バックナンバー4
 <2023>
 
8月5日 講演録(高輪女性防火の会)三田上水と三田用水の話(上)川のルートと流れの仕組み-New! 
 8月28日 同講演録(下)川の流れと人々の暮らし-New!  
 7月23日 [講演と展示]玉川上水と渋谷川・三田用水のハイブリッドな水システム(1)報告-New!
 7月25日 同[講演と展示] (2)展示パネル-New!
 <2022> (b4)
12月31日 三田用水の駒場分水は今も現役だった。
 <2021> (b3) 
 3月21日 <三田用水の4つの遺構>についてのシンポジウム報告-「我が町の玉川上水関連遺構100選から」-
<2017> (b2)
 
11月21日 三田上水の地下ルートを「貞享上水図」でたどる (前編) -白金猿町から二本榎、伊皿子、そして聖坂へ-
 
 11月21日 同「貞享上水図」でたどる(後編)-三田町、松本町、西應寺町、そして品川の八つ山下へ-
 4月1日 TUC講演録「三田上水と三田用水」-渋谷、目黒、白金の丘を流れた川-
 2月4日 東京都庁「三田上水と三田用水」展示パネル紹介
<2016> (b1)
 10月15日 三田用水の流末を「文政十一年品川図」(1828)で歩く-猿町から北品川宿を通って目黒川へ-
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briverebisu10@gmail.com
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 2022.12.31                                                  


 <空川「まち歩き」での質問>

2022416日快晴。「北沢川文化遺産保存の会」主催のまち歩きで、私が案内役となって目黒川支流の空川のルートを駒場野公園から氷川神社まで歩きました。その折、三田用水の駒場分水が流れていた松見坂近くで「駒場分水はなぜこの場所に作られたのですか」という質問を参加者の方からいただきました。これは難しい質問です。その場ではすぐにお答えできませんでしたが、後に古地図や資料を手掛かりに色々と考えて、北沢川文化遺産保存の会の Facebook と私のHP「駒場空川の歴史と文化をあるく」「下編」に仮説のようなものを載せました。面白い問題なので、少し掘り下げてご紹介します。



 

上図は「文明開化」『東京時層地図』の一部で、空川と旧淡島通りが交わる土地。数字は等高線(m)。図の左上(北)から空川の二筋の水路が南に流れ下っている。その右(東)の高台を三田用水が南に流れてる。駒場分水は三田用水から空川に向けて、30mと描かれた等高線の間を流れている。黒い文字は筆者。

   左図に対応する現代図で、「国土地理院地図」松見坂交差点付近。いずれの水路も今は暗渠か埋められている。図の左上の紺色は空川。右側の水色の線は三田用水と駒場分水。赤色は歩いたルート。ADは当日に歩いた地点。

左上の地図は、明治13年頃に作られた「第一軍管地方二万分一迅速測図」(『東京時層地図』収録)です。最新のフランス式測量技術を用いた初めての東京近郊図で、江戸時代の地図にはなかった等高線が入っています。この地図で松見坂交差点(今の目黒区大橋2-1)の周り地形を見ると、東の高台を三田用水が南北(縦の実線と破線)に流れ、その分水口(「神泉駅入口」信号付近)から駒場分水が西(左)に向かって流れ出し、旧淡島道の南側の土地を通り、道を越えてから北に向きを変えて空川の東側水路の方に落ちています。

ここで現代の松見坂交差点のストリートビューを見ると、中央は山手通りと(新)淡島通りが交わる大きな角です。当時旧淡島通りはこの角より約60m北側を東西に通っており、駒場分水はその南側を流れていました。この写真では、山手通りの東側のビルから流れ出てきて、通りを越えて西側のビルの隙間に入り(右上の現代図B)、斜面を北に下って空川に注いでいました(写真の水色の線)。川跡の一部は今も交差点の北西の脇に残っています(後述)。

 
 松見坂交差点付近。グーグルマップより。図の奥の水色は駒場分水のルート。分水は右(東)の三田用水から左(西)の空川へと流れ落ちた。

 

ところで上左の地図で駒場分水が流れる土地の地形を見ると、南と北の高台から挟み込むように2本の等高線が描かれ、その線は西を流れる空川に向かって扇形で開いています。そして駒場分水が、等高線に挟まれた谷間を通り抜けるようにして空川へ下っています。分水口の高度は30m、空川が流れる土地の高度は約20m、その高度差は約10mです。駒場分水の長さは分水口から空川との合流点まで約150mで、その間に高度が10m下っていますから、駒場分水はかなり急流です。三田用水が流れる高台を南や北にたどってみても、このような谷間はありません。つまり駒場分水の場所は、空川の低地に水を流し込む上で絶好のロケーションなのです。

 

駒場分水は三田用水の西側を流れる空川に向かっていますが、ここで視点を変えて、東側の渋谷川に向かう分水を見てみましょう。渋谷川には三田用水から6本の分水が流れ込んでいますが、その成り立ちを調べると、いずれも渋谷川の自然の流れと分水の人工の水路の「ハイブリッド」な組み合わせからできています。つまり農民は、分水の水路を全て開削した訳ではなく、元々の渋谷川の支流を巧みに使っていたのです。灌漑の水路を手早く整備するための知恵でしょう。

 

駒場分水についても同じことが言えます。ここに谷間の地形があるということは、ここに空川の短い支流が流れていたことを意味しています。地形の歴史から言えば、これは空川が長い年月をかけて作った谷間なのです。その小川で灌漑していた農民が、享保9年(1724)に三田用水が農民に払い下げられた際に、この地に分水口を設け、その水を小川に引き入れました。これが、なぜこの場所に駒場分水が作られたのかというご質問に対するお答えです。

 

駒場の地には軍事施設が集中していたため、明治以降は地域開発がたびたび行われ、戦後も東京オリンピックなどで土木工事が進められ、駒場分水は「山手通り」などの下に埋められてしまいました。しかし、ごく一部ですが松見坂交差点の北側に残りました。今回の「まち歩き」では駒場分水の川跡をしっかり見学しましたので、現場の様子をご紹介します。また、川跡について“大発見”がありましたので(ちょっと大げさかもしれませんが)、それも併せてご報告します。

 

<住宅街で見つけた川の宝物>

 
   

地点A:崖下の住宅街にある駒場分水の暗渠の水路。分水はこの辺りで空川の東側水路に合流していた。

   地点B:崖の上にある山手通り脇の歩道から見下ろした駒場分水。かなりの傾斜で、右に弧を描きながら地点Aを通って空川に下っている。

左の写真は、先ほど紹介した「国土地理院地図」松見坂交差点付近にある住宅街の一角(地点A)で、場所は淡島通りのすぐ北側、山手通り西側の崖下です。鉄のフェンスの先に見える細長い暗渠のような道が駒場分水の川跡ですが、残念ながら中には入れません。三田用水の高台から流れてきた駒場分水は、地点Bで流れの向きを北に変え、この地点Aを通り抜けて空川の東側水路に流れ込んでいました。最初にこの川跡を見た時は、小さな分水の跡がなぜこんなに立派に整備されているのだろうと思いましたが、その理由は後にご説明します。次に、右の写真は崖の上にある山手通り脇の歩道(地点B)から、地点Aの方を見下ろしたものです。ここから地点Aは見えませんが、右に弧を描いて北に流れ落ちている様子が分かります。駒場分水のほとんどは「山手通り」などの建設で消えてしまいましたが、どのような事情があったものか、この区間だけは残っていました。

 

ところで、私はこの川跡が下水道に使われていると思っていたのですが、下水道局目黒出張所に問い合わせたところ、担当の方が現地に来られて、ここには下水道が通っていないことが分かりました。また川跡の出口に目黒区の標識があることから、目黒区の所有ではないかとのお話でした。そこで目黒区の土木課境界係の方に川跡の現在の様子をお尋ねしたところ、色々と調べて下さって、「法務局の公図に描き込まれているので、今も水路だ」というご返事をいただきました。つまり地点A-Bの川跡は、過去の遺物を保存したものではなく、目黒区が今も管轄している「現役の川」だったのです。下水道局出張所と目黒区土木課の方々にはありがとうございました。これを裏付ける図面がありますので、以下にご紹介します。

   

目黒区「目黒区路線網地図」部分図。図中の 「波線」は水路。赤丸を付けた波線は駒場分水の水路で、山手通り・松見坂信号の北側に伸びる。右の水色の線に対応。

   「東京都下水道台帳」駒場一丁目の部分で、 左図の赤丸に当たるエリア。ビルを黒線で、「波線」の川筋を水色で描き込んでみた。「台帳」に左の「波線」に沿って流れる下水道はない。

左図は目黒区のホームページにある「目黒区路線網地図」です。山手通りの松見坂交差点の北側をよく見ると、北に伸びる短い「波線」がありますが、このマークは「凡例」によると「水路」ということで、場所は駒場分水の川跡(地点A-B)と一致します。川跡の長さは5060mでしょうか。水路の土地は平成15年頃に国から目黒区に払い下げられたそうです。

 

次に、右図は「東京都下水道台帳」駒場一丁目の部分です。赤い線が下水道で、建物や道路の下に下水が網の目のように張り巡らされているのが分かります。試みに、この図に現地の建物を描き入れ、建物の間に駒場分水の川跡(波線)を水色の線で描き込んでみました。住所は右側の建物が目黒区駒場1-4-4、左側が各1-4-51-4-141-4-15です。これらの建物の間には駒場分水の水路をイメージさせるような下水道のラインはありません。よく見ると、2本の下水道が水路を横切っていました。この水路と下水道は別物なのです。

 

昔の駒場分水の一部が今もあって実際に使われているとは驚きです。ここで想像をたくましくするならば、渋谷の高台の地中に地下水の流れがあって、ここまで流れ下ってきて、流末は下水道管に注いでいるのでしょう。大正時代には、この川筋の左脇に池があったことを思い出しました。いずれにしても、駒場分水の川跡が立派に整備されている理由もこれで分かりました。この小さな川跡が残っていなければ、駒場の地形も駒場分水の歴史も深く考えることもなく通り過ぎていたことでしょう。町中で思わぬお宝を発見した気持です。(終)


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