深谷市岡部・普済寺の史跡めぐり

①から⑯まで巡って①へ戻るコース ; 約 3.5km


10. 岡部神社
11. 明治天皇御巡幸の碑
12. 源勝院(げんしょういん)
13. 岡部藩主安部氏(あんべし)
14. 白蓮寺(びゃくれんじ)
15. 岡部藩陣屋跡 
16. 高島秋帆幽囚の碑

 

1.岡部原
 この辺りは櫛引台地の先端部で、岡の縁(へり)と云う地形的特長から岡部と云う地名が付けられた。
 ここ岡部原で、康正(こうしょう)2年(1465年)古河公方足利成氏(しげうじ)と上杉憲信(のりのぶ)・房憲(ふさのり)が戦った。
 上杉方の五十子(いかっこ)城と深谷城の中間地点である岡部原に古河公方軍が利根川を渡り攻めて来た。
 『鎌倉大草紙』には、「十月(九月)十七日、鳥山右京亮(うきょうのすけ)、高山因幡守を先懸にて二百余騎の勢を指遺す。上杉方岡部原へ出合火出るほどに戦ひける。上杉方には井草左衛門尉、久下、秋本を始として残りすくなに討たれ悉(ことごとく)敗軍す。成氏の味方も勝軍にはしたりけれども、一方の大将鳥山深手を負て死ければ本陣へ引かへす。」とあり、上杉軍は敗れたが、一方の古河公方軍にも損害が出た。
2.菅原神社と厳島神社
 菅原神社の創立年代は不詳だが、普済寺の総鎮守で、天神様として崇敬された。
境内の弁天池は懇々と湧き出る湧水池で、これより東部数ヶ村の水田を潤す水源として使い、例大祭には村々から幣帛料(へいはくりょう)が奉納されたと云う。
 菅原神社と隣合せに厳島神社がある。 創立年代は不詳だが、弁天様と呼ばれ、水の神を祀る神社として創建された。
 湧水の弁天池に囲まれ、今でこそ集落から離れているが、古くは境内付近は集落の中心であったと云われ、神社の南は「元屋敷」と呼ばれている。
3.岡部氏館跡
 240m四方が岡部氏の館跡と云われている。中央に古城(ふるじょう)と云う地名が残る、右下に的塚(まとづか)、その上の方に元屋敷と云った地名が残っている。
昭和の始め頃までは点線で示した辺りには空堀や土塁の跡が所々残っており、館跡の面影を残していた。
 館跡の東に接して弁天池があり、水田を潤す湧水池を押さえ、この地に館を構えたのではないだろうか。
 館跡の東に古墳と思われる遺構が残っている、これは古墳を利用した土塁跡で、通称物見塚と呼ばれている、現在は稲荷神社が祀られている。
 道路が建設される時、発掘調査が行われ、堀の跡が発掘された、その辺りが館の北端に当る。
 館跡の西の端に土塁跡が残っている。
4.岡部六弥太忠澄の墓 (おかべろくやたただずみ)
 岡部氏は猪俣党の出身で、猪俣六太夫忠綱(ろくだゆうただつな)が岡部に住居して、岡部を姓とした。
 六弥太は六太夫の孫で、武勇に優れ、平治の乱、木曽義仲の追討で戦功を上げた。
更に元暦(げんりゃく)元年(1184年)一の谷の合戦で、平清盛の弟「平忠度(たいらのただのり)」を討ち取ったことで一躍有名になり、『平家物語』にもその場面が描かれている。
六弥太は平忠度の菩提を弔うため、現在の清心寺の境内に五輪塔を建立した。
 六弥太とその一族の墓と伝わる五輪塔6基が建つ。特に大きな3基のうち中央が六弥太の墓、右が父行忠(ゆきただ)、左が夫人で畠山重忠の妹と伝わる玉ノ井の墓と云われている。
 平成2年(1990年)の覆屋建設に伴う発掘調査で、五輪塔の下から整然と並んだ11個の蔵骨器が発見された。
その内2個は室町時代の常滑焼の蔵骨器で、3~4体分の火葬骨が納められていた。
 これらの蔵骨器は六弥太が亡くなった100年後ぐらい後の物で、蔵骨器から見ると六弥太の墓では無いのかなと思われるが、岡部一族の墓であることは間違い無い。
 また、六弥太墓の地輪(ちりん)上部には穿孔が認められ、熟年男性一体分の火葬骨が収められていた。
 六弥太の墓を見ると、下から2番目の石(水輪)に削られた痕が有るが、昭和の初め頃までは、石を煎じて飲むと不妊が治るとか云われていた。
5.普済寺(ふさいじ)
 普済寺は建久(けんきゅう)2年(1191年)岡部六弥太忠澄が創建したと云われている。本尊は十一面観音。
 開基した六弥太は6年後の建久8年(1197年)に没し、六弥太の法名「普済寺殿道海大禅定門 (ふさいじでんだいぜんじょうもん)」から寺号が付けられた。
 夫人は畠山重忠の妹と云われ、承久(じょうきゅう)元年(1207年)卒去。玉龍院殿妙和大禅定尼(ぎょくりゅういんでんみょうわぜんじょうに)と号し、山号「玉龍院」は夫人の法名による。
 本堂正面の丸に十は岡部家の家紋。
 御霊屋と称する宝蔵には江戸時代の物と伝わる六弥太夫婦の木像が安置されている。 また、六弥太の遺品と伝わる鉄製の兜も収蔵されている。
 右側の大きな榧の木は、市の指定文化財になっている。
6.柿沢庄助夫婦の墓
 勤皇の志士、柿沢庄助は天保(てんぽう)6年(1835年)岡部藩士の家に生まれ、安政3年(1856年)柿沢家の婿養子となる。庄助は脱藩し妻子を捨て水戸に赴き、深谷市高畑の金井国之丞と共に天狗党に入った。
 天狗党が北陸周りで上京する途中平塚の河岸場を渡り本庄へ向かった、その時妻子と涙の別れをした。 天狗党は敦賀で捕えられ、慶応元年(1865年)全員処刑された。 敦賀市松原神社の塚の上の墓碑には、家人に累がが及ばない様名前を変えた柿沢庄助の墓碑名が「渡辺直次朗」と刻まれている。
維新後、明治政府から叙勲された。
7.観音寺

 源勝院の末寺で、天保(てんぽう)2年(1645年)源勝院四世和尚の隠居寺として、領主安部家の子孫代々の長久を願い創建された。 本尊は如意輪観世音菩薩。
 文政10年(1827年)火災に遭い、講堂伽藍をことごとく焼失してしまった。 最近再建された。

8.神社仏閣を結ぶ道

 岡部の郷土史家は、この道は中山道が整備される前の道ではないかと言っている。
 普済寺・観音寺・円通院・岡部神社そして源勝院とこの道沿いに在る。
 西へ行くと中宿の郡家の役所の跡を通って五十子の陣の方まで続いている。
東へ行くと17号国道を横切り深谷市内に繋がっている。

9.円通院

 創建年代は不明であるが、開山の法印等海(ほういんとうかい)が元禄7年(1694年)に没しているのでそれ以前に創建されていると思われる。
 本尊は不動明王で、隣の岡部神社の別当寺であり、檀家が一軒もない特異な寺で、明治以降荒れてしまったが寺の跡に小堂を建てて祀っている。

10.岡部神社
 弘仁(こうにん)年間(810-24年)の創建と伝えられる。
岡部六弥太が一の谷の戦功を奉賛し、寿永(じゅえい)年間(1182-85年)境内に杉を植えたが、昭和38年(1963年)の突風により大半が倒伏した、その根株の年輪は確かに千年近い物だった。
 応永(おうえい)5年(1398年)般若経600巻が奉納されたと記録が伝わっている。
般若経は散失してしまったが、平成10年3巻が見つかり岡部町に寄贈され現在市の文化財に指定されている。
 安部摂津守も崇敬し、代々の祈願所とした。 明治12年(1879年)聖天社から岡部神社に改めた。
 神輿は市の有形民俗指定文化財に指定されている、江戸時代のもので高さは約2m。
 鳥居は両部鳥居(りょうぶとりい)、柱を支える稚児(ちご)柱が付いていて、笠木(かさぎ)の上に屋根がある鳥居。 安芸の宮島の厳島神社と同種の鳥居。 岡部神社の鳥居は笠木と柱の間に台輪(だいわ)という円形の保護材を付けているのが特徴。
11.明治天皇御巡幸の碑
 明治11年(1878年)明治天皇が北陸・東海を御巡幸し御休みになった所。
 大正5年(1916年)源勝院山門前に「明治天皇美久留満乃安登(明治天皇みくるまのあと)」の碑が建立された。 この碑の書と文は渋沢栄一が書いた。
 明治10年に西南の役(士族の反乱)が起きている、まだ世の中が安定していないので明治天皇が回って人心を一つにまとめようと御巡幸した。
 明治天皇は熊谷の本陣にお泊りになった。 本陣を朝7時にご出発し籠原新堀と深谷本住町(もとすみちょう)でお休みになった後、岡部でお休みになった。
12.源勝院(げんしょういん)
 安部氏の菩提寺で、旗本として岡部に陣屋を置いた信勝(のぶかつ)が、慶長4年(1599年)亡き父大蔵元眞(もとざね)の追善のために創建した。
 文政(ぶんせい)10年(1827年)火災により、堂塔・伽藍ことごとく焼失し、領主安部家により再建された、これが現在の諸堂。
 源勝院の周りからは堀跡が発掘さた。 現在山門がある場所が「食い違い虎口」の形態を示しており,中世館跡と推定される。

13-1.岡部藩主安部氏(1)(あんべし)
 安部氏は信濃国諏訪の海野信真(うんののぶざね)が駿河国安倍谷(あべたに)に移り住み、その子元眞(もとざね)が安部(あべ)を名乗った。その後安部(あんべ)姓を名乗る。
 元眞は息子信勝(のぶかつ)と共に、はじめ駿河国の今川義元に仕えた。
今川氏滅亡後、徳川家康に仕え、武田信玄・勝頼(かつより)父子との戦いに手柄を立てた。
 元眞は天正15年(1587年)安倍谷井川で死亡、地元の「龍泉院」に葬られた。
 安部信勝(のぶかつ)は天正18年(1590年)家康の関東入国に際し、榛沢郡と下野国(栃木県)梁田郡(やなだぐん)に5,250石を賜り、旗本として岡部に陣屋を置いた。
 榛沢郡の領地は、岡部村・普済寺村・手計村(てばか)・矢島村(やじま)・血洗島村(ちあらいじま)・大塚村(おおづか)・阿賀野村(あがの)・伊勢方村(いせがた)・町田村(まちだ)の九ヶ村で、明治4年(1871年)の廃藩置県まで一貫して藩領であった。
 信勝は慶長5年(1600年)大阪城で死亡し、鳳林寺(ほうりんじ)に葬られ、遺髪を持ち帰り墓を建てた。
右側の小さい方が信勝の宝筐印塔、左側の大きい宝筐印塔は30年後に亡くなった夫人の墓。
「岡部藩主歴代の墓」;初代藩主信盛(のぶもり)から3代藩主信友(のぶとも)は屋根付墓碑で、4代藩主信峰(のぶみね)から12代藩主信宝(のぶたか)までが屋根付位牌形の墓碑で12基、東向きに南から世代順に並んでいる。
屋根の中央に安部家の家紋「丸に梶の葉」が付いている大名らしい墓碑。
13-2.岡部藩主安部氏(2)
 譜代大名としての安部氏の基礎を築いたのは、信勝の子信盛(のぶもり)。
信盛の妻は徳川家康の姪。 慶長5年(1600年)徳川家康が会津藩上杉景勝を攻めた時参戦した。
 慶安(けいあん)2年(1649年)までに、三河国八名郡(やなぐん)と摂津国内に加増され知行19、250石となり旗本から大名となる。 従って信盛が初代藩主。
 承応(じょうおう)元年(1652年)豊前国中津藩の家臣などが、大坂城に乱入した事件の不始末で、信盛の属吏5人が切腹、その子供が死刑に処せられる事件が起きた。 幸いにも信盛は処分を免れた。
 2代藩主信之(のぶゆき)は20,250石。
榛沢郡に九ヶ村を始めとして、上野・三河・丹波・摂津の計五ヶ国・47ヶ村で20,250石。
地元の榛沢郡は九ヶ村4,377石で、全体の1/4が榛沢郡で、知行地は各地に分散していた。
 安部家は代々大阪城に詰めていたので、摂津や三河を住居にしていたが、4代藩主信峰(のぶみね)のとき、宝永2年(1705年)居所を岡部に定め事実上の岡部藩が成立した。
 赤穂藩主浅野内匠頭長矩(ながのり)とは母方の従兄弟関係だったので、江戸城松の廊下刃傷に連座して出仕を止められた。
信峰は一度も幕府の役職に就くことはなかった。
 8代藩主信享(のぶみち)は、元真(もとざね)の没後200年に当り、天明6年(1786年)安部家の基礎を築いた先祖の業績を讃えた「安部大蔵君碑」の建立を計画したが、安倍谷井川が険阻な渓谷にあり、重い石碑を運搬する事が困難であったので、碑を岡部の地に建てた。
 10代藩主信任(のぶより)の一年間の生活費を予算化した記録が残っている。
毎月1日に手渡し金7両づつ計84両、7月に16両、12月に20両で手渡し金合計120両。
稽古料32両、稽古道具8両。 盆暮れの付け届け7両。 衣服・雑費7両。 その他に食費・光熱費など細かく予算化されていた。(武蔵国藩史総覧より)
 12代藩主信宝(のぶたか)のとき、皇女和宮下向に際し、中仙道安中宿から本庄宿までの警護をつとめた。(深谷本陣でご休憩している。) 弘化(こうか)3年(1846年)から8年間、西洋砲術家の高島秋帆を預かる。
13-3.岡部藩主安部氏(3)
 13代藩主信発(のぶおき)のときは、幕末・維新期で多難な時代だった。
 元治(がんじ)元年(1864年)水戸の天狗党千人あまりが上京のため利根川を渡り中瀬(なかぜ)から本庄へ向った。 幕府から追討命令を受けた岡部藩も出陣したが多勢に無勢、幸いにも天狗党は未明に渡河し本庄へ向った。
 慶応(けいおう)2年(1866年)武蔵国秩父郡名栗村の農民が蜂起した武州一揆は武蔵・上野を席巻し、岡部藩も巻き込まれた。
幕府は川越・忍・高崎・館林・岡部各藩に一揆の鎮圧を命じた。信発は本庄宿に集結した一揆の鎮圧にあたった。
 慶応4年(1868年)東山道先鋒総督が高崎に到着したため、急遽新政府に恭順の態度を表明、勅命により上京した。
 陣屋付の領地が少なく家臣への給付も不足がちだったことを理由に、慶応4年(1868年)三河国八名郡半原(はんばら)(愛知県新城市富岡)に陣屋を移し半原藩となったので、岡部藩は廃藩となった。
 従って信発の墓は此処には無い。
 この頃の藩の財政は1両を米1斗5升で換算すると、収入は4、626両、支出は陣屋修繕費404両、人件費3、010両、寺院渡し120両、借入金返済1、044両、その他506両、支出合計5、084両で458両の赤字財政であった。
 このほかに領内の農村から御用金を取り立てていたが、それらの詳細は定かでない。
 借入金の合計は10,610両で年間予算の2倍に当り藩の財政は火の車であった。 これらの借財は廃藩置県に伴い新政府に引継がれた。(武蔵国藩史総覧より)
 尚、藩主安部氏は、江戸初期から明治維新まで一度も転封されなかった数少ない譜代大名の一つ。
14.白蓮寺(びゃくれんじ)
 安部元眞(もとざね)の子信勝は、天正(てんしょう)18年(1590年)旧領の駿河国安倍谷から岡部に移るとき、母堂も一緒に入国したが、この年に急逝した。
安部家の菩提寺は安倍谷龍泉院のため、この地の庵に埋葬した。
法名は「白蓮院殿玉鳳桂林大姉(びゃくれんいんでんぎょくほうけいりんたいし)」で、これを開基とし、白蓮寺を建立した。
 安部氏の祖大蔵元真の夫人の墓は、台座の上に立つ角閃石(かくせんせき)安山岩の五輪塔で、軒に反り、四隅を斜線で切っている火輪(かりん)、銘文を刻みやすくした縦長の地輪(ちりん)で、江戸初期の特徴がよく表れている。
15.岡部藩陣屋跡
 中仙道に面して追手門があり、そこから南へ続く「広小路」を境に西側が「上屋敷」で、殿様の「御殿」や家臣の長屋があった。
 東側が藩政を執り行う「地方(じかた)」で、地方には郡代、代官の役所や居宅、その裏手に倉庫などが配置されていた。
 左下に稽古場、稽古場の左側には弓の稽古をした的場がある、陣屋の前には武道場があり、指南していたのが塚越又右衛門成道(またえもんなりみち)で北辰一刀流創始者千葉周作の兄。
 陣屋の周囲は土塁と空堀で護られていた。 陣屋の規模は東西236m、南北247mであった。
陣屋の跡と判る建物や堀の跡は残っていないが、長屋門は岡の全昌寺に移築されている。
 地方門は西島町に移築されている。 渋沢栄一が(当時17才)、岡部陣屋に父の名代で御用伺いに出向きこの地方門をくぐった、その時代官の若森氏に痛罵(つうば)され、幕政に疑問を抱く。
 同一人物かは定かではないが若森正作長屋が書かれている。
16.高島秋帆幽囚の碑
 秋帆は寛政(かんせい)10年(1798年)長崎の町年寄の家に生まれ、オランダ人から砲術を学び、西洋式高島流砲術を創設した。
 天保(てんぽう)11年(1840年)、欧米のアジア進出の危機に備えて、秋帆は幕府に西洋砲術採用の意見書を提出し、翌12年(1841年)幕府は秋帆に武蔵徳丸原で演習を行わせた、現在の板橋区高島平。
 演習の結果、幕府から砲術の専門家として重用されたが、讒言により天保13年(1842年)投獄され、弘化(こうか)3年(1846年)岡部藩に幽閉された。
 岡部藩は丁重に扱い、岡部藩の中山豹九郎は秋帆から砲術の教えを受けたと云われる。
 嘉永(かえい)6年(1853年)ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。
幕府の砲術訓練の指導に尽力した。
県指定の旧跡。