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管理人

ニックネーム ギョウザ星人
居住地域 神奈川県大和市

好きなもの

オーディオ 特にスピーカーとアンプ
カメラ撮影 風景や静物など
読書 ジャンル問わず

備忘録

2021/03/04
一昨年に続き、月刊STEREO誌主催の自作スピーカーコンテスト(第11回)に昨年の12月に応募しました。
第10回は節目のコンテストだったので、リハビリを兼ねて出来る限りのパワーを注ぎ込んだのですが、結果は第二次審査通過までで入賞は逃してしまいました。
なので、今回はリベンジでした。

昨年12月中旬頭に〆切ぎりぎりで書類を送ったものの、私のいつもの行動パターン(ギリギリ狙い)で製作が遅れてしまい、まだ形が出来ただけで未塗装でした。
一次審査(書類選考)通過を願いつつ、そこからは大突貫で正月休みも元旦だけで毎日作業を続け、それでも宅急便での送付が間に合わない状況で、自家用車で直接、東京・神楽坂の音友社に持ち込む始末・・・。
これまでの人生と同じで、ドタバタして何とか切り抜けるという綱渡りを今回も繰り返してしまいました。

思い起こせば、一昨年の二次審査出品も塗装が間に合わず、鏡面塗装の予定がただの艶消し塗装にバケてしまいました。
音質は、それなりに追い込めたので、神楽坂の音友ホールで来場した皆さんに試聴いただいたことが救いで、且つ、励みになりました。

戻ってきた作品に、昨年夏に鏡面塗装を施してリベンジをしたものの、今回の作品に採用しようと考えて時間を取っていたにもかかわらず、結局は、下地塗装での出品でした。
何もかも完璧にできるとは思っていませんが、毎回、中途半端で送り込む時の切なさというか自分に対する情けなさが半端ありません。
今回は、塗装だけでなく、音質検討も半日しか出来ない状況での持ち込みでしたので、正直言って、二次審査通過すれば「オンノジ」くらいに開き直っていました。
二次審査通過したのが2月中旬。
2/23(祝)にオンラインで実施された発表会&表彰は、上記のような理由から皆さんの作品を楽しむことを目的に見させていただきましたが、なんと!私の作品が1位入賞。
これには、実感が湧かず、口をアングリ開けて放心してしまいました。

自分では満足していない作品の受賞というのは複雑な思いがありましたが、ここ数年、眩暈と難聴から仕事を辞めねばならなかったり、いざ就活となったら新型コロナが蔓延したりで求人が減り、正直、生きていく糧を趣味にしか求められなかったところもあるので、「自分へのご褒美」なのだと納得することにしました。
今月19日には、月刊STEREO誌の4月号に掲載されるのですが、「恥ずかしい」という感情が先に立ってしまうのが残念です。
来年こそ、胸を張れるような作品を送り込みたいと一念発起するものの、「人間ってそんなに変われるもんじゃないよ」という天の声が聞こえてきそうです。

2020/01/06
昨年5月のGW明けに突然の難聴と耳鳴りに襲われ、ストレス解消の手段だった音楽を聴くこともままならなくなりました。正直言って、一番大切な聴覚に異常がある状態では試聴もできず、当然、評価もできない状態でしたので、このまま治らなかったら・・・と絶望的な気分を味わいました。
そのうち症状は眩暈を伴うようになり、通勤できない日もでてきて、7月には望まれて入社した会社に迷惑をかけないために1年ちょっとの在籍期間で退職することにしました。
8月を迎え、3か月を経過しても好転しないため、北里東病院の神経耳科で徹底的に検査を受け、脳には障害がなく内耳の問題(内耳のムクミ)だということが分かりました。
最終的な病名は「メニエール症候群」で、近所の医者の見立てと同じでしたが、現時点で判明している最新の情報を得られたのは非常に参考になりました。今では好転し、眩暈も耳鳴りもなくなって通常生活を送れるようになり、耳の感度も元に戻りました。
近所の医者で好転しなかったのは、メニエール症候群の発症原因とみられる「内リンパ水腫」のメカニズムが10年位前にある程度明らかになっているのにそれ以前のマニュアル通りに処方箋を作っていたことに拠ります。
ここで問題になるのは、好転しなかったのは医者の「勉強不足」が原因だということです。
これにはショックを受けました。近所の医者には実は3件かかっていて、最初の医者は初診ですぐに「症状からメニエールですね。抗めまい薬と吐き気止めを注射しますが、後は浸透圧利尿剤(イソバイド)を処方します」と断定し、その後、治療1か月を経過しても改善しない状況で「浸透圧利尿剤を増やしましょう」となり、一度は改善したかに見えましたがその後さらに悪化・・・。
セカンドオピニオンを受けた別の病院の医師も同様の診断で、処方された浸透圧利尿剤を続けるようにとの指示。さらに悪化してきたので別の医院でサードオピニオンを受けると、「浸透圧利尿剤を飲んでも改善しないのであれば、ここでは無理なので紹介状を書きます」となり北里東病院を受診し、徹底検査に至ります。
そこで判明したのは上記のメカニズムで、発症要因は過労やストレス(本人が気付かなくてもストレスを受けている)らしく、内リンパ水腫が発生するのは脳が内耳のリンパ液が不足している(水分が過剰に排出されている)と誤判断して、抗利尿ホルモン(下垂体後葉から分泌)を腎臓に送るために利尿を抑制することがトリガーになります。
この状態で浸透圧利尿剤を使うと一時的には内リンパ圧が下がりますが、危険を感じた脳はさらにホルモンを出してイタチゴッコが始まるのです。
浸透圧利尿剤を飲み続けることは常に脱水症状になるため、イタチゴッコを助長することになるので、北里東病院では3日間以上の連続服用は厳禁しています。
このことを殆どの医者は知らない(少なくとも受診した開業医の3件すべてが知らない)ということを今回知って、恐怖を覚えました。生死に直結することでは無いにせよ、医者の慢心(勉強不足)から患者に不利益を与えているということに気付いていないということです。
北里東病院には5年越しの患者も来ていて、やはり浸透圧利尿剤を飲み続けていたとのことでした。治るわけがありません。
治療法はいたって簡単。適度な有酸素運動を実施し一日に水分を2リッター以上摂るというものです。治療薬はいっさい要りません。それと要因である過労とストレスを減らすというものです。
脳の誤判断を正常化するためなので、考えてみれば非常に合理的な方法です。
どうやら大学病院の研究結果が市井の医者にキチンと伝わるシステムが無いのかもしれません。医者である以上、学会には登録しているはずなので、自ら取りに行けば取れる情報でも、取りに行く医者がどれだけいるのでしょうか?・・・医療現場の実態は、このようなものなのかもしれません。
人々が大学病院に行きたがるのにも理由があることを実感してしまいました。

2018/03/07
桜のシーズンが近付き、京都・勧修寺の桜を採り上げたJRのテレビコマーシャルが流れ始めました。
また京都に行きたくなって、昨年の京都旅行を思い出した。忘れないうちに、メモなどを元に記録しておかないと!

定年退職するにあたり、去年の11月に念願だった京都旅行を計画。
仕事をしていても一泊旅行なら何とかなるはずなのに、どうしても実施できなかった旅行だ。
目的は紅葉を撮影するためで、時間はたっぷり使えるのに21日から翌日の22日までの一泊二日の貧乏旅行。
京都を仕事以外で歩いたのは、高校の修学旅行以来なので約43年ぶり。
羽田を7時過ぎに飛び立ち、伊丹空港を8時過ぎにチェックアウト。リムジンバスで京都に移動し、10時半には嵯峨嵐山から撮影スタート。 嵐山は、人人人・・・。それもほとんどが海外からの旅行客。周囲からは中国語と韓国語だけが響いてくる状況。ここは日本か??落ち着いて楽しむのは無理と理解して、慌しく撮影に専心することにした。
出発の一週間前に思い立って計画した旅行だから、事前準備などほとんどせず、スマホが無いのでGPSとGOOGLE地図の利用もできず、ネットの地図を印刷したものを片手に足で移動することに。路線バス情報を調べておけばよかったと後悔。
渡月橋はサラっと。すぐに常寂光寺に移動。鎌倉とは比較にならない紅葉の量・・・正直言って圧倒された。
そこから仁和寺〜龍安寺〜東持院と周って、北野天満宮に着く頃にはつるべ落としで松明が点される。
足は痛いし、疲れはピーク。自分の体力が落ちたことを痛感する。
二条城では日がとっぷりと暮れ、JRで京都に移動。あとは東寺のライトアップを残すのみ。
マヌケにも本願寺側に出てしまい、気付かずに道に迷って40分近くロス。京都タワーを撮影できたのでチャラと無理やり納得させて東寺を目指す。
18時半には東寺に到着するが、何と!300mの長蛇の列。JRのTVコマーシャルの影響だろう。「これは1時間以上待たされる」と覚悟したが、20分ほどで拝観できた。寺が広いからだろう。
予想に違わず美しい。三脚が使えないので感度を上げて手持ちで撮影。
かなり冷え込んできていたので1時間ほどで撮影を切り上げ、京都駅から新大阪に向かい、江坂にあるビジネスホテルに宿泊。
大浴場で足を自分でマッサージして痛みを和らげ、11時半には就寝。
翌日は、7時過ぎには江坂から新大阪に出て京都を目指す。
南禅寺から哲学の道を行き、途中から金戒光明寺を目指し、平安神宮の脇を通って東西線で醍醐寺に向かうが、時間が足りず、諦めて東福寺に向かう。
東福寺も人人人・・・。おまけにガードマンはアルバイトのようで、歩きながら撮影しているのに「撮影禁止です!」と手をカメラレンズの前に出して制止してくる。
混雑緩和のため立ち止まっての撮影を禁止するのは理解できるが、完全に禁止する理由を履き違えている。興醒めだ。
最後の目的地である伏見稲荷へと歩いて向かったが、ここは海外観光客が8割以上・・・。もう呆れるしかない。
13時半には京都駅に戻り、慌しく土産と弁当を購入して伊丹空港行きのリムジンバスに搭乗。
羽田に向かう便は出発が遅れた上に、到着してからもゲートが開くのを15分以上待たされる。踏んだり蹴ったりだ。19時ころに家に到着。やっとゆっくりできる。
翌日、写真を確認。500枚弱撮影したが、かなり満足できる写真が10枚以上あったのにホッとする。
得たものは、それだけでなく、左膝の靭帯の痛みは二週間ほど残った。トホホ・・・死語かな・・・。

2016/05/04
今朝、NHKで江戸時代の絵師・若冲の特集(再放送)をやっていたので、見るとはなしに見始めたのですが、その精緻な技才とあまりにも艶やかな作風に素直に感動してしまいました。
文字通りの天才・・・世襲が一般的であった時代に師と仰ぐ者が居ない状態で第一人者となったことだけ取っても当時としては異例だったのでしょう。
誰に教えてもらった訳でもないのに誰も為しえなかった技法をいくつも世に残したのだから、やはり天才以外の何ものでもないと思います。
周囲から超越してしまっているが故に、その真髄を誰にも理解してもらえなかった天才が「千載具眼の徒を竢つ」という言葉を残す辛さ・・・常識から離れることができない当時の人たちではなく、千年後の人たち(それが我々現代人だと言うのはおこがましいかもしれないが・・・)に理解して欲しいと願ったことは、孤高の天才・若冲の本音だったのだと思います。
その作品の中で「病葉(わくらば):枯れ始めている葉」を描いているものがあり、美しいものだけを美しく表現することが当たり前だった当時の常識からすれば、このように描くことは当時としては考えられなかったはずで、常識を疑い自らの感じたこと、信じたことをそのままに具現化しようとした若冲は、今でこそ天才と持ち上げられますが、当時はけっして正当に評価されなかったのだと思います。
何重にも絵具を重ねることで奥行きを表現したり紅葉などの立体感を現すために画材の裏から描いたり・・・他の多くの絵師が花弁をベタ一色で描く中、光の当たり具合による陰影を表現する技法を使うことで立体感を出すことに情熱を傾けていた彼の気持ちは痛いほど分かりました。当たり前ですが私は凡才で彼のように天才ではないけれど、真の姿を何とかして具現化しようという努力には同感しますし、それが難しいことも理解できます。
これは、音の世界も同じだとつくづく感じました。
私がライフワークにしている『立体的に音場を再現すること』は、音の表情(音色を正確に再現する:フリケンシー・ドメインの考え方)を優先する大きな流れの中で、ずっと光のあたらない部分でした。
1970年台に入り、メーカーがこぞって位相合わせ『リニアフェーズ』を宣伝文句にするようになったおかげで、やっと脚光を浴びるようになりましたが、如何せん、位相合わせは試聴位置が限定されるため、残念ながら一時の流行で終わってしまいました。
楽器のアタック音とそれ以降の余韻のスムーズな繋がりにより奥行き感や会場の広さ、演奏者の位置までも再現するためにはタイム・ドメインの発想が必要で、これを実現するためには点音源化が大前提なのです。
2000年代に入り、タイムドメイン社が点音源の必要性に再び火を点けてくれたのはありがたいことですが、ヘッドフォーン全盛の時代=生演奏に触れる機会のほとんど無いリスナーばかりの時代にどれだけ受け入れられたのでしょうか・・・。
公共の場は勿論、住環境においても周囲への音漏れが極端に問題視される時代背景もスピーカーで音出しする環境が少なくなる要因であり、全く以って逆風の時代・・・肩身の狭い状況です。
あまりネガティブな発想はしたくないので、我流ながら細々と続けていくつもりです。
私のライフワークが天才・若冲の求めていたものと相通ずると考えるほど愚かではありませんが、愚者は愚者なりに自分の信じるものを追求していきたいと改めて考えさせられました。

2014/06/08
ONKYO FRX-20

昔使っていたONKYOのフルレンジユニットを思い出し、ネットで探してみると、studio TAさんのブログにエッジ貼り替えの記事を見つけました。
このユニットのエッジは2種類のエステル系材料を張り合わせていて、コーン紙側が薄く、フレームに向かうに従い厚くなる構造(コーン端面が節とならないように)となっており、且つ、アルニコ磁石(当時はネオジムなど無く、高価なサマリウムコバルト磁石が出たばかりで、フェライトに比べてBrが約2倍、Hcjは2kOeくらいでほぼ同じで特性的に優位だった)を使った磁気回路だったこともあり、飛びつきました。
特性の揃ったペアをシリアルNo.付きで販売するというのにも引かれ、当時の給料でも結構な負担でしたが、発売後すぐに購入のため秋葉原に行ったのを憶えています。
ダクトを交換できるようにしたバスレフを直ぐに設計しました。
FRX-20
エンクロージャ内面反射によりコーン紙から漏れてくる音波を気にして奥行きの深い設計にした記憶がありますが、残念ながら所帯を持つ時に手放してしまい、写真も残っていません。
情報量は、それほど多くなく、クルトミューラー系コーン紙を使ったユニットに似て嫌な音のしないイメージが記憶に残っています。

ちょうど良いのでスピーカー遍歴を・・。
高校生の時(40年前ですね・・)、ご他聞に漏れず、長岡鉄男さんのバックロードホーンに触発されて、作るならエクスポーネンシャルカーブに近いものをと思い、手計算で寸法を出したのが初めての設計です。
今の私からは考えられないのですが、そのころは潔癖症に近いところがあり、どうしても最後の開口部分が計算通りにならず、何度も計算し直したことが思い出されます。
FOSTEX(当時はフォスター電機)のFE-203一発でしたが、自分ひとりでラワン材21mmのサブロク合板から全て丸ノコで切り出しました。
木工技術も稚拙でしたから、音道の貼り合わせ角度がきちんと出せず、オガクズにエポキシ接着剤を混ぜてパテのように埋めたものです。
夏休みいっぱいかけて作り上げ、秋の学祭(文化祭)のPA用に使ったことを憶えています。
Bose901もどき 見た目はコーラルのBL-20に似ていたかな・・。もう少しスマートだったかな・・。
その後、大学の頃には長い休みを利用して、UP-203とソフトドームツイーターを使った2ウェイバスレフ、FE-83をシリパラ接続で片ch4個使ったBOSE901もどき、前述のUP-203のコーン部分に発泡樹脂を充填して改造した平板SP(振動板が重くなりすぎ、音圧が下がって失敗!)、FE-83を利用したλ/4波長共鳴SPなどを作りました。
学生ゆえ、ユニットの使いまわしが多かったです。(笑)
社会人になり、多少財布の中身が増えて、JBLの136Aを使った350Lの密閉箱でスーパーウーファ(42mmに貼り合わせたので、100kg以上!)を作って、当時有名だったテラークの『春の祭典』やデッカの『ツァラトゥストラはかく語りき』(もちろんLP)などを楽しんだものです。
カートリッジはビクターのMC-1改(友人がVictorで設計していたので・・)、アームはMicroのMA-707Xというトーションバー型のバネによる針圧調整機構を採用したものでした。従来の棒秤の仕組みを利用して加重するスタティック型がバランスを崩しているように感じていたので、質量バランスを取った状態を崩すことなくバネの力で針圧を加える『ダイナミック・バランス』型に惚れ込みました。
ダイナベクターのものと選択に迷いましたが、デザインと設計思想でMicroを選んだ記憶があります。
ターンテーブルはDENONのDP-1000のPLL引き込みレンジを再設計して改造したものでした。PLLで一度引き込んでしまえば、細かいフィードバックをかける必要が無いというのが持論でしたので・・。
針がレコードの溝を辿ることによりターンテーブルの回転に変調を起こすから、ハイ・イナーシャ(大慣性質量)が良いという説もありましたが、そのような環境もない状況では影響を排除する機械的な手段を持たず、電気的な影響で対応するしかありませんでした。
AR理論と同様に、そもそも質量が大きければPLLもクソもないのですが・・。
友人からB&Kの音圧計を借りてきてAウェイトONでリスニングポイントの音圧を計って、30Hzの音圧が-8dBでキチンと出ていることを確認したりもしました。(実際には定在波の影響で部屋の隅は大変なことになっていましたので、座布団を紐で縛って積み上げたりしました)
ハウリングを防ぐために、厚さ10mmのアクリル板でターンテーブルのカバーを作りました。貼り合わせにはアクリサンデーの接着剤を使いましたが、業務で溶剤として使っていたMEK(メチルエチルケトン)そのものだったのに後で気付きました。
スーパーウーファとメインの間は120Hz(-12dB/oct)でクロスしていたので、どうしてもSW(モノラル)だと定位が悪くなり、数年後にパイオニア(エクスクルーシブ)のEL-403を2本購入。
ユニットの特性に合わせて250Lのバスレフにして、スコーカーにはコーラルのMIDハードドーム(品名忘れました・・MD-70だったか・・)、ツイーターはHITACHIのH-54HD・・。テクニクスのSB-7000バリにリニアフェイズを気取って、振動版位置を揃えたりしました。
本HPの主題である『ARシリーズ』の基本となる江川三郎さんの「ユニットの尻同士を付き合わせた実験」の記事が掲載されたのもこの年代だと記憶しています。
後に、江川さんのお宅には2度ほど製品評価(CDプレーヤーとアンプだったか・・)をしていただくためにお伺いしましたが、木造のお宅で、玄関ではなく、お庭側から伺ったことくらいしか記憶がありません。
この頃から興味はオーディオから車に移り、トヨタ・カリーナ2000GTの18R-G DOHCエンジンを2.2Lにボアアップ&カム変更したり、二代目プレリュード『XX』にHKSのターボを載せる改造をしたり、KYBのエアサスに換装して足回りの変更をしたり、エアロパーツの自作に走りました。
今考えると、共振設計もしないでサスを変更するなど生死に関わることですし、無鉄砲だったものです。
外観は、シャコタンなどというカッコ悪い(お好きな方には失礼!個人的な感想なので・・)改造ではなく、機能的なラインの美しいドイツALPINA系の洗練されたエアロデザインを目指しましたが、自己満足の世界でした。
結婚をして狭いアパートで一城の主となったのは良いのですが、同時にオーディオを置けるスペースも無くなりました。子供が出来たこともあり、残念ながら全てを手放すことになりました。
今考えても、散財したものです。KENWOOD(当時、すでに春日無線からTRIOになっていた)のオシロスコープもCR発振器も、スピーカー測定用に購入したインピーダンスメーターも廃品回収に出しました。
ちょうど両親が神奈川に移り住むことになり、実家を壊し更地にして販売したためです。
お気に入りのプリメインアンプDENON PMA-255や自作の完全対称型DCプリアンプもKENWOODのΣドライブ採用のモノラルパワーアンプL-06Mも同じ様に鉄屑となりました。
VictorのグライコSEA-50(10素子)も、大学時代エアチェックに活躍したFMチューナーJT-V7も同様です。
Exclusiveの38cmウーファEL-403だけは、今は無き「ラジオ技術」の紙上譲渡で仙台方面の方に2本10000円でお譲りしました。1年半くらいしか使っていませんから布エッジのモーエン(ゲル状の塗布材)も乾燥せず変質もしていませんでしたし、購入は1本60000円弱でしたから、破格のお値段。
今から25年以上前のことです。

2012/08/11
LinearTechnology s-525 ver2 upgrade にショック!

町田のオーディオユニオンで音を聞いて、いきなりショックを受けた。
再現力が半端じゃない!遠近もリアルで楽器の大きさも分かる。
おまけに楽器の音色が自然で生に近い。S/Nも半端じゃない。
低域の安定感もMFBのなせる技。
正直言って完敗だ。AR-1とはレベルが違い過ぎる。
値段を見て、またビックリ。640万円以上の定価で、中古販売価格も240万円以上!

Webで調べてみる。
半導体のリニアテクノロジー社と同じ綴りだしカタカナ表記も当然同じ・・ただし前株。
住所は神奈川県相模原市上溝・・勤務先に近い・・。
記述には妥協を排した設計で究極を狙うという思想が端々に見られる。
技術的な裏付けを真面目に行う企業というイメージ。

ノーチラスの流れを汲むB&WのCM-1や685、PM-1あたりを聞いたときには、
「上手く音を聞かせるように作っているな〜」
くらいの軽い印象だったが、ここまでリアルに再現できるスピーカーがあるとは・・。
頭を殴られたような感じ。

帰宅してチューニング中のAR-1改を聞くが、アラばかりが耳につく。
無理して音をヒリ出している感じ・・。DレンジもS/Nも余裕がない。当然、歪感も・・。
もちろん低音は100Hz以下はダラ下がりだから腰高なのは仕方がない。
市販の8cmフルレンジ1発(2発か・・)では勝負にならないのは分かりきったことだが、
やはり挫折感が・・。ガリバーとリリパット国の兵隊との戦いのようなものか・・。
箱庭のようであろうと、音場再現性だけはそんじょそこらのマルチスピーカーよりは優秀だと
自分を励ます。
目指すべき目標ができただけでも良かったと思うことにする。

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