バックナンバー3
 <2023>
 
8月5日 講演録(高輪女性防火の会)三田上水と三田用水の話(上)川のルートと流れの仕組み-New! 
 8月28日 同講演録(下)川の流れと人々の暮らし-New!  
 7月23日 [講演と展示]玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム(1)報告-New!
 7月25日 同[講演と展示] (2)展示パネル-New!
 <2022> (b4)
12月31日 三田用水の駒場分水は今も現役だった。
 <2021> (b3) 
 3月21日 <三田用水の4つの遺構>についてのシンポジウム報告-「我が町の玉川上水関連遺構100選から」-
<2017> (b2)
 
11月21日 三田上水の地下ルートを「貞享上水図」でたどる (前編) -白金猿町から二本榎、伊皿子、そして聖坂へ-
 
 11月21日 同「貞享上水図」でたどる(後編)-三田町、松本町、西應寺町、そして品川の八つ山下へ-
 4月1日 TUC講演録「三田上水と三田用水」-渋谷、目黒、白金の丘を流れた川-
 2月4日 東京都庁「三田上水と三田用水」展示パネル紹介
<2016> (b1)
 10月15日 三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く-猿町から北品川宿を通って目黒川へ-
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briverebisu10@gmail.com
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2021.3.21


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-はじめに

(1)玉川上水・分水網の保全・再生をテーマにした第4回シンポジウムのプログラム

(2)シンポジウム会場の様子

(3)三田用水の報告-採択された4つの遺構を中心に-

   三田用水/貞享上水図に見る三田上水と細川上水/三田用水のルート/流路の勾配図/三田用水の用途-江戸時代・明治から昭和/No.96駒場の築樋遺構No.97鍋島松濤公園の池泉No.98「旧朝倉家住宅」の池泉遺構No.99白金台3丁目築樋遺構参考資料-三田用水の流末はどこを流れたのか

(4)報告を終えて―三田用水と自然の川との結びつき-

 ()「三田用水の見どころ13選」の紹介
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はじめに

2020118日、玉川上水・分水網の保全・再生をテーマにした第4回シンポジウム(主催:玉川上水・分水網を生かした水循環都市東京連絡会、代表:山田正中央大学教授)が飯田橋の東京しごとセンターで開かれ、中央大学、法政大学、首都大学東京の3大学と、玉川上水ネット、外濠再生懇談会、日本橋水辺再生研究会などが参加しました。このシンポジウムでは「我が町の玉川上水系関連遺構100選」の報告がありました。これは私たち市民団体(38団体)が玉川上水の本流と分水網の中から重要な遺構と景色を候補に決め、最終的に選考委員会が100の地点を選ぶもので、その目的は「こうした遺構を水系ごとに発掘して共有化を図ることにより、かつての玉川上水・分水網の広大な広がりを持つ記憶を蘇らせ、玉川上水の通水を実現させること」です。

玉川上水ネット(代表:西村弘、22の市民団体、6個人参加者)は、約2年にわたり関連遺構100選の候補を決める仕事に取り組んできました。「玉川上水ネット」は日本ユネスコ協会連盟のプロジェクト未来遺産登録団体で、「渋谷川・水と緑の会」も玉川上水ネットに参加しており、この企画のために三田用水を調べてきました。その結果13点の候補を決め、最終的に4点が選考委員会の「100選」に選ばれ、このシンポジウムで発表しました。以下で当日のプログラム、選考やシンポジウム会場の様子、「渋谷川・水と緑の会」が発表した内容をご報告します。なお玉川上水ネットによると、喜ばしいことに、このシンポジウムの結果を受けて玉川上水系(玉川上水、外濠、日本橋川等)の清流の復活の動きが加速しているとのことです。


(1)4回シンポジウム「玉川上水系(玉川上水・分水網・外濠・日本橋川)保全再生への道」のプログラム



   (当日会場配布「資料集-1 プログラムと提言案等」より。)

(2)シンポジウム会場の様子

当日は雨模様でしたが、大学関係者、社会人、学生さんたちが200人以上集まり、会場は満員で、熱気でいっぱいでした。首都大学東京大学院河村明先生の基調講演「武蔵野台地の水循環」は、玉川上水の通水によって武蔵野台地の地上や地下の水の流れがどのように変わるかも含めて、東日本大震災による地下水の変動、水道用水の揚水による地盤沈下、地形や地質による地下水への影響などをお話しくださいました。水文学によるシミュレーションや解析は難しかったですが、大変勉強になりました。

 

基調講演の様子。(秋本渋柿氏撮影)

 三田用水の発表。左端が筆者。

その後のプログラム「我が町の玉川上水系関連遺構100選」は、私も含めて6人で順に発表しました。他の方の発表を聞いていて初めて知ることがたくさんあり、とても良い刺激になりました。私が担当したのは三田用水です。はじめに三田用水の歴史と風景(地理)を説明し、続いて「玉川上水関連遺構100選」に選ばれた4点の遺構について報告しました。これまで三田用水を研究していて、今も素晴らしい清流が残る玉川上水やその分水を見るにつけて、その姿がないことに寂しさを感じることもありました。しかし「玉川上水系を現代に保全再生して生かしていく」プロジェクトに参加し、シンポジウムに出席して発表することにより、「三田上水」や三田用水が現代に蘇って私たちに語りかけているような気持ちになり、力づけられました。

話は変わりますが、「玉川上水系関連遺構100選」に選ばれるまでをご説明します。2018年に市民団体・玉川上水ネットの会合で選考のことをお聞きし、三田用水も取り上げていただきたいと思って準備を始めました。そして「13の遺構」を候補に決め、20188月に選考委員会に提出しました。玉川上水とその分水網には今もたくさんの名所スポットがあるのに、三田用水は川の姿が残っていないので、本当に100選の中に選ばれるかどうか不安でした。それが大変嬉しいことに4点が選ばれました。採択されたのは、「No.96 三田用水・駒場の築樋遺構」「No.97 鍋島松濤公園の池泉と水車の復元」「No.98 「旧朝倉家住宅」の池泉遺構」「No.99 三田用水・白金3丁目築樋遺構」です。

なお、選考委員会で決まった「我が町の玉川上水系関連遺構100選」ですが、玉川上水ネットのホームページの「お知らせ」>「第4回シンポジウム:無事に終了しました。」>「一覧」に、掲載してありますので、ぜひご覧ください。玉川上水とその分水網が、武蔵野台地を広くカバーして、江戸や東京の発展に大きく貢献をしてきたことが分かります。また私たちが候補として選んだ「13の遺構」ですが、手前味噌で恐縮ですが、「三田用水の見どころ13選」というタイトルを付けて本サイトの最後に紹介しました。これも併せてご覧ください


(3)三田用水の報告-採択された4つの遺構を中心に-

以下はシンポジウムの発表内容と、その時に用いたパワーポイントの画面です。当日は時間の関係でお伝えできなかったことや会場でお配りした資料なども交えてご説明します



まず初めに玉川上水と三田用水の関連についてご説明します。玉川上水は四谷大木戸まで江戸時代の承応2年(1653)に完成しました。元々は江戸城を始めとする市中の武家や町人の飲水や泉水のための上水路でしたが、流れの途中に30以上の分水口(1790年時点)を設けて、武蔵野台地の田畑の灌漑や生活用水にも役立てました。上の画面に示したように、多摩川(取水堰・羽村)から始まった玉川上水は、43キロの水路を流れて地上部分終点の新宿(江戸時代は四谷大木戸)に着きました。三田用水はその分水の一つで、水を取り込む水門(取水口)は終点の手前5.4kmの北沢村(現在の世田谷区北沢5丁目)にありました。右の写真の川は玉川上水で(流れている水は湧水ですが)、その右端に取水口がありましたが、今は川に降りる階段になっています。場所は京王線の笹塚駅南口から直ぐで、水と緑に溢れ、鴨や白鷺も飛んでくるとても気持ちの良いスポットです。



次の図は17世紀後半に江戸幕府によって作られた「貞享上水図」の部分(江戸城より南側)です。図の左の太い縦線が玉川上水で、そこから二筋の流れが並んで東に出ています。上の流れが明暦3年(1657)に細川越中守が伊皿子の私邸に引いた細川上水、下が寛文4年(1664)に幕府が三田や芝に給水するために引いた「三田上水」で、流れの途中の武家屋敷の泉水や飲水に用いられており、池から溢れ出た余水が近くの農家の灌漑や生活に使われていたようです。井戸掘り技術の発達などにより、この二つの上水は享保7年(1722)に廃止されました。

その後、地元14ケ村の農民から請願が出て、享保9年(1724)に白金猿町(現在の高輪台駅付近)までが灌漑用水として払下げられ、名前も三田用水となりました。水路の管理も幕府に代って村人がするようになりました。取水口は3尺四方(縦横90.9cm)、川幅は約一間(181.8cm)で、取水口の口径は有名な野火止用水に次いで二番目に大きいものでした。長さは北沢村から白金猿町までが8.5km、流末の目黒川までが1.5kmの約10kmでした。三田用水は主に田畑の灌漑やお米を脱穀・製粉する水車に使われましたが、この水車が明治以降は近代産業を育む大切な動力になりました。使用を停止したのは昭和50年(1975)で、「三田上水」の時代から311年、三田用水から251年目のことです。現在はかつての流れの所々に僅かな遺構と物語だけが残っています。


上図はグーグルマップに三田用水のルートを書き入れたものです。現在の北沢5丁目に始まり、目黒川と渋谷川の間にある高台を駒場、大山街道、青葉台、猿楽町、恵比寿、目黒、白金台、高輪台と通って、目黒川へと流れ落ちています。江戸時代は途中に17の分水がありました。113の番号は「100選」にエントリーした遺構、赤丸の付いた4点が採択された遺構です。

③ No.96 三田用水・駒場の築樋遺構

④ No.97 鍋島松濤公園の池泉と水車の復元

⑥ No.98 「旧朝倉家住宅」の池泉遺構

⑫ No.99 三田用水・白金3丁目築樋遺構

マップの右側にある縦の点線は、三田用水が払い下げられる前の「三田上水」の水路です。当時は白金猿町(高輪台駅付近)から西應寺(三田)に向かう北ルートと、八ッ山下(品川)に向かう南ルートがありました。取水口の北沢村から白金猿町までは開渠(地表の流れ)でしたが、その先は町になったので、南北のルート共に木樋で地中を流れていました。




上の図は、三田用水が取水されていた北沢5丁目から終点の高輪台、そして余水が捨てられた目黒川までの勾配図です。水路の最後にある流末の余水も、流れのルートとなった農民(大崎村や品川村)にとっては大切な水でした。流れの勾配を見ると、取水口の北沢5丁目から高輪台までは13.4cm/100mと緩やかですが、高輪台から目黒川までは176.0cm/100mと急勾配です。

採択された4点の遺構のうち、③と⑫の築樋遺構(ちくひいこう)の先が大きく凹んでいますが、当時は自然流下で水を流したので、水路が落ち込まないように窪んだ区間に築樋を設けていました。その地形が現在も残っているのです。この図には、「三田上水」の時代の北ルート(高輪台から三田の西應寺まで)の勾配も書き込んであります。とくに聖坂から芝に至る流れは急勾配で、上水の水は地下の狭い木樋の中を外に噴き出すような勢いで流れていたのでしょう。




左図の歌川国長「鑓崎富士山眺望之図」は無断転載禁。)

次は、江戸時代の三田用水の用途を示した絵図です。「三田上水」の主な用途は武家屋敷の泉水や飲水でしたが、農民に払い下げられた後の三田用水は、田畑の灌漑や農民の生活用水に使われました。左は歌川国長の「鑓崎富士山眺望之図」で、現在の中目黒の辺りの景色です。三田用水からの分水が怒涛の滝のような姿で田んぼに注いでいます。江戸の絵師らしいオーバーな表現ですね。もう一つは歌川広重の「目黒千代が池」で、三田用水を用いた大名屋敷の池と何段も重なった滝を描いており、当時は江戸の絶景の一つと謳われていました。



(右の写真「日本麦酒目黒工場の第2貯水池」は無断転載禁。)

近代の三田用水の用途を示した写真です。明治になると三田用水は火薬や綿糸、薬品を作る水車の動力となり、大規模な工業用水に使われました。目黒火薬製造所は三田用水で鉄製の水車を回し、その跡地に入った海軍技術研究所は艦艇装備の実験用貯水池を作りました。左の写真の緑の長い屋根は、現在の防衛庁艦艇装備研究所にある貯水池の建物で、ガーデンプレイス39階のレストランから撮影しました。右の写真は明治の日本麦酒が所有していた巨大な第二貯水池で、今の恵比寿三越の辺りです。日本麦酒は農民から三田用水の水利権を買い取ってビールの製造や洗浄に大量の水を使いました。三田用水は高台を流れていたため、その斜面には明治末に49の水車が架けられ、脱穀や精米の他にも、火薬、綿布、薬品、工業部品などの近代産業の動力になりました。三田用水の歴史や地理はこれぐらいにして、次に「100選」に採択された4つの遺構の説明に入ります。



まず「No.96駒場の築樋(ちくひ)遺構」です(渋谷区富ヶ谷2-21)。左上の写真は遺構の全景で、現在の東大駒場キャンパスの北側のバス道路の脇にあります。長さは約40m、高さは6690cmのコンクリートの構造物で、窪地を通る水路を嵩上げし、水が自然流下するように工夫しています。その中頃に取っ手の付いた蓋と四角い穴がありますが、そこは渋谷の鍋島松濤公園に向かう神山口分水の分水口です。この辺りは、江戸時代は駒場原と呼ばれる将軍のお鷹場で、「目黒筋御場絵図」にはその北東部を流れていた三田用水が描かれています。右の図を見ると、お鷹場の中に自然の川が流れていたことも分かります。駒場原は明治20年頃に駒場農学校(後の東大農学部)となり、この川の谷筋に「ケルネル田んぼ」が作られました。三田用水と自然の湧水を使った実習田で、水田の土壌や肥料など農業近代化の実験を行いました。ケルネルとはドイツから招かれた外人教師の名前です。湧水を使った実習田は今も残っているそうです。少し上流の東大先端科学技術研究センターの正門前には、昭和に入って作られた三田用水の橋の欄干が残っています。





次は「No97鍋島松濤公園の池泉」です(渋谷区松濤2-10-7)。この池は渋谷東急本店の西の公園の中にあります。かつて鍋島松濤公園のある土地には、駒場の築樋遺構(No96)の所から神山口分水が来ていました。この土地は、江戸時代は紀州徳川家や旗本長谷川家の屋敷で、分水の流れは屋敷の湧水池に入り、再び池から出て、屋敷の東を流れる宇田川(渋谷川上流)に注いでいました。明治になると旧佐賀藩主の鍋島家がこの土地を買い、茶園の松濤園を起こしました。現在の松濤の町名はこの「松濤茶」からきています。鍋島家は西欧の近代的な農場経営を導入し、また内務省の種畜牧場に土地を貸しました。明治42年の地図を見ると、水車が神山口分水の近くと屋敷を流れ出た所にあり、精米や脱穀をしていました。大正11年の関東大震災の後には農場が宅地に分譲され、昭和7年に池の土地が東京市に児童遊園として寄贈されて現在の鍋島松濤公園となりました。その後、松濤池に水車のモデルを復元し、この土地にかつては田畑が広がり農業が栄えていたことを伝えています。





次は「No.98旧朝倉家住宅の池泉遺構」です(渋谷区猿楽町29-20)。駒場を越えた三田用水は大山街道から青葉台を南へ下り、旧山手通りに沿って淀橋台の西側の縁を猿楽町へと流れていきました。台地の西側の麓には目黑川が流れており(東側は渋谷川です)、この辺りの土地は水利と交通の便に恵まれていました。水車業で財を成した地元の朝倉家は、虎次郎の代に政治家になり、大正8年(1919)に目黑川を望む眺望の良い土地に大きな屋敷を構え、そこに三田用水を引いて池泉回遊式庭園を作りました。旧朝倉家住宅は、和風建築の主屋と土蔵が大正時代の趣を色濃く残しているため、平成16年(2004)に国の重要文化財に指定されました。なお朝倉邸の約500m手前の青葉台には、明治の元勲・西郷従道が兄の隆盛のために買い求めた旧岡藩中川家の屋敷があり、庭園には高度差20mほどの崖に三田用水を用いた滝が作られていました。現在は目黒区により、西郷公園・菅刈公園として公開されており、都民の憩いの場になっています。





最後に「No.99白金台3丁目築樋遺構」です(港区白金台3-12-30)。猿楽町から南に下った三田用水は、目黑駅前で東にほぼ直角に曲がり、尾根伝いに白金台へと流れました。遺構のある土地は、先に「流路の勾配図」でご紹介したように白金台3丁目の窪地の手前にあります。自然流下で水を流すため、この窪地に堤を築いてその上に水路を設けたのです。今も残る築樋遺構は三田用水の水路の断面を示したもので、切り口は保存のためにコンクリートで固められ、断面のU字溝の中は左右に分かれています。分かれている理由ですが、本流の水路の中が二分されていたのか、どちらか片方が側道の下の構造物なのか、あるいはすぐ近くに南と北に向かう分水口(久留島上口)があったのですが、その分水と本流の樋が並んだものなのか、よく分かりません。港区によると内部はまだ調査されていないそうで、報告が待たれます。この土地は環状4号線の延伸区間であるため、遺構の保全・調査と共に、周辺の新たな発掘も期待されます。シンポジウムでの三田用水の報告は以上です。



<参考資料-三田用水の流末はどこを流れたのか->


三田用水の本流や分水のルートはマスコミで時々取り上げられますが、終点の白金猿町(高輪台駅付近)から目黒川までの余水(吐水)のルートが話題になることはないため、当日の配布資料の中で「三田用水の流末のルート」を紹介しました。この余水は捨てられたのではなく、農民が大切に管理していたからです。出所は江戸末期に作られた「文政十一年品川図」ですが、この図に描かれた余水のルートを実際に歩き、地形が当時と変わっている所は推測も交えて現代地図・三田用水のルートに書き込みました。

   「文政十一年品川図」は町か村の名主が江戸町奉行に出した調書の一部のようで、そこには文政11年(1828)頃の三田用水の流末ルートが詳しく描かれています。「三田上水」の時代は白金猿町が三田・芝へ流れる中継点で、ここで川のゴミが掃除され、余水が捨てられていました。三田用水の時代になると、目黒川までの余水の水路はきちんと整えられたようです。白金猿町の地中を潜り抜けて町外れから地表に出た三田用水は、南の道場谷を避けるように迂回し、仙台藩伊達家の屋敷(清泉女子大)の東の斜面を巡って平地に入り、河原の小関畑で消えていました。水嵩が多い時は川に直接流れ込んでいたのでしょう。明治時代には、平地に入る手前の斜面に水車がありました。余水のルートを見ると、村人たちが水を一滴も余さず使おうとしていた様子がうかがえます。
<シンポジウム報告の参考文献・資料> 三田用水普通水利組合『江戸の上水と三田用水』岩波ブックセンター信山社 昭和59年、渡部一二『武蔵野の水路-玉川上水とその分水路の造形を明かす』東海大学出版会  2004年、小坂克信「近代化を支えた多摩川の水(2012.4.7)」東急環境財団 2012年、渋谷区立白根記念郷土文化館編『渋谷の水車業史』渋谷区教育委員会 昭和61年、比留間博「玉川上水」玉心地域文化財団 1992年、『東京市史稿』上水篇第1・第2 東京市役所 大正812年、『品川町史』上・中・下巻 品川町役場 昭和7年、『新修渋谷区史』上・中・下巻 東京都渋谷区 昭和41年、『目黒区史』『同資料編』東京都目黒区 昭和36年、「貞享上水図」国立国会図書館所蔵、『一万分の一地形図 東京近傍 明治42年測図』陸地測量部、前掲『一万分の一地形図、大正10年第2回修正測図同14年部分修正』他。

                                           

(4)報告を終えて―三田用水と自然の川との結びつき-

最後に、高台の尾根を流れていた三田用水と、高台から湧き出して斜面や下の平地を流れていた自然の川との歴史的な結びつきについて考えます。平成13年(2001)に九州臼杵市で「寛永江戸全図」が発見されました。この地図は、玉川上水が完成する承応2年(1653)より約10年前の寛永19-20年頃(1642-1643)に作られ、それまで江戸最古の全図とされていた「正保年間江戸図」よりさらに12年古いものでした。「寛永江戸全図」は、それが最古の江戸全図であることの他にも大きな特長がありました。武家屋敷や田畑、道路、橋などと共に、山や川、谷、林などの地形が詳しく描かれていたのです。江戸初期の地形の様子が分かる地図は初めてでした。
     大分県指定有形文化財「寛永江戸全図」(寛永1920年、1642-1643)部分。臼杵市教育委員会所蔵(無断転載禁)。図の下(西側から南側)を流れるのが渋谷川で(下流は右方向)、川のさらに下の地図の縁に7本の谷戸が並んで描かれている。谷戸に仮の名を付けると、南平台の川Ⅰ)/三田用水・鉢山口の流れ(Ⅱ)/猿楽口の流れ(Ⅲ)道城口(火薬庫口)の流れ(Ⅳ)教育植物園の川・白金上水・銭噛窪口の流れ(Ⅴ)医科学研究所の川(Ⅵ)玉名川・久留島上口の流れ(Ⅶ)
     

左の図は、「国土地理院基盤地図」に渋谷川の本流と支流、三田用水と分水を筆者が描き込んだもの。2枚の図を比べると、「寛永江戸全図」の7本の谷戸のうち5本が三田用水の分水ルート対応している
(©Kajiyama)

「寛永江戸全図」では方位が少しゆがんでいますが、地図のおよそ南の端には西から東に向かって渋谷川が流れています。地図を詳しく見ると、川のさらに南にある高台(地図には描かれていないが)から渋谷川に下る谷戸(谷間)が描かれていました。谷戸は全部で7本あり、麓の平地は田んぼになっており、いずれも谷間を下った渋谷川の支流が作り出した地形です。自然の川ですから、常に水が流れている川と乾季には渇いてしまう川があったでしょう。分水が流れてからは水量が安定したと思われます。明治以前に消えたと考えられる一番左側の南平台の川(Ⅰ)*を除いて、6本の川は昭和の半ばまでありました。そして、その6本のうちの5本は三田用水の分水ルートと地理的に対応していました。残りの1本は医科学研究所の川(Ⅵ)で、これは埋め立てられるまで自然の川でした(*川の水源を南平台に特定したため、名前をこれまでの「桜丘の川」から「南平台の川」に変更しました。詳しくは拙HP「あるく渋谷川」の「古地図に見つけた渋谷・南平台の谷と川」を参照)。

「寛永江戸全図」は玉川上水が完成する前に作られた地図です。そこに後の時代に作られた三田用水の5つの分水ルートの谷戸が描かれていたということは、三田用水の分水が渋谷川の支流に流し込まれていたことを意味しています。分水の水は自然の川を伝って麓の平地まで流れ、そこで田んぼに沿って作られた人工の水路を通って渋谷川に注いでいたのでしょう。三田用水の分水ルートが自然の川や池を巧みに使っていたことはある程度予想できましたが、「寛永江戸全図」の発見によって、こうした事実が歴史的に裏付けられたと言えそうです。三田用水を研究していた私たちにとっても大きな発見でした。


()「三田用水の見どころ13選」の紹介

以下の表は、私たちが「玉川上水系関連遺構100選」に応募した13の遺構」です。三田用水の水路は今では宅地や道路の下に消えたり暗渠の下水道になったため、その姿を見ることができません。しかし、当時の姿を伝えるスポットがあちこちに残っています。その中から「三田用水の見どころ」と思える遺構13点を決めて応募し、4点が最終的に選ばれました。どのような遺構で応募したのか、ぜひご覧ください。なお「6.海軍技術研究所の実験用貯水池」ですが、これは目黒の防衛省艦艇装備研究所の敷地にあるもので、残念ながら入ることができません。しかし、その様子はNHKの『ブラタモリ』(20161217)で放映されており、その内容を本サイトの『三田上水と三田用水-渋谷、目黒、白金の丘を流れた川-』で紹介しましたのでご覧ください。この敷地には三田用水の水路跡(陸橋の一部)も残っており、NHKCG画像を使って再生しています。
 

 「三田用水の見どころ13選」                 

番号

遺構名称

所在地

遺構の概要(100字)

1

玉川上水の三田用水取水口跡

世田谷区北沢5丁目34

三田用水の取水口は旧玉川上水・笹塚橋下にあり、水口は3尺四方で、野火止用水に次ぐ大きな分水であった。笹塚駅の西側・旧稲荷橋から取水口の場所まで玉川上水が開渠になっているが、取水口は埋められている。

2

東大先端科学技術研究センター・正門前の「橋の欄干」

目黒区駒場4丁目7

東大先端科学技術研究センターの正門前には三田用水の橋の欄干が残っている。同研究センターが東大農学部であった時代、敷地の南側には三田用水から引水して作ったわが国初の実習田であるケルネル田んぼがあった。

3

東大裏に残る「嵩上げされた流路の構造物」

渋谷区富ヶ谷2丁目21

東大駒場裏の歩道の脇に箱状のコンクリート構造物として残る三田用水の暗渠で、水位を一定の高さに保つため嵩上げした水路となっている。構造物のふたには、支流・神山口分水の分岐点を示す金具が付いている。

4

西郷橋と菅刈公園の池

渋谷区鉢山町15/目黒区青葉台2丁目11−25

三田用水は、西郷山公園脇で旧山手通りに架かる西郷橋(水路兼用橋・鉢山町)の上を流れていた。三田用水の水は橋の手前で旧西郷侯爵邸に分けられ庭園の池に滝として落とされていた。池は現在菅刈公園の池として復活している。

5

重要文化財「旧朝倉家住宅」の庭園の水路跡

渋谷区猿楽町29−20

水車業・朝倉虎治郎(東京府議会議長・渋谷区議会議長)によって大正8年に建てられた「旧朝倉家住宅」の回遊式庭園。三田用水から引水して作られた水路護岸や石組みが今も残っている。 

6

海軍技術研究所の実験用貯水池跡

目黒区中目黒2丁目2−1

目黒には、幕末から火薬製造所があり、その後も海軍技術研究所が設置されていた。研究所では三田用水を利用して巨大な池を作り、船舶の実験を行った。防衛省艦艇装備研究所には今も艦船実験用の大水槽(長さ250m)がある。

7

三田用水が流れていた茶屋坂隧道の看板

目黒区三田2丁目12

防衛省脇の茶屋坂には、三田用水が流れていたことを記念する茶屋坂隧道の看板が設置されている。平成15年まで「茶屋坂隧道」の橋があり、その上に三田用水の水路が残されていた。

8

恵比寿ガーデンプレイス・ヱビスビール記念館、模型に見る「ビール工場の貯水池」

渋谷区恵比寿4丁目20番

明治21年(1888)、恵比寿の地でビール生産を始めた日本麦酒の工場内には三田用水の分水を利用した2つの貯水池があった。第二貯水池は1辺が100m、深さが最大9mあり、それらの模型がヱビスビール記念館内に展示されている。

9

日の丸自動車前の「三田用水跡」の碑

目黒区三田用水1丁目6-27

茶屋坂から来た三田用水は現「日の丸自動車」の敷地の下を流れていた。同社前の「三田用水跡」の記念碑には三田用水の歴史が刻まれ、碑の下には三田用水の木樋を支えていた礎石が置かれている。

10

今里橋の欄干と家屋の下の水路跡

港区白金台3丁目12-6

白金台・今里橋の欄干は昭和に入って作られた鉄筋コンクリート造りのもの。三田用水の暗渠の土地は民間に払い下げられたので、水路敷の上に家屋が建ち、一部は駐車場として使用されている。

11

三田用水路跡・導堤遺構

港区白金台3丁目12-30

白金台と高輪台の間の低地に堤を築き、用水路の高さを保って用水を渡していた。三田用水が廃止された後は水路敷は取り壊されたが、導堤の断面は保存・展示されている。

12

八芳園の池

白金台1丁目1−1

八芳園(昭和25年開業)の池の前身は、大正4年頃に玉名川をせき止めて作られた。この当時、玉名川の水源である玉名池には灌漑用の三田用水が流し込まれ、周辺の田んぼを潤していた。

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鍋島松濤公園の池と復元水車

渋谷区松濤2-10-7

東大裏バス停地点で三田用水から分水された「神山口分水」は、鍋島松濤公園の池の脇を通って下流の田んぼを潤し、また精米・製粉のための水車を回していた。鍋島松濤公園には水車小屋が復元されている。

                                       

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