<2023>
 
8月5日 講演録(高輪女性防火の会)三田上水と三田用水の話(上)川のルートと流れの仕組み-New! 
 8月28日 同講演録(下)川の流れと人々の暮らし-New!  
 7月23日 [講演と展示]玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム(1)報告-New!
 7月25日 同[講演と展示] (2)展示パネル-New!
 <2022> (b4)
12月31日 三田用水の駒場分水は今も現役だった。
 <2021> (b3) 
 3月21日 <三田用水の4つの遺構>についてのシンポジウム報告-「我が町の玉川上水関連遺構100選から」-
<2017> (b2)
 
11月21日 三田上水の地下ルートを「貞享上水図」でたどる (前編) -白金猿町から二本榎、伊皿子、そして聖坂へ-
 
 11月21日 同「貞享上水図」でたどる(後編)-三田町、松本町、西應寺町、そして品川の八つ山下へ-
 4月1日 TUC講演録「三田上水と三田用水」-渋谷、目黒、白金の丘を流れた川-
 2月4日 東京都庁「三田上水と三田用水」展示パネル紹介
<2016> (b1)
 10月15日 三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く-猿町から北品川宿を通って目黒川へ-
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2016年 10月15日

<はじめに>
三田用水は江戸時代の享保9年(1724)に設けられた灌漑用水です。その流れは玉川上水の下北沢村(現在の北沢5丁目)に始まり、代々木村、中渋谷村、三田村、上目黒村、白金村、大崎村を通って猿町(高輪台)に至り、その後は北品川宿を下って目黒川に注いでいました。その前身は幕府が寛文4年(1664)に開削した「三田上水」です(注1)。ところでそのルートですが、下北沢から猿町までは幕府の記録や遺構などにより明らかですが、流末の猿町から目黒川にかけてははっきりしていません。このたび玉川上水に関するイベントで「三田上水と三田用水」を報告(パネル展示)するのを機会に(注2)、渋谷川と深い関わりがある三田用水の猿町から目黒川までの流れを確かめることにしました(注3)。

「文政十一年品川図」部分

道案内となるのは「文政十一年品川図」(注4)です。この図が作られた文政11年(1828)は幕府の「地誌調所」が江戸府内を調べていた年です。地図には大名屋敷、寺社、町屋、辻番屋、田畑の面積(町・反・畝)、入会地などが細かく記されいるので、おそらく町や村の名主が町奉行に出した書類なのでしょう。三田用水も地図の右上の猿町から左下の目黒川にかけてしっかり描かれています。ただ図の縮尺や方角が大雑把なため、他にも色々な古地図を参考にして流れのルートを推定しました(注5)。地図の中の活字は筆者が入れたものです。 

現代地図で見た三田用水の流末


この図は「文政十一年品川図」に描かれた三田用水のルートをグーグルマップに書き入れたもので(水色の線)、そこに今回歩いた道(茶色の点線)も加えました。都道317号(環状6号線)より北の地域(東五反田3丁目など)には文政のルートを探る手掛かりが色々とありましたが、目黒川に近づくにつれて都市開発が進み(北品川5丁目など)、流れの痕跡を見つけることはできませんでした。ここからは「文政十一年品川図」を3つのパートに分けて流れを見ていきます。


(1)猿町の三田用水の流れ


三田用水は町の地中を流れて目黒川に向かった


猿町周辺の流れを図に従って説明します。目黒から流れてきた三田用水は、今里村や白金村の境(図の右上)を通る道に沿って大きなカーブを描いて白金猿町に入ります。水路は道の脇に二重線で描かれ、「用水敷地」の所は三本線です。流れ着いた所の右手に小倉藩主細川家の御屋敷の門が、左手に「辻番所」(見張り番所)があります。流れはここから地中に入り、町の下を木樋(木の管)で斜めに通って町の南側に出て、「品川台町」との境にある道に沿って目黒川へ下ります。今里村境、白金村境の北側(図の右上)には久留米藩主有馬家の下屋敷がありました。



流れは白洋舎の所で白金猿町に入った


この日は朝9時ごろにJR目黒駅を出発しました。三田用水の流れに沿って白金3丁目(今里村)の高台を歩き、「導堤遺構」や今里地蔵がある一車線の道を通って白洋舎の店の横に出ました。ここは高輪台交差点で、昔の白金猿町の入り口です。「三田上水」の時代は地上の流れが猿町で終わり、その先は地中の木樋を使って三田、芝、金杉へ向かいました(注6)。三田用水の時代になると三田・芝への地中のルートが無くなり、猿町まで来た水は全て灌漑用水として北品川宿や下大崎村に流されました。本日の出発点はこの白洋舎の店があるビルです。 


高輪台信号の辺りには町屋が並んでいた

桜田通りの高輪台交差点はいつも賑やかですが、猿町の時代も同じだったようです。幕府が町の名主に提出させた「地誌御調書上帳」(注7)によると、猿町には89軒の町屋などが道の両側に軒を連ねていたそうで、時代劇のセットを思い出しますね。猿町という名前は風変わりですが、一説には白金台町から分かれてできた町という意味で“去り町”と呼んでいたのが、自然に猿の字に置き換わったそうです。 



(高輪3-11
桜田通りを左(南)に曲がって目黒川に向かう


「地誌御調書上帳」には「猿町に
有馬玄蕃頭様の屋敷の西南から道を斜めに横切る長さ39間(70m)、巾1尺(30cm)ほどの埋め樋(地中の水路が一か所あり、三田用水と呼ぶ。流れは町の南側の中ほどから家の前の下水に出て、町内の境(品川台町)の横丁から大崎村に落ちた」とあり、「もっともこれは三田用水と関わる村々が取りはからい町内は拘わらない」と結んでいます(現代訳筆者)。町の中を流れていても管理は下流の村がしていたことが分かります(注8)。写真は高輪台の信号から西に150mぐらい歩いたアークタワー高輪の曲がり角で、三田用水はこの辺りで道に沿って大崎村(南)に流れ出していました。

 



猿町からの流れはかなり速かった

桜田通りからまっすぐに降り始めた坂道は、右に緩やかカーブして交差路に向かいます。明治9~19年『東京時層地図』によると、この坂道のすぐ左側(東)に正三角形をした池がありました。貯水池に使われていたのかもしれません。この場所の道は今でも三角形のままです。大正11年『帝都地形図』で標高を調べると、当時の表通りが95尺(約28m)、交差路が72尺(約22m)、表通りと交差路の間が150m、勾配は400㎝/100mで、現在の国土地理院の地図を見てもほぼ同じです。三田用水の下北沢村と猿町間の勾配は平均13.4㎝/100mですから、かなりの傾斜です。 



風車のような形をした交差路


この交差路は崖の地形が作りだす風車のような形をしていて、東のグランドプリンス新高輪(石榴坂の北側)から来る太い坂道と合流しています。「文政十一年品川図」(1828)にこの交差点は描かれていませんが、安永8年(1779)の地図「品川芝筋白銀麻布」(『近代沿革図集』別冊I収録)にはありますから、図の作者が何かの事情で省いたのでしょう。三田用水は坂道の左脇を流れていましたが、小さな滝のように速かったはずです。 


(東五反田3-4
崖下の低地に向かう脇道

桜田通りから坂道を下り始めた時は道の両側が同じぐらいの高さでしたが、この交差に近づくにつれて右側(西)だけがぐっと低くなりました。坂道より34m下がっており、その先(西)に本立寺の崖がそびえています。明治44年『番地界入地図』を見ると、坂道を下ってきた三田用水は交差の少し手前で右(西)に曲がってこの低地に流れ込み、再び左(南)に曲がって太い坂道と本立寺の崖の間を流れていました。 



空き地の下は水路だった


そこで少し寄り道をして、崖下に向かう脇道に入って明治の流れを追うことにしました。脇道の行き止まりでうろうろしていると、家の前を掃除していた奥様が声をかけて下さいました。「三田用水が流れていた跡を探してるんですが」と言うと、びっくりするようなお答えが。「お隣の家の脇にコンクリートの空き地があるでしょう。昔はそこに細い用水の溝があって家を建てられなかったと聞いています。ここに越してきた50年前の話ですが」。三田用水はその家の後ろの方(北)から流れてきて、坂道と並行して南に向かっていたようです。奥様、貴重なお話をありがとうございました。いきなり大きな収穫を得て、気分爽快で元の道に戻りました。
 



(2)「道場谷」から「池下」への流れ


 三田用水は斜面を何回も曲がって流れていた

交差を超えた三田用水は、中津藩主奥平家の御屋敷を左手に見て坂道を下り、「道成谷(道場谷とも書く)」の手前で右(西)に曲がります。少し進んで左(南)に曲がり、仙台藩主伊達家の御屋敷の前を通り、その半ばで左(東)に曲がって元の坂道に戻ります。「道成谷」の谷間に出た三田用水は、「池下」と呼ばれた田んぼと東海寺少林院抱屋敷の間を通り、道なりにブーツの先のような形で回って西に向かいます。そして、少し進んだところにある「橋」のマーク(道の上の三本線)の場所をまた左(南)に曲がって、後は平らな土地を目黒川まで流れます。「道成谷」という地名は、この辺りに本立寺など多くのお寺の道場があったからで、たしかに坂を下る道は両側から崖が迫る感じでした。その先を「池下」と呼ぶのは近くに池があったからだそうです。この辺りには「溜井」と記した所が2か所ありました。 


奥平家御屋敷の崖下を流れていた

さて風車の形をした交差からゲレンデのような長い坂道を下り始めました。坂の右手(西側)は道より低いのですが、左手(東側)は小高い丘のようになってきました。その上に先ほどの奥平家の御屋敷があるのですが、高い所はたいてい大名か旗本、寺社の土地ですね。明治44年『番地界入地図』を見ると、坂道の左脇を流れていた三田用水が右側(西)に数十メートル平行に移動しています。道の拡張か農地の事情でルートを変えたのでしょう。 



「道成谷」に入る前にカルチャーセンターが

交差から200mほど歩くと右側に高輪台カルチャーセンターが現れました。道なりに弧を描いていてきれいです。この辺りまで来ると、右手の土地が上がってきて坂道と同じ高さになりました。ここは「道成谷」の入り口です。坂道をさらに進めば左も右も高くなって谷間に入ります。 



(東五反田3-5
川が上り坂を流れるはずはないが

三田用水はこのカルチャーセンターの辺りで右(西)直角に曲がり、その後はクランクのように何回も方向を変えます。このように流れが谷底に行かず、高度を保ちながら人工的に何回も曲がっているのは、斜面の田畑に水を行き渡らせるためでしょう。ところで実際に現地に行ってみて困惑しました。西側の土地が坂道よりも高くなっており、脇道が上り坂だったからです。これはどういうことでしょうか。下り坂か、少なくとも平らでなければ流れは曲がれません。 


明治44年『番地界入地図』の経路と大正11年『帝都地形図』の標高

明治44年『番地界入地図』を見ると、流れは「文政十一年品川図」と同じくカルチャーセンターの所で右(西)に曲がっていました。明治20年『東京五千分一実測図』も同じでした。大正11年『帝都地形図』でこの土地の高度を調べると、カルチャーセンターの角から西の崖にかけて54尺(約16m)とほぼ平らな土地で、そこから南に向かってだんだん下がっていました。この地形ならば右(西)に曲がって流れても不思議ではありません。なおこの角の現在の高さは約14mで、当時より2mぐらい下がっています。元は谷に落ち込んでいたような急な坂道で、それが緩やかな坂に均されたのでしょう。 


住宅の境の奥に古い大谷石の擁壁が


カルチャーセンターの角を右(西)に曲がり、上り坂の脇道を少し歩きました。40メートルほど歩いた右側に、カルチャーセンター裏の窪んだ細長い空き地がありました。脇道を隔てた向かい側は住宅の境界で、家と家との隙間が南に向かって長く延びており、遠くの方に古い大谷石の擁壁が見えました。脇道はこの先から急坂になるので、三田用水がさらに上の土地を流れていたとは思えません。明治20年『東京五千分一実測図』には、崖の手前を南北に走る水路が描かれていますので、この辺りで左(南)に向きを変えたのでしょう。 



(東五反田3-11
突然現れた長い階段の道


坂道に再び戻って少し下ると、右側(西)に崖の上まで登るレンガ色の階段が現れました。神社のような長い長い階段で、次のブロックの普通の坂道を上がろうかためらいます。 



階段の途中にあった古い大谷石の擁壁


階段を上ることにしました。その途中で、先ほど見た古い大谷石の擁壁が北から南へと続いているのを見つけました。三田用水はやはりこの辺りの下を南に流れていたのでしょう。


清泉女子大の敷地は仙台藩伊達家の御屋敷


階段を上がり切ると広い道路の曲がり角に出ました。ここは仙台藩主伊達家御屋敷の東南の角で、かつて袖ヶ崎と呼ばれていました。ツツジの名所でもあったそうで、近くには品川浦の漁村がありました。明治以降はこの土地が島津侯爵邸となり(この辺りは島津山と呼ばれた)、今は清泉女子大学のキャンパスです。学生さんはいい場所で学んで幸せですね。「文政十一年品川図」でも御屋敷に沿って南北に走る道が描かれていますが、今の道路の場所ではなく、もっと左(東側)の斜面の中ほどだったと思われます。



相変わらず続く大谷石の擁壁


清泉女子大の前の道路をまっすぐ南に下っていくと、左側の「道成谷」に下る脇道が何本かありました。流れの跡がないかと思って脇道に入ると、一つの脇道にやはり南北に走る大谷石の擁壁がありました。このような高目の場所に水路を設けていたということは、この辺りの斜面一帯が田畑だったのでしょう。



この道の右側に「水車」があった (東五反田3-13)

『東京時層地図』

三田用水は伊達家下屋敷の前をしばらく流れ、再び左(東)に曲がって元の坂道に向かいました。大正5-10年『東京時層地図』によると、この道の右側(旧大崎町458番地付近)に「水車」のマークがあります。この土地はすでに畑ではなく建物ですから、工場の発電に使っていたのでしょうか。

(東五反田3-14
流れは右の脇道から出てきて左の道を進む


元の坂道に戻る所は「道成谷」の底に当たり、これも奇妙な形の交差です。方向に迷っていると買い物袋を持ったおばあちゃまに声をかけられました。「この辺りに三田用水が流れていたので探していたんですが」と言うと、「ここには以前大きな土管がありましてね、雨が降ると水が漏れてそこら中に溢れていました。でも今はそういうことも無くなりましたよ」と。最近はニュースで「不明水」によるトラブルが話題になっていますが、斜面の崖の中に昔の流れが「水のみち」で残っていて、雨が降るとここに集まって溢れ出したのではないでしょうか。それにしても晴れた土曜の午前中は良い出会いがあります。以前に学芸員の方に「僕が道でうろうろしていたら怪しまれちゃうよ」と笑われました。おばあちゃまに感謝です。


「池下」を進むと右に細い緑地が

50メートルぐらい坂道を下ると右手に高輪ミューズビルがありました。この辺りが「池下」と呼ばれていた土地で、坂の傾斜は緩やかです。「文政十一年品川図」では、坂道の左側を流れていた水路がミューズビルの辺りで右側に移っています。ビルの前が40mぐらい細長い緑地だったので、これこそ水路敷の跡ではないかと勇んで調べたのですが、ビルの方も区役所の方も分からないとのご返事でした。


湧き水と思ったのですが

石の遺物

緑地の傍に石の水槽があり金魚が泳いでいましたが、湧き水ではないとのこと。水槽の隣に長さが2mほどの石の遺物が置かれていました。穴が5つ彫られ、石の真ん中に大きなひびが入っています。区役所のお話では古いものではないそうですが、何に使ったのでしょう。



(東五反田3-21ブーツの先のような形をした道


坂をほぼ降り切った三田用水は、ブーツの先の形のように300度ぐらい大きく回わり、今の都道317に入って西に流れます。昔の農道に沿った流れですが、この道は今でもブーツの形をしていました。明治以降の区画整理を何回も乗り越えて生き残ったのでしょう。曲線の道は昔の景色を感じさせますね。



「橋」があった小道が今は都道317

「文政十一年品川図」では西に3040mぐらい進んだところに「橋」があり、流れはそこを左(南)に曲がって目黒川に向かいます。しかし現在はそのルートの上にビルや商店がびっしり並んでいます。そこで都道317100mほど先まで歩き、一つ目の信号を左に渡ってから目黒川(南)に向かうことにしました。ここに「橋」が架かっていたということは、流れと交わる道は畦道ではなく、荷車や馬車が通れるような小道だったのでしょう。それが今日の都道にまで発展したとは。とても暑い日だったので、信号を渡った角のセブンイレブンに飛び込んでクーラーで涼みました。


(3)目黒川近くの「小関畑」までの流れ


流れは「小関畑」の南端で消えていた

最後に目黒川までのルートを辿ります。三田用水は、「橋」の下を通って平らな土地に入った後、緩やかなカーブを描いて入会地や田畑を300mぐらい流れます。やがて左(東)に曲がり、「北品川小関畑」とある土地の南端を100mぐらい進んだ所で消えます。それまで二本線で描かれていた三田用水は、左に曲がってから徐々に一本線になって消えていきます。ここから目黒川までの土地は「河原耕地」とあり、周りの田畑に水を注ぎながら流れを終えたのでしょう。この「小関」という土地は『新編武蔵風土記稿』(注9)によると昔の街道の関所跡で、天正7年(1579)のお寺の記録にあるそうで、かなり古い地名です。なお「文政十一年品川図」の三田用水は農道に沿って流れていますから、この道を明治の精度が高い地図の中で位置づければ正確な場所が分かると考えられます。しかし明治になると地図の道がどんどん変わり、昔の道を探す作業はジグソーパズルのようです。

東五反田2-21
碁盤の目のようなオフィス街

この地域の歴史は江戸、明治から現在まで大きく変わりました。江戸時代は目黒川沿いの平らな土地に田畑が開け、猿町からの流れの他にも、久留島上など幾つかの分水の支流が自然の小川のように長閑なカーブを描いて流れていました。しかし明治になると近代的な農業が始まり、農道も用水路も並行した直線の形に整備されました。大正時代になると地域は日本を代表する工業地帯になり、三田用水も灌漑用から工業用へ、 特に水車の動力へと変わりました。そして昭和の初めに電力が普及すると、三田用水はほとんど使われなくなりました。最近は都市再開発によって最先端のオフィスビルが並び、昔の道や流れの跡は全くなくなりました。この土地にビルや工場を建てた時に工事現場から昔の木樋や水門などが出土していたのかもしれません



水路の跡のように見えるが

それでも何か手掛かりはないものかと思い、セブンイレブンの角の道を南に向かいました。三田用水が流れていた土地が左側(東)のブロックなので、脇道を左に入って少し歩くと、南北に走る幅1メートル強の細長い私道を見つけました。大きなビルと駐車場の間にある真っ直ぐの砂利道で、草が生えて湿った感じがして、下に「水のみち」があるようにも思えます。「文政十一年品川図」の道は緩やかなカーブでしたから、水路であったとしても古くはないでしょう。しかし、いつの時代でも流れは気になります。五感を覚ましながら歩いてみました。


(東五反田2-22
元は水路だった住宅の生垣

別の脇道に入って歩いていると、ご主人と植木の手入れをしていた奥様が声をかけて下さいました。三田用水の水路のことをお話しすると、すぐにご返事がありました。「15年前にここに引っ越してきたんですが、不動産屋さんがそこの生垣の所が元は水路だったと言ってましたよ。ほら少し窪んでいるでしょう」。生垣をよく見ると、隙間のような細長い土地が北の方から長く延びており、確かに窪んでいます。不動産屋さんが水路だと言ったのですから間違いありません。しかも生垣は先ほどの細長い砂利道のちょうど南側で、そこから繋がっていたのかもしれません。とにかくここに水が流れていたと思うだけで元気が出ました。生垣の写真を撮らせていただいて、お礼を申し上げてお別れしました。


流れは小関橋交差点辺りで消える

「文政十一年品川図」に描かれた水路は、今の大崎ブライトコアの下で左(東南)に曲がって小関橋の信号の方に向かい、そして信号の辺りで消えていました。目黒川に架かる小関橋まで約100m。ここまできた三田用水は、「小関畑」や「河原耕地」に水を注いで下北沢からの旅を終えたのでしょう。当時の目黒川は今と違ってかなり蛇行していましたから、三田用水の流末と川が接したこともあったでしょう。


小関橋から目黒川を眺めて 

写真は小関橋の上から目黒川の大きな流れを眺めたものです。猿町から目黒川までは長さが約1.5㎞、高低差が約25mに過ぎませんが、「文政十一年品川図」には実に多くの情報が書き込んであり(くずし字を読むのが少し上手くなりました)、面白い話がたくさんありました。この土地が豊かな歴史を育んできたせいでしょう。三田用水が何回も流れの向きを変えたのを見て、昔の人が水を大切に扱っていたことを改めて感じました。流れが短いので報告ももっと短いつもりでしたが。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

(注1)「三田上水」は寛文4年(1664)に、三田・芝・金杉に給水する上水道(飲み水等)として幕府の命により開削された。ルートは玉川上水の下北沢村(北沢5丁目)から猿町(高輪台)を通って北の西應寺町(芝2丁目)まで。下北沢村から猿町までは堀割(開渠)で、猿町から西應寺町までは(木樋で)地中を流れた。「三田上水」は享保7年(1722)に幕府の命で廃止されたが、2年後の享保9年(1724)に流域14か村の嘆願によって農民に払い下げられ、名前も三田用水と改められた。その目的は田畑の灌漑用水に変わり、官と組合の村々が管理した。ルートは下北沢村から猿町までは「三田上水」と同じだが、その後は北品川宿を通って目黒川に注いだ。(『東京市史稿』水道篇第1、東京市役所、大正8年、218-221頁)。三田用水には寛政9年(1797)に17の分水口があったが、明治11年(1878)には19になった(『品川町史』中・下巻、品川役場、昭和7年参照)。組合は明治23年に公法人の三田用水普通水利組合となって活動を続け、昭和27年(1952)に解散したが、その後水利や敷地の権利を巡って国・都と係争になり、昭和59年(1984)に清算を終えた。また三田用水は昭和50年(1975)に廃止された。
(注2)『多摩から江戸・東京をつなぐ水循環の保全・再生~東京オリンピック・パラリンピックを契機として~』、主催:玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会主催、内容:展示と講演会、開催日時・場所:平成28108日~10日、東京都議会議事堂1階都政ギャラリー・都民ホール。
(注3)三田用水は明治時代半ばまで以下の6分水口から灌漑用水として渋谷、白金等の地域に供給され、渋谷川に流入していた。すなわち神山口(松濤2丁目)、鉢山口(鉢山町)、猿楽塚口(猿楽町)、道城池口(恵比寿南2丁目)と通称「白金分水」と呼ばれた銭噛窪口(三田1丁目)、今里村口(白金台3丁目)(最後の2つは渋谷川下流・古川へ流入)。「三田上水」時代には飲み水として西應寺町まで達した後、流末は渋谷川の傍流である入間川に流入していた。

注4)「文政十一年品川図」『品川町史』上巻の付図、品川役場、昭和7年。

注5)「芝区全図」『東京市15区番地界入地図-明治四十年調査』東京逓信管理局、人文社、昭和61年。「東京府荏原郡品川町 大崎町全図」『東京市近傍郡部町村番地界入地図-明治四十四年調査』 東京逓信管理局、人文社、昭和61年。『東京五千分一実測図』明治20年作図、内務省地理局、大日本測量資料調査部複製。井口悦男編『帝都地形図6』之潮、2005年。『東京都港区近代沿革図集 高輪・白金・港南』東京都港区立三田図書館、36-37頁、昭和47年。「品川芝筋白銀麻布」前掲『東京都港区近代沿革図集』別冊1安永・昭和対象図、昭和50年。明治919年『東京時層地図』日本地図センター、平成22年など。
(注6)猿町まできた「三田上水」はどこから地中に入り三田や芝へ送られたのか、また余水はどのように処理されたのか興味深い。玉川上水は四谷大木戸の水番屋で水量の調整(渋谷川への吐水)や芥留め(ゴミさらい)をして、その後地中の石樋・木樋を通して江戸の町に配られたが、「三田上水」も猿町で同じような作業をしていたと考えられる。場所は猿町の北側にあった有馬屋敷の近くであろう。猿町に入る手前の水路に「用水敷地」という場所があるが、ここは何に使われたのだろうか。余水の処理については、三田用水の時代の『江戸町方書上』(後掲)に記録が残っている。それによると、有馬屋敷の角から地中の木樋を通して町の反対側に送って大崎に流していた。このシステムはすでに「三田上水」の時代にあり、三田用水はこれを受け継いだのかもしれない。
(注7)長谷川正次監修『江戸町方書上』(二)芝編下巻、東京都港区立みなと図書館、平成6年、395-401頁。 
(注8)「三田上水」の時代は、猿町から目黒川に向かう流れは“余水、残水”の扱いであったが、三田用水になってからは流域の村々が管理し、経費も村費で賄った。猿町からの流末は、給水を受けていた北品川宿と上・下大崎村が管理したのであろう。明治11年の水利組合の書類に新たに「品川口」が現れる(前掲『品川町史』下巻889-894頁)。この分水口が作られた時代や場所は分からないが、給水先が北品川宿・下大崎村とあることから、猿町からの流末を指すのかもしれない。

(注9)間宮士信他編『新編武蔵風土記稿・東京都区部編』第3巻、千秋社、昭和57年、425頁。
(終)     
                                             

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