷地が占領軍に接収される。返還後は防衛庁技術研究所。
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昭和27
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1952
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「土地改良法」制定(24年)に基づき三田用水普通水利組合が法的解散へ。
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昭和36
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1961
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東京オリンピック(1964)開催決定により渋谷駅以北の渋谷川と全支流の暗渠化(下水道化)が決定。
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昭和44
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1969
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水利権・土地所有権を巡る水利組合と国・東京都の係争で、最高裁が上告棄却。
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昭和49
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1974
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東京都水道局が三田用水の元樋口を閉鎖して通水を停止する。
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昭和50
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1975
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防衛庁技術研究所が三田用水を水道局に切り替える。
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昭和57
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1982
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三田用水の旧今里口の近く(港区白金台3丁目)に「築樋遺構」が保存される。
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昭和59
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1984
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三田用水普通水利組合が土地売却などの清算事務を結了して消滅。
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平成8
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1996
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銭噛窪分水口の近く(目黒区三田1丁目)に「三田用水跡」の碑が設置される。
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平成27
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2015
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港区白金台3丁目-港南1丁目の新道路計画で「築樋遺構」等の保存が課題に。
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平成30
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2018
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渋谷駅南口に渋谷ストリームが開業し、再生水による「壁泉の滝」と遊歩道が誕生。
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