深谷市西島と周辺の史跡めぐり

約 2.5km


社長

1.瀧宮神社
2.八坂神社(瀧宮神社)
3.花の唐沢堤
4.西島稲荷神社
5.清心寺
6.平忠度供養塔(清心寺)
7.岡谷繁実の墓(清心寺)
8.秋蚕の碑(清心寺)
9.千姫供養塔(清心寺)

10.伊勢殿神社
11.大円寺
12.擁月荘慕情の碑(大円寺)
13.土屋文明歌碑(大円寺)

 


1.瀧宮神社
 当地に住みついた先祖が、湧き出る水の恵みを称えて神として祀ったのが始まりと伝えられており、湧き水は古くから飲料や灌漑に使われていた。
 康正(こうしょう)2年(1456年)深谷上杉氏五代房憲が深谷城を築いた時、南西の方角にあった瀧宮神社を裏鬼門の守護神とした。
 また瀧宮神社の湧き水を城を守る堀の水として利用した。
往時「城の固めと米の出来るのは瀧宮様のお蔭」と言わせたという。
 明治37年(1894年)生まれの人が昭和56年(1981年)87才の時ある会報に寄稿した文章には、
『瀧宮神社の参道は、仲町の日野広荒物店のわきの狭い道で、南裏の下水の上に、滝の宮神社参道と彫った石橋があり、南は水田の中の曲りくねったあぜ道でした』とある。
 寛政(かんせい)12年(1800年)幕府の命により作成された深谷宿の絵図によると、秩父道・中瀬河岸道から東に脇本陣、その南に滝之宮神社、その脇に野道が画かれている。 おそらくこれが瀧宮神社への参道であろう。
 天保(てんぽう・てんぽ)14年(1843年)に作られた深谷宿家並絵図を見ると、秩父道・中瀬道の東に脇本陣、その向かいに作場道があり、その脇に『ひのや』がある。
 明治22年(1889年)に発行された地図を重ねると、瀧宮神社への参道を辿ることができる。
 明治35年(1892年)の深谷町商店街の図に依ると、裏通りには水路が描かれており『南裏の下水の上に、滝の宮神社参道と彫った石橋があり』と符合する。
 さらにその先は『南は水田の中の曲りくねったあぜ道でした』とも符合する。
 深谷駅には当時の錦絵をオブジェにしたものが飾られている。 開業当時の深谷駅の周りは駅前除き水田だった。
 正保(しょうほう)元年(1644年)深谷城が廃城となった後、城内の西土手にあった八幡神社、侍町(ともちょう)にあった天神社などが合祀されている。
 境内には、深谷駅の誘致に尽力した春山長吉翁の遺徳碑。
 俳人花岡碧譚(へきたん)の句碑などがある。
2.八坂神社(瀧宮神社)
 八坂神社は、深谷城内に弁財天、大黒天、牛頭天王を一社に祀り三社天王社として祀られたことに始まるという。
 深谷城廃城から50年程後、天和(てんわ、てんな)元年(1681年)深谷宿の守り神として祀ることを決め、聖地をうらない立町(たつまち・現在の深谷町相生)の中山道上に遷座した。
 寛政(かんせい)12年(1800年)幕府の命により作成された深谷宿の絵図にも中山道の真ん中に描かれている。
 元禄(げんろく)2年(1689年)、深谷宿の住民一同が協議して疫病除け所願成就を祈念して始めた祇園祭は、神輿が宿内を渡御するほか、旧深谷宿七町内の山車が三日間にわたって曳き回された。 これが毎年7月に実施されている八坂祭の始まり。
 明治12年(1879年)道路法施行に伴い伊勢殿神社の境内に、神輿は稲荷町の宝珠院(現在は廃寺)に移された。
 さらに昭和10年(1935年)には深谷城址(現深谷小学校校庭)に造営された新社殿に移された。
 しかし昭和27年(1952年)深谷小学校校庭の拡張に伴い、四度目の遷座を行い瀧宮神社境内に奉安され現在に至っている。
3.花の唐沢堤
 今からおよそ75年前、深谷町史に「花の唐沢堤」として『全長実に一里余、桜の唐沢堤は植樹新しくも既に近隣名所地を凌駕し、屈指の桜の名所として広く紹介されつつある』として紹介されている。
 現在は北は城址公園まで、南西方向に上唐沢に沿ってグリーンパークパテオまで桜並木が続いている。
 高崎線に並行して流れているこの部分は、深谷市内をたびたび襲う水害対策として、昭和の初め頃に開削されたもの。

 関連項目;櫛挽台地の雨水と荒川放水路(10.針ヶ谷・櫛挽・本郷の史跡めぐり)
4.西島稲荷神社
 境内に稲荷神社誌碑があり、『旧来氏子に岸井友衛門といえる武士ありて、寿永(じゅえい)年間(1182年~)岡部六弥太忠澄に随身して一の谷に戦死せらるると云う。即ち当社は岸井氏の先祖の勧進にかかり、山城国伏見稲荷(京都市)の御分霊なりと云う』とあり。
鎌倉時代にこの地方を支配した岡部六弥太に仕えた岸井友衛門が祀った神社。

凝った造りの額束が特徴の鳥居が一際目を引く。
5.清心寺
 深谷上敷免、皿沼城主の岡谷加賀守清英が天文(てんもん・てんぶん)18年(1549年)開基した。
 岡谷氏は戦国期、深谷上杉氏に仕え、秋元・井草の両氏と共に深谷上杉氏の三宿老で、上原氏を加えて四天王と称された深谷上杉氏の重臣。
 慶安(けいあん)2年(1649年)、徳川第三代将軍家光から御朱印8石を賜った。
 梵鐘は、寛政(かんせい)4年(1792年)の作で、高台院と同じく深谷宿の鋳物師、佐野屋茂右衛門と職人八十右衛門が鋳造したが戦争で供出。
現在の梵鐘は昭和33年(1958年)の銘がある。
 境内には平忠度供養の五輪塔、岡部原平薩州碑記、岡谷繁実の墓、千姫供養塔、秋蚕の碑などがある。
6.平忠度供養塔(清心寺)
 清心寺がこの地に建立されるはるか350年前。
 12世紀、源平一の谷の合戦で岡部六弥太忠澄が、平氏きっての智勇にすぐれた平薩摩守忠度を打ち、その菩提を弔うため忠澄の領地の中で一番景色のよいこの地に五輸塔を建立した。
 忠澄が忠度を討ったときのことは、平家物語巻九「忠度最後の事」に収められている。
この一章は平家物語の数ある名文の一つ。
 忠澄は戦場のならいとはいえ、このすぐれた武人を討ったことを深く悲しみ、帰郷後その供養のために此の供養塔を建てた。
 忠度の妻、菊御前がはるばる後を慕って尋ねて来て、持っていた桜の杖を墓前にさしたところ、芽が出て花の中に二葉を出す、いわゆる夫婦咲きの忠度桜になったということである。 この桜は何代目かの桜であろうか?
 平家物語には平忠度の桜の歌を記している。
さざ浪や滋賀の都はあれにしを  昔ながらの山桜かな (忠度都落)
もう一つの歌は、
行き暮れて木の下陰を宿とせば  花や今宵の主ならまし (忠度最期)
こちらの歌は平家物語の作者の創作であろうと云うのが研究家の意見。
 平家物語は「祇園精舎の鐘の声」で始まって「寂光院の鐘の音」で終わる。 鐘・鐘、こちらは桜で始まって桜で終わる。
この歌が「忠度桜」の伝説を生んだのではないだろうか。
 昭和11年(1936年)建立された「岡部原平薩州碑記」は漢文でこれらの経緯が記されている。
7.岡谷繁実の墓(清心寺)
 岡谷氏は戦国期、深谷上杉氏に仕え、秋元・井草の両氏と共に深谷上杉氏の三宿老だった。
 豊臣秀吉の小田原征伐により主家を失った岡谷氏は故有って秋元氏に仕え、館林藩士として幕末を迎えた。
 その時の当主岡谷繁実(おかのや しげざね)は、名著「名将言行録」をまとめている。 15年の歳月をかけて完成した著作で、戦国時代の武将から江戸時代中期の大名までの192名の言動を浮き彫りにした人物列伝で、全70巻と補遺からなる。
 作家が小説やドラマを作成する際、参考文献として使われる程である。
8.秋蚕の碑(清心寺)
 従来蚕は春だけしか飼育できなかったが、晩夏から晩秋にかけても飼育する事が可能となり生産効率が飛躍的に改善した。

 晩夏から晩秋にかけて飼育する蚕を秋蚕(しゅうさん・あきご)という。

 碑文によると、明治3年(1870年)深谷の住人、五明紋十郎(ごみょうもんじゅうろう)が信州を旅行し炎天下風穴で弁当を保存している事にヒントを得、秋蚕の技法を思いつき深谷に伝えたとある。
9.千姫供養塔(清心寺)
 徳川二代将軍秀忠と江の娘千姫の供養塔がなぜここにあるのだろうか。
 清心寺は、千姫の墓所がある茨城県常総市の弘経寺(ぐぎょうじ)の末寺。
この供養塔は弘経寺から移されたと云う。
深谷町史には『千姫の髪並びに義歯を奉納した宝篋印塔』と紹介されている。
 千姫は豊臣秀頼と結婚し大阪城に入っていたが、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出され、徳川氏の祖とされる世良田義季(せらだ よしすえ)の開基により創建されたと伝えられ、縁切寺として知られている満徳寺(明治5年(1872年)廃寺)に入山させ、豊臣家と縁を切らせ本田忠刻(ただとき)と結婚、姫路城に入った。
 実際には千姫の身代りに待女の刑部の局(ぎょうぶのつぼね)が入山したとされる。
 深谷のとなり、群馬県世良田の満徳寺にまつわるこんな物語も縁を感じさせる。
10.伊勢殿神社
 社伝によると、伊勢神宮へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする御師がこの場所を宿舎にして、北関東一円にお祓いのお札を配っていた。
 やがてこの宿舎に伊勢神宮内宮の分霊を祀って伊勢殿神社と称するようになったと伝えられている。
 古くは毎年10月から半年ほど住み込んで北武蔵や伊勢崎辺りまで巡回した。
大正期には11月に10日ほどになり、やがて途絶えたという。
 昔、伊勢参りは出発から帰着まで2ヶ月かかった。
伊勢参りは一生に一度は行うものといわれ、行かれない人は伊勢殿神社に参って済ませた。
 一時期、八坂神社が境内に移された。
11.大円寺
 天正2年(1574年)、織田信長が桶狭間で今川義元を破った頃開山されたと伝えられる。
 江戸末期に火災で全焼、明治30年(1897年)に再建された。
 煉瓦の塀がある。 明治21年(1888年)操業を開始した深谷市上敷免にあった日本煉瓦工場の煉瓦で作られており、深谷でも古い煉瓦の塀である。
 昔、この地にあった三体の地蔵が行方不明となり、それから3年に一度は西島に火事があった。 そのころ、三体の地蔵の一つ妙子尼を造立した発願主の夢枕に「私は焼死しました、元の所に帰りたい」と告げた。 地蔵尊の行方を捜し出し、水かけ地蔵として供養し、火難厄除けとして現在まで栄えている。
12.擁月荘景慕の碑(大円寺)
 擁月荘(ようげつそう)において薰陶を受けた深谷および近隣の人々が、山口平八先生ご夫妻に対する謝恩の意味で昭和41年(1966年)文化の日を期して擁月荘景慕の碑を建てた。
 擁月荘は青年団活動が盛んであった時代に、政治・経済・芸術その他古今東西にわたる広汎な学問を教授した政経塾で、政治家など多くの著名人を輩出した。
 擁月荘の名は早稲田大学総長高田早苗氏によって命名された。 ある講演の後、深谷に立ち寄った際に付けられたといわれている。
 この碑は当初山口平八氏宅にあったが、後に菩提寺であるこの大円寺に移された。
碑の上部「文徳」の題字は、大正・昭和時代の文芸評論家・政治家であった石坂養平氏の書。
 山口平八氏は深谷町生まれ。 日本ユネスコ協会連盟中央委員、県文化財専門調査委員等を歴任。 深谷町史や深谷市史の監修・執筆をされ、深谷上杉氏を世に出した。
13.土屋文明歌碑(大円寺)
 土屋文明は、万葉集の大家で我が国を代表する歌人。
昭和22年(1947年)9月15日、カスリーン台風が関東地方を襲った。
その時、擁月荘を訪れて詠んだ歌。

荒川のあふれ
なかるる道を
来て静かに秋
つく擁月荘
にすわる

昭和二十二年九月十七日

      文明